箱の中の猫


 ごま塩髭は剃られていなかった。
棺の中に入れられる仏様はできるだけきれいに死に化粧されるのが普通だけど、この髭はHARUちゃんの個性のひとつと考えられたんだろうか。

 それまで感じていた憤りが、じわじわと粘液を垂らしながら解けていくような、不思議な感じを薫は感じていた。
発熱でもなく放射でもない。
これがHARUちゃんだったのか。ずっとあこがれてきて、愛してさえいた猫娘。
 祭壇前の焼香の壷からひと摘み取ると、薄く煙を上げている壷に振りかけた。
 箱の中で猫が泣いている。捨て猫が、拾ってほしいと涙を流してる。
ずっと以前に路上で見たのか、その映像が頭の隅から離れない。

 にゃあにゃあ、にゃあにゃあ……。
 それはHARUちゃんだったの?
 顔の部分の窓は開いていたから、薫がやろうとしていたことも、その気になればできる状況だった。
 生卵がひとつ。KAORUとHARUが並んで写っているCGの写真が一枚。薫の赤いショルダーバッグの中で、今か今かと出番を待っていた。


 《HARUちゃんが死んだんだって……みんな知ってる?》
 砂漠の球根みたいな敵にファイヤーブレードの一撃を加えているとき、薫のパソコンのモニター上に緑の文字が一瞬流れた。
 戦闘の最中でテロップがたくさん流れていたから、こんな大事な書き込みを危うく見落とすところだった。手ごわい敵で、こちらのHP (生命値)も五十を切っている瀕死の状態だったのだ。
 《むう? 死んだってどういうこと? 解約したって事?》
 同じリンクシェル仲間のMUUさんが、そのAOさんの書き込みに質問をぶつけた。
 HP(生命値)が無くなって戦闘不能になることも『死んだ』というが、そんなことは日常茶飯事で、わざわざ話題にするほどの事ではない。
 本当に解約したのだろうか。自分に黙って?
 薫の指がキーボード上でかすかに震えた。

《いや、リアルで死んだって事。HARUちゃんのキャラを使っていた人がね……》
 がつんと頭を殴られるような書き込みだ。冗談! そうに決まってる。でも、もし本当だったら……。
 《なんでAOさん知っているんだよ。冗談だろ》
 MUUさんも信じられないようだった。
 《ごめん、今パーティー中なんだ。詳しいことはあとで話すから》
 このオンラインゲームでは、サーバーでつながった個人個人が仲間を組んで冒険をするのが売りになっている。仲間を組むのをパーティーを組むという。
 仲間の手前あまり勝手な行動はできないのだ。
 そのパーティー中にも、同じリンクシェル仲間とはこうしてチャットで話ができるのだが、どうしても気が散って、統一的な行動ができなくなってしまう。
 でも、HARUちゃんが死んだなんて、絶対嘘だ。薫はモニター上の砂漠に吹き荒れる砂塵に思わず目を細めた。その拍子に涙が一粒、Tシャツの胸元を濡らした。

 親子三人の夕食は退屈だ。というか窮屈だ。
 母は学校の事を根掘り葉掘り聞きたがるし、今流行りのいじめなんかが横行していないか鋭い目つきで尋問してくる。
 さながら刑事ドラマの被疑者にでもなった気分で、ぬるくなったコーンポタージュを一口飲んだ。
 いつも夕食時の七時には帰っている父は、そんな尋問には加わらないが、その目つきに嫌な感触を漂わせている。
 ただ、その話題をここで出すようなことまではしない。そこまで非常識にはなれないということか。勇気が無いだけなのか。

「ねえ、グラフィックカードが古くなってきたから買い換えたいんだけど。FX5900XTくらいでいいんだけど」
 HARUの生死が心配で何も考えられない薫は、実はどうでもいい願い事を切り出した。
「ラデオン8500LEでも充分じゃないのか? 父さんがやってたときは画面もきれいだったけど」
 父がフォークを置いて口元をナプキンでぬぐった。
「あの頃とはエフェクトも変わって重くなってきたし、本当はできればCPUもアスロン64に変えたいくらいなんだ」
「アスロン64は無理だよ。まだ高すぎる。でも、5900XTだって結構するだろ」
「8500LEを売って5900の中古を探せば、手出し二万くらいかと思うんだけど」
「まあいいだろう。8500LEは父さんが使うよ。今度5900XTの中古を見てきてやる」
 どうしてどうでもいい願い事はすんなりかなうのだろうか。
 これも何とかの法則って奴だろうか。

