どこかで声が
城谷詠都
どこかで声が……聞こえたような気がした。
人間は死んだら無になるんじゃなかったのか?
僕は父親にも母親にも、学校の先生にもそう教わったけど、もしかしてそれって嘘だったわけ?
いや、嘘といってしまうのは無理か。彼らは死んだことなかったわけだしな。
霊魂ってあるんだなと、そんな風に僕が思ったのは、自分の死に顔を見下ろしている今だった。
僕はいじめを苦に自殺してしまったわけだけど、死んだ自分の顔を見下ろしていると、なんだかばかばかしい理由で死んだもんだなと、今更ながら少し後悔してしまった。
死ぬ勇気があるんだったら、僕に嫌がらせをしていた連中に一発喰らわしてもよかったんだよね。
そうするのが男じゃないか、なんて思ったりするがもう遅い。さすがに遅すぎる。
霊魂になってまで復讐するような気持ちにもならなかった。
身体の苦痛から開放された今は、清々しさの極致とでもいうくらいのものだから。
肉体から遮断された状態っていうのは想像したこともなかったけど、大富豪が最高級の高層マンションの高価なソファでくつろいでいる以上に快適なのだ。
しかし、と思った。
じゃあ、僕って何のためにここにいるのだろう。復讐する気もないんじゃ、この世に未練なんてあるわけがない。さっさと、天国だか地獄だかに行くことにした方がいいのではないのか?
そう思ってみたが、残念、道筋が分からない。
仕方ない。天国はどっちかわかんないけど、とにかく上にいけばいいんだろう。どうすればいいのかな。
空を飛んだことはないから、感覚が分からない。
でも、何となく上を意識してみたら、足元の床の感触が離れて、視線が上から目線になっていった。
音もなく、上昇気流その物になってふわりと舞い上がる。重さがない霊魂ならではの動きだな。
窓の方を意識すると、僕の身体はガラス板をすり抜けて、暗い空間に浮かび上がった。
街灯に照らされた中を、自分が風船になったみたいにゆっくりのぼっていく。風船と違うのは、風に流されることがないことだった。空気抵抗というものがない所為だな。
僕の住んでいた古い一戸建ての屋根が遠ざかっていく。
そういえば、両親には悪いことをしたな。
ひどく悲しませることをしてしまった。
でも、それは今だから気づくことで、死ぬ寸前には自分の苦しみしか感じれなかった。
それだけ追い詰められていたんだろう。
許してとはいえないけど、理解してほしいな。
向かいのマンションの白い壁沿いに上っていると、誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。
そういえば、意識がなくなる瞬間だったか、声を聞いたような気がした。
その時と同じ人の声なのかもしれない。
耳をすますと、ママ、ママと切なげな声がマンションの最上階の一室から微かに聞こえる。
聞こえるって言うのは変かな。
大体僕にはもう肉体がないんだから、音を感じる耳という器官は無いんだ。
ちょっとその辺の仕組みがどうなってるのかは、僕は学者じゃないから知らないけど、感覚的には聞こえるというのがもっとも近かった。
声のする部屋の窓をすり抜けて中に入ってみると、散らかった部屋の中に幼児が二人いた。
三歳くらいの女の子と、一歳になるかどうかの赤ん坊だった。
ママ、ママと呼んでいるのは、三歳の女の子で、その子は食卓の椅子に乗ってインターホンのボタンを押しながら呼んでいるのだった。
そして、もう一人の人影がそこには居た。
その人は一見しただけで普通じゃないのが分かった。
その男、多分40代くらいだと思うけど、その身体は後ろが透けて見えるのだ。
半透明人間。
ひょっとしたら、と思って聞いてみた。
「ええと、どうなってるんですか?」
あなたも幽霊なんですかと聞きたい所だったけど、それよりもこの子たちの事も気になったので、そんな風に聞いてみる。
「まいったよ。さっさと天国に行きたいところなんだけど、この子たちが気になってしょうがないんだ」
ということは、この男もやはり霊魂なのだろう。
「この子たちは? どうなってるんですか」
いきなり現れて、そう聞く僕のことを、男は特に不審にも思わない様子で素直に答えた。
「親に捨てられたのかな? もう三日間、こんな状態なんだ」
ってことは、この男は三日間ここに留まったままってことか。
「ママはどこにいるんですかね」
「知らんよ」
「じゃあ、パパは?」
「父親はいないみたいだ」
「この子たちのご飯とかは?」
「買い置きのお菓子とかを食べてたみたいだけど、もう無くなってしまった」
「ひでえな」
「まったく」
霊魂でもため息はつけるようだ。男は絶望感をそれに込めて深く息を吐いた。
インターホンに向かって呼んでいた女の子が、椅子から降りて弟の所へ行った。
弟の方は泣きつかれたのか、ソファに寝転んだまま動かない。
女の子は、その弟の頭をなで始めた。
ねんねんころりよおころりよ・・・・・・女の子の悲しい歌声が小さく聞こえた。
しばらくすると、弟がぐずり始めた。お腹へってるんだろうな。力なく泣き始める。
女の子は立ち上がると、キッチンに向かう。
どうするのか見ていると、哺乳瓶に水道水をいれ始めた。
自分も一口飲んだあと、吸い口をはめて弟の口元に持っていく。
弟はそれを一生懸命吸っている。
「昨日からこんな状態なんだよ。水しか飲んでない」
半透明の男はうすぼんやりしたその顔に苦痛の表情を目一杯表してそう言った。
「そんな、このままじゃヤバいじゃないですか、どうかしないと」
「どうにかしてやりたいのは山々なんだよ。だから私もここにいるんだ、でも私たち幽霊にはどうすること
もできないって、この三日間で知らされたんだ」
まったく頼りにならない幽霊男だ。
親を呼んでこれないのなら、警察にでも知らせてやればいいじゃないか。
それを言うと、
「もちろん、そうしようとしたんだよ。でも、無理だった。私はもう諦める。見てらんない、後は君に任せるよ」
そう言うと、男の身体が少し浮き上がった。
「ちょっと待ってよ。そんな無責任な」
「だいたい私に責任なんてないよ。天国に行く前に悲しいもの見ちゃったな。じゃあ後はよろしく」
男の身体がずんずん浮き上がっていく。
頭が天井に消えた。
待ってくれよと言って男の足をつかもうとしたが、僕の腕は彼の足をつかむことは出来なかった。
なにもない空間をつかんだだけだった。
男の胴体が天井に消えて、やがては足先まで天井に吸い込まれて行った。
子供たちの方に目を戻すと、弟は水を飲んで少し落ち着いたのか泣き止んでいた。
もう食料は何もないのだろうか。
そうだ、冷蔵庫は?
