
1993年 ルナもそろそろお年頃 どこかに良いお婿さんは居ないかな?
でも なかなか良い牡犬がいません あれこれ考えて サルーキの本場アメリカなら良いお婿さんが見つかるかも知れない!早速 ハンドラーの須田さんに相談、しかし 彼は少し消極的でした 何でも アメリカのサルーキのブリーダーさん達は日本に対してあまり良い印象を持っていなかった様です、それは日本人の犬の飼い方が悪くサルーキも屋外で小さい犬小屋にクサリにつないで飼っていると思われていたようです、しかしそれは とんでもない誤解です それに今後 良い血統の犬が入らないなら日本のサルーキはダメになる!この熱い思いを伝える為に再度お願い そして待つこと1年近く、 トレツキーの話が舞込んできました、シーウインズの牡犬で当時3歳半 色はブラツク、写真は後日送られてくる との事 しかし 私は写真をみる前に即 OK
の返事をしていました。
それから約2ヶ月後の1995年1月末に 彼は遥々フロリダのオーランドから成田経由で関西新空港に到着しました 約48時間の長旅です。
関空の検疫センターから電話で入所の連絡が入り 少し元気がない様子で しかも 部屋の金網を食いちぎったとの連絡でした 二日間何も食べてなかったのでお腹がすいていたらしく 金網でも良いと思ったのか? 約2週間 センターで検疫を受けますが面会は可能とのこと 私達は翌日 すぐ 面会しに関空へ出かけました。
関空へ行く道すがら 色んな事を考え、 今まで成犬を飼ったことは無く ましてやサルーキの性格もある程度知っていたので 先行きがとても不安になってしまいました。
検疫センターは空港連絡橋を渡り すぐの海辺にあり 新空港らしく綺麗な平屋の施設でした 受け付の職員の方に話を聞くと あの阪神大震災の直後のため 今はトレツキーのみの貸切状態で サルーキ自体も始めての入所(大阪空港時代も含め)だそうで とても可愛がられている様子でした。
今は庭に放して遊ばせているとの事、さっそく面会のため靴を履き替え消毒を受け中に入れさせてもらいました、施設の説明を受け中庭へ いよいよ対面です。
扉をあけ庭に出ると ちょうど正面に彼は立っていました なんと可愛い瞳をした まるで女の子様な顔 そして それとは対象的なバランスの取れたたくましい体、
関空検疫センターの庭 1995.01.31 |
私達がゆっくり近づくと 彼は少し後ずさりしました そこでトレツキーと名前を呼ぶと 太い尾を微かに揺らし 照れくさそうに近よって来たのです、この時点で今までの不安や緊張はすべて消え去りました。
彼は まるで遠い昔から私達のことを知っていたかの様に親しく接してくれました、 約1時間半ぐらいトレツキーと過ごし 帰る時間になると 悲しそうに頬を摺り寄せて来ます 「また逢いに来るからね」と言いながら せっない気持ちを押さえてセンターを出ました そして車に乗り センターの側道を通過した時、 なんと トレツキーが金網伝いに車を一生懸命追って来るではありませんか、
まるで映画のシーンを見ているような感動とせっなさが広がり 涙をこらえながら帰路につきました。
その後2回ほど面会に行き 無事に検疫も終わり家へ連れて帰りました、
トレツキーの来日は何もかもが順調に事が進み 費用に関しても この時 円高ドル安の底値状態と すべてがうまく進んで行きましたが 最後にトラブルが発生、なんとAKC(アメリカンケンネルクラブ)が輸出用の血統書を発行ミス
トレツキーと同胎犬の血統書を間違えて発行していたのです このため輸入の手続きは始めからやり直し 一旦発行された書類を差し戻して再発行するのは予想以上に時間がかかり 当初4月のJKC本部展(日本で一番大きなドツクシヨー)でお披露目するつもりでしたが 登録完了はその5ヶ月後の9月になってしまいました。
今考えてみると このトラブルのために来日直後の半年間を家でのんびり暮らせたので彼にとっては良ったと思います。
その後約3年間ドツクシヨーの為 家とハンドラーの所を行ったり来たりの生活が続きましたが 今は 家庭犬としてノンビリ暮らしています、
しかし 当初の目的のルナとの結婚は なかなか果たせず、念願のルナとの子犬はいつになることやら、、、、
「犬の世界も男と女の関係は複雑でなかなか思うようにはいきませんね。」