同窓会の夜


 知った顔が見当たらなくて退屈していたときに、いきなり背中から声をかけられて振り向いた僕の前には初恋の人が立っていた。
 二十年ぶりだが名前もしっかり覚えている。しかしとっさの事に言葉が出てこなかった。
「あら、私のこと忘れてしまいました?」
 福田……久美は右手に赤ワインのグラスを持って昔と変わらない笑顔を僕に見せてくれた。整った顔立ちは二十代後半でも通用するくらいだ。鼻筋は通っているが少し上を向いた鼻と、厚めの唇が昔は可愛さのポイントだったが、今ではずっと色っぽい部分に変わっている。
「もちろん憶えてますよ。福田さんでしたよね。あ、でも今は名前が変わってるはずか」
 当然結婚しているだろう、そう思い直して付け加える。
「実は今も福田なんですよ、いろいろあって」
 二十年の月日を一瞬思い出すように彼女はうつむき、目を上げた。
 潤んだ彼女の瞳と、酔って赤くなった頬を見ているうちに、立食パーティーの会場の喧騒は遠のき、中学時代の記憶が呼び覚まされる。

 現代みたいに携帯電話もメールも無い時代だ。愛の告白は直接言うかラブレターを渡す事以外に選択肢は無かった。
 僕はその日、朝方までかかかって書いた手紙を持って彼女が部室から出てくるのをじっと待っていた。
 その頃久美は女子バレーボール部のキャプテンをしているくらいに快活で人望も厚い女の子だった。自分が知っている中でも三人の男子が告白して玉砕していた。
 どうせ自分も駄目だ。成績も外見も取り立てて目立つものは無いし、クラブ活動もしていない自分に彼女が興味を持つわけは無い。
 そう思って半年以上気持ちを押さえつけていたのに、抑えられた心はその反作用でか、さらに増して彼女に対する愛情を強めていったのだ。
 玉砕した三人はそれなりに男前の奴らだったし、ここで自分が振られたからといって何も恥じる事は無い。そう自分に言い聞かせて必死の思いで手紙を書いたのだった。
 文面すら憶えているのが不思議というより滑稽に思えた。
 
「何か料理を取ってきましょうか」
 彼女がテーブルの上の皿を持ち上げて部屋の端に並んだ料理の方を向いた。彼女のワンピースの裾がふわりと揺れる
「あ、自分でしますよ」
 テーブルの上の別の皿を取ると、僕達は二人で列に並んだ。
 彼女は白身魚のムニエルとサラダを、僕はミートローフをふた切れとレタスを数枚取ってきた。
 テーブルに戻り彼女にワインを継ぎ足してやる。
「あんまり飲ませないでくださいよ、最近弱くなっちゃったんだから」
 二十年という歳月はでこぼこの砂利道もアスファルト舗装にしてしまうのだろうか。
 なんだか随分打ち解けて話している気がする。
「そういえば貴方のほうは結婚してらっしゃるのでしょう、お子さんは?」
 ワインを一口飲んだ彼女が口元をハンカチで抑えながら尋ねてくる。
「いやあ、実はまだ独身なんですよ。仕事が忙しくてなかなか……」
 独身なのは本当だったが、別に仕事とは関係ない。単にもてないだけだが、まさか正直に言うこともないだろう。
 お宅は? と聞こうか迷ったが、何やら事情があるようだったから触れないでおいた。
 宴もたけなわになり、応援団だった連中がステージでこれからのみんなの活躍を鼓舞するためにと団長が声を張り上げだした。
 とたんにうるさくなったので彼女との会話も中断せざるをえない。
 僕は再び昔の思い出に舞い戻る。