僕はキッチンに行くと、黄色い冷蔵庫をあけようとした。
が、だめだった。
取っ手を握ることができないのだ。
僕が悪戦苦闘をしていると、女の子がやってきた。僕の後ろから僕の身体を突き抜けて手を伸ばし、冷蔵庫をあけた。
女の子と重なりながら、冷蔵庫の中を覗くと、中は見事に空っぽ。隅っこに一個だけマーガリンが入っていた。
女の子はそれを取り出すと、蓋をあけて箱の中に小さな人差し指を突っ込んで周囲に残っている微かな残りを小さな爪でこそぎとった。
それをしばらく見つめた後、口に入れようとして止めた。
女の子はそのまま弟の所に戻ると、人差し指を弟の口元に持っていった。
弟は一生懸命それに吸い付いている。
そうだ、冷凍庫の方は何か入ってないのかな。
開けてみたくても手が使えないのではどうしようもない。
でも、僕はガラス戸を通り抜ける事が出来たのだった。もしかしたら・・・・・・。
僕は冷蔵庫に顔を近づけた。
そして、そのまま顔を冷凍庫の扉に押し付けていく。一瞬目の前が真っ暗になって、その後冷凍庫の中が見え始めた。
見えるって言うのもちょっと違うか。僕にはもう目という器官がないんだから。
言ってみれば心の眼で見ているわけだ。だから真っ暗なはずの冷凍庫の中でも見えている、というか分かるわけだ。
そこには冷凍食品がいくつかまだ残っていた。
お弁当用の6個入りハンバーグと、餃子があった。
これだよ、僕は思わず大声をあげたが、僕の声が部屋の空気をふるわせることはない。
僕には口という器官がないからだ。
もちろん、子供たちにも聞こえない。
しかし、何とかして冷凍庫のハンバーグを女の子に教えてやりたい。
僕は半分無駄と分かってはいたが、力なく座っている女の子の耳元に口を寄せて大声で叫んだ。
冷凍庫の中にまだ食べ物があるぞ!
まったく期待していなかったのに、意外なことに女の子はふと顔をあげた。
え? 聞こえたのか?
自分でも不思議だったけど、声にならない僕の声が女の子にちょっとだけ届いたみたいだった。
「だれ?」
女の子のか弱い声が部屋の空気を微かにふるわせる。
「冷凍庫! 冷蔵庫の二階だよ!」
その子の耳元に、力一杯、僕は声をはりあげた。
しばらくキョロキョロとまわりを見ていた女の子が立ち上がった。
ふらつきながらインターホンの所の椅子に上がり、ボタンを押してママ? ママ? と叫んだ。
無言のインターホンに向かって叫ぶ女の子が痛々しくて見ていられない。
違うんだ。冷凍庫だよ、冷凍庫!
一瞬女の子の叫び声が止んだ隙に僕が耳元で念じると、その子はふと首を傾げた。
きょろきょろと周囲を見回した後、乗っていた椅子を降りて、それをキッチンまで引きずっていく。
冷蔵庫の前に置いた椅子に乗って、女の子が背を伸ばす。
なかなか手が届かなかったが、何度か背伸びを繰り返すうちに指先が取っ手に引っかかって、やっと冷凍庫の扉が開いた。
その拍子に中にあった冷凍食品のハンバーグが滑り落ちてきた。
よし、いいぞ。僕はワールドカップで日本が点数を入れたとき以上の強さで叫んだ。
わ、ダメだ。そのまま食べたらダメだよ。レンジでちん!ちん!
僕の叫びを理解したのか、女の子は再び椅子をずらして、電子レンジの中に冷凍ハンバーグを入れた。
親のするのを見ていたのか、レンジのボタンは正しく押せたみたいだ。
袋のまま入れられた冷凍食品は、レンジの中でパンパンに膨らんできた。
やがてチンという、なんとも爽やかな音がした。
物音に目が覚めたのか、弟が再び泣き出した。
女の子は、ハンバーグを電子レンジから取り出すと、弟の方に走った。
袋を破いて、プラスティックのトレーを引き出す。
まだ熱いぞ、ふーふーして。
今度は僕の言葉は聞こえなかったようだ。
あちっと言う女のこの手から茶色い肉の塊が絨毯の上に落ちた。
恐る恐るそれを拾うと、口元に持っていってふうふうし始めた。
ところで、弟の方はハンバーグ食べれるのかな?
一歳くらいって普通、ミルクだけ?
いや、離乳食はもう食べてるころだよな。
僕がそんな心配をしているうちに、女の子はハンバーグを半分にして弟の口元に持っていった。
痩せこけた弟の口がハンバーグを噛み始める。弟の目に涙が滲んでいた。
後の半分を女の子も頬張った。
そして女の子は声をあげて泣き始める。
少しほっとしたのかもしれない。今までは泣く余裕もなかったんだろうな。
「だれ?」
女の子の声が部屋の中に響いた。
冷凍ハンバーグをいくつか食べて落ち着いた所だった。
「僕は幽霊だよ。このマンションの前の家で死んで、天国に行く途中」
女の子はキョロキョロしながらも、僕の声が聞こえたようだった。姿は見えないけど声は聞こえるのだろう。
「ママは?」
僕に聞かれても困るんだけど、女の子にしてみれば、今頼れるのは僕だけだからしかたがないかもしれない。
「ママはいつからいないの?」
僕の方から聞いてみた。
「日曜日におでかけして、帰ってこないの」
女の子がポツンと言った。
今日は金曜日だ。なんてことだ、この子たちのママはもう五日も二人をほっぽり出したままってことか。
何か、事故でも起きたんだろうか。
とにかく、警察に知らせないと。
僕はとにかく交番に行くことにした。
女の子に一言、助けを読んで来ると言い残してマンションの窓から飛び出る。
薄暗い街灯に照らされたアスファルトを見下ろしながら、ここから一番近い交番に向かって風船みたいに進んだ。
見上げると、意味もなく黄色い秋の満月が綺麗だった。
桜の樹が何本か植えてあるだけの小さな公園の側の派出所に、僕はふんわりとたどり着いた。
入り口の奥のデスクで若い制服警官が一人、パソコンに向かってキーボードを操作していた。
とりあえずその警官の横に立つと、耳元で大声をあげてみる。
何の反応もなかった。警官の肩とか腕をつかんだりひっぱたりなぐったりしてみたが、予想通り物理的な刺激は全然与えることができない様だった。
さっきの女の子には僕の声が聞こえたのに。
あの子は特別霊感が強い子だったのかもしれない。
二人の幼児の命がかかってるのに、そう思って焦る僕の前で、その若い警官は鼻毛を抜きながらモニターに向かって半分口を開いている。
ムカッとするが仕方がない。
やはり幽霊には人助けなんて無理なんだろうか。
さっき部屋に居た幽霊の男も、この三日間さんざん努力したと言っていたし。
僕も諦めてさっさと天国に行った方がいいのかもしれない。
と思ったのは一瞬だった。すぐに否定する気持ちが湧き上がる。
あの無責任な男でさえ三日粘ったのだ。このまま諦めるなんて、まだまだ諦めるのが早すぎる。
何か方法がないかな。
そうだ。ふと思いついてデスクの上に置いてあった鉛筆に意識を集中してみた。
鉛筆を握る事はできないが、念力とかで字を書けないかな。それができれば問題はあっという間に解決なんだけど。
一心不乱に鉛筆を動かそうと念を送ってみたが、やはりそう簡単にはいかなかった。
吹けば飛ぶくらいに軽い鉛筆が、まるで10キロのバーベルのようにびくともしない。
この方法は無理の様だ。
そりゃそうだよな。幽霊が文字を書けるなんてことになったら、ミステリー作家は書くことが無くなって
しまう。
他の方法はどういうのがあるだろう。
