ハッピーエンドでは終われない
一章
1
青いネオンサインの店の階段を一段ずつ上っていく。
ときめく胸を押さえながら、この店に初めて入った一ヶ月前を思い出した。
インターネットの同性愛関係を見ているうちに、自分の生活している街中にこのバーがあることを知って、強く好奇心をかきたてられていた。
初めて異世界の門に踏み込んだのは、去年の忘年会の帰りだった。
酔った勢いと、胸に秘められた欲求不満で、何度か店の前を行きつ戻りつした後、意を決してこの黒い階段を上ったのだった。
BAR-ローズビーズのドアは無愛想な黒いドアだった。
そこには店の名前も出ていない。
古びてきしむドアを押し開けて、僕は生まれて初めての世界に足を踏み入れた。
いらっしゃいませという言葉は、良く耳にするが、男の声で、女のようにシナを作ったその言葉は異様に聞こえた。
五分刈りに髭の彼のことを、マスターと呼んだ方がいいのか、ママさんといった方がいいのかわからない。
二十人も入れば満員になる程度の狭い店だったが、先客が三人ほどしかいなかった。
その三人が、一斉に僕の方を見る中、空いているカウンターに腰を下ろした。
「お客さん、初めてですよねえ 」
マスターは、そう言いながら僕の方に近寄って来た。
「ここに来るのは初めでだし、この手のお店に来るのも、実は初めてなんです」
用意していた言葉をすんなり言えたのが少し嬉しかった。
「へえ、初めてなの、お飲み物は何にします? それとお通しはどうしましょうか。お腹は減ってるかな」
にこやかに聞いてくるマスターの印象は、一瞬感じた違和感を少し消してくれる。
「ウイスキーのロックをお願いします。食べてきたので……」
お通しにどういうのがあるのかわからないから言いよどんでいると、じゃあサラダにしましょうね、とカウンターに置いてある笊の中から、切り野菜を皿に盛りだした。
奥では、一瞬こちらに興味を持った客達もすでに自分達の会話に戻っていた。
生で聞くオネエ言葉が耳をくすぐる。
静かに時間が流れる中、マスターが僕の前にオンザロックとサラダを並べた。
オンザロックを口に含んでゆっくり飲み込む。
「今迄で男の経験とかあるの?」
コップを拭きながらのマスターに聞かれた。
「いえ。全然無いんです。いろいろと想像はしてたんですが」
正直に答える。
「どういうタイプが好みなのかな? いい人がいたら紹介したりできるわよ」
いきなり核心をつくようなことを言われて、返答に困る。
好みのタイプなんて考えていなかった。
「ええと、まだ良くわかんないんですけど、痩せてる人はパスかな。それとあまり太ってる人も」
「じゃあマッチョがいいのかな?」
マッチョといえば、ボディビルダーみたいな筋肉質の男の事か。それもあまり好きじゃない。
「まあ、普通な感じがいいですね」
答えた後ロックを一口流し込んだ。喉を熱い液体が通り過ぎる。
「まだ右も左もわからないって感じね。雑誌でも見てみる?」
マスターはいったんカウンターから出て、店の奥にある棚から数冊のゲイ向け雑誌を持ってきてくれた。
目の前に二十センチくらい積まれた中から一冊を抜き出して開いてみた。
髭の生えた坊主刈りの太った男が、上半身裸で、腕組みしてこっちを見つめている。
横のページではふんどしをした、これも似たような体型の男がうっすらと毛の生えた背中を見せながら振り向いていた。
こういうタイプが好きな人向けの雑誌なのだろう。
こっそりため息を吐いて別の雑誌を見てみた。
背広姿の男達が抱き合っていたり、さらに別の雑誌の中では若い長髪の男の子が裸で仰向けに寝てこっちに悩ましい視線をよこしていた。
どれを見ても僕の感覚を呼び覚ましてくれるようなものは無かった。
そうしているうちに、数人が帰り、数人の客が入ってきた。
僕を入れて、五人の客だ。
週末だというのに、これくらいの客しかいないで、店はやっていけるのだろうか。
それとも、今日は偶然客の少ない日に当たったのか。
「どう? 好きなタイプいた?」
他の客と話していたマスターが近づいてきた。
「いや、なんかすごいですね。考えてみたら、タイプって無いんですよね。あえて言えば外見よりも中身かな。頼りになる人がいいですね」
「なるほど。セックスより精神的なものが優先って感じかな?」
「あ、そうかもしれない。実はあまり性的な欲求って無いんですよ」
「まあ、まだお若いのに。ストレスのたまる仕事なのかな?」
「そうかもしれません。確かに」
マスターは僕をいくつくらいだと思ってるんだろう、と少し思った。
いつも僕はかなり若く見られる。
二十代半ばくらいに思われることが多かった。今年年男の三十五歳だというのにだ。
その日はその後少しだけマスターと話をして帰った。
いろんな淫靡な想像をしながら入った店だったが、思いのほかどうという事は無い、しかし他の騒々しいスナックなんかと比べて断然居心地のいい店の雰囲気を楽しんで、僕は階段を下りて帰路についた。
その後、その店のクリスマス会というのに出席してみた。
その日は前回とは打って変わってほぼ満員状態。こんな地方の都市のゲイバーに、これほどの客が集まるなんて思ってもいなかった。
カウンターに席をひとつ見つけて座った後、水割りを飲みながら三千円で食べ放題の料理を軽くいただいた。
カラオケが絶えずかかり、隣の人と話すのも難しい状況だった。
マスターもさすがに忙しく、僕の相手などしてる暇は無い。
僕は適当に切り上げる事にした。
そして今夜が三回目だった。いったい僕は何を求めてこの店に来るんだろう。
好奇心は満足させられたはずだ。男に対して特に性欲を掻き立てられる事がない以上、ここに来るのは不要なはずなのに。
きしむドアを開けて、見慣れた店に入ると、マスターが嬉しそうな笑顔を寄越してくれた。
「あら、エイト君いらっしゃい。久しぶりね」
この店では僕はエイトと名乗っている。愛車から取った名前だった。
常連さんも大体仮名を名乗ってるようだった。
先客が三人いた。
奥の方に年の離れたカップルが一組。手前には中年の背の高い男が、カウンターに肘かけてビールを飲んでいた。
その男の奥に、ひとつ席を空けて座ると、オンザロックとサラダを注文した。
「ウイスキーのロックか。若い人には珍しいな」
左側に座ってる中年男が言った。
彼を見ると、人懐っこい笑顔をしていた。
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「いや、最近はビール飲む人がほとんどだろ、ウイスキーにしても水割りがほとんどだから」
彼の声は聞いていて耳に心地よかった。低音でもなく、かといって高いわけでもないが、シャープな感じの声だった。
サラダを口に含んでかむと、ドレッシングの酸味がさわやかに広がった。
「こっちに来いよ。ゆっくり話そうよ」
彼は僕との間の空席を叩いて言った。
ひょっとしてナンパされてるのかな? 気恥ずかしさとともに、僕は席をひとつ横にずらせた。
「若いね。二十代後半くらい?」
まあそんなところですと答えながら、この人はいくつ位だろうと考えた。
この店に来る客には珍しく長髪にしている。適度に日焼けした顔は精悍で、目じりのしわも似合っていた。四十代半ばというところだろうか。
「結婚してるんだね」
彼が僕の左手の薬指に視線を送って言った。
「ええ、一応」
と答えると、マスターが聞きつけて、うっそー信じられない。と叫んだ。
「ええ? ばればれだと思ってましたけど」
マスターに見えるように左手を掲げて見せる。
「エイト君って、バイなわけ?」
マスターの問いに、かも知れませんと答える。
本当に僕はそうなのか? 自分では良くわからなかった。
普通に女性が好きで、恋愛をして結婚。
ここまでまったく普通の生活をしてきたのだ。
でも、心の中に何か満たされないものをずっと感じていたのは事実だ。
性的に満たされないものだった。
それが知りたくてこの店に足を運んでみたのだったが、今の所収穫はゼロだった。
「エイトって言うんだ、ひょっとして車の名前から?」
マスターが僕をそう呼ぶのを聞いた彼は、コップに残っていたビールを飲み干した。
自然と僕は彼のビール瓶を持って、そのコップに継ぎ足してあげる。
「ええ、良くわかりましたね。世界唯一の生産中のロータリーエンジン車ですよ」
「いい車に乗ってるんだな。俺は荒木って呼んでくれよ。近くにおでんの美味しい店があるんだが、行かないかい?」
おお、お誘いがきた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
これは完全にナンパじゃないか。自分が女の子にでもなった気分だった。
でも、さっき会ったばかりの男について行くのは、なんだか尻軽な気がする。
それに、帰る時間も迫っていた。
午後七時に始まった同僚の厄入りの会が終わったのが、9時半、いまは10時半を時計の針はさしている。
家には11時には帰りたかった。
宴会などがあっても最近はあまり二次会まで行くことがなくなっていた。
妻に変に思われるのは避けたい。
だから、いつもそんな宴会の後に此処によっても一時間程度で帰るようにしていたのだ。
それを告げると、彼はすんなり引いて、メモ用紙を取り出した。
ボールペンでなにやら走り書きしている。
多分電話番号か何かだろうと思っていたら、予想通り、そのメモにはメールアドレスが書かれていた。
「また飲もうよ。よかったらメールくれよ」
彼はメモを僕に押しやると、するりと席を立った。
店の入り口近くにあるコート掛けから、カーキ色のモッズコートを茶色のジャケットの上から羽織った彼は、マスターにまた来るよ、と声をかけてカウンターの上に千円札を二
枚のせ、店を出て行った。
引き際が鮮やかだ。
「荒木さんって、格好いいですよね。もてるんでしょうね」
心の中に燈った灯りをいとおしむ様にしながらマスターに話しかけてみた。
「女にはもてるみたいだけど、あまり男と付き合ってるのって見たこと無いなあ」
「女に? 荒木さんってバイなんですか?」
「良くわからないわね。でも奥さんがいたのは事実。数年前に亡くなっちゃったらしいんだけど」
「でも、ここの常連さんなんでしょ。じゃあ男好きなんですよね」
僕は何でこんな事を聞いてるんだろう。
「君も自分の事良くわかってないって言ってたじゃない? 彼もそうなのかもね」
マスターが僕のグラスを指差した。
「おかわりは?」
僕は、いえ、もういいですと答えて、N2Bジャケットから財布を取り出すと、お勘定を済ませた。
2
彼にメール送るかどうか、三日悩んだ。
これは浮気になるんだろうか。妻に対する裏切りになるのか? しかし妻の方から拒否されてのセックスレスが三年目になろうとしている状況では、はっきり言って裏切りになってもいい気がしてきた。
先に裏切ったのは、向こうの方なんだから。
健康に問題ないのに一方的に性生活を拒否する事は、立派な離婚の理由として法的に成立するのだ。
自分がその気にさえなれば、慰謝料をもらうのはこっちの方なのだ。
しかしそうしないのは、妻への愛情ではなく、子供を思ってのことだった。
セックスレスになった一年目は、自分のやり方がまずいのかといろいろ知識を仕入れてみたりもした。
最初の頃は完全レスではなく、何度かに一度はいやいや応じてくれていたから、自分なりに努力して彼女の快感を増幅させようと模してみた。
しかし駄目なものは駄目だった。
頭を下げてまでベッドを共にする事に自己嫌悪を覚え、次第に自分から誘う事もなくなっていった。
あの頃のいらいらした生活が思い起こされる。
それを思うと、メールする事なんてどうってことも無いのではないだろうか。
しかもメールしたからといって、すぐに深い関係になるわけではないだろう。
僕は、仕事の合間に携帯電話を取り出すと、新規メールを作成した。
『先日はどうも。メール遅くなってすいません。ポケットの中にメモが無かったから無くしたと思ってたら財布から出てきました。あの日はせっかく誘ってもらったのに、行けないくてごめんなさい。でも、知り合って二十分では付いていく気にはなれませんでした。
多分相手が誰であっても同じだったと思います。荒木さんがイヤだったわけではありませんので、念のため。また店であった時にでもゆっくりお話出来ればと思います。ではまた』
長いメールになってしまった。
最初から読み返してみた後、しばらく考えてから送信ボタンを押した。
その瞬間、僕の周りの世界が色を変えたように思えた。
三十分くらいたっただろうか、仕事帰りの支度をしていると、胸ポケットからメール着信音が聞こえてきた。
高鳴る鼓動を感じながら、携帯電話を取り出す。
じゃあお先に、と言って帰る同僚をやり過ごした後、僕は受信メールを開いてみた。
『メールありがとう。もう無理かと思っていたから、とても嬉しかった。君の時間が空いた時にでも、一度ゆっくり飲まないか?
