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『トルーマン・ショウ』 WASPの真実の姿

 ジム・キャリー主演の『トルーマン・ショウ』(九八年)は、単なる娯楽映画ではない。そこに隠された寓意を見逃してはならない。
 この作品はハリウッド映画のアメリカの人種構造を見事に象徴している。シーヘブンという小さな島自体が、映画のセットとなり、そこに生活する実在の人物トルーマン・バーバンク。彼の誕生、成長、恋愛、結婚。彼の生活の全てを、生放送で二十四時間中継する番組が、「トゥルーマン・ショウ」である。トルーマンの人生は、普通の人の人生と比べて、著しく突飛なものではない。普通に恋愛したり、失恋したり。仕事も保険の外交員だったり、ごく普通の平凡な男がトゥルーマンである。平凡だからこそ、世界中の人々がトルーマンに感情移入し、彼の些細な行動に注目する。観客は、自分と等身大の存在をテレビの中に見出す。そして、ジム・キャリー演じるトゥルーマンは、普通のアメリカ人、WASPとして設定されている。そして、トルーマンが一般のアメリカ人と大きく異なるのは、彼はシーヘブンから出られないこと。自由を完全に奪われていることであろう。
 「トルーマン・ショウ」のプロデューサー、クリストフを演じるのがエド・ハリスである。クリストフは、トゥルーマンに起こる全ての出来事を管理し、演出する。道行く人々や車、テレビやラジオの内容、さらに雨を降らしたり、雷を起こしたり、天候までも自由自在に扱うことができる。まさに、それは全脳の神であるかのようだ。それだけ強力な力をクリストフは握っている。
 エド・ハリスはユダヤ人ではないし、クリストフは典型的なユダヤ名ではないが、彼はユダヤ人として登場していると思われる。彼の顔は、ユニバーサル映画の創立者アドルフ・ズーカーにそっくりである。そう思ったのは、私だけだろうか。ズーカーもハリウッドにおいて絶大な権力を握っていたし、彼はユダヤ人だった。そして、アメリカのテレビ・プロデュサーは圧倒的に、ユダヤ人が多い。そして、クリストフは月にある高層ビル223階にある放送スタジオから、「トルーマン・ショウ」を放送する。近未来の壮大な設定だが、ここには一つの意味が隠されている。「22」はユダヤ人の聖数である。したがって、そこで全権を握るクリストフはユダヤ人であることを意味する。そして、このクリストフに神のイメージがオーバーラップされていることは、彼の名前が示す。単に「クリストフ」といってもわかりずらいが、「Christof」というつづりを見れば、誰にもその意味はわかるであろう。クリストフとは「Christ (キリスト)」にofをつけただけである。クリストフはキリストそのものである。キリストとは、救世主という意味である。クリストフは救世主であり、神の代理人であった。キリストと言えば、イエス・キリストその人をさすと思われがちだがそれは違う。また、イエス・キリストは、イエスが名で、キリストが姓のように思っている人もいるかもしれないが、それも違う。キリストは日本語にすれば救世主である。「イエス・キリスト」とは「救世主イエス」という意味である。キリスト教における、救世主はイエスのことであるからも「イエス=キリスト」であるが、ユダヤ教にとっての救世主はいまだ登場していないと考えられる。したがって、ユダヤ人にとっては、「キリスト」は「イエス」ではないから、「クリストフ」という名前が、必ずしもクリスチャンの名前であるとは、決め付けられないだろう。
 人工島にとらわれ、全脳の神クリストフ(ユダヤ人)のなすがままにしかならないWASPトルーマン。ここには、現代アメリカの縮図がある。テレビや映画などのメディアを握るユダヤ人が、アメリカのマジョリティであるWASPを完全に動かしているという現実である。
 監督のピーター・ウェアーは、こうした二つのせめぎ合う、集団の文化的葛藤を描くことを好む。『刑事ジョン・ブック 目撃者』では、ハリソン・フォートセ演じる刑事が、アーミッシュという異文化に入り込むことで生じる、文化的ギャップが描かれていた。『モスキート・コースト』では、アマゾンの奥地に入り込んだ発明家の物語で、最も文明のないところへ文明の建設者である発明家が入り込むという、文化的ギャップが描かれていた。そして、この『トゥルーマン・ショウ』では、WASPとそれを管理するユダヤ人とのせめぎ合いが描かれる。
 最初に、『トゥルーマン・ショウ』を見たときに、あまりにカタルシスのないラスト・シーンに非常に失望した。生まれてから全てを管理され、監視され、テレビで放映されてきた事実を知ったトゥルーマンは、全脳のプロデューサー、クリストフに対して激しい怒りすら表さない。感情的なアメリカ人のことだから、これくらいのことをされたら、怒号を浴びせてもおかしくない。この人工的なセット、ニュー・ヘブンをぶち壊してやりたいという衝動が起きてもおかしくない。それなりの、激しいラスト・シーンを期待して映画を見ていくが、トゥルーマンはただ自由が欲しいといって、怒りを表すこともなく、穏やかな表情で、扉からニューヘブンを後にする。それだけのラスト・シーン。あまりにも拍子抜けであった。しかし、ユダヤ対WASPの対立構造をふまえてみると、このラストは完全に理解できる。つまり、ユダヤに対して立ち向かうことも、戦うこともできないWASPが、このラストで露呈するのである。ただ、自由をくれと、哀願するしかないあわれなWASPの姿がここに描かれる。
 これは『今を生きる』のラストにも共通する。WASP少年たちは、管理教育に対して反感を表明する。その手段は、単に土足で机上に立ち、無言で熱血教師を送るということだった。
 結局、腰抜けのWASPは、いまやこの程度の反抗しかできないというユダヤ人の優越感が臭って来る。


