ありさの放送局
放射朗



 さっきまで望んでいた土砂降りが、なんとも間の悪いことに今降ってきた。
 仰向けに倒れた俊夫の身体を大粒の雨がたたく。苦しそうにしてる俊夫に、あた
しは身体をかぶせて少しでも雨があたらないようにした。
 そうだ受信機。俊夫がすごく気にしていた受信機だ。俊夫の手からもぎ取ると、
あたしはそれを濡れないように胸元に隠した。
 救急車はまだこない。早くしてよ、救急車って信号無視してもいいんだろ。
 
 周囲の家から、あたし達に気付いた人が傘を持って集まってきてくれた。
 遠くでサイレンが聞こえてきた。やっと近づいてきたみたい。俊夫は苦しそうに
息を吐いた。セキをしたとき、赤い飛まつが飛ぶのが見えた。

 さっきまであたしは、心から土砂降りを望みながら家路をちんたら歩いていた。
 何にも面白いことが無い。澄子やかおりとつるむのにも飽きてきたし、何より弱
いものいじめを続けてきた自分に嫌悪感が湧き上がってきたのだ。
 思いっきり雨が降って、垢のように何層にもこびりついた、あたしの憎しみや嫌
悪感を洗い流して欲しい。
 父が死んでからぐれ始めた自分だけど、その理由にもいいかげん膿んだものを感
じ始めていたのだ。いいかげんにしろって天国の父に言って欲しかった。思い切り
びんた張られたかった。空手一筋で曲がったことが大嫌いで、怖くてやさしい父だ
ったのだ。
 澄子たちと別れたあたしは、団地にはさまれた狭い公園で、人が争う声を聞いた。
 返せ、それがいるんだって悲痛な声で叫んでるのは、いつもあたしのグループが
いじめていた俊夫だった。あたしたちにいじめられる時は卑屈にしていたくせに、
今日はどういうわけか勇敢に3人の不良と戦っていた。一体なに取られたって言う
んだろ、財布かな?
 あたしは興味本位で乱闘中の彼らに近寄る。
 殴られながらも必死になってる俊夫を見てると、なんだか応援したくなってきた。

「あんたら卑怯だよ。一人に三人がかりかよ」
 あたしの声で、三人組がやっとあたしに気付いたみたい。
 街灯の青い光で悪魔みたいな目つきをした三人組は、もっていたテレビアンテナ
みたいなものを地面にたたきつけて踏みにじった。
 俊夫は蹴りを入れられて伸びている。
 後ろから抱きつこうとした男には、後ろ回しげりをお見舞いしてやった。
 かかとに男の顎がゆがむ感触があった。顎関節は確実に折れてる筈だ。
 男達は格闘技には長けていなかった。
 そんな男達を退治する事くらい、あたしにとっては朝飯前の事なのだ。
 一人は股間を押さえてうずくまり、最後の一人は正拳突きで鼻を潰してやった。
「大丈夫?」
 まだ起き上がれない俊夫の傍にしゃがむ。三人の不良達は泣きながらふらつく足
取りで逃げていった。
「受信機と、アンテナを……」
 俊夫はまだ苦しそうだ。あたしに助けられたことを不思議に思う余裕も無いらし
い。踏みつぶされたアンテナを拾い上げ、さらに奥の芝生に転がっていたトランシー
バーみたいな受信機を探し出すと、急いで俊夫に手渡した。
「くそ。アンテナが壊れてる。これじゃ、ありさの居場所がわからない」
 俊夫の震える手の中で折れたアンテナがカラカラと乾いた音を立てた。
 気落ちしたせいか、座っていた俊夫は再び倒れて荒い息をはいた。さっきの蹴り
は思った以上に俊夫にダメージを与えたのかもしれない。ひょっとして内臓破裂と
か?救急車を呼ぶべきかしら。
「今、……何時ごろ?」
 俊夫の声は荒い息にさえぎられて途切れ途切れにでてきた。
 10時10分だと答えると、俊夫は手に持っていた受信機のスイッチを入れた。
壊れたアンテナの変わりに、ポケットから別のアンテナを取り出し、それをつなげ
る。
 受信機のスピーカーからは雑音が聞こえるだけだった。
「何をしてるの?ありさって誰?」
 あたしの質問に答えるだけの余力は俊夫には残っていないようだった。
 懸命に話したそうにしてるが、唇が震えるだけだ。これはやばい。あたしは携帯
電話を取り出すと、急いで119に電話した。
 俊夫は苦痛の表情からうつろな表情に変わりつつあった。待つ時間がすごく長く
感じる。俊夫はこのまま死んでしまうのではないか。手足が不規則に震えだしてい
る。右サイドからの蹴りだったから、肝臓が破裂してしまったのかもしれない。

 サイレンの音でやかましかったけど、あたしの胸元にある受信機が、その時少
女の歌声を流しだした。雑音混じりの声を聞き取るためにあたしは受信機を耳に当
てる。鳩ぽっぽを歌う少女の声は、やがて一人語りをはじめた。