声もあげられず物理的にも何もできない。この状況で他にできる事って、はたしてあるのだろうか。
生きてるときから頭の方はあんまり自信があるわけではなかったが、今更ながらに自分のバカさが嫌になる。漫画でもアニメでも小説でもいいけど、その主人公ならこういうときに何か閃いてささっと問題を解決するものだ。
あーもういやになる。
ふと天井を仰いだ僕の目に、重ねて言うけど僕にはもう目はないから、僕の意識の中にと言った方がいいか。その意識の中に黒い点がひっかかった。
それは薄暗い壁にピタリと張り付いた小さな蜘蛛だった。蝿取り蜘蛛だ。
ぴょんぴょん跳ねるようにして移動する姿がユーモラスで、本来蜘蛛は嫌いな僕だけど割と好きな昆虫だった。いや、蜘蛛は昆虫だったっけ? 違ったような気もするが、この際問題はそこじゃない。
もしかしたらと、ふと思いついたのだ。
僕は壁にしがみついている蝿取り蜘蛛に近寄った。
僕の視界の中で壁の黒い点だったものが徐々に大きくなり30センチくらいまでに近づいた。
僕はそのままどんどん近づいて蜘蛛の中に入るようにしてみた。
突然、僕のまわりの世界が色を変えた。
四方八方の景色が一気に頭に流れ込んでくる。奇妙な感覚だった。
手足がたくさんあるような気もするが、足がこんがらがることもなく、動こうと思った方向には動くこと
ができた。僕は蝿取り蜘蛛に乗り移ったのだ。
もしかしたら虫にくらい乗り移れそうな気がしたのだ。何かそういう話、漫画かなんかで読んだ気もするし。
今まで感じてなかった現実感と言うかリアルな世界が僕を興奮させる。
これであの子たちを救えるかもしれない。
僕は壁をするする降りていき、床をぴょんぴょん跳ねてスチールデスクの脚をよじ登った。
感覚的には100メートル以上の断崖絶壁をよじ登るわけだけど、体は軽いし全然危ない感じはしなかった。
さっき居た幽霊男は虫に乗り移れるかなんて試してみなかっただろうな。
やれば出きるじゃん俺って、すこし優越感を感じる。
デスクの端からじわじわ進みながら、しかし高揚した僕の気持ちは少しずつ冷めてきた。
ええと、蜘蛛じゃあ喋れないわけだから声をかけることもできないし、鉛筆も持てないから字を書くこともできない。さて、ではどうやって警官に知らせるか?
考えていても埒があかないことは考える意味がない。
僕はとりあえずパソコン脇に積んである台帳の上にぴょんと乗ってみた。
おおっと言う声をあげて大げさに若い警官はのけぞった。
びっくりしたーとか言ってるんだろうけど、声を声として聞くことができなかった。
空気の振動が感じられるだけだ。
一瞬叩き潰されるんじゃないかと怖くなったが、この警官はそういう奴じゃなかったようだ。
鉛筆の先で僕の後ろをとんとんと叩く。
追っ払う気のようだ。
思わずその鉛筆を避けるように身体が動いて10センチほど横に移動した。
でも、このまま追っ払われてしまうと意味がない。
なんとかして子供たちの危機を伝えなければ。
でも、どうやって伝えればいいんだ?
身振り手振りと言うのも無理があるし。
また追い立てられてデスクの端に跳んだときにでっかい壁が立ちふさがるように見えた。
真っ黒い壁。
パソコンのモニターだった。
そうだ。パソコンという手があった。
キーボード。
僕は逆方向に何度か跳んでクリーム色のキーボードの上に乗っかった。
イラついた警官に乱暴な行動をおこさせるのではないかとヒヤヒヤしたが、データ入力に飽きていた
のか蜘蛛との追っかけっ子を楽しんでいる様子だ。
そろそろと追いかけてくる鉛筆を無視して、僕はMのキーの上に陣取った。
しばらく待ってから今度はAのキーの上にいく。
こうやって、マンション904SOSという文字列を警官に知らせるつもりだった。
なかなかいいアイデアだ。この近くに九階建て以上のマンションはあのマンションしかないんだから。
しかし、アイデアはよかったんだけどうまくいかなかった。
はなから僕の乗ったキーボードの文字に意味があるなんて考えていない警官もだめだったが、肝心の僕がキーボード上の文字を探すのに手間取って、自分でもこんがらがってしまったのだ。
キーボードなんて盲打ちできるくらいに扱い慣れているものだったのに、乗ったことはなかったからな。 結局、警官に息を吹きかけられてキーボードから吹き飛ばされてしまった。
ふわりとした床に立ってみると、それはティッシュペーパーだ。
すっと持ち上げられて、交番の外にふり落とされた。
交番の戸板がピシャッとしまる。
ちぇ、失敗だったか。
でも、虫に乗り移れるというのがわかったのは収穫だ。
別の虫に乗り移ったり、他の方法で何とかなる気がする。
やっぱり、蝿取り蜘蛛じゃどうしようもないよな。
さて、じゃあこの蜘蛛さんの身体とさよならしようか、一瞬、この蜘蛛の身体からどうやって出るんだろうとヒヤヒヤしたが、案外簡単に抜け出ることができた。
自分の意識を別のところに向けて、身体を動かさずにそっちに行こうと強く思うことで、ガムテープを
剥がすような変な抵抗感とともに僕の心は宙に浮いたのだ。
僕の支配から逃れられた蝿取り蜘蛛は、しばらくジッとたたずんでいたが、すぐに気を取り直したのか
植え込みの陰に跳んで行った。
あの子たちはどうしてるだろう。蜘蛛が無事に植え込みの陰に隠れたのを確認した後、僕は一旦マンションの部屋に戻ってみることにした。
途中で自分の家の前に救急車が止まっているのが見えた。
帰ってきた母親に発見されたんだろうな。取り乱す両親の顔が思い浮かんで、憂鬱な気分になる。
思えば悪いことしたな。自殺した後の事なんて考える余裕なかったからな。
死ねばすべてが無になると思っていたし。
こんな風に死んでも続きがあるなんて思ってもいなかった。
僕は担架で運ばれる自分の姿を見ないように意識を背けてマンションに戻った。
女の子はソファで弟を抱くようにして寝ていた。
お弁当ハンバーグを食べて一息ついたのか、寝顔にも安堵感が表れている。
僕は女の子に聞くのは諦めて、この家の主、母親の名前を調べることにした。
とりあえず、名前と顔を知らなければ探しようがない。
名前は案外簡単にわかった。
壁にかかった透明の郵便物入れの一番表側に電気料金の領収書の封筒が入っていたのだ。
よし、名前は確認した。あとは写真か何かで顔を確認したいところだ。
女の子達が寝ているリビングをくまなく見渡してみたが、写真立てとかそういうものはなかった。
その部屋を出て奥の寝室に行ってみる。
そういえばこの部屋にはいるのは初めてだった。
女の子の言葉で、母親は出かけているものと思っていたから、他の部屋を探すなんて考えてもいなかったのだ。しかし、実は寝室で母親は心臓麻痺で死んでいた、とか。
そういうことはなかった。
散らかった部屋の真ん中にあるダブルベッドの上にはクシャクシャになったシーツと毛布、それと脱ぎ捨てられた部屋着のジャージがのっていた。
そうだ。
あの子たちは部屋の外にでれないんだろうか。
出られるのなら助けを呼ぶのは簡単なはずだ。
寝室を抜け出して玄関に行ってみる。
玄関のドアは上下に鍵が二つあり、それが二つともに鍵がかかっていた。
女の子の背丈では、椅子を持ってきたとしても上の方の鍵は開けられないだろう。
いや、そうかな?
