ちくり屋

 13


 土日をはさんで、この月曜日は院内での防火訓練の日だった。
 昨日も百合に連絡を取ろうかどうしようか迷って結局連絡を取らなかった岡持だが、二
日ゆっくり休んだ所為で気力も体力も充分回復していた。
 防火訓練の中で、百合は患者役でシーツにくるめられて運ばれる事になっていた。
 患者にその旨伝える院内放送の後、非常ベルが鳴って避難が始まる。
 岡持はすぐに百合の寝ているベッドに向かった。
 特に役割を決められていなかった岡持だったが、考えは決まっていた。
 防災のたすきをかけた看護婦達が動ける患者の誘導をしている横をすりぬけていく。
 誰にも邪魔はされなかった。
 一人一人が自分の役割を演じる事に精一杯だったのだ。
 百合は都合のいい事に個室のベッドに寝かされていた。実際患者のいる部屋では患者達
が邪魔になって防災訓練もうまくできないのだ。
「あれ? 岡持さん、この役でした?」
 百合が疑問の声を上げるが、かまわずシーツを剥いで百合を包んだ。
「ふふふ、いいこと考えたんだよ」
 そう言いながらシーツの端を持って百合を引っ張り廊下へ出た。
 うまくいった。まだ百合を誘導する係りの看護婦は見えない。この部屋は患者を誘導す
る北側通路から最も離れているから、かなり遅れると踏んだのだ。
 誰もいない南側通路に向かって百合を誘導する。
 もういいだろう。
「ほら、立って。こっちだよ」
 岡持は南側通路の端の非常階段のドアを開けた。一階分階段を上がると、屋上のドアの
前に出た。屋上のドアは普通鍵がしまっていて誰も入れないようになっている。
 つまり此処はほとんど誰もこない場所だということになる。
 周囲は横側がひらけていて遠くに海が見えるほかはビルの壁にふさがれていて誰かに見
つかる心配も無かった。
「もう。困りますよ。怒られちゃうじゃないですか」
 眉をしかめた百合の唇を岡持は顔を近づけてふさいだ。
 舌を絡めあって。唾液を交換する。
「歩ける患者の役だと勘違いしましたって言えばいいよ。さあ、後ろ向いて」
 しょうがないなあと言いながらも、百合は岡持に背を向けた。
 百合の事務服のスカートを捲り上げる。百合の今日の下着は片側を紐で結ぶタイプのセ
クシーなパンティと、ガードルとそれに釣られた太ももまでのストッキングだった。
 岡持が前もってお願いしていたのだ。
 薄い透けそうなピンクのパンティの紐を解いてずり下げる。
 百合の尻がビル風の中に現れた。ずっと座って仕事をしていた所為かちょうど坐骨の辺
りが少し色がくすんでいる。
 岡持は百合の肛門の臭いを思い切り吸い込んで、舌をねじ込んでいく。
「あ、だめですよ汚いですよ」
「先日はあんなに痛めつけてくれたくせに恥ずかしがってんじゃないよ」
「でも、岡持さんはマゾのほうが絶対あうって思ったからなんですよ。だってサドはでき
なかったじゃないですか」
「できないもんか。君がいつもやってもらっていたようなプレイは僕は慣れてないってだ
けさ。だいたいSMってサドがマゾに奉仕するわけじゃないだろ。マゾが喜ぶようにして
やるのがサドの役割なら、話が逆になるじゃないか。つまり君の今までのプレイはSMじ
ゃなくてSMごっこだったって事さ」
 百合が振り向いて岡持を見下ろした。
 岡持も百合の目を見つめる。
「随分ですね。じゃあ岡持さんは自分のやり方を発見したって言うんですか」
「その通りさ。今度は君にSMの本当の怖さを教えてやるよ」
「わかりました。では、そのときまでおあずけですよ」
 百合がパンティを引き上げて薄めの陰毛を隠した。
 此処で最後までやるつもりだった岡持はちょっと後悔したが、行きがかり上仕方が無い。
 いつでも百合といい事ができるという余裕で此処は引く事にした。

