放射朗


 

 澄んだ空気と透明な太陽の光の中を、県営バスはリヤをバウンドさせながら走っ
ていた。
 急カーブの度に身体が右左に揺すられて、洗濯機の中の衣類にでもなった気分だ。
 この春、高校生になったばかりの亮子は、そんな不快感を感じていた。
 座っていてもこれだから、立っていたらなおさらだろう。もっと早い時間のバス
なら、ぎゅうぎゅうずめになって立っていないといけないのだ。
 こんな朝がこれから3年間、いや就職してからも似たようなものだから、何十年
も続くのかと、少し憂鬱な気分だ。
 新入生の初々しい気概は、試験に受かった喜び疲れで擦り切れて、今では高校一
年というよりも中学4年という感じのだるい気分を味わっている。
 クラスの生徒たちの中にもなんだか溶け込めなかった。
 進学校だから当然かもしれないが、皆が勉強の事しか眼中に無いみたいで、テレ
ビの話とか芸能界の話とかのおしゃべりをしたい自分だけが、なんだか浮いてしま
って取り残されているようだ。
 疎外感というのか、孤独感というのか。そういう感じをかみ締めるのが少し快感
にも思えていた。それは、自分は特別だとの選民思想に由来するものだが、亮子に
そこまでの知識は無かった。
 
 最近のバスは信号停車の度にエンジンを止める。
 一瞬騒音が止み、車内がすうっと静まり返る。遅刻するかしないかぎりぎりのバ
スには、亮子以外に高校生は乗っていないから、車内でおしゃべりをしてる人も誰
もいないのだった。
 プンと羽音を聞いたような気がした。
 耳元に何かの感触があった。
 そのとき誰かに肩を指で抑えられた。
 痴漢か?まずそう思った。後の席に座ってる男が、自分の肩に触れているのだ。
「動かないで、虫だよ」
 若い男の声が耳元でつぶやいた。さっきの羽音を思い出した。
「虫?」
 微かに首を傾けて、亮子もつぶやく。
「カメムシだ。こいつ、臭いにおいを出すんだよね。だから動かないで」
 カメムシと聞いて、いつか洗濯物を取り込むときに衣類にとまっていたのを触っ
てしまったときの事を亮子は思い出した。
 あの独特のにおい。動物の排泄物などの生物的な異臭とは違って、なんだか化学
的な悪臭だった。何度も手を洗ったがなかなかとれずに往生した。
 今制服にあの臭いがついてしまったら ・・・・・・。
 クラスで囃し立てられることを想像した。
 うわーこいつカメムシのにおいつけてきたよ。カメムシ女。亀子だー。
 今からおまえは亀子だぞ。
 小学生じゃあるまいし、まさかそんな展開にはならないだろうが、ついそんな想
像をしてしまう。やや被害妄想が入ってるのかも知れない。
 早く指ではじいてよ。そう言おうとした時、肩に感じていた男の指の圧迫感がす
うっと引いていった。
 男が指を離したのだった。
「ほら。・・・・・・こいつ、君が好きだったのかもね」
 男の細長い人差し指の先端には、黄緑色のカメムシが今にも羽を広げようとして
るところだった。臭いがつくわよ、そう言おうとしたが先を越された。
「おっと、まだ離陸するのは早いぞ」
 男が指を軽く動かす。風にゆれる小枝みたいな動きだ。
 カメムシが不安定な足場に動揺してか、羽を収めた。
「そこの窓開けてくれるかな」
 男が亮子に目配せしながら言った。
 横開きの窓だ。亮子は右手を伸ばしてロックをはずすと、手首に力をいれて窓を
開いた。風がふわりと入ってきた。
 風で虫が飛ばされるかと心配したが、ちょうどバス停に停車したところだった。
「いいぞ、ほら飛んでいけ」
 乗客が乗り降りしてる間に飛ばないと、走り出したら風が入り込んできて外に出
れなくなる。焦る気持ちが沸きあがろうかというときに、やっと黄緑色の豆みたい
な虫は畳んであった薄紫色の羽をやんわりと広げた。
 バスが発車する瞬間。カメムシは羽ばたくと同時に男の指先を離れて窓の外に浮
き上がっていった。
 小さな虫はすぐに消えて見えなくなってしまう。
 男はさっきまでカメムシがとまっていた右手の人差し指を鼻にもっていって匂い
をかいだ。あの化学的な悪臭が亮子の記憶の中から浮き上がって周囲を漂う。
「大丈夫、臭いつけられなかったよ」
 男がにっこりと微笑んだ。
 ふち無しのめがねをかけたぼさぼさ髪の男は、あごに少し無精ひげが生えていた
が、割りと若そうだ。でも、テレビなんかでよくある運命的な出会いを演じる主人
公の片割れにはどうしても見えなかった。キムタクくらい格好よければ、一気に運
が向いてくるのに。
 さっき、彼が亮子の肩を指で押していたのは、肩にとまっていたカメムシを、指
に移させるためだったのか。運命的な出会いなんてそうそうないのだと諦めたとた
ん、そのことに気づいた。
 自分だったら、前の席の人に虫が取り付いていても知らん顔してるか、よほどい
い男だった場合は指ではじいて靴で踏み潰して恩を売るかするくらいのもんだろう。
 優しく指にとまらせて車外に逃がしてあげるなんて、考えもしないだろう。
 自分がまるで残酷な人間みたいに思えて少し恥ずかしくなった。
 それに彼は匂いもつけられていないじゃないか。
 虫も殺気を感じるんだろうか。優しくしてやれば好意を感じるんだろうか。
 嫌う者が嫌われるってことか。
 考えていたら亮子の降りる停留所が近づいてきた。
 慌ててカバンを持ち上げ席を立つ。
 車が停まるまで立たないでください、と運転手がいうのもお構いなく、後の男に
一言だけ礼を言ってゆれる車内を降り口に歩いた。
 一つ大きくゆれて、停留所にバスが止まった。
 嫌う者は嫌われるか。自分はクラスの皆を嫌ってるだろうか。
 よくわからなかった。いやわかりたくなかっただけかもしれない。
 バスのドアが開き、涼しい風がスカートをひらめかせる中、バスの階段を下りて、
亮子は校門に続くアスファルトの道を歩き始めた。


 バスの中で おわり
バスの中で