椅子に乗って手を伸ばせば、あの子でも届きそうなんだけどな。
不思議に思いながら二人のいるリビングダイニングに戻るときにわかった。
僕はドアをすり抜けていたから気づかなかったが、リビングダイニングのドアが開かないようになっているのだった。閂のようなもので外から閉められているのだ。
普通のマンションの部屋はこんな鍵ついていないはずだから、ここの母親が子供が無闇に出て行かないように後付けしたのだろう。
リビングダイニングに戻ると、ソファで二人は寝息を立てていた。
この子たちが自力で脱出できないのなら、やはり助けを呼ぶしかない。
とりあえず母親を探すべきだろうけど、名前はわかったがまだ顔がわからない。
それに、考えてみれば顔がわかったところで、どこをどう探せばいいのだろうか。
職場も交友関係もわからない人間を人に尋ねる事もせずに見つけ出すというのは至難の技だ。
ふと、さっきの交番を思い出した。
ひょっとしたら地域の住民のデータとか交番にあるんじゃないかな?
頼りないアイデアだと自分でも思ったけど、僕は再び風船のようにさっきの派出所の前に舞い降りた。
表から覗く薄暗い派出所の中は無人だった。
奥の方からテレビの音声が聞こえてくるから、住居を兼ねた奥の間に引っ込んでるんだろう。
住民台帳とか、それっぽいデータがないかスチールの本棚を眺めるが、見当たらなかった。
最近はそういうのはパソコンだろうからな。
パソコンを見ると、スリープ状態なのか、本体の小さなランプだけ点灯していて画面は真っ暗だった。
真っ黒のモニターに見入る。どうにかして起動できないものか。
しかし、物理的にスイッチを押せない僕にはどうすることもできなかった。
いや、スイッチを押すのは物理的なことだけど、それは電気的に通電させるためのものだろ。
どこかのトランジスタか何かを電気的に通電させることはできないだろうか。
僕はパソコン本体の中に意識を集中してみた。
マザーボード(基盤)の配線が地平線まで続くハイウェイみたいに拡大され、僕はその中に吸い込まれる。 一瞬恐怖を感じた後、僕の意識は両側に無数の部屋のある、先の見えない長い廊下の中にいた。
無機質な金属のドアが延々と並んでいる。
ドアには細かい文字でたくさんの文字が刻まれていた。
これって、パソコンの内部ということか。僕の意識が入ったのは、今度はCPU? あるいはハードディスクのなか?
蝿取り蜘蛛の中に入れたのは、何となく理解できる。同じ生き物だし。
しかし、パソコンの中には入れるなんて思いもしなかった。やってみるもんだな。
しかし、膨大なデータの中からあの子たちの母親を探すのは大変だな。
一つ一つ部屋を開けてみるしかないんだろうか。
僕は母親の名前を意識してみた。
その瞬間、廊下に浮遊していた僕は突風に煽られるように移動し始めた。
両側のドアが残像を残しながら僕の後ろに飛びすぎていく。
そして次の瞬間、僕は止まっていた。
目の前のドアを見てみると、ドアに刻まれた文字の中に母親の名前を見つけることができた。
その部屋に入ってみると、三方の壁は床から天井まで本棚にびっしりと、緑の背表紙のファイルが並んでいた。
普通なら、ここから目的のファイルを探し出すことだけでも一苦労するはずだけど、魂だけの存在の僕
には難しいことじゃなかった。
周囲に意識を拡散させて、見るともなく名前を思い浮かべると、目的のファイルの場所がわかってしまったのだ。魂って便利。
意外な形で目的のデータを得た僕は、再びマンションの部屋に戻った。
何日かぶりで食事にあり付いた子供達は、安心したのかすっかり眠りこけていた。
子供達も眠っているし、母親の勤務先はわかったけど夜中に行っても意味がないから、朝まで僕は子供達の無心な寝顔を眺めて居るだけだった。
時間だけが僕の前を通り過ぎる。できれば僕も眠ってしまいたかったが、死んだら眠れないのだと、その時わかった。
壁にかかったアニメ柄の時計をじっと眺める。秒針は生きていた時とおんなじ速さで回って居る。
しかし、と考えてみた。
時間を感じるのは、心なのか、身体なのか。
それは身体で感じるものじゃないだろうか。心臓の鼓動。
鼓動は早くなったり遅くなったりするから、基準にはならないだろうけど、鼓動を感じるという事がすな
はち時間を感じるということじゃないか?
そうすると、すでに死んでいる僕には、時間に束縛されるいわれは無いんじゃないだろうか。
僕は二人の寝息だけがする静かな部屋の中で、掛け時計の秒針に集中した。
秒針の動きが速くなった。視線を女の子に向けると、小さな胸が小刻みに上下しているのが見えた。
本当に時間が早く進んでいるのだ。
ちょっと、いやすごく驚いた。
マンションから出て、幹線道路上に漂ってみる。
ビルの十階くらいの高さから見下ろす四車線道路では、深夜だというのに多くのクルマがまるでF1並のスピードで通りすぎていく。
ビデオの早回し状態だ。東の空に目をやると、真っ暗だったその部分がじんわりと明るくなってくるのがわかった。
目覚めた女の子に、僕は最初にベランダに出れないか聞いてみることにしていた。
紙に書いたSOSをそこから投げれば、下を通る誰かが見つけてくれるはずだ。
そう、これなら女の子にも出きるだろうし、もしベランダに出れないように鍵がかかっていたとしても、そんなものはガラスを割ってしまえばどうということは無い。
子供たちを助けることができる。
これまでずっと胸の中でもやもや渦巻いていたのが、すっきり晴れ渡った感じだ。
女の子の目が覚めた。時計は六時を少しすぎたところだった。
何かを探すみたいにきょろきょろしている女の子に、僕は声をかける。
『聞こえるかい?』
耳元でそう呼びかける僕に、女の子は振り向いてくれなかった。
彼女の方も、僕を探しているみたいで、耳をすましているようなのに、こっちの声が届かない。
『ねえ、聞こえないの?』
これまで以上に、大声というか、強い意識で声をかけてみるが、やっぱり聞こえないようだ。
「お兄ちゃん? 居ないの?」
心細そうに彼女はそう言って涙ぐんだ。
昨夜は届いた僕の声が今は届かない。
これはどういうことだろうか。その答えが、僕には何となくわかるような気がした。
昨夜の女の子は、飢餓状態で死に瀕していた。意識も朦朧だった。
あの世にかなり近いところに居たのだ。だから僕の声が聞こえたんだろう。
今は、女の子も弟も久しぶりの食事ができて飢餓状態を抜け出して居るから聞こえないのだ。たぶん。
二人のことは心配だけど、とりあえず置いておいて母親を探すことにしよう。
この子たちの母親は、まだ23歳という若さの看護師だった。
勤務先は、僕もかかったことがあるし、ひょっとしたら今現在も死んだ僕の身体が安置してあるかもしれない、この界隈ではもっとも大きな総合病院だった。
しかし、一週間も子供をほっぽり出して、仕事しているとは思えないよな。
いや、でももし無断欠勤が一週間も続けば、職場の人が連絡取りそうだし、もしかして倒れてるかもしれないからと自宅を訪問することだって普通あるんじゃないか?