 駐車場に降りてみると、消火器の訓練が始まっていた。
 岡持より少し先に降りた百合は、係りの看護婦に言い訳していたが大して責められてい
る様子じゃなかった。
 一メートル四方の真っ黒い鉄の容器に灯油と水が入れられ、それに火がつけられる。
 炎が二メートルくらい上がるが、粉末消火器を持った看護婦が風下から近寄って顔をそ
むけながら粉末を発射する。
 真っ白い煙が勢いよく放出され、辺り一面を霧の中にしながらも炎を消し止める。
 別に面白いものではない。それを見物している岡持の頭の中には、さっき百合に対して
言った言葉に戸惑う自分がいた。
 本当のSMの怖さを教えてやるなんて言ってしまったけど、その方法なんてまったく考
えていなかったのだ。ただの格好付けだった。
 次にあう時に何か百合を怖がらせるようなプレイを考えておかないとまずい。
 やっぱりあなたはマゾがお似合いよと、マゾプレイを強要されるだけなら我慢もできる
が、口先だけの男と軽蔑されるのはいやだった。
「では今度は放水訓練にうつります。裏庭に集合してください」
 係りの者の声でそこに集まった職員達がぞろぞろと移動を始めた。
 その中に時田と佐々木の顔が見えた。
 時田と目が合う。時田の手がすっと上がり、岡持に対しておいでおいでをした。

「おまえ秘密守れるよな」
 時田が小声で話し掛けてくる。
 時田の横で佐々木が周囲を見回してなにやら警戒していた。
「もちろん守れますけど、何かあったんですか」
 百合との事でリスクマネージメント委員としての責任もいいかげんになってきた岡持だ
が、時田のただならぬ様子を見ると緊張感がわいてきた。
「この間、男性控室で話していただろ。労働組合を作るって話」
 やはりあの事が進んでいたのか。これはすごいニュースだ。
「それでな。組合は五人いればできるようなんだよ。最初は最小限の人数で立ち上げて労
働基準監督所に申請するんだ。そこで受理されればこっちのもの。後は簡単にはつぶされ
ない。とにかく秘密のうちに絶対信用できる五人を集めたいんだよ」
「僕も入れてくれるんですか」
「まあな。他に信用できる人間もいないしな」
「今のところ誰が集まったんですか」
「俺と佐々木、看護士の川久保、それと事務の荒木百合が集まってるんだが、もう一人が
決まらないんだよな。皆しり込みしちまって、意気地が無いんだよ。おまえは違うよな。
なんか最近変わってきた見たいだし」
 興奮に一気に水をかけられたような気がした。
 どうして百合が入ってるんだ? 下手したらクビになるかもしれないのに。
 百合の真意を聞きたいところだが、それより先に時田の話に答えなければならない。
「いいですよ。僕も入ります。それで、何をすればいいんですか」
「やっぱり、今の岡持ならそう言うと思ったよ。最近なんか吹っ切れて堂々としてるもん
な。今日、五時過ぎたらレントゲン室にきてくれよ。書類に名前書いてくれればいいから」
 とうとう動き出したか。これをちくれば理事長から褒美の一つも出そうだ。
 ただ問題は百合がその中に含まれる事だった。
 百合以外の名前を報告しても、芋づる式に百合もクビになる可能性がある。
 岡持は複雑な気持ちのまま裏庭の放水の場所に歩いていった。

 