『ありさは暗い押入れで泣いています。今夜はここで寝ないといけません。暑いよ
う。お父さんは帰ってこないし、帰ってこないお父さんにお母さんは文句いってま
す』
 なにこれ。訳がわかんない。少女は親に虐待を受けてる様子を、事細かに話して、
そしてまた歌を歌うと終わりになった。
 この電波はなんなのだろう。ラジオ放送でもないし、電話の声とも違う。
 あたしは俊夫を運ぶ救急車の中で、謎の放送について考えてた。
 しかし、いくら考えてもそれだけじゃ結論は出ない。あたしはため息をついて考
えるのをやめた。
  救急車に乗るのは二度目だった。
 一度目は、肺がん末期の父が、最後は家で死にたいと言って帰っていた時。
 血を吐く父を見てられずに、救急車を呼んだのだった。看護婦の母は気丈にてき
ぱき処置していたけど、あたしは呆然としてしまって泣いてるだけだった。三年前
の事だった。
 肺がんなんかに父がかかるなんて信じられなかった。だって、タバコもお酒も飲
まずに空手一筋の健康的な正義漢だった父なのだ。
 タバコを一日二箱吸っても80まで長生きする人がいるのに、タバコを吸わない
父が肺がんになるなんて理不尽じゃない。
 その時、あたしは神様なんていないんだとはっきりわかった。悪い事をしてはい
けないというのは神様から罰を与えられるから。あたしはずっとそう教えられてき
た。
 だとしたら神様がいないのなら我慢して正しく生きるなんて馬鹿らしい。思いっ
きり悪い事をしてやれ。そんな風に思ったものだった。もし神様がいて、あの時あ
たしに意地悪をしたのなら、今から生涯かけて復讐してやる。運命にか神様にかわ
からないけど……。その憎しみは怒りに変わって、それからというものあたしの心
をずっと支配する事になったのだ。

 あたしは澄子とかおりと3人でよく俊夫をいじめていた。
 いじめられっ子って言うのは厳然と存在するのだ。何かいつもおどおどしていて、
嫌なことを命令されても卑屈に笑うだけで抵抗しない奴。がつんって抵抗されれば、
いじめっ子だって手を出さないもんなのだ。
 まあ、クラス全員でやる無視いじめみたいな陰湿なのは誰かれお構いなしなんだ
ろうけど、一対一か、一対数人のいじめは、いじめられっ子にも問題があると思う。
 別に自分の責任転嫁したいから言うんじゃないけど。
 
 先日は雄大と組ませてセクハラいじめをやってみた。澄子の発案なのだが、いじ
められっ子二人を組ませてボーイズラブをやらせようということになったのだ。ボー
イズラブって言うのは、美化されたホモのこと。
 かおりの後輩たちが空けておいてくれたバレー部の部室は、女の汗の匂いでむっ
としてた。ボルトが緩んでがたがたするテーブルが一つと、パイプ椅子が三脚たた
んであった。そこに二人を連れ込んで脅したのだ。

「でも、どうすればいいのかわからないよ」
 そう言うのが俊夫の精一杯の抵抗だった。
 澄子が俊夫の腕を取って引っ張る。
「ほらこっちに来て。まず二人でじゃんけんしなさいよ。負けた方が受けね」
 受けというのが何を意味するのかもわからない二人はとりあえず言われた通りに
じゃんけんする。勝ったのは雄大だった。
「よし、じゃあ俊夫が受けだね。あんたズボンとパンツ脱ぎなさい」
 澄子が命令した。俊夫にもやっと自分が何をされようとしてるのか理解できてき
たみたい。俊夫の顔が一瞬だけ怒りの表情を見せた。
 しかしその感情は長続きしない。風に吹かれたタバコの煙みたいにすぐに消えて
なくなった。殴られた時の痛みや、股間を思い切り蹴り上げられた時の苦痛と吐き
気がよみがえり、俊夫の攻撃心を雲散霧消させてしまうんだろう。

「早くしなよ、ぐずぐずした奴は鞭打ちだよ」
 澄子が俊夫のベルトを外して二つ折りにして2、3度振り回す。空気を裂く音が
狭く汗臭い部室の中に渦を巻いた。
 恐れをなした雄大はすばやくズボンを脱ぎ捨てると、パンツをずりさげた。
 遅れないように俊夫もグンゼのパンツを脱ぎ捨てる。うっすらと生えた陰毛の中
に二人の物が縮こまっていた。
 ぐらつくテーブルに両手をついて、俊夫は尻を後ろに突き出すようにさせられる。
 俊夫の生白い尻が薄暗い中にぼんやり浮き上がる。雄大のしぼんでる物はかおり
の右手でこすり上げられて、何とか硬くなっていた。
 ああいう場合ってどっちがより屈辱的なのだろうか。
 無理やり犯される方も、もちろん嫌だろうけど、その気も無いのに女の手で勃起
させられて、男の肛門にねじ込まれるのって、むしろそっちの方が男にとってはト
ラウマになるんじゃないだろうか。

 そんなこと思ってたら、救急車が病院に着いた。目の前で俊夫が苦しんでるとい
うのに、あたしはこんなこと考えてる。薄情を通り越して異常だよね本当。
 病棟に運び込まれた俊夫は、救急隊員の処置のおかげか、ずいぶん楽そうになっ
ていた。なにより呼吸が安定してる。暴行傷害事件という連絡が入ってたんだろう、
待合室には警察官が二人いて、付き添っていたあたしは、おいでおいでと呼ばれて
しまった。
 いくつかの質問に答えてすぐに開放されたあたしは、受付ロビーの長椅子にどっ
しりと腰を下ろす。
 そういえば今日、母は準夜勤だった。この病院でさっきまで仕事をしていたのに、
もう帰った後なのだ。今ごろ家であたしが居ないのを不審に思ってうろたえてるか
もしれない。
 あたしはかばんの中から携帯電話を取り出すと家にダイヤルした。
 思ったとおり、母は驚いた様子で電話に出てきた。
 あなた今どこに居るの、こんなに遅くにっていわれても、母さんが知らないだけ
なんだよ。あたしは不良の佐恵子なんだ。母さんが泊まりのときなんて夜中の二時
まで駅前の繁華街をうろついた事もあるんだよ。
 口から出たがってるそんな言葉を飲み込んで、あたしは俊夫の暴行現場に偶然居
合わせたこと、そして彼を救急車で母さんの勤めてる病院に運んだ事を話した。
 母は一応納得したみたい。すんだらすぐ帰ってらっしゃいって言われたけど、今
日はここに止まりたいとあたしが言うと、同僚に言っておくから仮眠室を貸しても
らいなさいと言って、母は優しく電話を切った。
 9時までも何してたのって聞かれなくて少しほっとした。
 駅前のゲームセンターのでの事がよみがえる。