俺は自営業だからだいたい合わせる事ができるから』
自営業というのは意外だった。あの夜はラフな恰好だったが、やり手のサラリーマンという印象だったから。
僕は先の事も良く考えずに、返信メールを作成しだす。
『いいですね、明日の夜、焼き鳥でも食べますか? 七時くらいには仕事も終わりますから』
送信ボタンを押すと、ほんの一分後には再び返信が帰ってきた。
『了解、七時に駅のアミュで待つから』
地方都市の長崎市では駅と言えば長崎駅の事になる。アミュというのは、長崎駅に隣接して最近できた多目的商業ビルの事だった。
会社の地下駐車場に行くと、リモコンキーのスイッチをポケットの中で押す。
電子音が鳴り、白いRX-8のウィンカーが、鍵の解除を知らせる点滅をした。
ドアを開けて運転席に乗り込む。口元が知らず知らず緩んでくるのがわかった。
いつもなら、これからエンジンをかける車のエキゾーストを待つ笑みのはずだけど、今日は違っている。明日の夜に心は飛んでいくみたいだった。
遠くの古びた蛍光灯の点滅に目をやりながら、明日の夜を想像してみた。
居酒屋の生ビールを片手に、荒木さんと話し合う自分。
久しぶりに感じる鼓動の高鳴り。
まるで新しくできた恋人とのデートを楽しみに待つ気分だ。
僕は彼に対して恋愛感情をもう感じてるんだろうか。
まだ、一度しか会っていない男に……
クラッチを踏んでギヤを一速に入れると、軽くアクセルを踏みながらクラッチをつなぐ。
滑らかに車は進みだした。
3
「おかえりなさい。今、おかず温めなおすから」
自宅のマンションに帰り着くと、いつもの通りに妻の響子が僕を迎えてくれた。
妻と子供はすでに食べ終わっている。
一人息子の修一は、テレビのバラエティ番組を見て笑い声を上げていた。
食卓の硬い椅子に座って待っていると、響子が皿をレンジから出して並べてくれた。
「そうだ。明日、飲み会が入ったから夕食は要らない。新人の歓迎会なんだ」
箸を持ちながら、僕が言うと、響子は一口お茶をすすって、言った。
「変な時期に新入社員が入ったのね。まだ3月にならないって言うのに……」
疑っている雰囲気は無かった。
「まあね。正社員じゃなくて、一時的な手伝いの契約社員だから」
すんなり嘘が出てくる。
罪悪感はほとんど感じなかった。
「それでさ、私言ってやったのよ……」
妻の言葉は僕の耳を通り過ぎていくだけだ。
適当に相槌を打ちながら、考えるのは明日の事だった。
適当な居酒屋で飲食したあと、二次会は昨日の店に行くのがいいかな?
それとも、二人きりの方がいいだろうか。
僕の気の無い返事に慣れっこになっている妻は、不機嫌になる様子も無く延々と話を続けている。
「修一、風呂は入ったの?」
僕が妻に聞くと、話の腰を折られた彼女は、ちょっと眉間にしわを寄せて、二人ともはいってるわよ、もう。と言った。
ベッドの中で、僕が久しぶりに響子の背中をなでたのは、言い訳を作りたっかたらか。
時計はまだ12時を回っていない。
修一は自分の部屋で、とっくに寝息を立ててる頃だから、気になるものは何もないはずだ。
「どうしたのよ」
僕のいつもと違った雰囲気を察して、響子は振り向いた。
「久しぶりにどうかなって思ってさ」
オレンジ色のナイトライトの下で、響子の顔は一瞬不思議そうな表情になった。
「僕がもうそんな気無いって思ってた?」
「そうは思わないけど、私の気持ちはもうわかってるものと思ってた」
「男は時々どうにも我慢できなくなるんだよ」
「今までは自分で処理してたんでしょ」
その通りだ。
響子は、隣で横になる僕の振動をとっくに気づいてるはずなのだ。
「君は、もう全然その気がないって言うのか?」
僕の声には少しとげが含まれていたはずだ。
男の気持ちを理解しない妻に今までも何度も腹を立てていた。
その気持ちが不意によみがえったのだ。
「今はそんな気になれないのよ」
「じゃあ、口か手でしてくれないかな」
いつになく粘ってみる。
「勘弁してよ。疲れてるんだから」
いつもの台詞だった。
「僕が浮気してもいいのか?」
これも何度目かの台詞を言ってみる。
「家庭を壊さない程度ならいいかもね。そんな器用なことができればだけど」
ため息と共に響子が言う。
どうせできる訳が無いとたかをくくってるのだ。
男が家庭を壊さない気でも、相手のあることだから、そううまくいくとは限らない。
家庭を壊さない浮気なんてできないと思ってるのだ。
そう、男女の恋なら無理な話かもしれない。
しかし男同士なら?
どうせ結婚なんてできないのだから、家庭を壊すことはないだろう。
響子には想定外のことだろうな。
僕はべッドを出ると、キッチンに向かい、食器棚から取り出した小さめのグラスにウイスキーをたっぷり注ぎ込んだ。
4
昨夜のことがあっても、寝覚めの気分は上々だった。
今夜のデートが楽しみなのだ。
いつものように家を出ると、マンションの駐車場で休んでいるエイトに乗り込んだ。
エンジンをかけて、しばらくアイドリングが安定するのを待つ。
相変わらず天気はいいが、午後からは雨模様になるという予報を聞いて、折り畳み傘をひとつバッグに入れてきていた。
西の空に黒い雲が少しのぞいてる中を、滑らかに道路に走り出した。
エンジンも、僕の気持ちを察してか、いつになく軽やかに回っていた。
その日の仕事で、イージーミスを二回もしてしまったのは、仕方ないと言えば仕方なかった。まったく心此処にあらずの状態だったから。
「おい、何回も時計見てるけど、いい子でもできたのか?」
同期入社の田上が、僕の肩をたたいた。
キーボードから手を離して、彼の方を向く。
「別に、なんでもないさ」
「そうかな、なんか臭いんだよな」
大げさに田上は僕の身体をかぐまねをした。
「馬鹿やってないで仕事しろよ。俺はもうひとつ片付けておきたいんだ」
再びモニターに向かう。
「杉田さ、浮気したことある?」
田上がこっそり後ろから話しかけてきた。
「ないよ、そんなもの、お前はあるのかよ」
「あるさそのくらい」
恐妻家だと思っていた田上からの意外な返事に、僕は再び彼の方を向いていた。
「あきれたな。それで、いきなり告白してどういうつもりなんだ」
「まあ、そのことは終わってから話そうや。一杯、いいだろ」
手でコップをあおるしぐさをした。
「いや、今日はだめだよ。車だし」
「なんだよ、車は置いていけばいいじゃんか。明日バスで来いよ」
確かに、今日はそうするつもりだった。
「いや、車のことはともかく、先約があるんだ」
「やっぱりね。女だろ。お前結構もてそうだもんな。事務の女の子もお前のファン多いみたいだぜ」
そんな話は初めて聞いた。
「女じゃないって。古い友達だよ」
田上はひとつため息を吐くと、わかった、今度あけておいてくれよ、といって離れていった。
何か相談事でもあったのだろうか。
同期とはいっても、それほど仲がいいわけでもないのに。
邪魔者が去って、やっと少し仕事がはかどった。
時計の針が6時半をさす頃、なんとかひと段落ついた。
パソコンをシャットダウンさせて、帰宅の準備をする。
会社から駅前までは、それほど離れていないが、七時の待ち合わせ時間には間に合うかどうかぎりぎりだった。
『今から会社を出ます、アミュには20分でつくと思います』
荒木さんにメールを打った後、タイムカードを機械に差し込んで、関係者用通用門を出た。
すでに周囲は暗くなっている。
頬に冷たいものが当たったから、雨かと思ったが、見上げると白い粒粒が街頭に照らされながら。ふらふらと降りてきていた。
道路に降りついた雪が風で右に左に動いていた。
冷たい風に耳が痛くなる。
N2Bジャケットのフードをかぶると、駅に急いだ。
ひょっとしたら明日は積もるかもしれないな。
だったら、車置いてきたのは良かったかもしれない。
朝から路面凍結では、バスに頼るしかないし、もし明日の朝そんな状態でも帰りには解けてるだろうから。
高架広場を渡ってアミュプラザに向かう。
高架広場からの入り口の前に、背の高い人影が立っていた。
その彼が僕に向かって片手を挙げる。
「寒かったでしょう、中で待ってればいいのに」
思わず笑顔になりながら僕は言う。
「いや、そろそろかと思って今出てきたところだ、串焼きでも食べる?」
ビルに入りながら、彼は聞いてくる。
「何でもいいですよ、串焼きは僕も好きです」
彼の他が僕の肩に触れた。
肩に積もった雪を払ってくれたんだとわかるまでにしばらくかかった。
頬が熱くなる。
結構背が高いんだな。
180以上はありそうだ。
40代以上の男性で、自分よりも明らかに背が高い人は余りあったことなかった。
僕はせいぜい170センチと言うのに、だ。
日本人の平均身長が伸びたのは、やはり僕から下の世代なんだと思っていた。
レストランや居酒屋の集まる、五階までエスカレーターで上った。
今日の荒木さんは、普通の背広にトレンチコートを羽織っている。
僕はと言えば、先日同様黒のN2Bジャケットだ。
背広を着ることは要求されない会社なのだ。
でも、インナーにもう少しおしゃれなものでも着て来ればよかった。
少し後悔した。
「ここでいい?」
荒木さんは、評判のいい串焼き屋の前で僕に聞いてきた。
行きかう人は金曜の夜というのもあってか、やや多目だった。
店の中も空席があるのかちょっと心配なくらい人が多い。
僕が黙ってうなずくと、彼は自動ドアを開けて中に入った。
いらっしゃいませーという威勢のいい女の声が響く。
僕らは速やかに、二人がけのテーブル席に案内された。
ざわつく中、飲み物はと聞く店員に、生ビールのジョッキ二つ、と荒木さんは即答していた。
「ビールでいいよね」
