ブレンクリーナー

                              放射朗



 ある日僕のパソコンに一通の電子メールが届いていた。ダイレクトメールというやつか。何かのチラシらしい。 
 読まずに削除しようとしたのに、一瞬のうちにメールの題名を読み取った僕は、図らずも興味を持ってしまった。 

 テーマにはこう書いてあったのだ。

『あなたの嫌な記憶の削除承ります』 
 何の商売だろう。 
 次から次にいろんな商売が生まれる今日この頃だ。多分比喩だろうが、文字通り記憶を消してしまう簡単な方法が開発されてそれを商売にしだす会社が出来たとしても、あり得ないとはいえない。

 実は僕は最近嫌な記憶のおかげで、陰鬱な毎日を送っていたところなのだ。僕が恋愛感情を抱いた女性が、僕のことを歯牙にもかけなかったなんて、別に珍しくも無い出来事だったけど、本人にとって見れば、近所の原子力発電所で最近不審火があったなどというピンと来ない記憶より、ずっしりと気持ちを押し潰してくれる。

 マウスを持つ手にちょっとだけ力を入れて、そのメールを開いてみた。読んでみるとやはり比喩ではなく、文字通り記憶のある部分だけを限定して削除してしまうサービスのことらしい。

 しかし、方法は? スミからスミまで読んでみたが、その方法は生化学的なものと、心理学的なもの、それに超能力をちょっと加えたものとしか書いていない。
 超能力? 多分催眠術も入ってるはずだが、(おそらくこれが全てだ) 料金的に不利になると踏んでいるのか、その事はどこにも書いてなかった。

 勧誘広告の御多分に漏れず、ちゃんと体験談も載っていた。 


 Aさんの体験談 
 僕は以前読んで感動したシマックの『都市』の記憶を削除してもらいました。 
 本当は半信半疑だったのですが、体験談募集時期という事で半額、それも効果が無ければ無料でいい、という事だったので話の種にやってもらう事にしたんです。
 何を消してもらったかは、最初に書いた通り、すばらしい小説を生まれて初めて読む感動を再度味わうために、その部分の記憶を消してもらいました。

 おまけに『中継ステーション』の記憶までサービスで消してもらいました。ラッキー! 結果は、すばらしいの一言です。記憶を消してもらった事自体は憶えてるので、この本を以前読んだ事実が存在する事はわかるんですが、内容は全く覚えていない。再びあの感動をまっさらな心で味わう事が出来ました。
 これは何度も同じことが出来るそうだから、またお願いしたいと思ってます。 
 映画とか、その他の物にも応用できますよ。ぜひお試しください。


 最初の体験談でいきなりずっこけた気分だ。 
 そんな事のために記憶を消す作業を頼むなんて、どうかしてる。 
 いや、逆にその程度の事でも出来るくらいに、費用も安くていいし、安全性も高いと、この会社は言いたいのかもしれない。 
 でも、この人の体験談を読んでいて、僕は回し車の中で一生懸命車を回しているモルモットを想像してしまった。 
 すばらしい体験を何度も味わえる事は、彼にとって良いことなんだろうか。

 気分がいいのは分かるが、同じ所を堂堂巡りしてるだけ、進歩というものには無縁だ。もちろん他人の人生なんだからその人の自由ではあるが……
 面白い小説を読むのに探す努力もせずに、既に読んで感動した物語の記憶を消すというのはあまりに消極的なやり方だ。
 僕はそんな事を考えながら二人目の体験談に目を通す。


 Bさんの体験談 
 ええと、私が消してもらった記憶は、私の15歳から21歳までの6年間の性の遍歴についてです。私は自慢じゃないですが、中学の時から男の子にもてて、それにあまり冷たくする事が苦手だったので、今までの6年間の間にかなりな数の男性経験があるんです。

 両手と両足の指合わせて足らないくらい……。 
 でも、今度親戚の伝で、いい条件の見合いがあるので、ぼろが出たら困るなあって思ってたんです。ちょうどそんな時にこのお試し期間のメールを受け取って、これしかないって飛びつきました。
 6年間に渡る記憶だから、嫌な顔されるかと思いましたが、係りの人はとても優しくてちょっと性格が変わるかもしれないけど、大丈夫ですよって言ってOKしてくれました。

 私って生まれつきついてるなーて思いました。結果はすばらしいの一言です。
 記憶を消してもらう作業をしたことまでは憶えてますが、その記憶自体はきれいさっぱりなくなってしまいました。