 一週間前から考えていた計画だったが、今はHARUちゃんのことを少しでも忘れていたくて、そのためだけに切り出した話題だったのに。
「でも勉強のほうも、力いれてよね。今度の期末が下がっていたら、わかってるでしょうね」
 母親が釘をさしてきた。釘をさすのが商売みたいな母親だ。大工さんにでもなれば名人になれただろうに。


《それで、詳しい話なんだけどさ》
 AOさんの書き込みに周囲は静まり返っていた。
 皆、余計なテロップが出ないような、一人になれる場所に来てるみたいだった。
 KAORUは、いつもHARUと待ち合わせしていた巨木の木陰に一人で座っていた。すぐ側を小川がきらきらと流れている。
 現実以上にきれいな光景だと思った。

《実はHARUちゃんは、メジャーとはいえないけどそこそこ人気のある作家さんだったんだよ。もちろん男。というよりおじいさんだったんだ》
 まずその言葉が薫の心をローラーで踏みにじった。
 他のメンバーの反応はそれほどでもない。ネットでのゲームなんて、女性キャラクターでも九割は男がやってるのが現実だと知ってるからだろう。
 HARUちゃんの場合も、もしかしたらいやおそらく、と考えていたのだろう。
 でも薫は納得できなかった。HARUと一番親しかったし、ゲーム以外の相談事なんかも、ごくプライベートな相談に乗ってもらったりしていたくらいだったからだ。
《嘘だ。そんなわけが無い。HARUちゃんは男なんかじゃなかった。僕をいつも勇気付けてくれていたし ……大体どうしてAOさんがHARUちゃんのリアルを知ってるんだよ ……》
 そのあとは言葉にならなかった。キーボードを打つ指はきつく握り締められるだけだ。
《KAORU、気持ちはわかるよ。でもこれは事実なんだ。HARUさんは小さな小説教室を主催していて、俺はそこの生徒だったわけ。それで知ってるんだ。実はこのゲームに誘ったのも俺なんだから。ゲームのことはよく知らないみたいだったけど、冷静で博識で、歴史に美術に文学に、聞けばたいていの事は教えてくれたHARUさんだぜ。女子大生とは思えないじゃないか。ところでさ、ナガサキッズとしてはHARUさんの告別式に皆で参加しようと思うんだけど、どうかな》
 ナガサキッズというのはこのリンクシェルのグループ名だった。名前の通り、長崎市周辺に住んでいる人の集まりだ。

 AOさんの提案は、薫にはすごく残酷に思えた。
 あのHARUちゃんがおじいさんだったという事実だけでも、ノックアウトを食らいそうなくらいショックなのに、更にその顔を見に行こうだなんて。
《僕は嫌だ。そんなの詐欺だよ。女の子の振りして人の心を弄ぶなんて、死んだ人の悪口は言いたくないけど、二度とHARUちゃんの事なんか思い出したくない》
 怒りに震えるKAORUの書き込みが走る。
《KAORU、明日十二時に駅前高架広場だからな。目印に何か黄色いものを持ってくること。絶対来いよ。おまえの大好きだったHARUちゃんと最後のお別れなんだからな》
 そのテロップを読み終わるとすぐに薫はパソコンをシャットダウンさせた。
 絶対行くものか。猫の尻尾を揺らせながら立つHARUと戦士姿のKAORUを、夕日が赤く染めている、そんな壁に貼ったCGのポスターを見ていたら、涙で絵がゆがんできて何がなにやらわからなくなってきた。