となると、事故とか失踪とかで母親がいなくなったわけではない可能性が高い。
信じられないことだけど、あの子たちの母親は......。
この先は考えたく無かった。世の中には無責任な親とか暴力や虐待があふれているのは知っているけど、今まで僕のまわりにはいなかったし、親というのはこの世で唯一絶対信用できる存在だと、僕はこれから先も思っていたいからだ。
こうして考えると、僕の両親はいい親だったんだろう。ごく普通のありふれた両親だと思っていたけど、
テレビのホームドラマなんかで普通の親が、実は一番いい親だといえるのかもしれない。
その両親に、僕は最低の裏切りをしてしまった。自殺というのは、生んでくれた親に対する最悪の行為だから。
沈み込んでいきそうな気持ちを、何とか引き起こして、僕は総合病院に向かった。
北区総合病院は、朝も早い内から混んでいた。受付の前のベンチは、お年寄りの列が何列もできている。
赤ん坊の鳴き声がうるさいのは、きっと小児科の受付だろう。今にも死にそうな声で泣き叫ぶ赤ん坊をまだ若い母親が必死になだめている。
ここに連れてこられる子供たちは幸せだな。
診察室の前で、注射されるんじゃないかと不安そうな顔をした幼稚園児をみて、何だかふっと心が軽くなった。
とにかく、あの子たちの母親を探さないと。
そうは言っても、本当にここに居るのかは半信半疑だった。
無断欠勤していれば、マンションの方に誰かが尋ねるとかあるだろうけど、ひょっとしたら休暇を取って
失踪したのかもしれないし。
子供を二人もほっぽり出して、むしろその方がまだ理解できるというものだ。
そんなことを思いながら意識を広げていって、母親の名前を探す。
身体から抜け出た僕には、生きているときにはできなかった事が、不思議な事に自然に出きるようになっていた。空を飛ぶこともそうだし、視点を拡散していって広い視界というかデータを収集できるのだ。
僕も既に死んでから一日以上。死んでることに慣れてきたのかもしれない。
その名前の名札をつけた看護師は、三階の詰め所に居るのを感じた。
そちらの方に意識を集中させる。
ストレッチャーが楽にすれ違えるくらいに広く取られた廊下にはさまれた場所に、三階詰所はあった。
胸の高さのカウンターに囲まれた3メートル四方くらいの詰所には、いくつかのデスクの上にパソコンが並んで、モニター上にはスクリーンセーバーのテキストが踊っていた。
各部所の連携強化月間......というのは今月の目標かな。
そして、その看護師はパソコンに向かって何かを入力して居た。まともに仕事をしている。
世界七大不思議テレビなんか目じゃないくらいに愕然としてしまった。
一体全体、この母親はどうしてしまったのだろうか。 子供たちのことを記憶喪失したのか?
理解できない映像だった。人違いだろうか。それならすごくいいのだけど。
観た感じでは二人の子供がいるようにはとても見えなかった。
長い髪を結んでアップにしているから、それでもまだ年長に見えるんだろうけど、普段着の格好なら大学受験生と間違われてもおかしくないだろう。
予備校の前なんか歩いていたら絶対そうだと思われる。
色白で繊細な顔つき。顎が細く、目元もはっきりしていて、一言でいってしまえば美人だった。
ピンクの制服に身を包んだ身体つきは、腰がキュンと括れている。
満員電車に乗れば絶対痴漢に会うタイプだと思った。
その女の名前を呼ぶ声がした。
その方に向き直る彼女は、308号の点滴を確認してきてという相手の依頼に、にっこり微笑んではい、
と返事をした。
その表情の中には二人の子供たちを死に追いやっている苦悩も、精神的な崩壊も見えなかった。
やっぱり、人違いなんだろう。同姓同名の人は、この世の中にたくさん居るのだし。
病室で点滴のチャックをしている彼女の前から消えようとしたけど、真正面から見た彼女の目元が、三才の女の子と似ているのに僕は気づいた。
まさか。僕の気持ちが不安になる。理解できない現実が目の前に展開される予感。
おい、あんた。子供はどうしたんだよ。二人の子供たちは。あんた、子供を助けてくれよ。
僕は女の耳元に立って有らん限りの大声で叫んだ。
でも、僕の声は空気を震わせない。物理的に世界とつながってないんだからしかたがない。
そんなことはわかってるけど、叫ばずには居られなかった。
ふと女が、何かを感じたみたいにこっちを振り向いた。
一瞬僕を見たのかと思って、こっちがたじろいでしまった。眼があった気がした。
聞こえたのだろうか。心の声が心の耳で。
軽く眉の間にシワがよって、女の目の奥に恐怖の表情が垣間見えた。
やはり、この女で間違いないとその瞬間僕は思った。
心の奥に気がかりなものを持っているのは確かだった。
僕は再び叫んだ。子供が死にそうだぞと。助けてくれと。
めまいでもしたかの様に、女は少し首を振っただけでパソコンに向き直った。
まだ間に合うのに。
今、家に帰ればまだ二人の子供は助けられる。人殺しにならずにすむんだぞ。
テレビのアフタヌーンニュースワイドで晒し者にならずに済むんだぞ。
2ちゃんねるでいじめられずに済むんだぞ!