頼んだ後、僕に笑顔を向けた。
「ええ、串焼きにはビールがいいですよ」
僕も笑顔を返すが、なんか自分が卑屈になってるような気がしてきた。
そんなに気に入られたいんだろうか。この人に。僕は。
僕は荒木さんにメールを出すのに三日間悩んだ。
最初から荒木さんを好きになっていたわけではなかったはずなのだ。
ではどうして僕は自分を卑屈だと感じるのか。
「どうかした? 串焼きはセットを頼んでいいよね」
相手の顔色を伺っているのは、ひょっとしたら荒木さんも同じなのかな。
「はい、それでいいんじゃないですか」
荒木さんの目の中にあった不安を見つけて、僕も少し安心した。
5
ビールをジョッキ二杯飲んだところで、僕はトイレに立った。
串焼きセットもほとんど食べ終えて、満腹の一歩手前状態だ。
三つ並んだ男性用便器の左端に立つと、チャックを下ろす。
そのとき、僕の右横に男が立った。
「よう。偶然だな。古い友達ってのは本当だったのかな、男と一緒だな」
その声に驚いて顔を見てみたら頬を赤くした田上がにやりと笑った。
「なんだよ、まったく。嘘言うわけないだろ」
「別に、お前が不倫しようと関係ないんだけどさ」
「ならほっとけよ」
「でも、どういう友達なんだ?」
詮索好きっていうのだろうか。友達にしたくないタイプだ。
無言のまま僕は彼より一足先に便器を離れた。
手を洗う。冷たい流水が心地よかった。
「大学のときの、倶楽部の先輩だよ」
時間をおいて何とかこしらえた嘘を鏡の中の田上に向かって吐き出す。
「そうか? もっと歳離れてるように見えるけどな。あの人どう見ても40代後半だろ」
確かに、大学の先輩では十歳以上離れているのはおかしい。
「俺が一年のときに、あの人は院生だった。三浪して入ったって言ってたかな」
これなら八歳違い、何とかごまかせる程度だ。
「ふーん、何の倶楽部?」
「いい加減にしてくれよ。何でもいいだろ」
田上を置き去りにして、僕はトイレを出た。
「おかえり、此処はもういいかな。腹も膨れたし、次行こうか」
空のジョッキを指ではじいて荒木さんが言った。そして立ち上がる。
僕はトイレから帰って座ることもなく出口に歩いた。
トイレの方を見ると、田上が出てくるところだった。
彼の向かうテーブルには、会社の事務の女の子が一人座っていた。
こちらに背を向けてはいても、髪型などからぴんと来た。
そういうわけか。
「どうする? ローズビーズにいくかい?」
店を出たところで荒木さんが聞いてきた。
そうだ、会計。
僕は田上に気を取られて知らん振りだった。
「あ、すいません、さっきの、いくらだったんですか」
間抜けに財布を出しながら聞いてみるけど、残念なことに予想通りの答えが返ってきた。
「いいよ。俺が誘ったんだし」
午後九時を過ぎているからか、人も少なくなっている。
その中をエスカレーターに向かって荒木さんは歩き出した。
いや、でも。と形だけの台詞を言いながら追従する僕はなんて滑稽なんだろう。
女の子と付き合ってたときには、もっとスマートに、そう今日の荒木さんみたいにやってた筈なのに。
逆の立場になったことがなかったからか。
自分でも嫌になる。
「そうだ、あの時、おでんが美味しい店の話してましたよね」
横に並んだ僕は彼を見上げて言ってみた。
「ああ、そうだったね。行ってみるかい?」
「あ、今度は割り勘でお願いしますよ、言い出したのは僕なんだから」
「君がそうしたいのなら、そうしよう」
彼の手が僕の腰にさりげなく回ってきた。
周囲に見咎められないか、どきどきするが、あいにくというか幸運なことなのか、振り仰ぐと空いたエスカレーターの後ろには誰もいなかった。
アミュからローズビーズまでは、歩いて十分程度の距離にある。
そのローズビーズから、話にあったおでん屋は近いはずだ。
だったらアミュからも歩いていける範囲になる。
思った通り、そのおでん屋はアミュからそう離れていなかった。
此処まで来る間、荒木さんの腕は僕の腰に回ったままだ。
もちろん、それまでには通行人に何回もすれ違った。
僕はとても顔を上げることができずに、フードを目深にかぶって俯いていた。
「もう、変な目で見られてたでしょう」
そのおでん屋に腰を落ち着けた後、僕は少し棘のある口調で言ってみた。
「いや、君が女性と思われたのかな。別に驚くような奴はいなかったよ」
「そんな。僕が女性に見間違われることなんかないですよ」
「君はスマートだし、肩幅も狭い、髭でも伸ばさない限り女でも通用するよ」
「冗談ばっかし」
僕らの前に、焼酎のお湯わりと、おでんの皿が運ばれてきた。
「此処のおでん、面白いんだ。トマトのおでんだよ、これ」
「本当ですか、トマトのおでんなんてあるんだ」
箸でつまんで見ると、皮のむかれた柔らかなトマトはするりと二つになった。
小さな方のかけらを、息を吹きかけて冷ましながら口に運ぶ。
おでんの汁のしみこんだトマトは口の中でとろけていった。
「美味しいですね。これ。トマトの味とおでんの汁が合うとは思わなかったな」
「そうだろう」
にこにこしてる荒木さんは焼酎のお湯わりを一口飲んだ。
僕も同じように一口飲む。
大して酒量は多くないはずなのに、すっかりいい気分になってしまった。
「でも、あの店のお客さんって、結構ワンパターンですよね」
僕は、これまで何度か通ったローズビーズで思ったことを言ってみた。
「というと?」
「ほとんどの人は髪は短く刈ってるし、あと、小太りの人が多いかな。それと丸顔」
「なるほど、そういうことか」
「もちろん、荒木さんは別ですよ、その三つ共にあってないのはあそこで見かけた中では
荒木さんだけでした」
「そのパターンには興味ないってわけ?」
「そうですね、もちろん外見よりは中身ですけど」
言ってしまった後で少し後悔した。
荒木さんの中身が問題って言ってるように聞こえるからだ。
「ゲイには短髪が多いよ。その方がもてるというのもあるし、好まれるんだろうな、男らしいから」
普通の店にいるのに、ゲイなんていう言葉が飛び出してきたから、一瞬ドキッとした。
一番近い客でも少し離れているから、多分聞かれることはなかったと思うけど。
でも、男らしいからという理由にはピンとこなかった。
男好きな人は、男らしい男が好きなのか?
でも、女装したり、他の手段を使って女性らしくしてる男もいる。
そういう人種が、男らしい男を好むというのならわからなくもないが、自分も男らしくしていて、男らしい男が好きというのは、理解するのが難しい。
「荒木さんも、やっぱり髪は短い方が好きなんですか?」
僕の声は自然と小さな声になる。
肯定されたら、僕は髪を切ろうかなとさえ思った。
「いや、俺はそんな好みはないよ。エイト君くらいが好きだな」
「ちょっとほっとしました」
「ということは、脈ありと思っていいのかな、これからも付き合ってくれる?」
「荒木さんの、お気に召すまま、です」
僕はすっかり警戒心を解いてしまっていた。
はじめの方は、もし荒木さんが悪い奴で、弱みをつかまれて脅されたら、なんていう思いも心の隅にはあったのだ。
「じゃあ、これからの二人に乾杯」
荒木さんがグラスを持ち上げた。
すぐに僕も自分のグラスに手を伸ばす。
カチンと、空中で音を立てたグラスの中身は、一気に二人それぞれの口の中に吸い込まれていった。
店を出た後、僕らは雪のちらつく水の森公園を歩いていた。
結局今夜はローズビーズには行かなかった。
少し酔い覚ましして帰ろうという荒木さんに着いてきたのがこの公園だった。
長崎港の見える場所まで行って、ベンチに腰掛けた。
「ちょっと寒すぎだな」
荒木さんが前を向いたまま言った。
「この寒波が過ぎれば、少しは暖かくなるんでしょうけどね」
言ってる僕の肩に、荒木さんの手が回ってくる。
ぐいっと引き寄せられて、体が密着する。
「大事なことを聞き忘れていたけど、君はネコなんだよな」
ネコの意味は、インターネットで仕入れた知識の中にあった。
要するに男同士の恋愛で女役をする人のことだ。
ここの恋愛というのはセックスをすることを意味している。
ネコの反対がタチ。
ネコのお尻にタチのペニスが挿入されるというのが、ゲイのセックスの標準タイプらしかった。
「少なくともタチではありません。だからネコってことになるんでしょうね」
「経験はまったくないのか?」
「はい。でも、お尻に……」
酔った勢いで僕は何言ってるんだろう。
はっとして、言葉が止まった。
「お尻は感じるんだな」
聞き逃さなかった荒木さんがにやりと笑う。
「ええ、まあ」
妻にも友達にも言ったことない話を、まだ二回しか会っていない男に話している。
妙な気分だった。
ぱらついていた粉雪がボタ雪に変わってきた。
すぐに荒木さんの頭の上が白くなる。
僕も同じだろう。
周囲には何組かのアベックがいたが、寒いからあまり長居するものはいない。
ちょっと風景を楽しんだ後は、それぞれが行きたい場所に戻っていく。
「この辺も変わったよな」
荒木さんがふと話題を変えて、僕を覗き込むようにした。
もしかしたら、と思って体が硬くなる。
うつむく僕の顎に、荒木さんの冷たい指が触れた。
そのまま上を向かされた僕の顔に、荒木さんがかぶさってくる。
そこで眼を閉じた僕の唇が、ふんわりと包まれる。
入ってくる舌を、僕は歓迎するように軽くかんでみた。
初デートでキスか。
ちょっと早い展開かな。
でも女の子役も悪くない。
キスの相手が同性だということに、それほど違和感がないのが不思議だった。
以前なら絶対いやだと思っていただろうに。
それくらい荒木さんが魅力的ということだろうか。
それとも、僕が変わってしまったのか?