「きみがKAORU君だね」
 熊みたいな顔がのぞきこんでいた。
 何がどうなっているのかわからない。初夏の熱気が歩道橋の階段を熱くして、階段の端に張ってある滑り止めの黒いゴムがぐにゃりと指に気持ち悪かった。
 あなたは誰ですか、と言おうとしても、口が動かない。ああ、うう、といううめき声を上げるのが精一杯だった。よだれが垂れるのを拭くこともできない、それが一番悲しかった。
 熊の仲間だろうか、背の高い緑のポロシャツの男と太目のオタク風の男が手伝ってくれて、薫はやっと階段を上ることができた。オタク風の男が丸々と太った指でしわくちゃなハンカチを出してよだれを拭いてくれた。
 周囲の好奇の目を無視して、熊男がポカリスエットを買ってきてくれた。
 オタク風の男は薄いウィンドブレーカーを脱いで、薫に日陰を作ってくれている。
「僕がAOだよ。そして、こっちがMUUさん、こっちがMARUさんだ。あと、RUBISさんがくる予定なんだけど……」
 どうしてAOさんは自分を見分ける事ができたのだろうかとか、薬をきちんと飲んでいたのに、なぜ発作が起こってしまったのだろうとか、今の薫には考えられなかった。
 てんかんの大発作が起こってしまうと、そのあとしばらくは何も考えられなくなるのだ。ひたすら眠くなるだけだった。
「心配しなくていいよ。君の病気の事はHARUさんから大体聞いている。自分がもう長くないみたいだから、代わりに相談に乗ってやってくれって頼まれてたんだ」
 薫には、そのAOさんの言葉も念仏と同じ事、意味のない言葉の羅列にしか聞こえなかった。
「でも、女子大生だと思ってたHARUちゃんがおじいさんで、生意気な男子高校生だって思ってたKAORUがこんなにかわいい女子高生とはね」
 MUUさんが思わず口走る。
 はっとした。外出するときはいつもミニスカートだった薫は、今日に限ってジーンズにTシャツだったことに感謝した。
 そうだった。自分も女なのにゲームの中では少年戦士で通していたのだ。
 HARUちゃんのことを憎む資格は無いかも知れない。
 ぼんやりとした頭でそれだけ考えた。周囲を裏切っていたのは自分も同じなのかな。日に焼けた熱いベンチにすわって、日光の強い照り返しを受けるのは不快だったけど、AOさんにもらったポカリスエットは美味しかった。
 胸がむかむかして気分が悪かったが、記憶が薄れてしまわないように、ここに来るまでの事を薫は懸命に思い出そうと努力した。

 最初は告別式になんかまったく興味はなかった。おじいさんのHARUちゃんなんか見たくなかったし、それまで築き上げた友情というか愛情が砕けてしまうだけだと思っていた。
 でも、だんだんと怒りが込み上げてきた。自分も性別を偽っていたけど、自分の場合、リアル女子高生だなんてわかったりしたら、ゲームの中でも関係ない連中がいろいろ寄ってきて落ち着いてゲームができなくなる恐れがあるからなのだ。
 不必要な手助けくらいならまだいいが、中にはストーカーみたいについて回ってしょっちゅう話し掛けてくる男までいる。
 KAORUがリアル男子高校生と偽ったのはむしろ当然の事だった。
 でも、HARUちゃんは許せないと思った。
 いい年したおじいさんなのに若い女性になりすましていたのだ。
 冷静に考えれば、それも別にたいしたことじゃないとも思えるのだが、薫の病気の性かイライラが昂じてむしゃくしゃしていた。

 翌日曜の朝七時におきた薫は、少し勉強した後、またオンラインゲームの中に入っていった。
 リンクシェルの仲間にいろいろ言われるのが嫌だったから、自分のリンクシェルをはずしてチャットができないようにした。
 しばらくレベル上げをしていたら、父の亨がノックをした後に入ってきた。
「どうだい、最近は、調子いい?」
 てんかん発作の事だ。
 薫はきつく下唇を噛むと、首を激しく振った。
「そんなこと、見てればわかるはずでしょ。いくら心配したってどうにもならないんだから、ほっといてよ」
 一般的にはあまり知られていないが、てんかんは不治の病だ。
 脳のどこか一部分にショートしたところがあって、たまたまそこを電気が走った時に発作が起こる。薫はそんな風に理解していた。
 百億もの細胞からなる脳のどこに、その病巣があるか調べるのは現代の医学でも困難なことであり、結局は発作を薬で押さえるしかなすすべは無いのだった。
 
 何か言いたげに息を吸い込んだ父は、それでも何も言わずにうんうんと頷きながら部屋を出て行った。
 薫は拳で机を何度もたたいた。何か言ったらいいのに。何だ、その言い方はとか、父親に向かってなんて事いうんだとか。
 これじゃあ、まるで自分が悪者みたいじゃないか。
 怒鳴られるよりも悲しげな目で見られる方が何倍も薫の気持ち傷つけた。
 どうにもならないとわかってる。それは、自分も、そして相手もだった。