 バレーボール部の部室が二十メートルほど先に見える校庭で僕は彼女を待っていた。
 一人でこっちに歩いてきてくれますようにと、それだけを祈って。
 確率的にかなり低いのはわかっていた。彼女は友達も多いし後輩の取り巻きも多い。
 しかし、だからといって諦めてばかりではいつまでたっても手紙を渡す事なんかできないだろう。近くにあった水道の蛇口をひねって冷たい水を顔にかける。そして鉄錆びの味のする水を一口飲んで、久美の出てくるのを待った。
 まもなくシャワーを浴びたばかりの、湿った髪の久美が制服に着替えて出てくるはずだ。
 数人の部員が先に出てきた。あー練習きつかったーとか、じゃあまた明日ねーとか言って僕の前を通り過ぎていった。
 誰も僕の存在を気にとめたりしない。僕も彼女達の目に止まらないようにグラウンドでまだやっていたサッカー部の練習を見てる振りをしていた。
 横目で見たときについに久美が出てくるのを見つけた。
 背の高い彼女はまだ髪をタオルで拭きながらこっちに歩いてくる。
 幸い周囲に人影は無かった。千歳一隅のチャンスといってよかった。
 正面から見つめる僕に、久美もやっと気づいたようだ。
 怪訝な表情で歩いてくる。
「いつも早く帰る帰宅部の沢渡君、今日はまたどうしたの」
 クラブをしない男を軽蔑するような口調だったが、その時の僕にはまったく気にする余裕も無かった。
 用意していた手紙を彼女に突き出して、少し見上げながら読んで下さいと言うのが精一杯だった。
 そのときの彼女の表情は今も忘れない。ちょっと小首をかしげて目を細めた。
 どうして自分がこんな奴にラブレターを貰わないといけないのだ? そんな言葉が言外にあふれ出るような顔つきだった。
 そして僕が朝方までかかって仕上げた手紙は彼女の二本の指で摘み上げられて横の茂みの中に落とされた。
 久美はそのまま何も言わずに歩いていったのだ。
 僕はそのとき生まれて初めて目の前が暗くなるほどの絶望というものを体験した。
 その僕に、後から来たバレー部の一年生が同情したのか、久美先輩は脇山さんが好きみたいですよと教えてくれた。脇山と言うのは学年でもトップレベルの秀才で、名門高校にも楽に進学できるだろうと噂されるくらいの奴だった。外見は自分と大して変わらないのに、中身は大違いだ。実際兄弟みたいに似てるのになあと揶揄される事も多かったのだ。

 脇山はその後、確かにその名門高校に進んで東京の有名国立大の法学部に行ったらしいと聞いていた。今は弁護士をしているはずだ。忙しいのだろう、今日は来ていなかった。
 応援団の一連の演舞も終わり解散の乾杯を教頭先生が高らかに叫んだ。
 百人近い人間が唱和して、その夜の同窓会はお開きになった。

 そしてその三十分後、僕と久美は少し離れた場所にあるバーのボックス席で二人きりで飲んでいる。ここには久美に誘われてやってきた。何か相談事でもある雰囲気だった。
 ゆるいジャズの流れる薄暗いバーは間接照明の明かりが上手く使われていて雰囲気がよかった。それにボックス席は周囲からあまり見えないように観葉植物などで囲われている。
「実は離婚訴訟で困ってるんです」
 久美はやっと本題に入ってきた。
 どうせ相手が養育費の支払いなどを渋っているなんて話だろう。
「まあ、せっかく二人っきりになれた事だし、その話はあとでいいじゃない。今日はゆっくりできるんだろう」
 隣に座った久美の太ももに手をやる。彼女は嫌がる風でもなく僕に身体を預けてきた。
 中学の頃は自分より随分背の高かった彼女も、大人になった今は僕のほうが少しだけど高くなっていた。
「今日は随分優しいんですね」
 甘える声はあまり似合わないな、そんな事を思いながら彼女を見る。
 上目遣いの彼女はそのまま話を続ける。
「だって、あんなひどい振られ方したの初めてだったんですもの。それまでは振る側だったのに」
「そんな事もあったかな。でも僕はあの頃は勉強以外目に入らなかったんだ」
 適当に話をあわせる。高校時代の話だろう。中学のときそんな噂は聞いたことがなかったから。
「そうかもしれないけど。まあいいわ。でも今日はその穴埋めしてもらいますからね」
「わかったよ。一晩中お相手いたしますよ」
 僕は彼女の目の中に燃える炎を見た。
 欲求不満も大分溜まっているみたいだ。
 こっちもたっぷり楽しませてもらうとしよう。
 中学時代に味合わされた苦い屈辱を晴らすチャンスがこんな風に巡ってくるなんて、人生も案外捨てたものじゃないかもしれないな。

「脇山さん、水割りのお代わりいかがですか?」
 久美が片手でグラスを持ち、別の手で僕の股間を撫でながら言った。
「ありがとう。でも酒はこの辺で止めておくよ。今夜は長い夜になりそうだから」
 僕は言った後久美を抱き寄せて唇を合わせた。
 お互いの熱い舌は二匹の蛇のように絡まりあっていった。


                           同窓会の夜  了