まあいいか。人間は変わっていくものなんだから。
長いキスの間、僕はそんなことを考えていた。
6
土曜と日曜は特に変わったこともなかった。
僕は休みだし、荒木さんに会いたかったが、彼は休みのほうが忙しい仕事なのか、ちょっと都合が悪いということだったのだ。
『今度、火曜日の夜にでも一緒にスーパー銭湯行かないかい? 君の裸が見てみたい』
休みの間の収穫はそのメールだけだった。
しかし、十分僕をご機嫌にしてくれるメールだ。
スーパー銭湯は僕もよく行くけど、夜に行くのは初めてだ。
いつもは土曜の午前中なんかに行っていた。
夕食後に出かけることになるが、響子が横槍入れることもないだろうと思って、すぐにOkの返事を出していた。
月曜日の仕事は、いつもだるい気がしていたが、そんなわけで今日は気分爽快だった。
考えてみると、僕はこのところ楽しみのない生活を続けてきたのかもしれない。
もちろん子供の成長を見るのは嬉しいことだし、妻に対しても、性生活以外に不満はない。
いつもは冗談を言い合って、楽しい家庭だったはずだ。
でも。
その暮らしの中には恋愛していた頃の、スリルや胸が苦しくなるほどの喜びはなくなっていた。
そしてそれが当たり前だと思っていたのだ。
そう、当たり前だろう。
不倫なんかをしてる男女を除けば、結婚して子供ができた家庭の男はそういう生活が普通なのだ。
娯楽といえばテレビのナイター中継を見ること。ビールと枝豆があればなおいい。
そんな父親像が浮かんできた。
テレビドラマや小説なんかではあまり登場しないが、そういう父親が普通なのだ。
でも、それで満足しないといけないという決まりでもあるだろうか。
胸がときめく何かがあるほうが、それのない人生よりもずっとすばらしい。
誰にも迷惑かけないのなら、その方がずっといいはずだ。
「おい、昼飯、外に出ないか?」
キーボードでテキストを打っていると、左に立った田上が小声で言ってきた。
「おごってくれるわけ?」
期待したわけでもなく聞いてみると、意外なことにうなずいた。
「ちょっと相談があってさ」
「そういえば、金曜日、坂口と一緒だったんだね」
「ああ。まあそのことで」
彼は僕の背を軽くたたくと、じゃあ後でと言って離れていった。
田上の相談事なんか、しばらくすると忘れていた。
その代わりに僕の心を占領しているのは、もちろん荒木さんだ。
先日のデートでのキスの味がよみがえる。
あの後は、とり立てて進展することなく二人は帰路に着いた。
でも、もしあの時ホテルにでも誘われていたら、僕は着いていったんじゃないだろうか。
男に対して性欲がわく事はなかったのに。
女として扱われることに対しては、心地よい安堵感があった。
男を抱きたい気持ちはないけど、女みたいに抱かれることが僕は好きなんだろうか。
だから、男に対して好きなタイプというのはないのかもしれない。
能動的に性欲を発散したい衝動がなく、受け入れる側だとするなら、相手に対して特別な思い入れは必要ないのだろうか。
でもそうじゃない。
やはり、荒木さんに魅力があるから僕は受け入れたいと思うのだろう。
男には、好きな女性のイメージが割とはっきりしていることが多い。
しかし女性にはそれほど確固としたイメージはないのではないだろうか。
背の高い人が好きとか、肩幅の広い人がいいとか、わりと漠然とした、体格のいい男のイメージしかないのではないか。
それは、男は女にアタックをかける側で、女はそれを受け入れる側だからだ。
女はたくさんの男をひきつけるために着飾り、男はそれを落とすために地位や経済力を高める。
なんとなく、僕自身に好きな男のイメージがないことや、男の裸を見てときめかない理由が分かった気がした。
実際良く聞く話だけど、女性は男の裸を見ても、逆の場合ほど興奮したりしないものだから。
7
会社近くのラーメン屋は、昼休み時とあって満員に近い状態だった。
何とかカウンターの隅に僕と田上は席を確保できた。
僕は味噌チャーシュー麺を、田上は醤油ラーメンを頼んだ。
コップの冷水を一口飲んで、田上が話し出した。
「実はあいつのことで困ってるんだ」
あいつが誰を指してるかは、さっきチラッと話したときを思い出せば見当はつく。
「坂口みゆきがどうかしたわけ?」
「結婚したいなんてむちゃくちゃ言ってきたんだ」
「それで、どうするつもり?」
料理が来る前に、食欲のなくなりそうな話題だ。
「どうもできないだろ、離婚なんてできないし、するつもりもないよ」
「遊びだったわけだ、完全に」
「当たり前じゃないか。向こうもわかってて付き合ったんだから、今更それはないだろうって感じだ」
「じゃあ、手切れ金でも渡せば。それが目当てかもしれないし」
僕はすっかりこの話題に興味がなくなっていた。
料理人の手先を見て、自分の分が作られるのを見つめてみる。
「金で済むのなら、まだいいんだけどな」
「すみそうもないわけ?」
「まあそういうことだ」
「あの夜、その話をしてたのか」
「そうなる。まあそろそろ終わりにしないとって思ってたんだけど、それ言い出したら。あの夜は参ったぜ」
いわゆる自業自得って奴だ。
「僕に相談されてもどうしようもないんじゃないか。力になってやれそうもないけど」
「いや、そういうわけでもないんだ。お前ならあいつも言うこと聞くかなって思う」
「なんでまた」
いきなり変なことを言い出した。
「実は……」
田上がそう言ったとき、僕らのラーメンが出来上がった。
カウンター越しに受け取ると、味噌の香りがぷんと鼻に来て、少しは食欲が出てきた。
割り箸を裂きながら、田上を見る。
田上はラーメンそっちのけで言った。
「坂口は、お前のことが好きなんだよ」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「なんだって? よく聞こえなかったけど」
「だから、坂口が本当に好きだったのはお前なんだよ」
「面白い話だけど、矛盾してるんじゃないか」
「最初は、あいつに相談されたんだ。杉田さんのことを好きになってしまったけど、どうしようってさ」
「何でお前に相談しないといけないんだ」
「まあ酔った勢いもあっただろうけど、誰かに聞いて欲しかったんだろ」
その後、ラーメン食べながら聞いた話では、そうやって相談に乗るうちに二人は急接近したということだった。
「だから、お前の説得なら言うこと聞くはずなんだよ」
どうしてそういう結論が導けるのか、短絡的な気がする。
「頼む。一回あいつと話をしてみてくれ」
僕が黙っていると、田上は手を合わせて拝みだした。
「わかった。話すくらいはしてやるよ。でもうまくいくとは限らないからね」
僕が言うと、やっと彼は合わせていた手を離した。
「助かった」
大きく息を吐いている。
「それはまだわかんないよ。まあ努力はしてみるけど」
食べ終わった食器をカウンターの上に差し出して、僕は席を立つ。
田上が勘定を済ませるのを待つ間、外の冷たい空気を僕は思い切り吸い込んだ。
会社に戻って、受付の前を通るとき、奥にあるデスクに座ってる坂口を見た。
目が合う。
そういえば、彼女とはなんだかよく目があっていたような気がした。
僕が向こうを見たときは必ず彼女もこっちを見てる、見たいな。
ひょっとしたら僕はずいぶんと鈍感な男なのかもしれない。
いや、妻子もちという立場上、女性のことは無視するようにしていたと言った方がいいかな。
田上は僕の横を通り過ぎて、事務室に入っていった。
まさか今ここで話をしろというつもりはないだろう。
僕は足を止めずに自分の部署に向かった。
「グランドホテルの喫茶室に行ってくれないか。仕事終わったら」
手早くセッティングを済ませてきた田上が僕に耳打ちした。
今日は特に用事もない。
わかった、と一言答えた。
仕事が終わったのは6時半を過ぎた頃だった。
受付は六時に閉めることになっているから、坂口みゆきはすでに喫茶室にいるはずだ。
一体どう言えばいいだろう。
台詞を考えながらロッカールームでジャンパーを取り出した。
グランドホテルは、うちの会社の道路沿いに50メートルほど行った所にあるホテルだ。
時々ランチを食べることがあった。
680円で、まずまずの日替わりランチが食べられる。
今夜も風が冷たかった。
フードを立てるほどでもないが、50メートル歩く間に少し耳が痛くなっていた。
ホテルに入り、喫茶室への階段を上がる。
窓際に座ってる坂口みゆきを確認して、僕は奥に進んだ。
彼女は一人だ。
やっぱり、田上はいない。
顔を上げた坂口みゆきの会釈に小さく右手で答えて、僕は席に着いた。
すぐにボーイが注文をとりに来る。
みゆきの方を見ると、コーヒーカップがひとつだけあった。
同じように僕もコーヒーをひとつ頼んだ。
「なんだか変な感じだね。なんと言えばいいのかわからないよ」
お冷を一口飲んで切り出した。
「田上さんからはどんな風に聞いてるんですか」
「どんな風って言われても。君との付き合いに終止符を打ちたいけど、君がごねてるってことくらいかな」
なんだか身もふたもない言い方になってしまった。
テレビドラマの脚本家だったらどんな台詞を用意するんだろう。
「私が杉田さんを好きだというのは聞きましたか?」
「うんまあ、だから僕に説得してくれと言ってきた」
僕のコーヒーが運ばれてきた。
一瞬会話が途絶える。
ほっとしながら、コーヒーを一口すすった。
「私、騙されたんです」
いよいよ戦闘開始か。
心の中で、僕は大きくため息をついた。
「杉田さんのこと格好良いなって、忘年会のとき田上さんにもらしてしまったんですけど、その後の新年会のとき、一次会が終わった後に田上さんから電話があって、二次会に誘われたんです」
新年会は1月7日だった。僕はそのときは一次会で帰ったのだった。
ローズビーズに寄りたかったけど、正月休み返上で営業していたローズビーズは、その日曜日は休みになっていたのだ。
「杉田さんは一次会で帰ったんですよね」
「うん、最近二次会は行かないようにしてるんだ。酒に弱くなってしまってさ」
実は他のメンバーとは違う二次会に一人で行ってるわけなのだが。
「私も、二次会まで行くつもりなかったんです。でも、田上さんが、杉田さんが来ていて私にも来て欲しいって言ってるって言うから」
そんなことがあったのか。
あきれた奴だ。
「二次会の店に入ってみると、田上さんと、他に数人の男の人がいただけでした。女性は一人もいなかった」
「ひどいな。それは」
「最初は、杉田さんはちょっと外で電話かけてるなんて言って。私もそれを信じてたのに、いつまでたっても杉田さんは来ない。田上さんに聞けば、そんなにあいつが好きなの?
なんて冷やかすし。結局そこでかなりお酒飲まされて、私はふらふらになってしまったんです」
そういうことがあったのか。
再びあきれてしまった。
しかしあきれる話はまだまだ続いた。
「ふらふらになった私は、田上さんにアパートまで送ってもらうことになりました。そして、そこで……」
坂口みゆきは言葉を切るとうつむいてしまった。
「まさか、田上に無理やり?」
そこまでする奴だったのかな、あいつ。
みゆきは黙ってうなずいた。
「そんなことがあったのか。でもそれってひどいな。警察沙汰になってもおかしくないじゃないか」
みゆきは黙ったままだ。
田上の感じだと、その後二人は付き合うことになったようだった。
そんな始まり方で交際が始まるなんて信じられない。
「田上さんに復讐してやろうって思ったんです」
急に顔を上げてみゆきが言った。
「復讐?」
「その後、何度か私の部屋で関係を持って、そこをこっそり写真とテープに収めました。
それを奥さんに送ってやろうと思ったんです」
ぞっとしてしまった。
復讐のために田上に抱かれていたということか。
憎しみはそこまで人を駆り立てるのか。
「それをこの前の金曜日に田上に言ったわけ?」
「そうです」
田上は罠にかけられたと知って、恐れおののいただろうな。
大して仲良くもない僕にラーメン奢って拝み倒してまで頼んできた気持ちが少し理解できた。
藁にもすがりたいってことだったのだ。
「でも、それは止めていた方が良いよ。そこまですると田上の家庭はめちゃくちゃだ。田上はもちろん自業自得だけど、奥さんと、それに子供さんには何の罪もないんだし、復讐しても後味悪くなるだけだよ」
口ではそういったけど、田上が奈落の底に落ちるのも見てみたい気がしていた。
「杉田さんだって、頭に来るんじゃないですか? 自分の名前を使って女を吊り上げてるなんて」
見つめられて、今度は僕が視線をはずした。
コーヒーを飲んだ後、窓の外に目をやる。
車のヘッドライトが、右から左に流れていった。
「そりゃ、むかつくけど。でも田上の子供がかわいそうだ」
彼女を見ると、みゆきは口元だけで笑った。
「そうですね。止めておいたほうが良いかな」
「そうだよ、僕からもお願いするよ、十分田上はびびってるんだから、このくらいで勘弁してやってくれよ」
この一押しで何とか思いとどまってくれるだろう。
僕は確信を言葉に込めて押し出した。
その後に、彼女の方から、今度は思ってもいなかった言葉が返ってきた。
「じゃあ、復讐はあきらめますけど、その代わりに私を抱いてください」
8
思わずのけぞってしまった。
「何言い出すんだよ、冗談は止めてくれよ」
もう少しでコーヒーを噴き出すところだった。
「冗談じゃないですよ。私が杉田さんを愛してること、聞いてるんでしょ。一回だけでいいんです」
あきれるのは今日何度目だろう。
こんな条件つけてくるなんてびっくりだ。
「奥さんのことを愛してるから、裏切れないんですか?」
その言葉の中には、蔑視とも嘲笑とも思える響きがあった。
「そんなわけじゃない。わかったよ。一回だけなら、付き合うよ」
僕が言うと、みゆきはレシートを持って立ち上がった。
「上に部屋が用意してあります、行きましょう」
「え? 今から?」
あわてる僕を尻目に彼女は清算に向かう。
罠にかけられたのは僕の方なのか?