 イライラがつのってきたので、引出しからリボトロールを取り出して1錠飲んだ。
 ペットボトルの蓋を開くときに中身がこぼれて、白いキーボードを濡らしたが、気にもとめなかった。
九百八十円の安物だ。別に壊れてもいい。
 もともとこのパソコンについていたキーボードは、とっくの昔に薫の機嫌を損ねて叩き壊されていた。
 時計を見ると九時を回っていた。
昨夜の話では十二時に駅前の高架広場だった。
 家からなら一時間あれば楽に行ける距離だ。
 薫はモニター上の砂漠を見つめながら、告別式に出席する自分を想像してみた。
 怒りとイライラで、壇上に飾ってあるHARUちゃんの写真を引き摺り下ろして振り回すかもしれない。         
棺の中のジジイのHARUちゃんに唾を吐きかけるかもしれない。
 今のこの気持ちのままで告別式に出席したとしたら、十分やりそうなことだった。
 壁に貼ってあるA四のCGのポスターに目を移す。そして、そのポスターを引き剥がすと、デイパックの中にしまいこみ、一階の冷蔵庫の中から生卵を一個取り出して、それもデイパックに中にそっと入れた。
 
 ちょっと出かけてくるからと母親に言って、自転車のカバーをはがす。
 母親が出てきて心配そうな目線を送るが、無視した。
「ちょっと待て。タイヤの空気を入れてやるから」
 父親が空気入れを持ってやってきた。父親も少し意外そうな顔をしていた。
 薫が日曜日に出かけるなんて、数ヶ月ぶりのことだった。
 てんかんの発作を止める薬は、その副作用として身体がだるくなったり、強い眠気が襲ってきたりするのだ。
 薫の場合も、休みの日の午後はほとんどが睡眠時間だった。
 眠気が強いのは何も休日に限ったことではない。学校でも同じ事だから、授業もろくに聞けない。当然成績は最低のラインをうろうろするだけだった。
 そんな薫が自転車で出かけようというのだから、両親ともに驚くのが当然だった。
「大丈夫か?もし何かあったら、すぐに携帯で知らせろよ」
 父親の声に振り向きもせずに坂を下り始めた。心配されるのは悪い気はしないが、それに甘えてしまう自分が嫌だった。

 長崎は坂だらけといって良いくらいに坂道が多い。自転車が最も少ない都道府県といわれるくらいだ。しばらく気持ちよく坂を下った後には、きつい上り坂が待っている。
 二十一段変速のギヤを最も低速にしてじわじわ上る。歩いたほうが早いくらいだ。
 そして、坂を登りきると、長崎港の見おろせる坂道を、旭大橋に向かって下り始めた。
 久しぶりに自転車で風を浴びて気分もよかった。ほとんどHARUじいさんを許してやってもいいくらいだった。
 棺の中には、二人の並んで写ったCGのポスターを入れてやろうかと思っていた。
 おじいさんのHARUちゃんか……いったいどんな顔してるんだろう。
 女らしくてかわいいミスラ(猫族)だったのに。
 回復系魔法が得意で、時々気分転換に戦士をやってたけどぜんぜん様になってなかったっけ。そういえばルールに疎かったり、結構ドン臭いところがあったけど、それは女の子だったからではなくてお年寄りだったからなのかもしれない。

 陽光きらめく旭大橋を下りきって、自転車をアミュプラザ脇のガードレールに鎖で止める。
 その時、うつむいた拍子に、何かグッとこみ上げてくる感覚があった。
 冗談でしょう。薬はちゃんと飲んでいる。発作が起こる心配は無いはずだった。
 もう半年近くも大発作は起こっていないのだ。
 高架広場に続く階段を上る時は、薫の足取りはすでに酔っ払いみたいになっていた。目の前がぐるぐる回っている。立ち止まって息を調えたほうが良いようだ。急に運動したからだ、きっと。
 少し休めば元気が出てくるはずだ。
 そんな想いが最後になってしまった。日光に照らされて熱気を放つ階段の角張って硬い感触すらまったく感じなかった。

「おんぶしなくて大丈夫?」
 MARUさんがポカリスエットを飲み終わった薫を覗き込んだ。
 丸いめがねの奥の小さな目が優しげだった。
 階段を下りるのは、上るよりもずっと危険だ。恥かしがらずにお願いすることにした。
 予想外のOKに、あ、いいんだなどと言われて得意げなMARUさんが、背中を向けてしゃがむ。汗でじんわり濡れたシャツに、薫は少しだけ嫌悪感を持った。
 子供の頃以来だな、とおんぶされながら階段を下りる薫は思った。
 無性に眠たい。なんだか父親におんぶされて散歩していた頃の事を思い出しながら、ゆらゆらと意識はさまよっていった。
 長崎港の波止場を父親におんぶされている夢をみた。
 黒い海に時折きらきらと照り返しがきれいな割りには、父親の声は沈んでいた。
 このまま飛び込んだら誰かに引っ張り上げられるかなあ。とか、俺もあと四十年。この子はその先どうすれば良いんだ? そんな言葉が浮かんできた。
 しかし、それが本当にその時聞いた言葉なのかどうかは、はっきりしない。たぶん薫の空想なのだろう。
 