 14

「この消火栓は最新式で、普通は二人一組でしかできないのですがこれは一人でもできる
ようにできています」
 消火栓の説明を頭の薄い男がしていた。探すと、百合は前のほうでその男の説明を熱心
に聞いている。
「このボタンがタイマーになっています。これを押して、ホースの先をもって火元に急ぎ
ます。タイマーは約二十秒後にセットされていますから、それまでに火元にホースの先を
向けるようにしてください」
 男がタイマーを押して実演しだした。
 ホースの先を持って唯一川沿いの土手方面にあいた非常口に走った。
 櫛状にたたんであったホースが解けて蛇がのたうってるように見える。
 そして二十秒が過ぎたのだろう。それまで扁平だったホースが、丸々と肥えて曲がった
部分は水圧ではねるようにまっすぐになる。
 しばらくして男の持ったホースの先から勢いよく消火水が噴出した。
 高く弧を描いて遠くの川のほうまで水しぶきが飛んでいった。
 皆が交代でそのホースを持ったりしている。若い看護婦がキャーキャー声を上げている。
 岡持はそんな光景には興味なかった。問題は百合のことだけだ。
 ふと下を向くと低い植木の葉に芋虫が一匹乗っていた。
 そういえばあの時、芋虫を見た百合のおどろきったらなかった。こんな虫にあれほど激
しい反応を示すなんて、やっぱり女の子なんだな。
 そんな事を思っていたらふと思いついた。
 その思いつきは、先ほどの時田たちの組合作りなんか吹き飛ばすようなすごい思い付き
だった。
 消火訓練も終わり、終業時間の五時が近づいてきた。
 これからレントゲン室で労働組合の調印式か。ちくる絶好のネタだが名簿に百合が入っ
ている事で岡持はまだどうするか決めかねていた。
 ちくり屋は自分だけじゃないと言う事だった。他の誰かが先にちくると言う事はあるだ
ろうか。自分以外には看護部にいるということだったが名前まではわからない。
 看護士の中では川久保だけが声かけられているみたいだから川久保がちくり屋でない限
り自分が黙っていればしばらくは理事長達の耳には入らないはずだ。
 ここは組合に入った振りをして、後からちくるとするか?
 しかしいったん組合ができてしまえば切り崩すのは難しいと時田も言っていた。
 自分が入る事で組合ができてしまったら理事長達の怒りをかうことにもなりかねない。
 なんとも難しい場面だ。
 本当なら組合なんかよりも早く百合と二人になりたかった。ぜひあの思いついた方法で
百合を責めてみたいと思っていた。
 レントゲン室の鉛入りの重い扉を開いたときも、岡持はまだ決断できずにいた。

 薄暗いレントゲン室にはすでに四人がそろっていた。
 全身撮影用の長い寝台をテーブル代わりにして、皆緊張の面持ちで座っている。
 ちょうど百合の横が開いていたから岡持はそこに座った。
 どうして百合がここにいるのか聞きたかったが、他の人間がいる前では聞けないのがじ
れったかった。
「それじゃあ、記念すべき弓永クリニック労働組合の発足の準備に入ります」
 かしこまった声で時田が言った。
「川久保、後お願いな」これはいつもの話し方だった。
「はい、それじゃあ簡単に説明します。名称は時田さんが言ったものでいきます。規約は、
第一にこの労働組合は当院の職員の職場環境改善を目的にしたもので、それ以外の政治的
な運動などは一切関与しない事にする。第二に組合員に対する不当な差別などがあったと
きは全員で断固とした対応をもって事に当たる。この場合全面ストライキもじさない。第
三に、当院の職員はパート労働者も含めて誰でも組合に入る事はできる、また組合員は自
分の意志で自由に組合を脱退する事もできる。それと第四に組合費は月額千円として、組
合報などの支出に使用する。次に細則として、組合には組合長を一人、書記長を一人、出
納係を二人おくこととする。などですね。それ以外の細かい事はプリントに書いてありま
すから読んで置いてください」
 川久保の説明の後、ついに署名捺印の用紙が取り出された。
 これに署名したものが最初の組合員として労働基準監督所に提出されるのだ。
 時田がまず最初に署名して印鑑を押した。
 次に川久保が続き、佐々木が署名する。百合も躊躇することなくそれに名前を書いて捺
印した。
 最後に岡持の番が来た。いろいろな考えが頭をよぎっていく。
 これを労働基準監督所に提出されたら自分の立場上すごく困った事になる。
 いや、真っ先に首になりかねない。でも待てよ。組合員の不当解雇は組合が守ってくれ
るはずだ。それならばいっそのことちくり屋を止めても良いかもしれない。
 理事長達の汚いやり方を知っているから、裏切るのにも別に罪の意識は無かった。
 そう踏ん切りをつけて岡持は署名捺印した。
「じゃあこれは俺が責任を持って監督所にもっていくから明日は日曜だから、明後日だな。
有給取る事にするよ」時田が用紙を丁寧に折り曲げて封筒に入れた。 

 なかなか悩む調印式だったけど、その後には快感の時が待っている。
 今日は岡持の宿直の日なのだ。
 夕食を食べて一通り院内を見回る。ほとんどの部署はすでに電気が消えていた。
 事務室も今夜は早く上がったみたいで誰も残っていない。
 九時を過ぎると、それまで残っていた看護婦達や調理師達も挨拶をして帰っていった。
 そしてしばらくすると、駐車場に一台の車が入ってきた。
 赤い軽のバンタイプの車は百合の車だ。
 人気のなくなる九時過ぎに来るように言っていたのだった。
 




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