でも、坂口みゆきは、十分きれいといってもいい容貌をしていっるし、まだ25歳でピチピチだ。
今までの僕なら、渡りに船という感じで飛びつくところだろう。
でも、今日は少し違っていた。
荒木さんとのキスがよみがえる。
あの時、僕はすごく興奮していた。
それと同じだけの興奮を、今から味わえるのかどうか、ちょっと疑問に思えていたのだ。
フロントでキーをもらったみゆきの後について、エレベーターに乗り込んだ。
片側がガラスになっていて、エレベーターが上りだすと、外のビルの明かりが見えてきた。
他の乗るものもない二人きりのエレベーターの中で、みゆきが抱きついてくる。
以前なら、わくわくする瞬間だ。
自然に股間のものは硬くなってくる。
でも、なんだか気乗りしなかった。
ちょっと前までは頼み込んでまで妻に迫っていたのに。
硬くなった僕の股間に自分の腰を押し付けてくるみゆきに対して、一瞬吐き気を覚えた。
「ついたよ」
エレベーターが止まったのを幸い、彼女の身体を離す。
そんな僕の心の中など知る由もないみゆきは、僕を見上げてにっこり笑い、部屋に向かって歩き出した。
「お風呂に水入れますね」
部屋に入ると、奥のバスルームにみゆきは消えていった。
この部屋はやっぱりみゆきが予約していたのだろうか。
ひょっとして、田上とも何度かここを使っていたのかもしれない。
「すぐたまりますよ」
バスルームから帰ってきたみゆきは、コートを脱いで入り口近くのドレッサーにしまいこんだ。
僕もとりあえずジャンパーを脱ぐ。
「ここは、君が予約したの?」
さらに上着を脱いでいる彼女に聞いてみた。
「田上さんに予約してもらいました。もちろん部屋代は先払いで」
「それが最後の条件だったのか」
「いいでしょ。杉田さん、私のこと嫌いですか?」
上目使いで見つめる彼女の眼は濡れていた。
「嫌いじゃない。君みたいに若くてきれいな子を嫌う男は普通そういないよ」
「よかった。じゃあ、楽しみましょうよ」
「そうだね」
話をあわせながらも、不気味なものを感じていた。
しかしここまで来て引き返すわけにもいかない。
僕は裸になると、バスルームに入った。
しばらくしてみゆきが来た。
そこには二人がゆったり入れる湯船があった。
湯船の中で身体を密着してくるみゆき。
どちらからともなく顔を近づけてキスをする。
熱い舌が僕のそれと絡まっていく。
ちょっと苦い味がした。
すぐにタバコの味だとわかった。
この子はタバコを吸うのか。
いまどき女性がタバコを吸うのは珍しいことじゃない。
むしろ、レストランなんかでは男よりも目に付くくらいだ。
僕も以前は吸っていたけど、子供が生まれたときにタバコは止めていた。
そういえば、荒木さんもタバコは吸わないんだな。
あの時のことがよみがえる。
僕の物の変化を察知したみゆきが、それを握ってきた。
軽く手を上下して刺激をくわえてくる。
湯船に波が起こる。
僕も負けじと、みゆきの小ぶりの胸を揉み始める。
そうだったな。
セックスってこんな感じだった。
僕はそれ以上何も考えないようにして、成り行きに任せた。
9
「なるほど、それでうまく出来たわけ?」
隣の洗い場で荒木さんが頭にシャワーをかけながら聞いてきた。
「もちろんビシバシですよ、と言いたい所なんですけど、実はうまくいきませんでした」
男として恥ずかしいことだけど、不思議と荒木さんには素直に本当の事が言える。
僕もシャンプーを手に取ると髪の毛を洗い始める。
泡立てながら、昨夜のことを思い出した。
ベッドに移って、裸のみゆきの胸にキスしていた事を……
乳首を思い切り吸ってやると、みゆきは切ない声を上げ始めた。
そのまま口元を下げて、みゆきの腹から下腹部に移る。
思ったより濃い目の陰毛を掻き分けると、久しぶりに見る女性器がたっぷりとした泉になって僕を迎えた。
懐かしい匂いに、懐かしい味。胸が苦しくなりそうだった。
固くなったつぼみに舌を絡め軽く吸うと、みゆきの声はさらに大きくなった。
しかしこのあたりから、僕の体が少し変化していた。
それまでカチンカチンに硬直していたものの感触が変わってきたのだった。
「来て下さい」
みゆきの言葉に応じる形で、僕は身体をずらして挿入を試みたが、うまく入っていかない。
嫌がってでもいるように、先端が入っていかない。
異変を感じたみゆきが、今度は僕を仰向けにしてから身体を愛撫していく。
上手な舌使いで、僕のものは包まれ、一番感じる部分が刺激を受けていく。
快感が身体を突き抜けるが、妙なことに気持ちは冷めていくだけだった。
「そんなわけで、結局立たなかったんですよ。結構たまってるはずなんですけどね、かっこ悪いですよね」
僕はシャワーをかぶりながら、荒木さんを見ないで言った。
「彼女はがっかりしてた?」
「まあそうかな。あきれたって感じでしたかね」
みゆきは、いくら愛撫しても元気を取り戻さない僕のものを見て、最後にあきらめたのか一言言った。
「結局、杉田さんって奥さんが怖いんですね」
僕は、そうかもしれないね、どうしようもないから帰るよ、といって服を着た。
みゆきは間違っていたがわざわざ訂正することもない。
僕の物が立たなかったのは、妻のことを考えたからなんかじゃなくて、荒木さんの事を考えていたからに違いないからだ。
「今日は、その子はどんな感じだった?」
「いえ、今日は見かけませんでした。休んでたみたいです」
頭をシャワーで流す。
泡がきれいに落ちた頃を見計らって、タオルで髪の毛を軽く拭くと、荒木さんを見た。
彼は僕ににっこりして、脅されずにすんだのかもしれないなと言った。
「なんのことですか?」
「君はその子が言ってること、全部信用したわけ?」
「ええ、まあ。疑う理由もなかったし」
荒木さんは何の話をしてるんだろう。
「でも君の同僚の話とは違っていたんだろう、となるとどっちかが嘘をついてることになる」
「ああ、そういうことですか。そりゃ、田上は無理やりやるような奴とは思えないけど、やったとしても僕にそんなこと言えないでしょう」
「でも、彼女と君が話せばどっち道ばれることじゃないか、隠す理由はないだろ。それにばれた場合、君が彼女側に付くことは十分予想されることだ」
そう言われてみればそうだ。
実際ばれたわけだし。
それに、田上に子供がいなかったとしたら、僕はみゆきを応援していたかもしれない。
「じゃあ、どういうことなんですか?」
「彼女の言ったことに嘘があった可能性が高いと思うな、俺は」
「でも何のために?」
「決まってるじゃないか、君とセックスするためさ、その子の話を信じたから君は田上君の家庭を壊さないように、その子と寝ることにしたんだろ」
「それはそうだけど、そこまでするかな」
「昨日の君達の部屋にビデオカメラがセットされてたりしたらどうかな」
「何言ってるんですか?」
つい大声を上げてしまって、他のお客さんが驚いていた。
でも今の僕にはぜんぜん気にならなかった。
「君を脅すつもりだったんじゃないかと思うんだ。でも君はできなかった。脅す材料が得られなかったってわけだ」
「脅すなんて、何のために」
独り言のように口から自然に言葉が出る。
「君が好きだったんだろうな。離婚を迫るつもりだったのかもしれない」
頭を洗ったあと、そのままだったから、体が冷えてしまった。
一回くしゃみをした後、僕は湯船の方に向かうことにした。
荒木さんも身体を流した後ついてくる。
本日の薬湯はゆず湯だった。
黄色いぬるめのお湯にゆったりとつかる。
「あの子がそんなことするなんて思えませんよ、やっぱり」
「人の内面なんて、そうそう分かるもんじゃないさ」
荒木さんはお湯を手ですくって、気持ちよさそうに顔を浸した。
「でも、彼女が実行しなかったのなら、本当の事はわかりませんね」
わからないほうがいいと僕は思った。
「田上君に聞いてみるといいよ、昨日ホテルの予約をしたのかどうか」
そうか。
たとえば彼女が荒木さんの言うような計画を本当に考えていたとしたら、昨日の時点で僕の弱みをつかむことになるから、そうなったあとなら自分の言葉に嘘があったことがばれても平気だということになる。
彼女の言葉に嘘があったのかどうかは田上に聞けば簡単にわかるだろう。
股間に変な感触がした。
荒木さんの手が、僕のそこに伸びていたのだった。
薬湯だから他の人には見えないのだ。
「何でできなかったのかな」
耳元で荒木さんが囁いた。
「もう、わかってるくせに」
僕も手を伸ばすと、荒木さんのタマタマを指で弾いてやる。
うっと言ってしかめた荒木さんの顔に、僕はお湯をぱしゃりとかけてやった。
泡風呂にも入って、身体を十分温めた後、僕達は露天の方に行って見た。
暗い中でいくつかのライトが足元を照らしている。
空気は冷たかったが、火照った身体にはちょうどよかった。
今夜も、小さな雪の粒かぱらぱらと降ってきていた。
中年ぶとりとは程遠い荒木さんの身体を、つい感心してみてしまう。
それに全身日焼けしていて精悍だった。
日に当たることの少ない僕の体が妙に生白く思える。
「ジムで鍛えてるんですか?」
露天のヒノキ風呂に二人おさまったところで聞いてみた。
「いや、時々ジョギングしてる程度だよ」
「あと、よく焼けてますよね、冬だというのに」
「日焼けサロンには時々行ってるな、夏は海で焼くけどね」
「でも、パンツのラインもないんですね」
下半身も日焼けの具合は上半身と同じだったのだ。
「人のいない海では真っ裸で焼くこともあるよ」
「本当ですか? 誰かに見られるとまずいでしょう」
「誰もいない浜って、案外多いんだぜ。今度一緒に行くかい?」
「でも、まあ夏になったらですね」
そう答えたけど、自分はあまり日に焼けるのは好きじゃない。
「でも、ぜんぜん下腹が出てない40代の人って珍しいですよ」
「そうなのかな。もともと太らない体質なんだ」
そういう人はたまにいるようだ。
僕もそれほど太ってるわけではないけど、運動不足は否めない。
「僕もジョギングでもしようかな」
「そうだな。少し鍛えた方がいいかもしれない」
荒木さんは筋肉質の体形が好みなんだろうか。
だとすると、僕はあまりタイプじゃないかもしれないな。
聞いてみたかったけど、なんとなく聞けなかった。
「でもここはなかなか立派だね」