 うとうとしたあと、次に気が付いたときは、規則正しい振動の中だった。
 列車に乗っているのだと、目を開ける前に気づいた。
 向かい合わせで四人がけの席の窓際にMARUさんのウィンドブレーカーをシーツ代わりにして薫は座っていた。目の前に熊のようなAOさんが、横にはMARUさん、そして斜め前にはMUUさんが座っていた。
 RUBISさんらしい人が、椅子の取っ手を持って通路に立っていた。
「お世話かけて……ごめんなさい」
 やっとうまく言葉を発することができた。
 薫の小さな声に、周囲の仲間たちは皆口々に気にするなとか、大丈夫だとか言ってくれた。
「実は俺、医者の卵の端くれなんだよ。だから、その、発作くらいはどうってこと無いんだよ」
 そんなの普通の事だと言わんばかりの感じでMUUさんが元気付けてくれる。
「救急車呼ばれなくてよかった。もう三回も乗ってるんです。大げさにならなくてよかった」
 うんうんとAOさんがうなずく。
「つい、一緒につれてきてしまったけど、気分はどう? 告別式出られそう?」
 AOさんにMUUさん。それにMARUさんの顔が同じように深刻な表情で薫を見詰める。
 なんだかおかしくなってしまった。
「大丈夫みたいです。あまりひどくなかったみたいだから」
 体を起こしてみた。深呼吸してみる。
 胸のむかつきはあまり感じなかった。手足のだるさも無い。
 これなら本当に大丈夫そうだ。だるさが無いということは、痙攣がひどくなかったということで、少しはデパケンが効いているからかもしれない。
「まだHARUさんのこと恨んでる?」
 MUUさんが聞いてきた。
「私はHARUちゃんと、なんて言ったら良いかな、仲間意識みたいなのを共有していたんです。HARUちゃんも体が弱くてあまり外に出歩けないって言っていたし、だから、私は自分の病気の事も話して、一緒にがんばろうって話してたんです」
 それだけしか言えなかった。
 親にも、病院の先生にも言えないような事をHARUちゃんには相談していたのだ。
 いじめの事とか、生理中に発作を起こして大恥かいたこととか。そんなことは相手が同性だと思っていなければ言えない事だった。
少年剣士のキャラクターだけど、リアル女子高生というのは早い段階にHARUちゃんにだけは打ち明けていた。
 そうしたらHARUちゃんもリアル看護婦の卵って答えてくれたのだ。
 看護大学に通っていると。
 
《今日ひどい目に会ったんだよ》
 洞窟の中で蝙蝠を二人で狩りながら、KAORUがチャットでHARUに話し掛けた。
《え?なに。どうしたの、彼氏にふられた?》
《月並みな想像だね、HARUちゃんにしては……》
《じゃあ、どうしたの》
 蝙蝠を狩る手が止まり、HARUがKAORUに向き合って『応援』のポーズをした。
《駅で発作起こしちゃったんだ。もう少しで階段から転げ落ちるところだった。救急車呼ばれてもう大変。脳出血疑いでCT撮られたりしたんだけど、服全部脱がされて検査着着せられてたんだよ。しかも生理中だったからかオムツさせられてて、はずかしいったら無いよ》
《ぎゃはは、それは可愛そうだったね。笑ってごめん。でも薬サボってたんでしょ》
《だって、あれ飲んでたら眠くて眠くて、特に午後の授業はまったく覚えてないくらいなんだよ。このままじゃ落第だもん、少しくらい薬減らさないと》
《でも、それはお医者さんに相談しないと駄目だよ。まあ、今回はいい教訓ということで、今度から先生に相談することだね》
 並んで座っていたHARUがすっくと立ち上がると、横を飛んでいた蝙蝠に、自慢のブーメランを放った。

 そういえばあんなこと言っちゃったんだった。今思い出して薫は顔から火が出る思いだ。
 反応は普通だったけど、本当は男のHARUちゃんはどんな風に感じたんだろう。
 男といってもおじいさんだから大して感じることも無いのかもしれないが。
 それでも、薫にとって恥かしいことには変わりが無い。
 それを考えると、どうしても裏切られた気分になってしまうのだ。
 女同士という気安さからの相談だったのに、実は男性だったのだから。
 