「こないだはケッサクだったよね。またあいつらホモらせようよ。今度は雄大をウ
ケにしてさ」
「お釜掘らせるのもいいけど、シックスナインでお互いのをしゃぶらせるのも面白
そうだよ。どんな顔してチンコしゃぶるか見てみたいじゃん」
 横で丸山澄子と村木かおりがはしゃいでいた。
 午後9時の駅前繁華街外れにあるゲームセンターの中には、一見して中学生とわ
かる男女があたしたち以外にも10人近くたむろしていた。しかし制服姿なのはあ
たしたちだけだった。
「あんた達、あんなのがそんなに面白かったの。あたしは気持ち悪いだけだったよ。
馬鹿馬鹿しいわ」
 はき捨てるように言うと、鼻じらんだ澄子は、ゲーム機の上においてあった缶ジ
ュースを一口流し込んだ。
 かおりもおしゃべりを止めて周囲に視線を泳がせる。くだらない。何も面白い事
なんてない。俊夫といい、雄大といい、最近の男ってなんて歯ごたえの無い連中だ
ろう。プライドって無いんだろうか。少しでも機嫌を取ろうといつも卑屈に笑って
る。男はもっとしゃきっとしろよ。
 胸のもやもやは不完全燃焼のくすぶりだ。
 不完全燃焼は臭いガスを出す。有毒ガスだ。でも、一体自分の中で何が燃えてる
というんだろう。父が死んだときに燃えるものなんて何もなくなってしまったはず
なのに……。
「どうすんの。もう帰るの」
 澄子がのろのろと見上げて言う。
 前歯がウサギのように突き出た澄子はいつも口が半開きだ。あんたの顔の方がよ
っぽどオモロイよ。口に出さずに心の中でつぶやくとあたしは二人に背を向けた。
 その時、ちょうど声をかけようと近寄ってきた高校生風の男と面と向かう形にな
った。とっさに一歩退いて半身の体制になる。
「おっと失礼。キミたち戸城中学生?俺達も3人なんだけど、一緒にどう」
 最近流行ってるのか丸刈りに近い短髪のその男は、口と顎に無精ひげをまばらに
生やしていた。にょろにょろと弱々しい髭先、なんとも汚らしい無精ひげだ。
「何だよ、ご機嫌斜めなのかな。彼氏にふられちゃったかな。こんなかわいい顔し
てるのに、怖い顔してちゃもったいないぜ」
 男の手が茶色に染めてるあたしのストレートヘアにかかろうとしたとき、あたし
は右ひざをスムーズに持ち上げた。それは彼の股間に入っていった。
 ぶっと息をはきながら無精ひげが前かがみに崩れ落ちる。椅子が転がって、周り
にいた数人の客が慌てて立ち上がった。
「何しやがる」
 叫んで向かってきたのは、倒れた男のつれ二人だ。狭くて足場の悪い場所での乱
闘は面倒くさい。近くのテーブルの灰皿を取り上げると、二人の顔に向けてなかみ
をぶっ掛けてやった。ラークやマイルドセブンの吸殻が中に舞う。
 灰と吸殻が二人の顔にかかり、動きが止まる瞬間を狙って横を通り抜け、出口に
走った。澄子とかおりも慌ててあたしの後を追う。何度か人にぶつかってよろけな
がらも表に駆け出すと、男達は誰も追って来なかった。
 車の行き交う道路沿いでは、奇抜な改造をしたバイクと、濁った目をした若者た
ちが数人ずつのグループに分かれて道行く者達に無遠慮な視線を投げかけている。
 無視して歩く。その中の一人が口笛を吹いて話し掛けたが、お構いなしに突き進
んだ。
「ちょっと待ってよ、佐恵子。いきなり喧嘩はないでしょう」
 やっと追いついてきた澄子が肩に手を置いて言った。
 不満を口にする時も、笑いを顔にへばりつかせた卑屈な言い方だった。
「あたしもう少しで奴らにつかまりそうになったよ」
 やや太目のかおりは体中から噴出した汗に閉口してるようだ。しわくちゃになっ
たハンカチを取り出して額の汗をぬぐっている。
「あたしもう帰るから。あんた達まだ遊んでいくなら、また明日ね」
 残った二人は不愉快そうに顔を見合わせてた。
 
 俊夫の両親があたしに挨拶に来たのは、母に電話を入れたそのすぐ後だった。状
況は警察からも聞いたんだろう。あたしがさんざん聞かれて説明した事はすでに俊
夫の両親の耳にも入ってるみたい。
 助けてもらってありがとうとか、お世話になりましたとか言われちゃって、いつ
もはいじめてるからあたしも焦ってしまった。
 怪我の具合はどうなんですかと聞いたら、いや、肋骨が2本折れてるだけで、内
臓の方は大丈夫みたいです。おかげさまでって背の低い俊夫の御父さんがやたら恐
縮してた。
 ご両親は、泊まる必要も無さそうだと、その後帰っていった。まあ、そうだろう
な。命が危ないわけでもないんだから。別に薄情だとはいえない。