湯船の中の荒木さんの手に刺激を受けて、僕のものはしっかり元気になってしまった。
このままじゃ湯船から出られない。
「勘弁してくださいよ、人が来ると困りますよ」
逃げようとする僕の後ろに回った荒木さんは、後ろから手を回してきた。
思わず声が出そうなくらいに感じてしまう。
「まだ男と寝たことはないって言ってたよね。俺にナビゲートさせてくれよ」
「ちょっと待ってください。僕はまだそこまでは……」
そこで他の客が近づいてきた。
荒木さんも離れるが、僕のものはまだ固くなったままだ。
お湯の中だから見られることはないと思っても、焦ってしまう。
「じゃあ、釜風呂行こうか」
荒木さんが立ち上がり、露天の隅にあるスチームサウナに歩いていく。
僕は横の男に見られないように、タオルで前を隠しながら後をついて行った。
10
釜風呂には先客が3人いた。
五つの席が向かい合うようになっていて、10人が入れるようになっている。
しかし向かい合う人間とは、ほんの一メートルも離れないくらいに狭かった。
先客は一番奥の左側に一人、真ん中右側に一人、それと一番手前の左側に一人座っていた。
荒木さんは手前から二番目の右側に座った。
僕はその隣の一番手前側右に座る。
僕の向かいには、がっちりした体形の胸毛の濃い男が頭にタオルを巻いて腕組みしてい
た。
釜風呂では、普通タオルを膝から下半身にかける人が多いが、中にはこんな風に頭に巻いてる人や、首にかけてる人もいた。
釜風呂の中では声が反響してしまうから、少しはなれたところにしか客がいなくても話はできない。
今の状況では、だまって身体を温める以外になかった。
ふと見ると、前の男が僕の方をちらちら見てるのが気になった。
少し入り口側を向くようにして、他の客に見えないところで、彼は股間のものを握って僕によく見えるように位置を変えた。
顔にタオルがかかってよく見えなかったが、じっとこちらを見つめてる気配がする。
僕は隣の荒木さんを見た。
荒木さんは目をつぶったまま腕を組んでいる。
汗の玉が体中から生まれては流れ落ちていた。
僕の前の胸毛男が立ち上がると、釜風呂を出て行った。
ほっとしてると、隣の荒木さんが僕の肩をたたいた。
見ると、指で入り口を指している。
「行ってみろよ」
何を言ってるのかわからなかった。
「面白いかもしれないよ」
いたずらっ子みたいに笑うその顔を見て、僕にも少しわかってくる。
釜風呂を出て、ヒノキ風呂の湯で汗をかいた身体を流す。
さりげなく周囲を見ると、胸毛男は少し離れたプラスティックの椅子に腰掛けていた。
ヒノキ風呂に入る。
ここには誰もいなかった。
一息ついて顔を上げると、胸毛男がこっちに歩いてきていた。
知らん振りしてると、彼は僕の側のヒノキ風呂のふちに腰掛けて、じっと見下ろしてきた。
再び手は股間のものを握ってこっちに差し出すようにしている。
釜風呂の中では暗くてよく見えなかったが、ライトに照らされたそれを見ると、ぐっと勃起してるのがわかった。
かなりでかかった。
丸い先端がつややかに光ってる。
僕はさりげなく横を向いて知らん振りを決め込む。
男が湯船に入って近づいてきた。
「にいさん、一人?」
二人きりのヒノキ湯で彼は聞いてきた。
「いえ、今日は友達と来ています」
だからあんたの出る幕はないよと付け加えたいくらいだった。
「ふーん、さっきの背の高い男かな、でもさ、俺の方がずっと楽しませてやれるぜ」
額の広いやや禿げ上がった頭にタオルを乗せた男が僕の股間に手を伸ばしてきた。
「ちょっと、だめですよ、止めてください」
まさか手を出してまで来るとは思ってなかったので焦ってしまう。
お湯の中で身体をずらせて逃げるが、しつこい彼に風呂の端まで追い詰められてしまった。
もうすぐ荒木さんも出て来るだろう。
そして助けてくれるはずだ。
そう思った矢先に釜風呂のドアが開いて、荒木さんが出てきた。
僕の表情を見た胸毛男が、そちらを向く。
荒木さんはいったん冷水で頭を流した後、一瞬だけこちらを向いて奥のプラスティック椅子に腰掛けた。
少し混乱してしまう。
僕がここにいるのは見えたはずなのに。
この程度はどうって事ないと思ってるのだろうか。
まあ、確かに乱暴されるわけでもないし、僕が立ち上がって風呂から出ればすむことなのかもしれない。
でも、僕が違う男に絡まれてるのを見て、それを無視しているのはどうなんだろう。
ちょっと悲しくなってしまう。
「少しくらい遊んでいいって思われてるんだろ、どうだいい俺と」
邪魔をしない荒木さんを認めた後、胸毛が腕を回してくる。
「もう、いい加減にしてください」
むかついた僕は、きつめの口調で言い放つと、立ち上がって風呂から出た。
荒木さんを睨んだ後、一回水をかぶって、釜風呂に入る。
今度はそこには誰もいなかった。
胸毛男がついてきたらいやだから出ようかと入り口を向くと、荒木さんが入ってくるところだった。
一番奥に二人で並んで座る。
「もう、ひどいじゃないですか、知らん振りして」
「たいしたことじゃないさ。今まであんなことはなかったのか?」
「あそこを擦って見せ付けてくるおじさんには何度か遭遇しましたけど、あんなふうに話しかけられたのは初めてですよ、夜だからかな」
「この銭湯、けっこうこっちが多いからな」
「僕が声かけられてるのを見ても、平気なんですか?」
「そんなことでいちいち焼きもちやいてたら、イケメン君とは付き合えないだろ」
言いながら荒木さんの手が僕のものを握る。
そして上体を倒すと、僕の股間に顔を近づけてきた。
誰か入ってくるかもしれないというのに。
僕は荒木さんのことよりも入り口が気にかかる。
荒木さんが僕のものを口に含んだ。
思わぬ快感が盛り上がってくる。
身体は高温のスチームで汗だく。
その上頭も真っ白になるくらい興奮してしまうから、なんだかめまいがしそうだった。
「大きくなってきたね。なかなか立派だ」
顔を離して手でしごいてくる荒木さんは、入り口の物音聞きつけてやっと手を離した。
入り口は二重ドアになっているから、外側のドアが開いた音でわかるのだ。
心配していた胸毛ではなくて、一般客のようだった。
その後、風呂から上がった僕達は、休憩室の畳の上で一休みしていた。
二人に挟まれたテーブルの上には二本の 500ccペットボトルが置かれている。
「自分のことがよくわからないって言ってたけど、少しはわかってきたのじゃないかな。
女よりも男が好きだってさ」
荒木さんは一口ジュースを飲んだ後、囁く。
「でも、あの胸毛おじさんは勘弁して欲しい。別に男が好きってわけじゃないと思うんで
すけどね」
「それはそうさ。女が好きだからといって、誰でも良いと言う事にはならないだろ、同性愛だって同じことだよ、好きになった相手が、たまたま同性だったかどうかというだけだ」
そういえばそうなのかもしれない。
僕は男が好きなんじゃなくて、荒木さんが好きなんだと思えば、それでいいことなのかも。
「セックスしてみる気になった?」
単刀直入に聞いてくるんだな、いつも。
荒木さんの性格なのかな。
「少しだけ、かな」
僕は思ったままを口にする。
「まあいいさ。今度一緒に楽しもう。都合のいいときにあわせるから」
今日は火曜日、今週はどちらかといえば暇な週だ。
有給休暇もたくさん余ってるから、年度が替わる三月いっぱいにとってしまわないといけない分が残っている。
「じゃあ、木曜日に有給休暇とります」
消え入るように僕はつぶやいた。
11
「最近すごく機嫌いいわね」
風呂から上がった響子が、パソコンデスクの前の僕に顔を寄せてきた。
ちょうど楽天ショッピングでジャケットを探していたところだった。
「別に、まあ仕事がうまくいってるのはあるけど」
コーヒーを一口飲んで答える。
「それだけかな? 鼻歌歌ってたわよ」
「別にいいじゃないか、鼻歌歌うくらい」
「いいけどさ。ちょっとこの頃変わったかなと思って。昨夜は夜に銭湯行くなんていいだすし」
「最近行ってなかったから久しぶりにたっぷり汗かきたくなっただけだよ、ちょっと運動不足だし」
「何かスポーツでもすればいいじゃない」
「そんな事いっても、一人じゃなかなかできないよ、ジョギングしてみたいとも思うけど、この辺は坂道ばっかりだしね」
「まあ、適当にどうぞ、あなたが楽しそうなのは、私も見てて嬉しいし」
変な事いうな。
「浮気してるなんて思ってないよな」
実は一番気になることを聞いてみた。何とかさりげなく聞けたと思う。
「どうかな? まあ、大丈夫だと思ってるけど」
「もちろんさ」
「そんなにもてそうに見えないし」
一言多い奴だ。
でも、疑われるよりはましか。
「明日、有給休暇入れたから。余ってるのを暇なうちに消化するんだ」
「え、そうなの。じゃあ私も休んじゃおうかな。修一は学校だから二人で久しぶりに美味しいランチでも食べに行く?」
言わなきゃよかったと思ってももう遅い。
「でも、残念ながら私の方は忙しいんだよね、ランチは今度ね」
僕の顔色を察したのか、響子は言った。
「少しいやそうな顔だった」
響子が人差し指で僕の額をつつく。
やはり顔に出ていたか。
「別にいいけどさ。一人でパソコンショップ巡りとかしたかっただけだよ」
ごまかすのは楽じゃない。
でもなんとかひどく疑われる事は無くすんだようだった。
そう言えば、今日田上と話をした。
諦めてくれたみたいだ、本当にありがとうって感謝されてしまった。
「それはよかった、何とか力になれたみたいだな」
昼休みに、先日のラーメン屋に二人で入っていた。
今の僕にとって見ればどうでもいいことだけど、坂口みゆきの真意はやはり気になる。
とはいえ、あの日のことを田上に言うのは嫌だった。
うまくできなかった事でもあるし。
「それで、坂口は? 今日も見かけなかったけど」
味噌ラーメンの汁をレンゲですくって一口飲む。
「結局会社辞めためたみたいだ。メール来たんだ。ちょっと悪かったかな」
「そうなのか。もう来ないのかな」
「ああ、有給余ってるからな、三月十五日付らしいけど」
「ところでさ、坂口とはいつからだったんだ?」
彼女の話だと、今年の新年会の夜が最初だということだった。
それからはまだ一月半ほどしか過ぎていないわけだ。
「去年の歓迎会だったかな。お前覚えてるだろ、あの子と二次会で話してたじゃないか」
去年の歓迎会だって?