焦る僕の前で、女は黙々と通常業務をこなしていった。
あの子たちは大丈夫だろうか。今度は気持ちがそっちに向いてしまう。
でも、昨日少し食べたから、まだ今日中に死ぬことはないはずだ。
あれで、多分二日は命がつながったはずだ。
僕は、あの子たちのマンションに帰りたいのを我慢して、女の行動を見守っていた。
子供たちが気がかりなのはあるけど、でも、悲惨な子供たちを見たくないという気持ちもある。
そのための言訳というのもあるだろう。
僕は意識を緩めて時間を早送りした。
ずいぶんコツが分かってきた。一瞬、未来にタイムトラベルみたいに感じるけど、要するに寝てるときに
時間が早く過ぎ去るように感じるのと同じことなのだ。
自分の中のデータ処理時間が早くなれば、相対的に時間は遅くなるし、処理速度を遅くすれば、時間は早く進む。生きてるときは、肉体の、というか脳のデータ処理速度は、寝てるとき以外は一定レベルで大きく変えられないけど、脳の能力に左右されない今では、それをかなり自由に設定できるということだ。
ビデオの早送りの様な周囲の様子が、不意に普通レベルの早さに戻る。
終業時間がきたのだった。
ロッカールームは二階にあった。女はカードキーをかざしてロックを解くと、その中に入っていった。
入り口の脇に鏡と手洗い所があって、靴箱、そして奥には灰色のロッカーがたくさん並んでいる。
ロッカーっていえば灰色って相場が決まってるな。赤やピンクやイエローは見たことがない。
ロッカーとロッカーの間の狭い隙間で、女は着替え始める。
そこには他にも数人の女が着替えをしていた。
薄い下着から伸びたスラリとした太股が、いくつも並んでいるのを見たけど、死んでる今では心もときめかない。ちょっとドキッとしたのは、単なる条件反射の様だ。
やっぱり、身体がないとエッチな気持ちも沸かないのだな、と寂しい気持ちになった。
考えてみれば、霊になった今なら、アイドルやかわいい女の子の着替えシーンも入浴シーンも見放題なのに、その事実を想像しても、全然心がときめかない。
死んでから、初めて霊ってつまんないなと感じた。
最後にカチャリとロッカーの鍵をかけた彼女は、さっきまでの看護師の恰好からスレンダーで今風な若い女に変身してロッカールームを出ていった。
他の同僚にかける、お疲れ様の声も張りのあるいい声だった。
さて、この女はこれからどこに帰るんだろう。
女の斜め後ろに浮かんで、僕はずっとついていく。
彼女は裏口から外に出ると、職員向けだろう奥の方の駐車場に向かった。
赤いビッツに乗り込むと、スムーズに車を出していった。
大通りの赤信号で止まったビッツに僕は滑り込む。 助手席に座り彼女の横顔を覗き込んだ。
眉間のしわが、気がかりなことを想像しているのを感じさせるが、ハンドルを持つ手は、マンションの方向とは全然別な方向に車を向かわせた。
僕はもう女に問いかける気力もなくして、彼女のすることを見ているだけだった。
子供たちのことは気がかりだが、まだもう少し時間はあるはずだった。
病院を出てから30分が過ぎた。車は大通りをそれて住宅街に入っている。
そして、住宅街の奥にある二階建てのアパートの駐車場に、車は入っていった。
バッグを片手に女が車から降りた。僕は女の斜め後ろに浮かんで着いていく。
階段を上がる彼女の下側に下がって、下からスカートの中を覗き見た。
薄いピンクのストッキングに包まれた太股が、黄色いしましまのショーツに吸い込まれるところまで見えたが、やっぱり特に感じることもなかった。
生きているときの、疼くような性の渇望が全然感じられない。
欲望がない存在に何か意味があるのだろうか、と不思議に思ってしまう。
しかし、今の僕に何の欲もないというのは間違いだ。ひとつだけあるから。
その欲求のために僕は存在しているのかもしれない。
そう、あの子たちを助けたいと思う気持ちのことだ。
女は二階の廊下を端まで進むと、バッグから鍵を取り出してそれを鍵穴に差し込んだ。
でも、あの子たちを助けたいと願うこの思いは、一体どこからくるんだろう。あの子たちが助かったとしても、死んでいる僕の境遇が変わるわけでもないし、このままでは地獄いきだけど、あの子たちを助けたら天国にいけるとか、そんな条件付けられた覚えはないし、助けたいと思う気持ちには、最初からそんな打算は含まれていなかった。
助けたいと思うのは、群れを作って生活する動物の、根源的な欲求なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、女は部屋に入り、その後話し声が聞こえてきた。
僕も急いでドアをすり抜けて部屋に入ってみた。
部屋の中には若い男が居た。腹減ったよ、何か作ってくれと、女に言っている。
男の年齢は、女と同じくらいか、少し上に見えた。
今風のイケメン。そのイケメンが、冷蔵庫を開けている女の尻を触った。
「汗かいてるから汚いよ」
そう言いながらも女はあまり嫌そうじゃない。
クスクスと嬉しそうな笑い声まで聞こえた。
やっぱり人違いなんじゃないかと、何度目かの疑問符が僕の心を満たしていく。
そうだよなあ。二人の子供をマンションに置き去りにして、男といちゃいちゃなんて、普通できないよ。
この女がそうだとしたら、既に6日放置された子供が、どういう状態なのか、少しくらい想像できるはずだろう。飢えと渇きに苦しんで生死をさまよっている我が子の姿を少しでも思い描くことができたなら、今すぐマンションに戻るはずだ。
「どれどれ、どれくらい汗かいてるか調べてやるぞ」
男の両手が女のスカートの中に入っていく。
あん、と女の甘えるような声が聞こえて、女のショーツがずりおろされた。
うわーべとべとじゃん。いやだあ。
まるでアダルトビデオでも見てるような展開が、僕の目の前で繰り広げられていく。
このままここにいても仕方ない気がしてきた。
この女が本当にあの子たちの母親なのかもはっきりしないし、仮にそうだとしても、僕の呼びかけにまったく反応ないのだから。
母親かもしれない女の居場所も分かったから、とりあえず子供たちのところに戻るか。
生きているときだったら、絶対興奮状態で見守るような展開から目を逸らすと、僕は天井をすり抜けて上空に飛び出した。
マンションに戻ってみると、まず弟の泣き声が聞こえてきた。お腹減らしているのだろう。
女の子がコップに水道水を汲んで、弟の口元に持っていく。弟は少し飲んだけど、すぐにいやいやをするように首を振った。水がこぼれて、カーペットに流れた。
『僕の声、聞こえないかい?』
女の子の耳元で、僕は力一杯大声を出した。
ピクンと女の子が反応した。キョロキョロとまわりを見回した。
「だれ?お兄ちゃん?」
昨日よりも精神的に疲弊しているから、聞こえたんだろうか。
『そう。よかった聞こえたね』
「ママ、まだ帰ってこないよ」
女の子はそう言って泣き出した。
弟と、女の子の泣き声が部屋に響く。
部屋の中は二人の悲しい声で渦巻いているのに、この悲痛な声はどこにも届かない。誰も二人を助けに来てくれない。この子たちを助けられるのは僕だけなのだ。胸の中が熱くなった。死んでから初めて熱を感じた瞬間だった。
『よく聞いて。窓を開けてベランダに出るんだ。開かなかったらガラス割ってもいいから』
「ガラス割ったらママに怒られるよ」
『大丈夫。絶対大丈夫だから。そして、助けてって書いた紙を投げるんだ』