 朝日は寝不足の目には眩しかった。部屋の窓についた水滴が光を反射してきらき
ら輝いていた。
「天国に来たかと思った」
 窓からベッドに目を移すと、俊夫があたしと同じように眼を瞬かせてた。
「大丈夫?痛くない?」
 あたしが覗き込むと、俊夫は複雑な表情をしていた。
 いつもいじめられる不良にきわどい所を助けられるのは、確かに複雑な状況だ。
「どうして……」
 俊夫はそこで言葉を切った。
「偶然通りかかったんだよ。俊夫が必死になってるのはじめて見た。あの機械がそ
んなに大事だったんだ」
 俊夫が先日から変わってきたのをあたしは思い出してた。
 いつも卑屈な感じだったこの子が、昨日の朝、いじめっ子に反撃してたもんね。
「ありさちゃんって、誰なの」
 何もしゃべらない俊夫に、あたしはさりげなく聞いてみた。寂しそうな歌を歌う
ありさ。あの放送は昨夜からあたしの気持ちを圧迫している。
「聞いたのか?あの時」
 目を見開く俊夫は何考えてるんだろう。自分がそのつもりで受信機の周波数もセ
ットしてたんだろうに。
「あのラジオはなんなの?普通のラジオじゃないよね。トランシーバーみたいな形
してたし……」
「マルチバンドレシーバーって言うんだよ。広帯域受信機。ラジオの電波からテレ
ビの電波、コードレス電話の電波やタクシー無線や警察無線が聞けるんだ。もっと
も最近の警察はデジタル無線になってるから聞けなくなっちゃったけどね」
 なるほど、俊夫はいじめられっ子の受信小僧だったわけだ。なんともネクラな趣
味だな。あたしの表情を読んだ俊夫は少し不愉快そうに口を突き出した。
「どうせネクラな趣味だよ。他人の会話聞いて何が面白いんだって思うかもしれな
いけど、会話聞く事より、電波を受信する事が面白いんだ。言い訳に聞こえるかも
しれないけど」
「ネクラだなんて思ってないよ。変わった趣味だとは思うけど」
 いつになく下出にでるあたしにそろそろ俊夫も不審な感じを受けてきたみたいだ。
 眉間に疑問符が見える。
 でもあたしはその事には何も答えられない。もういじめるの止めるよ、なんて改
まって言えるわけない。だからありがたく思えよとでも受け取られかねない。
「ありさの放送はどんな感じだった?」
 黙り込むあたしに俊夫が聞いてきた。
 どうだったって聞かれても、困るけど。感じたままを言えば……。
「悲しそうだったよ」
「いや、そうじゃなくて、きれいに聞こえた?」
 そういえば雑音であまりきれいに聞こえなかった。あたしがそう言うと、俊夫は
ため息をついた。
「だいぶ近くだと思ったんだけどな。それとも電池がますます弱くなったかな」
「どういうこと?」
 俊夫の目が一瞬きょろきょろした。何か考えてるみたい。
 そして俊夫から聞いた話は、あたしの背中を冷たく流れる汗の筋になって、胸焼
けしそうな水溜りをあたしの心の中に作った。
 俊夫は三回ありさの放送を聞いたらしい。一度目は先月の日曜日だから、今から
2週間くらい前の話だ。その時は何の気なしに聞き流して、二回目の時に、悪戯じ
ゃなくて本当に虐待されてる幼児が電波を出してると確信したのだ。初回の時は子
供の悪戯だと思ったらしい。そりゃそうだろうな。
 2回目が10日前。3回目が3日前。そして、決心した俊夫が指向性のアンテナ
を自分で作って、ありさちゃんを助けるために昨夜は電波を探知しようとしていた
のだった。そこで3人組の不良にからまれたってわけだ。
「無抵抗の幼児を虐待するなんてひどい親だね。あたしも腹が立ってきた。ありさ
ちゃんを助けるの、手伝うよ」
 俊夫は黙って向こうを向いた。手伝うよって言われても、今までの事がある、何
されるかわかんないって思ったのだろう。しかたないよね。
 あたしは自分に納得させようとするけど、後悔と悲しみが渦を巻いて苦しくなっ
た。
 考えてみれば、自分はその虐待親と同じ事をずっと俊夫に対してやってきたのだ。
 無抵抗の人間をいじめて遊んでいたのだ。それにはどんな理由をつけたって、正
当化できるわけがない。正当化するも何も、あたしは悪い事をするつもりでやって
きたのだから。
 俊夫が変わったのはありさの放送を聞いたからだったのだ。
 いつもおどおどして卑屈だった俊夫が昨日の朝は武司にはむかってたもんね。
 女は弱し、されど母は強しっていう言葉どおりだ。守るべきもの、助けるべきも
のを見つけたとき、それまでの自分から、強い自分に変われるということなんだ。
 武司も目を丸くしてたっけ。あたしの胸の中にあるわだかまりがその時の事を鮮
明に思い出させた。まだ苛める側だったあたしは、きっと口を結んだ俊夫の顔を武
司の後ろで眺めていたのだった。