もう一年ちかく前の話じゃないか。
そう言えばあの時は確かに二次会のスナックで横に座ってたことを覚えていた。
かなり酔っていたな。
腕に抱き付けれてドキドキしたのも覚えてる。
「じゃあそれから、付き合ってたわけか、あの夜はお前がタクシーで送っていったんだったな」
家が同じ方向だったからだ。
「そう。そのまま部屋に誘われてさ。やっちゃったわけ」
「じゃあ、俺のことで相談されたって言うのは、それよりも前の話だったわけ?」
「そうだよ。ひと月くらい前だったな」
田上の話が本当なら、やっぱり彼女の話が嘘だったということになる。
やはり荒木さんが想像したようなことだったのだろうか。
脅して結婚を迫るなんて、そんなことをしてもうまくいくわけないじゃないか。
相手に嫌われるだけなのに。
それでもしなくてはならないほど思いつめていたんだろうか。
もう考えるのは止めよう。
考えても仕方の無いことだから。
「修一も今度から小学生なんだよね」
響子がまた寄って来て言った。
「早いよな。こないだまでおしめしてたと思ってたのに」
「なんだか、30歳過ぎたら早いよね」
「花の命は短いぞ、今のうちにたくさん咲いてたほうがいいんじゃないかい?」
「もちろん咲いてるよ。でもセックスだけが花じゃないのよね、人生って」
僕の言いたいことを先回りして釘をさしてきた。
でも、今の僕はそれにはなんとも感じなかった。
「まあいいさ。いろんな咲き方があるだろうからね」
「ずいぶんあっさり引くね、今夜は。なんだか気持ち悪いくらい」
「君に嫌がられるのは僕だって嫌だからね、不愉快になることはもう止めることにしたのさ」
いったん黙った響子が僕の顔を見つめた。
「そうね。それじゃ今後もよろしく」
言った後、響子はひとつお辞儀した。
12
木曜日は朝から天気がよくて、三月も近づいていることを感じさせる陽気だった。
自宅マンションの下の道路にあるバス停で、僕は荒木さんを待った。
メール着信音が鳴って、見てみると、『今中央橋あたり』という一言を受信していた。
それなら後10分くらいか。
見上げても、まだ公園の桜が咲くには早いけど、もう一月もしないうちに、ここは長崎でも有数の桜の名所になるのだ。
何度か来る車に目を凝らすが、荒木さんの車はまだのようだった。
どんな車で来るのかはわからない。
黒塗りのベンツだったらちょっと嫌だな。怖いし。
軽自動車というのも、荒木さんには似合わない。
どんな車が似合うだろう。
普通にマーク]くらいかな。
案外ポルシェとかだったりして。
荒木さんにはポルシェも似合いそうだ。
そんな想像を膨らませてるところに、モスグリーンのごつい4WDがやってきた。
僕の横に止まったその車は、詳しくは知らないがジープブランドのようだった。
「やあ、乗って」
こちら側の窓が開いて、奥の運転席から荒木さんの声が聞こえてきた。
ドアを開いて乗り込む。
サングラスを上にずらせた荒木さんが、にこやかにうなずいた。
「じゃあ行くか、昼飯食べていくだろ」
ウインカーの点滅音の後、車が加速し始める。
はいと答える僕に、
「あがってるのかな、声がかすれてるよ」
と荒木さんは笑った。
荒木さんは悪い人には見えないし、店での飲み友達にならなんら問題はない。
でも、二人っきりで人に言えない秘密を共有することになる相手として、大丈夫なのか、僕にはまだ確信がもてていなかった。
悪い人間が悪そうにしてるとは限らないからだ。
それまで浮かれ気分だったのが、嫌な想像に引っ張られて、急降下しそうだった。
何とか自分を納得させる方法を探す。
もし荒木さんが悪い人間だったとすると、僕以前に脅されたりした人間がいるはずで、そうなるとローズビーズでもその評判は知れ渡ることになるだろう。
だとすると、あの店のマスターが、僕に何も注意しないはずがない。
そうか。
ゲイバーでの出会いというのは、ネット掲示板なんかでの出会いと比べて、そういうメリットがあるわけだ。
マスターが客の本名を知らなくても、その人間を知ることに支障はないのだ。
「この車、なんていうんですか」
少し気が晴れた僕は運転している荒木さんに聞いた。
「ジープのパトリオットって車さ。2.4リットルのガソリンエンジンを始め、中身は三菱との共同開発だ」
「そうなんですか、じゃあわりと燃費はいいんでしょうね」
「車重があるから、せいぜい6キロ程度かな」
「じゃあ、僕の車と変わらないですね」
他愛ない話をしているうちに、目的の店についたようだった。
時津の町に下る大通りを少し下ったところのあるチェーンレストランだった。
入り口から入って右側、禁煙席の二人掛けに僕らは向かい合って座った。
ウエイトレスが、メニューとお冷を持ってくる。
僕はカツどんを、荒木さんはキムチ丼を頼んだ。
食べ始めた後に、荒木さんがまずったなとつぶやく。
「どうしました?」
「いや、臭いがするかと思ってさ、せっかくの……なのに」
なるほどそういうことか。
「いいですよ、僕は気にしませんから」
僕の生まれて初めての体験を、できるだけいいものにしてやろうという気持ちが感じられた。
飲み会のときはともかく、素面のときに男同士二人というのもなんだか気恥ずかしい。
自意識過剰というやつだろうか。
店を出るとき、当然のように荒木さんが支払いをしようとしたが、あえて僕は割り勘にしてもらうことにした。
対等でいたいから。そう言って。
車はいったん来た道を戻り、滑石団地を過ぎて峠を越えていく。
そこから少し降りたところに、本日の目的地があった。
「シートを倒して」
最初荒木さんが何を言ってるのかわからなかった。
でもとりあえず、少し後ろに倒してみた。
「もっと、真横になるくらいにして」
そこで僕にもやっと理解できた。
入るところを見られるのがまずいというわけだ。
男二人の来店はご遠慮くださいと言われるのだろう。
真横に寝転んでさらに僕は顔を隠すようにした。
車がゆっくりラブホテルの門をくぐった。
ラブホテルに来るのなんて何年ぶりだろう。
結婚する前に響子と行ったきりじゃないだろうか。
車がぐるりと回って、窓からの日差しが入らなくなった。
「もう大丈夫だ、降りようか」
促されるまま、僕はシートを起こして、車から降りた。
目の前に黄緑色のドアが見える。
その取っ手に手をかけると、重めのドアをひき開けた。
荒木さんも車を回ってやってきた。
部屋に上がる。
ひんやりした部屋は、クリーニングされてるとはいえ、何人もの男女の性愛の香りがまだ残っている気がする。
「後ろの処理はしてきたの」
荒木さんが後ろから手を回して抱きついてきた。
「はい、一応」
最近はあまりしていなかったが、中学高校くらいから肛門に異物を挿入するのが好きでよくやっていた僕にとって、浣腸はそれほど大変でも特別な行為でもなかった。
「とりあえず、風呂にお湯ためるから」
男女でこういう場所に入ったときの、男の役割をしっかり荒木さんがやっていた。
僕はといえば、初めて連れてこられた処女のように、ソファに腰掛けることもせずベッドサイドに立ち尽くしていた。
風呂場からなかなか戻ってこない荒木さんの方に行って見ると、彼は歯磨き中だった。
本当は僕も磨いた方がよかったんだろうけど、まったく頭の中に思いつかなかった。
冷えていた部屋の空気が、エアコンの風でかなり温もってくる。
僕はジャケットを脱いで、ソファにおいた。
「じゃあ、お湯もたまったみたいだし、風呂に入ろうぜ」
僕の肩に手をのせた彼が、やんわりとエスコートしてくれた。
服を脱いで脱衣かごに収める。
僕のすぐ側で、荒木さんも裸になっていた。
風呂場は楽に二人が入れるように広めにとってあった。
浴槽も二人分はある。
僕は荒木さんに背中を向けるようにして湯に浸った。
後ろから太い腕が回されてくる。
首元を抱かれた。
「こないだも思ったけど、エイト君は鎖骨がきれいだよね」
「鎖骨ですか?」
「そう。この骨」
肩から首につながる僕の骨を荒木さんが指でなぞる。
「くっきり浮き上がってる。滑らかな直線だ」
そんなほめ言葉? は初めてだった。
「やっぱり喜ぶべきなんでしょうか」
「もちろんさ。顔だけがその人間をあらわすものじゃないんだから。もちろん君は顔だってかわいいけどさ」
かわいいと言われるのには抵抗あるはずなのに、なぜか嬉しくなる。
後ろを振り向くと、荒木さんの顔がかぶさってきた。
ねっとりした舌が差し込まれてきて、僕の舌と絡まりあう。
身体を左半身ずらせる。
荒木さんの腕がまわりこみ、背中から力強く抱きしめられた。
ミントの香りが口の中に広がった。
13
身体を拭いてベッドに移動する。
大き目のベッドの上に寝転んでみると、天井は鏡張りだった。
いかにもといった演出に苦笑いが出てしまう。
「だいぶん落ち着いたみたいだね」
荒木さんの浅黒い身体が僕に覆いかぶさってきた。
左の乳首を指で刺激しながら右側に口をつけて舌で転がされた。
こんな風に刺激されるのは初めてだ。
妻とのセックスでは、こっちが愛撫する側で、妻はせいぜい気持ちいい声を上げてくれる程度だったから。
「よかったら声を上げてもいいんだよ、いい声で鳴いてごらんネコちゃん」
脇腹から荒木さんの声が聞こえてくる。
彼は身体をずらせて、僕の下半身を攻める体制に移った。
声を上げていいといわれても、気持ちはいいけど素直に声出せるわけもない。
なんと言っても恥ずかしい。
すっかり勃起した僕のものが、荒木さんの口技で快楽の悲鳴を上げそうだった。
男だからどこが一番感じるかは身をもってわかってる。
わざと其処を外すようにしてじらせるのがまた憎い。
すっと身体が離れた。
「ちょっとうつぶせになってごらん」
足元から声がする。
僕は言われるとおりに身体を反転させ、やわらかい羽毛の入った枕を抱え込むようにした。
お尻の肉がぐっと開かれる。
「もう少しお尻を突き出してくれないかな」
恥ずかしい注文だ。
でも僕には逆らう気力なんて残ってなかった。
膝を少し曲げて腰を浮かせる。
お尻の中心部に息がかかるのを感じたその後、熱くてぬるりとした物が僕のアヌスにまとわりついて来た。
「そんな、そこは汚いですよ」
思わず引こうとする腰を荒木さんの腕が阻止する。
「きれいにしてきたんだろ、中まで。今の君の身体はどこまでだってきれいだ」
言った後再びアヌスに舌がねじ込まれてくる。
ひとりでに甘い声が出てしまう。
ここまで来たらもう抵抗するのは無理だ。
だいたい僕の身体そのものが、荒木さんの愛撫を求めてわなないているのだから。
荒木さんの舌は僕のアヌスを開いておくまで差し込まれる。
嫌悪感は今の快感に対しては何の抑制にもならなかった。
「いい味だ。だいぶん緩んできたようだし、もういいかな」
ベッドサイドのソファに置いたバッグから、荒木さんが何か取り出している。
「あんまりすると、一気にいってしまいそうだからな。そろそろお尻に入れてもいいかな、覚悟はできてる?」
「大丈夫、だと思います」
あそこまでしてもらって嫌なんていえない。
いよいよだ。
もう20年も前から夢想していたことが現実になろうとしていた。
「じゃあ、足を上げて」
仰向けから足を抱えるような格好にされた。
心臓は高鳴るというよりも、なぜか心は澄んでいくみたいだった。
アヌスにねっとりしたゼリーが塗られる。
荒木さんの指がするりと入ってきた。
前立腺のあたりを刺激されて、思わず声を上げてしまった。
「いい声だ。女の子みたいにないていいんだよ」
見ると、荒木さんのものもキンキンに勃起していた。
僕はそれに手を伸ばしてつかんでみた。
他人の勃起したものを触ったのは初めてだ。
手触りはおなじみのものなのに、なんだか変な感じがした。