「字かけない」
そうだったか。まだ小学校にも入る前だから仕方ない。
『じゃあ、字は書かなくていい。そうだジュースの瓶でも何でもいいや。とにかくベランダから物を落とすんだ』
ベランダの下は駐車場になっている。
そこに上の階からゴミが落とされたら、管理人が気づいて注意しにくるだろう。
助けてって書いた紙を落とすよりも、ガラス瓶なんかの方が下にいる人間には、むしろ気づかれやすいかもしれない。
外は暗くなってきているが、まだ人通りがある時間だ。駐車場にも車の出入りがあるはずだ。
『分かった。やってみる』
女の子が立ち上がる。
ふらふらと力ない足取りでキッチン横にいき、ビール瓶を一本持ち上げた。
リビングを抜けてベランダに出るガラス窓を開いた。
なんだ、窓開くじゃないか。
しかし、ベランダの手すりの壁が高く、そのままでは女の子の手が届かなかった。
『椅子を持っておいで、それに乗って落とすんだ』
再び女の子が部屋に戻って、インターホンのところの丸いパイプ椅子を持ってきた。
よし、いいぞ。これで二人は助かるはずだ。
ずっと鬱々していた気持ちがすっと軽くなった。
女の子たちは助かり、僕は気分も晴れやかに天国に向かえるはずだった。
しかし、そうはならなかった。90パーセントはうまくいったと思う。残りの10パーセントが最悪だったのだ。ベランダに置いた椅子に、女の子が上がる。
瓶を持った手がふるえたのか、下に落とそうとしてバランスを崩したのだ。
あっと、声をあげる暇もなく、女の子の身体はベランダの柵を越えた。一瞬後には下の駐車場の方から、パサリと妙に乾いた音が小さく聞こえてきた。
同時に聞こえたガラス瓶の割れる音の方が、よほど大きく聞こえたほど。
一人の女の子の命の火が消えたというのに、そっちの音は悲しいくらいに小さかった。
すぐに僕は下に降りて頭から血を流している女の子のそばに行った。
悲鳴が聞こえて、周囲に人が集まってきた。
女の子の身体から、その霊魂がゆっくりと滲み出るように現れてきた。
僕が見ている前で、女の子の霊は呆然と自分の身体を見下ろしていたが、すぐに、ママと叫んで空中に舞い上がった。
おい、待ってくれ。僕も急いで後を追う。方向はさっきまで僕が居たマンションの方だった。
この子はママの居場所を知っていたのか? 母親に連れられて一緒に行ったことがあったのだろうか。
ちょっとそうは考えられないけど。
薄暗いベッドルームにはその女が裸で横たわっていた。
だるい表情ということは、さっきまで男と抱き合って居たのだろう。
その相手の男がシャワーから出て頭をタオルで擦っている。
女の子の霊は裸の女に抱きつくようにくっつくと、強く叫ぶ。
ママ、ママという心の叫びは静まり返った部屋の中に洪水のように響くが、男は何の反応もない。
無駄だよと女の子に言おうとしたとき、母親がピクンと動いた。
「今、私の事呼んだ?」
女の言葉に、男が首を振った。
「何も言ってないけど?」
「ママって聞こえたんだけど」
「何言ってるんだよ、呼ぶにしてもママじゃないだろ」
おかしそうに男が笑った。
「そうよね。空耳だよね」
母親も口元をゆるめて笑おうとしたけど、その表情が凍った。
「そこ、何か居るよ」
部屋の隅を指差して刺々しい声をあげた。
いきなりの事に、男もどう反応していいのかわからないのだろう。
一瞬戸惑った後、女のそばに来てしっかりしろと肩を揺すった。
『そっちじゃないよ。ここだよ、ママ』
男の反対側から女の子が叫んだ。
「え? このは? うそ......どうして。くるみも?」
つぶやくように言う女の言葉で、やっと二人の名前がわかった。
女の子がこのはで、弟がくるみというんだろう。
反応があったのが嬉しかったのか、女の子はさらに情熱的に母親に呼びかけながらまとわりつく。
「いや。来ないで」
裸のまま立ち上がった女は、半狂乱で手を振り回しだした。
「おい。どうしたんだよ。しっかりしろ」
男が彼女の後ろから抱きついて静めようとした。
すると、女がいきなり泣き出した。
「子供……死んじゃったのかも。そうだよね。当然そうなるよね」
「子供? なに言ってるんだよ。子供居るの?」
男は彼女が二人の子持だとは知らなかったのだろうか。戸惑った表情で疑問符を連発した。
そうしている間も、女の子は母親に取り付いては名前を呼ぶことを止めようとしない。
僕は見ているのが辛くなって、女の子に止めるように言ったけど、僕の言葉なんて女の子の耳にはかすりもしないようだ。
生きているときは、動くことにも叫ぶことにも体力を使うからやがては疲れてしまうけど、肉体から離れた魂だけの状態だから、それを続けることに何の消耗も感じないのだ。
今の僕には身をもってそのことが理解できる。
緊迫した部屋の空気をからかうように、明るいミュージックが流れ出した。
女の携帯電話が着信したようだ。
一瞬、このはちゃんが鳴らしたのかと女の子を見たけど、相変わらずその霊は母親にまとわりつくのみだった。
着信音にも気づかないのか、女は耳を抑えてうずくまって居る。
おい、鳴ってるよと男は言いながらテーブルの上のバッグから携帯電話を取り出した。
反応のない女に途方に暮れた男は、何かにすがるように携帯電話のボタンを押した。
もしもし、警察ですが......そんな言葉が漏れ聞こえていた。
ええ? 何ですか? まさか。ちょっと待ってください。ここに居るけど、なんか変になっちゃって。あ、ここは三原三丁目です。僕のアパートなんですけど......
うろたえた男の言葉を最後まで聞かずに、僕は部屋を抜け出した。
上空に舞い上がる。
これで僕の仕事も終わりだ。
いや、別に仕事でも何でもないんだけど、でも思い残すことはなくなってしまったわけだ。
あとは、どんどん上に上がっていけば天国に着くんだろうか。
結局僕は何の役にもたたなかった。無念な気持ちだけど、まあ弟が助かっただけでもましと思わなきゃ。
あの母親。あの調子じゃあ、死ぬまでこのはの霊にまとわりつかれるだろう。
耳元で延々とあの子の声が再生されるんだろうな。
気の毒な気もするけど自業自得としか言いようがない。
でも、どういうつもりだったのか。子供を一週間も放置すればどうなるのか、想像できなかったんだろうか。
奇妙な事件に好奇心が沸いて、この先を見てみたくなった。
僕は時間を進めて未来を覗いてみる。というか、未来に移動してみる。
二日後、テレビでは子供放置のニュースがワイドショーでも取り上げられていた。
僕は電気店のテレビでそれを見ている。
二人の幼児をマンションの一室に放置したまま、知り合ったばかりの男の部屋に住み着いていた無責任な母親に非難が集中していた。
どういう心理だったのか、評論家がその女の育った環境からなにから全部暴いて解説していたが、どうもピンとこなかった。
白髪頭でしわの深い大学教授が発音の悪い声で言っている。
一瞬、聞き取れなかった。スピードをゆっくりにする。
まるでテレビがビデオみたいだ。ビデオを再生しているみたいだと感じたまま、僕はそれを巻き戻していた。
聞き取れなかった部分が再生された。
なるほど、言葉はわかったけど、でもやっぱりピンとこないな。
え? ちょっと待てよ。
今、僕は何をしたんだろう。
一瞬、頭が混乱してしまう。テレビがビデオみたいに巻き戻された。
それって、過去に戻ったってことじゃないか?