 その朝、教室に入った俊夫をいじめっ子数人が囲んだ。
「よお、オカマ、尻を突付かれた感じはどうだった?気持ちよかったか?」
 身体の大きな弓川武司が背の低い俊夫の顔をかがんで覗き込むようにして言った。
 振り向く俊夫に澄子が右手でVサインを出していた。
「尻を見せてみろよ。切れ痔やいぼ痔になってないか診察してやるぜ」
 無視する俊夫をなおもからかうように武司は笑いかける。
 武司の後ろでは別の二人が尻と腰をくっつけあって結合の様子を演じて見せてい
る。あんあん、もっとー、なんて前に立って尻を突き出してる田中がウラ声で騒ぎ
立てていた。クラスの他の生徒達は、半数は笑いながら、それ以外は興味深げに俊
夫の反応を見守っている。
 俊夫の反応はいつもと違ってた。いつもなら真っ赤になってうつむくか、笑い顔
で言う事聞くかどっちかだ。みんなの前でパンツ脱がされた事も一回や二回じゃな
かったはずだ。
「ああ。すごく気持ちよかったぜ。羨ましかったら雄大に頼んでやるよ。おまえの
ケツも掘ってやれってね。それとも僕がやってやろうか。武司のケツはでかいから
僕のじゃ物足りないかもしれないけどね」
 俊夫の声は落ち着いていた。おーなんて、みんなの歓声が上がった。
 俊夫の思いがけない反撃を受けて、武司は眼を白黒させてたっけ。そんな武司が
おかしくてみんなくすくす笑った。
 悔しそうにした武司が、先生の入ってくるのを横目でみとめながら、俊夫に耳打
ちしたのは、多分、放課後おぼえてろだ。
 その放課後にどうなったのかは知らないけど、昨日の様子では俊夫は武司を無視
して帰ったんだろうな。そしてありさちゃんの探索の準備をしてたんだろう。
 あたしはそんな俊夫が羨ましくなった。誰かのために一生懸命になれるなんてす
ばらしい。そんな機会はありそうで、あまりないのだ。
 どうしても利害がからんじゃうからな。これをやっておいたらいつか恩返しされ
るとか、こいつには貸しを作っていた方がいいとか。
 そんな人助けはきっと偽善って奴であまり良くない。
 偽善の人助けなんて、自分が不利になってきたらすぐに逃げるだけなんだきっと。
 
「じゃあ、僕の頼みもきいてくれるかな」 
 やっとあたしを見てくれた俊夫は、変化した俊夫だった。正面から俊夫に見つめ
られたことなんてあまりなかったはずだ。
「あたしも入れてくれるの?」
 かくれんぼや鬼ごっこじゃないって言うのに、そんな風にしか言えなかった。
「ありさを助ける事が一番重要だからね。僕の気持ちなんか本当はどうでもいいん
だ」
 うんうんと頷くあたしに、俊夫はメモをくれた。
「アンテナの材料……、壊されたからまた作らないと……」
「わかった。買って来るよ」
 あたしはその薄っぺらいメモを受け取ると、立ち上がった。
 金曜の朝だ。とりあえず学校に行って、帰りにホームセンターによることにしよ
う。

『ありさのお母さんは今日はまだ帰ってこない。ご飯はまだかな。お菓子が残って
いて良かったよ。ジュースもあったからラッキーだよ。お母さんが帰ってこないと
押入れに入らなくてもいいの。今日は涼しい所で寝れるかな。もしもし?誰か聞い
てますか?ありさはここに居るんだよ』
 ありさの悲痛な叫び声が鮮明に聞こえてきた。改めて怒りが湧いてくる。
 ありさって幾つくらいの子だろう。声を聞いた感じは幼稚園から小学2年生の間
くらいだと思うけど、ひょっとしたらもう少し上かもしれない。
 虐待された子って、精神的に傷ついて精神年齢が発達しにくいって何かで読んだ
記憶もあるし。どっちにしても自分がどうして痛い事されるのか理解できないまま
で、殴られたりつねられたり、針を刺されたり、ひどい事され続けなのだ。
 小さな手足にたくさんの切り傷やあざを蓄えたありさは必死の思いで電波を出し
つづけてるんだろう。誰かに助けてもらえると信じてるのか、それとも絶望の中で
あがく手が偶然それをつかんだのか。
 怒りと同時に気分が一気に鬱になる。あたしだって似たような事やってたんだか
ら。最低の人間なんだから。