「コンドームはつけたほうがいいかな」
荒木さんが聞いてきた。
「一応、お互いのために付けた方がいいと思います」
本当は生でやりたいんだっけどな、そういいながらも、備え付けのものを彼は勃起したものに装着した。
荒木さんは、それにもゼリーを塗ると、僕のアヌスに先端を当ててきた。
ぐっと広げられる感触。
ずきんと来る激痛に、僕は思わず痛いっと声を出した。
「無理なのかな」
いったん腰を引いた荒木さんが言う。
「いえ、じわじわすれば慣れると思います」
僕はそう言って口を開けて大きく息をすったり吐いたりする。
口をあけることは、アヌスの力を緩めることにもつながるのは、実体験として知っていた。
「いいかな」
「はい、ゆっくり来て下さい」
ふたたびゴムのような先端が僕に入ってくる。
一瞬の激痛の後、緩んだアヌスはやっと観念して荒木さんの侵入を許した。
ずずっと奥まで入ってくる。
いったん痛みが治まると、後は快感しか感じなくなってしまう。
冷たいビンの感触ではなくて暖かい生き物の侵入は、とても優しく感じられる。
「根元まで入ったよ、痛くないか?」
「もう大丈夫です」
足を目いっぱい広げた格好はカエルみたいでなんとも格好悪く感じるけど、正常位での場合は女性はいつもこんな感じなわけだ。
荒木さんの腰が動き始める。
僕のお尻の中で荒木さんのものが出入りを始める。
う、うん。
甘い声が聞こえると思ったら、自分の声だった。
女みたいな喘ぎ声だった。
自分にこんな声が出せるなんて思っていなかった。
しばらくした後、荒木さんは僕の両足を担ぐ形にして僕を犯し始めた。
角度が変わることで、こっちの感じ方も変わってくる。
泥をこねるような音がずっと聞こえていた。
僕の方も次第に上り詰めていく。
荒木さんの律動で、勃起した自分のものが腹に擦れてたまらなくなってきた。
「いきそうです」
「ああ、たっぷり出していいぜ」
下から突き上げられる快感にとうとう僕のものが耐えられなくなった。
爆発するように弾ける衝動が突き抜ける。
背中が思い切りそってしまう。
自分がライフル銃にでもなったみたいに、勢いよく弾を発射した。
14
おなじみの風景がなんだか違って見える。
初めて女性とセックスをしたときにも感じなかった感覚だった。
「あ、あそこの、市立図書館の所で降ろしてください」
市立図書館は最近できた図書館だ。
これまでは古びた県立図書館のみが長崎市民の図書館だった。
「ここから歩いて帰るのか?」
距離的には大してないが、荒木さんに乗せてもらった場所はここからかなり上ったところだったのだ。
「はい、この図書館をちょっとまわってみます。嫁さんに聞かれたらここに来てたってことにしたいから」
来てた事にするには、内部を知らないとまずいだろう。
僕はまだここに入ったことはなかったのだ。
「なるほど、車使わずに出ることはあまりないって事か」
さすがに鋭いな。
「ここなら歩いて来れる距離だし、駐車場に車入れるの難しそうって言い訳が立つでしょ」
「わかった。じゃあ、今度また飲みに行こう。今度はローズビーズにも寄らないとな」
車が道路端によって止まった。
「はい、多分三月になれば送別会なんかも入ると思いますから、その二次会抜け出してローズビーズで会いましょう」
図書館の中は暖房も効いていて快適だった。
一階の一般書のコーナーを歩いてみたが、本棚にはまだかなり隙間があり、僕が好きな作家の本も見当たらなかった。
一応妻と話をあわせられる程度に中を見た僕は、外に出ようとして入り口の近くにいた女と目があった。
坂口みゆきだった。
一瞬戸惑う表情を見せた彼女は、諦めたのか僕の方に歩いてきた。
「お久しぶりです」
彼女の手荷物の袋には、ここで借りたと思われる本が数冊入っていた。
「うん、でも、辞めるなんて、ずいぶん急だったんだね」
先日のことは無視するようにして僕が言う。
「あっちに座りませんか?」
みゆきはテーブルと椅子の置いてあるスペースを指差した。
あまり話をしたい気分じゃなかったが、断るのも面倒だ。
うなずいて彼女のあとを追う。
座った彼女はハンドバッグからタバコを取り出した。
ラークマイルドだった。
ライターを取り出したところで、気づいた様子だ。館内禁煙だということを。
「私の嘘、ばれてるんでしょう」
タバコとライターをハンドバッグにしまった彼女は、ガラスでできた壁の外の光あふれ
る通りを見ながら言った。
「田上とは去年の歓送迎会からだって聞いた」
みゆきの投げやりな態度に、すでに嫌気がさしていた。
何で僕はここにいるんだろうか。
軽く挨拶して別れればよかったのに。
彼女と話しをする理由なんて何もないのに。
「何がなんだかわかんないでしょうね、杉田さんには」
「確かにそうだ。君の気持ちはわからない」
「でも、好きになっちゃいけないんですか? 結婚してるかどうかなんて、人間の本質とは関係ないでしょ」
言葉とは裏腹に、感情を抑えた小さな声で彼女は言う。
「そうかもしれない。そう思ってる人もたくさんいると思うよ」
「結局私に魅力がなかっただけか」
いきなり泣き出すかと思って少しひやひやしたが、彼女の態度は悲しみに打ちひしがれてる女とは遠かった。ため息をついた後は妙に乾いた笑いを僕によこした。
「僕ができなかったからそんな事言ってるのかもしれないけど、君に魅力がないというのは違うよ」
僕はテーブルの上で組んだ指先を見ながら言う。
「いまさらそんな事言ってくれなくてもいいですよ。奥さんを愛してるというのも違うでしょ、男は、たとえ奥さんがいても若い女には目がないはずだもの」
田上のことを言ってるのだろうか。
「僕は田上とは違う」
「もちろんそうですよ。だから杉田さんが好きだった。苦しいですよね、人を好きになるのって」
お昼のメロドラマでも見てるような展開に、僕も少しいたずら心が芽生えた。
「確かに苦しい。喜びも多いけどね、僕は今そんな気持ちでいっぱいさ」
「もしかして、私以外の人と付き合ってるんですか?」
感の鋭い魚が食いついてきた。
「今もデートしてきたところ。そこで降ろしてもらったんだ、車から」
「そうだったんですか。お相手は私の知らない人ですか?」
「もちろんそうだと思う。たぶん想像もつかない相手だよ」
「すっごい美人とか?」
僕は彼女から視線をはずすと、通りを行きかう車を少しの間目で追う。
そして言った。
「いや、美人というより美男子だな」
あっけにとられたみゆきの顔がずいぶん間抜けに見えた。
一瞬後に笑い声が館内に響いた。
「信じられない。杉田さん、冗談でしょ」
「冗談じゃないさ、僕は女はもう好きじゃないんだ」
だからできなかったってわけさ、と心の中で付け加える。
「あきれた。とんだ変態だったんだ」
言った後、勢いよくみゆきは立ち上がった。
そして荷物を持つと、僕に背中を向けた。
その背中に向かって僕はひとこと言葉を送る。
「男か女かなんて、人間の本質には関係ないだろ」
15
「奥さんや子供さんは元気?」
カウンターに僕が腰を下ろすと、先に来ていた荒木さんが聞いてきた。
「元気ですよ。あいかわらず。荒木さんのところはどうですか」
荒木さんには娘が二人いると聞いていた。
「上の娘は福岡の看護学校に行ってる。下のは高校生だ。生意気で手のかかる頃だな」
荒木さんの言葉のすぐ後にマスターの声がふってくる。
「エイト君、何にするの」
「あ、じゃあ焼酎お湯わりで。できたらレモン入れて欲しいな」
お絞りを使いながら見上げると、マスターがにっこりとうなずいた。
土曜日だからか、客の入りは多かった。
カウンターはほぼ満席だ。
歓送迎会を一次会、それも終了間際に抜け出してきた僕はここに九時ちょっと過ぎにたどり着くことができた。
一次会を早めに抜け出したのは、同じ方向に帰る同僚に、一緒にタクシー乗ることを誘われるのがいやだったからだ。
二次会にも行かずにタクシーも断ってたら変に思われる。
「君、いくつなの」
荒木さんの声だけど、僕に向けられたものではなかった。
荒木さんは僕を飛ばして、僕の左横の若い男に声をかけていた。
「27です。長崎は初めてなんですよね」
がっしりした体格の青年だった。髪も短く刈り上げている。
上着を脱いだ半そでティーシャツからは、太い腕が飛び出していた。
「福岡にすんでるのか。じゃあ中州とかよく行くの」
中洲にあるゲイバーのことを言ってるのだろう。
僕の前を横切って荒木さんがその男のコップに自分のビールを注ぐ。
「たまに行きますけど、なかなか」
なかなか何なんだよ。
言葉の先に想像がついたから僕はなんだか機嫌悪くなる。
「荒木さんみたいな格好いい人いませんよ」
想像通りの言葉が彼から吐き出される。
お湯わりを一口飲む。
「彼氏いないんですか?」
今度は僕がその男に聞いてみた。
後で思ったけど、これって荒木さんは僕の彼氏なんだからと釘をさしてる言葉だ。
「今はいないですよ。フリーです」
面白くもなんともない答え。
「そうか、今度福岡にも遊びに行こうかな」
荒木さんが、また彼にビールを注いだ。
荒木さんは酔ってるのかご機嫌だった。
満席じゃなかったら席を移りたい気になってきた。
やっぱり、荒木さんは体格がよくて短髪の若い男が好きなんだろう。
すごく寂しくなった。
時計を見るとまだ十時半。
帰るにはまだ一時間ほど早い。
荒木さんはあまり僕に声もかけない。
僕が真ん中じゃなかったら、僕にも話し相手ができるんだけど、二人に挟まれてるのではどうしようもない。
「エイト君、お代わり作る?」
マスターが、少なくなった僕のコップを指差した。
「いえ、いりません」
と言おうとした僕の言葉に、荒木さんの言葉がかぶさってきた。
「俺ので作ってやって」
荒木さんのキープの焼酎が、マスターの手で棚から下ろされる。
礼を言おうと見ると、その目はすでに僕を通り越している。
また二人の話が弾み始める。
今日はついてない。
こんなのが横に座らなければよかったのに。
いつもは美味しいと思うお湯わりが、味も素っ気もないものに思えた。
11時に近くなってやっとカラオケを歌う人が出始める。
僕はその画面を見て間を持たせることにした。
荒木さんたちの会話も、カラオケに邪魔されて不可能に近くなる。
いつもはうるさいと感じるカラオケが、今夜は救いの手を差し伸べてくれたみたいだった。
「やっぱり、荒木さんもあんなタイプが好きなんですね、僕とはぜんぜん正反対じゃないですか」
ローズビーズを出て帰りの道すがら僕は荒木さんの横腹を小突いてやった。
「そんなことないさ。君の方が断然好きさ」
「嘘ばっかり。あんだけされれば鈍感な僕でも気づきますから」
「君に少し焼きもち焼かせたかっただけさ、俺は君が好きだって言ったけど、君の方からは聞いてないしな」
「そんな。付き合ってるって事でわかるじゃないですか」
「とりあえずって事もあるだろ」
「え? 荒木さん、僕ととりあえず付き合ってるわけ?」
荒木さんの腕を僕がつかんだが、すぐに逆に引っ張られた。
路地の暗がりに引っ張られる。
顎を持ち上げられた僕の口に、荒木さんの口がかぶさってきた。
舌が入ってきて僕のと絡まりあう。
誰かに見られると困る、と考えるところだけど、酔ってたからか僕も下ろしていた手を荒木さんの背中に回してしっかり抱きしめた。
ずいぶん長くキスしていた気がした。
そして終わったあと、荒木さんが言った。
「エイトは特別さ。今までは身体だけの付き合いだったと思うけど、君は全部が気に入ってるんだ。もう離したくない」
ふと目の端にラブホテルのネオンが光ってるのが見えた。
荒木さんもそれを見た。
「泊まるか?}
「いえ、無理です」
僕は荒木さんから身体を離す。
酔っていたにしては理性的な判断だった。
一章終わり