 これでお見合いもばっちりです。でも困った事が一つだけ。周りの人から性格変わったね、なんて言われるのがめんどくさい事。
 良い方に変わったんだからいいじゃない。 
 それでは明日からの大学のレポート書きに向けてもうひとがんばりです。


 この文章書いたのは女子大生だったのか。 
 性格変わったなんてものだろうか。もとがどの程度か知らないからなんとも言えないが、かなり大きく幼児化してしまったのではないだろうか。

 人間は経験によって進歩していくし成長していくものなんだと、僕は改めて思った。記憶を消すという事は、その分退行するという事と同義なんだろう。


 Cさんの体験談 
 俺は最初体験談なんて書くつもりは無かった。 
 そんなことしたら俺の目的が果たせないと思ったからだ。だが、考えてみたら体験談という物は体験した後に書くものだった。 
 記憶を消してしまえば、後の祭り。警察の手は俺には届かなくなるはずだ。

 そう言うわけで、俺は今のんびりこの体験談を執筆中だ。 
 殺人及び麻薬取締法違反で捕まる心配なんかせずにね。
 つまりそういうことだ。

 俺は人殺しで、麻薬の売人だったらしい。
 らしい、というのはその記憶が今はもう無いからだ。
 後で確認するために自分で書いた手記を見てやっと自分のしたことが分かった。

 でも、もちろんこんな物が証拠になるはずが無い。 
 署名も捺印もしていないプリンター印刷の紙切れ一枚だからだ。  
 最初、俺はこの記憶を本当に消してくれるのか怪しんだ。法に触れるんじゃないのかってね。

 しかし、罪の記憶を消す事が証拠隠滅に値するなどという判例は今のところ出てないらしく、係員は特に嫌な顔もせずにすっきりあっさり罪の記憶を消し去ってくれた。 
 新しい技術だからまだ法の整備が行き届いていないのだ。 
 兄弟、やるなら今のうちだぜ。


 最後のCさんは警察の追及を逃れるために記憶を消したらしい。
 本当にこういうことが出来るなら警察もお手上げだろう。罪の記憶が無い人間を罰するのは不可能なはずだ。

 精神異常者の犯罪と同じ扱いになるのだろう。 
 これを読んで、すねに傷持つ人々は殺到するだろうな。
 でもすぐに法律が整備されるはずだ。警察も馬鹿じゃない。

 今まで読んできて、僕は馬鹿なんじゃないか? という思いが胸のうちに湧き上がるのを押さえることが出来なかった。 
 誰がって、体験者の事じゃない。ブレンクリーナーというこの会社の事だ。

 こんなダイレクトメールで勧誘される人がいるだろうか。
 僕は今まで随分落ち込んでいた。
 綾子にふられたことは僕の青春の大きな汚点となって死ぬまで僕の上に重くのしかかってくるものだと考えていた。出来れば消してしまいたいと本当に思っていたのだ。

 でもこの広告を見て、考えは変わった。消せないからこそ消したいと思うのだろう。簡単に消してしまえるとなったら、絶対に消してはいけない貴重な想い出だと考えるようになったのだ。

 こんな企業広告を考える人間は無能としか言いようが無い。
 客の気持ちをわざわざ離れさせてしまう広告をまわしてるんだから。

 さて、削除、と行こうとして僕は手を止めた。 
 僕は今まで随分落ち込んでいたのだ。綾子の記憶に押しつぶされそうになっていた。彼女を失う苦痛に死んでしまいたいと思った事さえあるんだ。
 それがどうだろう。
 
 たった一通のダイレクトメールを読んだだけで、彼女との事、悲しい想い出が随分大切な記憶だと思えるようになってしまった。
 消してしまいたいくらいに嫌な思い出でも、自分の生きてきた証拠の想い出だ。
 悲しい経験も経験のうちだ。そう思うと気持ちが随分楽になった。

 このメールは勧誘広告としては最低だったが、幸福の手紙としては案外上等だったかもしれない。僕は削除するボタンを押すのを止めて、複数の知人に送るチェーンメールの操作をした。

 モデムのランプがちかちか光り、真夜中にこの幸運の手紙は僕の手元を離れ、更なる旅に飛び立っていった。

 いつか君のパソコンに着信音とともに飛び込んでくるかもしれない。

 でも、同じ文面だとは限らない。
 中には酔狂な人がいてちょっとづつ変えてしまうかもしれないし。

 不幸は回すべきじゃないけど、幸福はみんなで回すものだ。

 多分、僕と同じように考える人は多いはずだからね。

                                                    ブレンクリーナー終わり