 とにかく、今はありさを助けてあげたい。その事だけを考える事にしようと思う。
 あたしは俊夫に教わったとおりに、アンテナで電波を探しながら、暗い団地内を
行ったり来たりしていた。
 なかなか思うように行かない。いろんな障害物が周囲に立ち並んでるから、電波
は一直線に飛べないんだ。だから探知するのも一苦労する。
 病院のベッドであたしが買ってきた材料から俊夫が作ったアンテナはなかなか優
秀だけど、それを扱うあたしの知識が追いついてないんだ。
 うろうろするだけで、ありさの居場所を探ることなど全然無理のようだ。
 病室での俊夫の諦め顔が思い出される。
「まいったよ。退院は来週だなんて。一週間も足止め食らったらありさを助けるこ
となんて出来なくなる」
 あたしが買っていった材料を弱弱しい笑顔で受け取った時の俊夫の言葉だ。
「どうして?ありさちゃんが死にそうなの?退院してからだって探せるでしょ」
 俊夫が首を振る。
「言わなかったかな。ありさのトランシーバーはもう電池が切れそうなんだ。あの
子に電池を換えることなんてできっこない。第一親のみようみまねでやってるだけ
で、本当に電波が出てるかもわかってないと思う」
「毎日放送してるのかしら」
「毎日じゃないみたいだけど、別に決まりなんて何もないし、昼間だって親のいな
い時にやってるかもしれない」
 俊夫は本当に悔しそうだった。泣きそうなくらいにしていた。
 その時、病室のドアが開いて、男子が一人入ってきた。
 雄大だった。雄大はあたしがいるのを見て驚いて、うつむきもじもじしていた。
「雄大、見舞いに来てくれたのか、ありがとう」
 俊夫が雄大を招き入れる。雄大は持っていた缶コーヒーを2本ベッドサイドのテー
ブルに置いた。
 あたしは決まり悪くてすっかり困ってしまった。でも、言うべきことは言わなけ
ればいけない。自分が変わるためには傷つくことを恐れてはいけないのだ。
「雄大、この前は、ごめん。もういじめないから。許してなんていわないけど、も
ういじめないから……」あたしは雄大の顔をちらりと横目で見ながら出来るだけは
っきり言った。
 雄大の眼が見開かれ、輝いた。その嬉しそうな顔に、あたしも雄大の方をまっす
ぐ向いた。でも、次の瞬間、雄大は顔を真っ赤にして怒り出した。
「ふざけるなよ。俺がどれだけ苦しんだと思ってるんだよ。好きなだけ人を弄んで
おいて、飽きたらもうやめるから許してかよ」
 唇がぶるぶる震えてた。輝いてたと思った眼からは、大粒の涙がぽろぽろこぼれ
だした。
「ごめん。殴っていいよ」
 あたしは雄大が殴りやすい位置にうつった。
 雄大の右手がすっと上がったのを見て、あたしは歯を食いしばる。
 でも持ち上がった手はすぐに下ろされた。
「冗談じゃない。一発殴ってチャラになんかしてやるもんか。ずっと恨んでやるか
ら」
 雄大は涙を拭きながら出て行った。
 そうだろうな。当然だ。俊夫だって本当は雄大と同じように思ってるはずなんだ。
 俊夫を見ると、厳しい表情で唇をかんでいた。二人ともそのあと20分くらいは
黙ったままだった。
 俊夫は何かいいたげだったけど、無理やり言葉を飲み込んでたみたいだった。
 さっきまで何の話だったっけ。そうだ。ありさの事だった。

「いっそのこと警察に言ってみたら?」
 思い切ってあたしが話を戻した。
「だめだよ。何の証拠も無いし、声を録音さえしていないんじゃ、まず警察は動か
ないさ」俊夫が一つセキをしてから言う。
「じゃあ、俊夫の代わりにあたしが追ってみるよ。やり方教えてよ」
 正直言って本当に俊夫がやらせてくれるなんて思ってなかった。
 そんなに信用してくれるわけ無いと思ってたから。というか、自分のやりがいの
ある仕事を譲ってくれるなんて思えなかったから。
 でも俊夫はすんなりやり方を教えてくれた。今までずっとあたしからいじめられ
ていたというのに。
 あたしを許してくれたのかな。そんな楽観論が頭をもたげる。
「ありがとう。でも、あたしの事許してくれたとは思ってないから」
 あたしは、許すよという言葉を半分期待しながらそう言ってみたけど、俊夫はあ
いまいにうんとうなずくだけだった。
 あたりまえだ。人は人を憎むのは簡単だけど、許すのは何倍も難しいのだ。

 しかしこれも難しい。
 電波が強くなったと思って喜んでそっちに走っていくと、とたんにレベルメーター
のブロックが消えていく。あちこちに立ってる6階建てのアパートが屏風のように
立ち並ぶ団地内では発信地を素人が探し出すなんて不可能なんだ。きっと。
 その時、あたしの携帯電話のベルがなった。
 俊夫からだった。低い塀に腰掛けて、あたしは携帯を取り出した。
「どう?電波受信できた?」
 ひそめた俊夫の声は、心配そうに聞いてきた。
「うん。受信はできてるんだけど、方向がよくわかんないのよ」
「おかしいな。アンテナの作り方がまずかったのかな」
「わかんないけど、感度のいい方向に歩いても、すぐに切れたりして一定しないの
よ」
「そうか。その辺、障害物が多そうだからな。わかった、明日ジーパンとTシャツ持
ってきてくれるかな、明日の夜は僕も一緒にいくから」
「病院抜け出すつもり?大胆だね、でも身体はいいの?」
「もうどうって事ないよ」
 そういうことで電話は終わった。ジーパンとTシャツか。あたしのでいいかな。
 まあ何とか着れるでしょう。

 土曜日。予定通りに病院を抜け出した俊夫とあたしは、団地の公園で9時過ぎか
らありさの放送を受信するために待機した。
 9時半、10時半、そして11時まで待ってみたけど、その夜はありさの放送局
はお休みだった。
「放送がお休みという事は親が家にいるって事かしら」
 あたしが言うと俊夫がうなづいた。
「そうだね。昼間は親がいるからできなくて、夜親のいないときにやってるのかも
しれない。普通は逆のはずだけどね。親は夜勤の仕事してるか……それともパチン
コかな」
「パチンコって案外当たってるかもしれないね」
 子供をほっぽりだして親がする事といえばそれが真っ先に思い浮かんでくる。い
かにも幼児虐待してる親の行動パターンだ。
 親がパチンコで遊んでる間、ありさは悲痛な声を夜の空気の中に放射しつづけて
るんだきっと。重苦しい雰囲気があたし達を包む。
「でも、松本と一緒だと不良にからまれる心配がないからほんとに楽だな」
 俊夫のその言葉だけが、その夜のあたしの収穫だった。

 日曜の朝。携帯を見たら澄子からメールが来ていた。
『おーい。最近何してんの、駅前で遊ぼうよ。俊夫は入院中だから雄大でも拉致し
てやんない?』
 今までずっとつるんで遊んでいた仲間だと思うと、なんとも鬱な気分になる。
 もう自己嫌悪するのは嫌やなんだ、あたしは。金輪際あんた達とは付き合わない
から、というメールを送って、あたしはベッドに再び寝転んだ。巣立ったばかりの
ツバメ達が窓の外でうるさくさえずっていた。