 列車は順調に進んで、最寄の駅に近づいてきた。
「一人で歩ける?」
 MUUさんが医者の本領を発揮してか、薫に手を貸そうとするのを、横からMARUさんが身体を入れてきた。
 RUBISさんがひゅうと口笛を吹く。
「マルちゃん、一目ぼれみたいだね」
 そんなMUUさんとRUBISさんのやり取りもMARUさんは気にならないようだ。
 約三十分の休憩で薫の身体はほとんど回復していた。
 やはりデパケンを欠かさず飲んでいるのが効いているのか、強い痙攣はなかったようなのだ。
「大丈夫。歩けますから」
 MARUさんに右側をサポートしてもらいながら、車内の通路を歩く。
 駅の構内は時間的に閑散としていた。田舎の駅という感じだった。
 古いポスターが色あせたまま誰にも見向きもされないで張ってある。
 みゃあ、という猫の鳴き声を聞いた。
 ダンボール箱が置いてあり、その中に子猫が一匹うずくまっていた。
 捨て猫? こんなところに?
 捨て猫は薫に気づくと懸命に自己アピールを始めた。
 三日もミルクを飲んでないんだよ。拾ってください。助けてください。
 私の命のともし火は今にも消えかけてるんです。
 子猫は薫に脅迫的な願いを強いていた。
「どうしたの?」
 立ち止まった薫を、AOさんが首をかしげて覗き込んだ。
「子猫が、そこに」
 ダンボールを指差す。
「まだ混乱してるんだろう。幻覚だよ。子猫なんていないよ。あれはただのダンボールだ」
 MUUさんが冷静な声で言う。
 自分でも半分は気づいてる。発作のあとの幻覚だというのは。
 でも、薫はそのダンボールの側によると、中にいた三毛猫を抱え上げた。
 普通の人にはどう見えてるんだろう。何もない空間を両手ですくったように見えてるのかもしれない。
 おいで。これから私の猫にしてあげる。いつも一緒だよ。
 子猫は満足そうに薫の胸元でのどを鳴らした。

 五人は二台のタクシーに分乗して、駅からタクシーで十五分ほど走ったところにある斎場に向かった。
 タクシーがカーブを曲がるたびに、軽い吐き気を感じながら、薫はまたHARUとのことを思い出していた。
 HARUちゃんが同性だと思ったから、あの忌まわしい事件だって打ち明けたんだった。