僕は店頭から一期に上昇して通りの上空に浮遊した。
通りの下では、午後の明るい光の中を、灰色のバスやクリーム色の営業者や、くすんだ紺色のダンプが排気ガスと埃をまいあげながら進んでいる。
僕はそれを見下ろしながら、さっきの要領で逆回しにしてみる。
とたんに、通りの映像がビデオの逆回しになった。
やっぱり。
時間を過去に戻ることが出きるなんて、まったく想像もしていなかった。
未来に来るのとではまったく意味が違うと思っていたのだ。
だって、未来に来るのは、寝てるときに時間が早く進むのと同じ事だから、別にタイムトラベルってわけじゃないと思っていたのだ。
単にデータの処理能力を遅くしているだけだと思っていた。
相対的に時間は速く流れるけど、逆にしても限りなくゼロに近づくだけで、マイナスにはなりようがないと思っていた。
でも、そうじゃなかったのだ。
肉体から離れた霊の状態では、時間の束縛なんてなにもなかったのだ。
考えてみればそりゃそうだと思えてくる。だって、僕は今物理的な存在じゃないんだ。
重力にも束縛されないし、当然時間にも縛られる根拠が無いわけだ。
深く考えるでもなく、僕は一気に過去に戻ってみた。
まだ女の子が生きていた時間に。女の子を初めて見つけた時間に戻ってみる。
そこには、過去の僕の霊が居るはずだった。
もしそうなら、やっぱり何かしらパラドックスというのがあるのかと、少し不安だったけど、既に死んでいる僕には、何も心配することなんかない。
マンションの一室。
丸いパイプ椅子に乗って、インターホンに向かって叫ぶ女の子が居た。
見回すけど自分自身の霊はいなかった。
『どうかしたんですか?』
あきらめた様に立っている中年男の霊にそう聞いてみた。
『まいったよ。さっさと天国に行きたいところなんだけど、この子たちが気になってしょうがないんだ』
男の霊は聞き覚えのある台詞をつぶやいた。
ということは、過去に来てもまた同じ未来が繰り返されるだけなんだろうか。
でも、今の僕は未来の記憶がある。
過去の僕とは違っているのだ。
『この子たち、このはちゃんとくるみちゃんて言うんですよ』
僕はわざと過去と違った言葉を言ってみる。
『え? 君、この子たち知ってるの? じゃあ、助けてやってくれよ。この子たちもうずっとご飯食べてないんだよ』
男の台詞は過去に聞いたものと違っていた。
未来は変えられるのだ。
『任せてください。僕が助けます』
僕はそう言うとすぐにその部屋を出た。
また過去に戻ってみる。一ヶ月ほど前。学校のトイレで三人の不良に囲まれた僕が、タイルの床にひざまづいているところだった。
「よお、おかま。尻だせよ。突っ込んでやるから」
聞き覚えのある、というより忘れたくても忘れ様のないむかつく声が聞こえた。
ひざまづいている僕は、恐怖に縮こまっていて、震える手でズボンのベルトを外している。
その自分に重なって、そこに入ろうとしたけど、うまくいかなかった。
どうにも入れない。
やっぱり、この方法は無理みたいだ。
ちぇ、こいつのアレを噛みきってやろうと思ったのに。
これから始まるSM指向のBL物を見続ける気はしなかったから、僕はすぐに時間を越えた。
過去の自分に乗り移れるのなら、話は早いと思ったけど、まあだいたい予想してしたけど、それは無理だった。当然だろうな。それが出きるのなら未来は変え放題になってしまう。
僕にはもう一つ考えがあった。
生きている自分に重なることはできなくても、死ぬ瞬間になら戻れるんじゃないかと考えたのだ。そこから生還できれば、あの時間に生き返ることができれば二人の子供を救うことができるはずだ。
その時間に僕は戻って来た。
部屋のドアのノブに引っ掛けたタオルに、僕が首を通すところだった。
座った状態から、そのまま体重をかけて首をつったのだ。
本気で死ぬつもりはなかったと思う。こんな方法で死ねるとも思わなかったし、苦しくなったら簡単に外せると思ったのだ。ほんの気まぐれ。自殺ごっこのつもりだったかもしれない。
もちろん、この先の人生に絶望していたのは事実だけど......。
いや、人生というか、気弱でダメな自分自身に嫌気がさしていたのだ。
まったく、むかつく自分だ。バカヤロー、しっかりしろ!
涙を一筋流した自分の耳元で叫んでやるが、反応はない。
そのまま首がガクンと下がる。
もう少し、意識がなくなる瞬間に僕は自分に戻るんだ。
もう少し、というところで、僕は不安になる。
今の記憶は持ったままで戻れるのかということだった。
今は霊の状態だけど、肉体に戻れば僕の記憶は脳にあるだけになってしまうかも知れない。
だったら、これまでの記憶は消えてしまうかもしれないじゃないか。
しかし、考えているうちにその時が来た。
僕の意識が消えて、死ぬ数秒前。
僕は身体に重なり、再び生命を取り戻す。
苦痛が全体に走った。息苦しくてたまらない。
しびれた足と手、ガンガンする頭。変な風に曲げたのか、腰まで痛かった。
ゲホゲホと咳き込む僕は、振りほどいたタオルを握り締めて絨毯の床に転がっていた。
薄く開いた目には、ピンク色の絨毯の毛羽立った繊維が蛍光灯の明かりで揺れているのが見えた。僕の吐く息で揺れているのだ。
生き返った。いや、死ぬところだった、だった。
こんな方法で死ねるわけないと思ったけど、案外死ねるのかもしれないな。
何だか変な夢を見た気がする。
でも、さっきまでの絶望感が不思議と薄れている。
なんでだろう。死ぬ瞬間までいったからかな。でも、自殺なんて馬鹿げている。
死ぬ勇気があるなら、あいつらをやっつけることなんて難しくないはずだから。
どうしてこんなに前向きなというか、無防備な反抗心が沸いてくるのかちょっと理解できなかったけど、僕はタオルで汗を拭って立ち上がった。
何か忘れている気がする。変な夢を見た所為かもしれない。
そう言えば、さっき声を聞いたような気がする。
意識がなくなる瞬間、誰かが呼んだような気がしたのだ。
誰かを助けなければならない。
誰かが助けを求めている。気持ちが焦る。
自分の事で絶望して死のうとしていたのに、目が覚めてみれば僕は誰かを助けようという気持ちでいっぱいだ。
いったい何なのだろうか。
でも、助けなければならない。思い出せない事にイライラした僕は、カーテンをいっぱいに開いて窓を開けた。街灯に照らされた暗い通りが目に入る。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んでいると、やがて気持ちがすっきりしてきた。
気のせいだ。僕なんかに助けを求める人はいないじゃないか。
空を仰ぐと、綺麗な満月が見える。爽やかな風が頬を撫でる。
その風に乗って何かが聞こえた。僕の身体にぞぞっと鳥肌が立った。
どこかで、声が聞こえたような気がした。
どこかで声が おわり