「さんざんあたしたちを利用しておいて、何よこれ。自分だけいい子になろうって
の?冗談じゃないわよ」
 澄子の言葉は、もうあんたたちとはつきわなないから、というさえこのメールに
対する言葉だった。利用してたのはむしろあんたたちの方でしょ、と言いたかった
けどやめた。ここで言い合いをしても始まらない。
 午後5時の公園はやっと少しだけ日が斜めになっただけで、まだ暑くてたまらな
い。ここには澄子のメールで呼び出された。
 どうせ落とし前をつけろなんていうのだ。 まるでやくざみたい。

 澄子とかおりの他に、短髪にサングラス男と、黒の短パン男が待っていた。
 気の早いせみの声があたりに湧き上がる。まだ梅雨も終わっていないのに、ほん
の少し晴れ間が続いただけで、彼らは勢いよく夏に向かって走り出すのだ。
「落とし前ってどうするつもり?小指でも落とすの?やくざみたいね」
 含み笑いをこらえて言う。
「あんたのそう言うところが気に入らないのよ。ちょっと強いからって偉そうに。
でも今日はあんたがやられる番だからね。この二人にかわいがって貰うんだから」
 かおりが憎憎しげにメガネをずり上げると、それが合図でもあったかのように横
にいた二人の男たちから殺気が漂ってきた。
 二人は武道の心得があるようだった。
 前と後ろにすばやく回りこむと、笑みを浮かべながらかれらは襲い掛かってきた。
 前面のサングラス男が前蹴りから正拳突きのコンビネーションで攻め立てる。
 周囲に人影はない。さっきまで犬の散歩などをしていた人たちも、不穏な空気を
感じたのか早々と立ち去っていた。
 防戦一方だ。一人だけなら何とかなるけど、もう一人がフォローしてる中で一人
に集中して攻撃したら、もう一人の男に致命的な隙を与えることになる。
 すばやく動いて木立を背にした。サングラス男の回しげりをかわして、その隙の
出来た左ひざ内側をつま先でえぐってやる。倒れる男のしかめた顔面に膝を入れよ
うとした時、短髪男にタックルを受けた。太い腕が巻きついて、もがいてももがい
ても、絡みつくくもの糸のようにあたしの自由を奪い取る。
 立ち上がったサングラス男の拳をみぞおちに受けたとき、あたしは負けを確信し
た。
 走りよった澄子たちに、用意していたロープであたしは手首を縛られた。
 抱えられて木立の中に連れ込まれるあたしの頭の中では、一昨日の夜聞いたあり
さのかすれた歌声が聞こえ始めた。
「何だあんた、生理中だったの」
 押さえつけられたあたしの足元で下着を剥ぎ取ったかおりの目の前に、捩れた紐
が現れたのだ。かおりは面白そうにあたしの足の間からひょろりと出てる紐を軽く
引っ張る。
「くっさー。これじゃ彼氏達がかわいそうだね」
 澄子はあたしの股間の毛をわしづかみにすると思い切り引っ張った。
 ぶちぶちいう音と共に、さすような痛みが湧き上がる。でも羞恥心の方が強いか
ら痛みはそれほど気にならなかった。
「うへー。こんなの初めて見たぜ。俺に引っこ抜かせろよ」
 短パン男が太い腕を下ろしてきた。
「お、結構抵抗あるね。締まりいいじゃん」
 短パン男は楽しむように紐をゆるゆる引っ張る。たっぷり時間をかけていたぶる
つもりのようだ。芝生に押さえ込まれた顔を横に向けて、見回してみた。
 遠くに人影が見えたけど、すぐにいなくなる。
 誰も助けようとなんかしないのだ。下手して火の粉がかかってきたら馬鹿みたい、
そんな風に考えるのが、今の世の中当たり前なのだ。足を広げられて、四人に見下
ろされながら真っ赤なそれは引き抜かれた。
 頭の中が焼ける鉄みたいに真っ赤に火を噴いてるみたいだった。
 多分俊夫もあの時こんな感じを受けていたのだ。天罰てきめんか。
「さっさとやる事やんなよ」
 あたしの声はふるえていた。怒りに。全然平気に声を出せると思っていたのに、
悔しかった。

「ふふふ、この写真俊夫にも送ってやろうっと。君の仇はあたしらが討ってやった
よなんてね」
 かおりの手には、最近売り出されたばかりのカメラつき携帯電話が握られていた。
 そういえばあの最中に変なシャッター音が聞こえていたっけ。
 あたしはもうどうでも良かった。自分がどうなろうが知ったことじゃない。
 今はありさを助けたいだけ。憎憎しげに笑う二人だけど、あたしの反応がお気に
召さなかったのか、急に不機嫌な顔で蹴りを入れてきた。