《昨日公園で倒れちゃったんだ》
 誰にも知られたくないことだけど、誰かに話してしまいたくて書き込んだ。
 でもそれから先がなかなか書けなかった。
 痺れを切らしたHARUがKAORUの周りを一週まわって『応援』のポーズをとった。
 公園の噴水の側で、周囲には冒険のパートナー探しをしているキャラクターがあふれている。
 しかし彼らには、そして他のチャット仲間にさえもKAORUとHARUの会話は聴くことができないようになっている。不特定多数へ発するのとは別の会話形式なのだった。
《中間テストの時期だからね。勉強のし過ぎだったんじゃないの》とHARU。
《そうだと思うけど》
 すぐにKAORUの書き込みが続いた。
《学校帰りに、近道しようとしてね、公園を突っ切っていたの。枯葉をぱりぱり踏みながら階段下るのは気分よかったんだよ》
 HARUはだまってKAORUの言葉を待った。
《でも、急にむかつきがこみ上げてきて、ベンチに座って休もうとした所までは憶えてるんだけど》
 それから長い間、書き込みが途絶えた。ひょっとしたらパソコンがフリーズしてるんじゃないかとHARUが考え出したとき、緑の文字が現れた。
《パンツ脱がされてたの》
《公園の茂みの奥に寝かされてた。スカートとパンツ履いてなくて、下半身丸出し。いたずらされたんだけど、どこまでされたのかもわからないの》
《あきれた、ひどい……つらかったね。可愛そうに、そいつ、殺してやりたいよ。意識なくして倒れてる女子高生にいたずらするなんて、最低のやつだよ》
 さっきまでうろうろしたり『応援』したりしていたHARUのキャラクターが、動きを止めて立ち尽くしていた。
《でも、下手したら殺人罪にもなりかねないようなこと、普通しないよね。KAORUの持病を知ってたやつが犯人じゃないの》
 犯人は誰かなんて考えもしなかった。
誰がやったにしても、やられた自分の汚辱は一生消えないのだ。
《もうどうでも良いって感じ。今ビルの屋上にいたら空間に足を踏み出すのに何の抵抗も感じないと思う》
 KAORUが立ち上がり、町の北門の方へ走り出した。
《待ってよ、どこ行くのよ》
 すぐにHARUが追う。
 北門から外に出た。わき目もふらずに真っ直ぐ走っていくKAORU。
 敵のカラス人間が横からちょっかいを出してきた。
 KAORUのダメージ表示が続くが、KAORUは一切反撃しない。
 今のKAORUのレベルに対してまだ敵が弱いから、KAORUのHPはほんの少しずつしか落ちていかない。
 それでも確実に死に向かっていく。二三四、二二三、二一一、一九八……。
《KAORU死んだら駄目だよ。諦めたら駄目だよ。死ぬときは一緒だからね》
 HARUの書き込み。そのあとHARUは近くにいた別のからす男に魔法攻撃を加えた。
 どういうつもり? 私を助けてくれるんじゃないの魔法で。不思議に思ってたら、すぐに納得できた。
 一撃したあと、HARUはKAORUの横でKAORUと同じように無抵抗のままカラス男の攻撃を受けるだけなのだ。
 HPはゆっくりゆっくり落ちていく。ここでの死は単に戦闘不能になって減点されることでしかない。それなのに現実の死のように薫には思えていた。
 ここでKAORUが死んだら、パソコン落として手首を切ろうかな。そんな考えがふと浮かんだ。
 夢のない将来はもういらない。
こんな病気を持っていたら、免許も資格もほとんどとる事ができないし、まともな就職口があるとも思えない。
 一五八、一四〇、一三三、一二二……
 薫は机の引出しから黄色いカッターナイフを取り出した。
 敵の攻撃がヒットするごとに一クリックづつナイフの刃を押し出す。
 生命値は減りつづける。所々に錆のある灰色のカッターナイフの刃が少しずつ伸びていく。
 ときおり通りがかりの赤の他人が親切心で回復魔法をかけてくれるが、二人がまったく動かないことに諦めてやがて去っていく。
 戦っているキャラクターに回復魔法を与えることはできても、その敵キャラを攻撃することはできない仕組みになっているのだ。
 戦う意思の無いキャラクターは、どうやっても助けようがない。
 弱い敵キャラの攻撃とはいえ、まったく反撃しないでいたらHPがとうとう五十をきってしまった。HARUも同じ状態だ。
 別に付き合ってくれなくても良いのに。
 これに付き合ってくれるということは、リアル自殺にも付き合ってくれるんだろうか。    
それとも、必死になって止めるだけかしら。
 箱の中の子猫がニャアニャアと助けを求めている。もう三日もミルクを飲んでないんだよと。
 四八、三九、二七……。

 今思い出しても、あのときの自分は本当に自殺しかねなかった。
 そうならなかったのはなぜだったろう。
 HPがゼロに近づいたとき、いきなり強力な回復魔法が二人を包んだ。
 見回してみたら、AOさんがいた。
《だいじょうぶ? フリーズでもしたの?》
 AOさんたちのキャラクターの顔が順番に浮かんできた。いっしょに厳しい冒険をしてきた仲間の顔だった。
 HARUちゃんだけじゃない。ほかにも大切な仲間が自分にはたくさんいるんだ。
 自分を守ってくれて、励ましてくれて、叱咤してくれる仲間たちが。
 そう思ったとたん、薫の中に戦う意思が少しだけ生れた。
 じゃりっと剣を抜くと、カラス男を三発でしとめた。

 そうして生きる事に決めた後は、HARUちゃんがいろいろ世話を焼いてくれた。
 まず病院を世話してくれた。実は自分も厄介になったことがあるんだよ。女医さんだから安心だよ。それでも結構恥かしいけどね。
 あたしが手配しておくから。明日いって来なさいよ。
 言われた通りにした。恥かしい格好をさせられて奥まで見られた結果、指でいたずらされただけで、犯されてはいないらしいということだった。
 生き続けることにどれだけ意味があるかはわからない。
 特に自分みたいな障害を持った人間にとって、つらいだけの人生かもしれない。
 でも、こうしてやさしく包んでくれる人たちもいるのだ。
 
 丘の上にある斎場は質素な造りの感じのいい建物だった。
 上田博夫告別式、と小さく掲げてあった。
 時計を見ると二時を少し回ったところだ。
一時から始まった告別式は、ちょうど読経が終わった頃だった。焼香の為の列が三列できていた。
 薫たちはAOさんを先頭に五人がひとつの列に並んだ。
 目の前の壁に、上田博夫氏の写真が貼られてあった。性格の優しそうな顎の細いおじいさんだった。HARUちゃんとイメージを重ねてみるがどうしてもうまく重ならなかった。
 
 あの時も、話をしたのはこのおじいさんだったのか……。
 自殺騒ぎの後、しばらくしてからHARUちゃんに聞かれたのだ。
《KAORUの得意なことって何? もちろんリアルで》
 いきなり聞かれても返事に困る。
学校の成績は、がんばってやっと中くらいになったところだし、スポーツも絵画も得意なものはない。
 でもそういえばひとつだけ、得意というか好きなことがあった。
《得意かどうかはわからないけど、歌うのは好きだよ。よく一人でカラオケBOXで発散してるし、友達といったときはすごくうまいって言われるよ》
 ちょっと自慢したくてそう書いてみた。
《そうか、それなら歌手なんていいじゃない。あれなら何の資格も要らないよ》
 何だ、その話か。ちょっとがっかりした。
HARUちゃんにまでそんな心配をしてほしくない。
《KAORUの歌が聞きたいな》
《大概のことはできるけど、歌を聞かせることはここではできないよ》
《今度ホームページ作るから、そこにMP三で投稿してくれればいいよ》
 なるほど、よく思いつくな。
《それで、リクエストはあるの? あたし、大概の歌は歌えるよ。かなりうまくね》
《ジャニス‐イアンの『十七歳の頃』がいいな。知ってるよね》
 かなり古い歌だ。しかし、CMやテレビドラマでかかることもあるから、なんとなく知っていた。
《わかった。こんどCD買って練習しておくから》

 しかし、CDを買って、その歌詞を見たときHARUちゃんの意図がさっぱりわからなくなった。『十七歳の頃』は暗い歌だった。
メロディは気に入ったけど詩の内容は、十七歳になった少女が世間の法則を知って絶望するような、そんな詩だったのだ。
『ミスコンテストで入賞するようなきれいな子やかわいい子達は、かっこいい男の子たちにパーティーに誘われて華やかな青春を謳歌してるけど、みすぼらしい私なんかは家でお誘いの電話があったら、なんてどきどきしながら想像してるだけ……』
 まるで私のことじゃない。これって皮肉なの?
 今、このおじいさんのHARUちゃんを見たら、やっぱり何か意味があったはずだと思えてきた。
 どういう意味だろう。健康で何の病気にもかかっていなくても、こうして悩みをみんな持ってるんだよって言いたかったのだろうか。
 ちょっと陳腐な気もするけど……。
 
 薫の前の列がどんどん短くなり、先にAOさんが焼香を始めた。
 何の実だっけ。うしろから見ると焼香する姿って、実を食べてるように見えるんだよね。
 キリスト教か何かで、お葬式のときにパンを配って食べる習慣があるってテレビで見た後、初めてお葬式で焼香の列に加わったとき、てっきりあれは実を食べてるんだって思ったことがあったっけ。すんでのところで、額にかざしてるだけだというのがわかったけど、食べてたら面白かっただろうな。伝説になったりして。
 薫の番になった。
 棺の中で、ごま塩髭のHARUがうっすらと笑顔を浮かべていた。
 怒りはまだある。男性に対して話すようなことじゃないことをたくさん話してしまった。自分の女性性をさらけ出して。まるでパンツ脱いで股を開いて見せてるようなもんだった。
 バッグの中の生卵を取り出した。こいつをあのにやけたHARUじいにお見舞いしてやろうか。壇上に飾られた大きなHARUちゃんの写真を見上げる。
 その笑顔は、悩むことが人生なんだよって言っているように見えた。

 棺の中で猫が泣いている。にゃあにゃあ。捨て猫はいつまでたっても捨て猫だ。
 私の事だと今思った。誰も拾ってくれない私の事だ。
 ダンボールの外が怖くて一人では出ることもできずに、泣くことしかできない私のことだ。
 でも、今日から私は捨て猫じゃなくなる。
なぜなら仲間がいるからだ。箱から飛び出して野良猫になってやるから。
 生卵を棺の中の花束に紛れ込ませた。そして二人の写ったポスターをHARUの胸元におくと、薫は深く息を吸い込んだ。
 
 I learned the truth at seventeen.……
 (私が本当の事を知ったのは、十七歳のときでした。)

 ジャニス‐イアンの『十七歳の頃』だ。始めのほうは低音で少し聞き取りにくい。
 でもしっかり聞いてねHARUちゃん。リクエストに答えてあげるよ。
 焼香のときにいきなり歌いだすなんて、なにやってるんだと止められるかと思ったけど、不思議と誰にも止められなかった。
 ざわめいていた斎場内が次第に静まり返り、薫の澄んだ歌声だけがその沈黙の世界を支配していた。




                         箱の中の猫 おわり







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