「でも、ありさちゃんが見つかったらどうするの?」
 俊夫はもうあたしの強姦されてる写真を見たのだろうか。
 なんとなくそれまでと感じが違うから、多分もう見てるんだろうな。
 でもあたしは知らない振りをすることにした。両方とも知ってるなんてなったら、
気まずくてまともにしゃべれないから。
 無理やりありさ探索の話題を進めた。
 これは結構重要な問題だ。そのまま家に乗り込んでいって虐待止めろなんて言っ
ても始まらない。親子の問題はあたし達みたいなガキではではどうする事もできな
い。ちゃんとした第三者に解決してもらうほかないのだ。
「とりあえず家がわかれば、警察や人権擁護なんとかに連絡したりしてどうにかな
るんじゃないかな」
 俊夫の答えも歯切れが悪い。警察に相談するなら何か証拠がいるんじゃないの?
 でもテープレコーダーの準備なんかしていないし……。
 俊夫の着てるあたしのTシャツはちょうど良かったけど、ジーンズは太腿が苦し
そうだ。ヒップはだぶだぶなのに、ウエストは窮屈。
 なんだかあたしがよっぽどの尻デカ女みたいだ。
 昨日と同じように二人で団地の公園に来ていた。運の悪い事に小雨がぱらついて
た。俊夫は受信機を透明のビニールで包んで、防水加工していた。
「雨は電波が弱まるからなあ。ますます望み薄だ」透明なビニール傘の中で俊夫の
首が弱弱しくふるえた。かと思うと、ぶすっと黙って何か考え込んでいる。昨夜と
比べても雰囲気悪い。
 俊夫のあたしに対する複雑な気持ちと、ありさを心配する気持ちがその沈黙の中
で渦を巻いてるように思える。

 9時半になった。
「そうだ。ここに居るより、あそこの上に登ってみよう。その方が電波も受けやす
いはずだ」俊夫が立ち上がって、丘の上の住宅地を見た。この辺りと比べて、土地
も広く取った一戸建ての外見のきれいな住宅が立ち並んでる住宅地だ。あたし達は
汗と雨でじっとり湿ったジーンズを無理やり動かして、そこまでの道のりを歩いた。
 団地の周辺と比べて、街灯が多くて明るい町並みだ。そのあたりにも貧富の差っ
ていうのが見て取れるみたいで気分が悪い。
 受信機の電源はずっとオンにしてるから、微かな雑音が雨の中二人を包んでる。
 ありさを見つけたい。そして助けてあげたい。それはあたし自身の罪の償いとか
じゃなくて、心の底から願ってる事だった。
 そして俊夫も同じ気持ちなのが嬉しかった。時折弱音を吐くし、そんな時は昔の
俊夫が顔を出すけど、自分自身で気持ちを奮い立たせようとしてるのが頼もしい。
 弱気に負けない勇気というのだろうか。
 10時になった。ありさの放送があるとしたら、もうすぐのはずだ。
 俊夫は魚の骨のような八木アンテナを持ってゆっくりと自転するようにして電波
を探してる。時折雑音の質が変わるだけで、まだありさの放送は受信できない。
「君たち、そこで何してるんだ」
 声がするまで全く気付かなかった。懐中電灯を持った二人組みの男は、青い制服
を着てごつい体つきをした警察官だった。
 やばい。補導されるのは困る。俊夫に目配せをして、あたしは走り出した。邪魔
になる傘も放り投げて。
 俊夫もすぐ後をついて来る。う、とか痛っとか言いながら。折れた2本の肋骨は
まだくっついていないのだ。これじゃ警察を振り切るのは無理かもしれない。
 いったん階段を駆け下りて、右に曲がり、再び急坂を登る。待ちなさいって言い
ながら警察官もしつこく追ってくる。
「僕はもう駄目だ。松本、これもって行ってくれ」
 俊夫が受信機とアンテナをあたしに渡そうとする。
「傷が痛むの?」
「いや、傷の方はそれほどでもないけど、運動不足がたたってる……」
「しっかりしてよ。ありさのためなんだから」
 いっそのこと抱えて走りたいくらいだったけど、いくら俊夫が貧弱な体つきとは
いっても40キログラム以上はあるんだから無理というものだ。あたしは目の端に
写った雑草だらけの造成地に俊夫を引っ張っていった。
 そこの丈高い雑草の中に身を伏せる。水溜りが冷たくて、気持ち悪い。いてて、
と腹ばいになった俊夫があげる声にひやりとしたけど、警察官の持った懐中電灯の
明かりは揺れながら通り過ぎていく。まったく、ありさも見つからないのに、補導
だけされるんじゃ割に合わないってもんだ。
 時計を見ると10時20分になっていた。
「ひょっとしたら聞き逃したかもしれないな。何でこういつも邪魔が入るんだろう、
正しい事をしてるはずなのに……」
 俊夫も勘違いしてるみたいだ。
「神様なんかいないってことだよ。その点はあきらめるんだね」
 あたしはもうずっと何年も前に気付いてた事なんだから。

 その時、天使の歌声が聞こえてきた。鳩ぽっぽを歌う天使の歌声は雨の降る空か
ら、くっきりとした輪郭を持ってあたしと俊夫の間に舞い降りてくる。
 ありさの放送だ。この近くなんだ。こんなにくっきりと聞こえるなんて。
 いったん遠ざかった警察官の足音が、急いで引き返してきた。

「そこに隠れてるんだろ。おとなしく出てきなさい」
 思ったより若い声が道路の方から聞こえてくる。
 横に隠れていた俊夫が、いきなり笑い出した。どうしたの。ありさの居場所がも
う少しでわかるというのに、諦めたの?

「ちょうどいいじゃないか。これを聞いてもらえば話が早い。ありさの事説明する
手間が省けるよ」
 俊夫は笑いながら腹ばいから仰向けになった。あたしも可笑しくなって笑ってし
まった。堪えようがないくらいにおなかがひくつく。踏み込んでくる警察官に雑草
が抵抗して音を立ててる。あたしも仰向けになる。顔にかかる雨粒が心地よかった。

「俺は、佐恵子を許すよ」
 俊夫の声に一瞬ぎくりとなった。俊夫の声が、まるで父の声にそっくりだったか
らだ。
 警察官の懐中電灯の光で、俊夫の濡れた顔がはっきり見えた。優しく笑いかけて
くれるその笑顔も、あたしの大好きだった父の笑い方にそっくりだった。





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