『スネーク・アイズ』       snake_1.gif (10317 バイト)

<注意 ! ! 完全ネタばれ。映画未見の者は決して読むべからず。> 

 こんなに伏線を張りまくった映画を見て、誰が面白いと思うだろうか。案の定、『スネーク・アイズ』の評価は、あまり高いものではない。しかし、この伏線の嵐のような映画は、「伏線好き」の私にとっては、垂涎ものである。『スネーク・アイズ』の序盤の全シーン、全カット、全セリフは終盤の謎解(実際にははっきりと謎は解かれないが)のための伏線である。これだけ周到に伏線が張られた作品は少ない。最近では『LAコンフィデンシャル』が超伏線映画として記憶に残っている。『スネーク・アイズ』は、『LAコンフィデンシャル』ほど完成度は高くないし、デ・パルマが監督なのだからもっとクオリティの高い映像を作って欲しいという不満はあるものの、デ・パルマ、ファンの私には十分満足を与えるものである。ちなみに、ブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』は、私の生涯ベスト・テン映画の一本に入ります。
 ラストの赤いルビーが、発見されたがっているかのような怪しげな輝きを放っていたように、『スネーク・アイズ』という映画は解読されるのを待っている。「解読してみろ」というデ・パルマの声が、映画の端々から聞こえてくる。では、『スネーク・アイズ』の謎を、つつしんで解読させていただこう。
 「スネーク・アイズ」とは、サイコロの1のゾロ目である。サイコロの一の目は、大きな赤い丸である。それが二つあるので、ヘビの目に似ているからである。そして、カジノのダイス・ゲームでは、「スネーク・アイズ」は、親の一人勝ちを意味する。つまりそれは、カジノのオーナー、パウエルが捕まることもなく生き延びたということにつながる。しかし、それはパウエルの安泰を示すものではない。
 「スネーク・アイズ」とは、親の勝を宣言する時に使われる。つまり、チェスの「チェックメイト」、将棋の「王手」と同じニュアンスで使われるらしい。劇中でも、リック(ニコラス・ケイジ)とダン(ゲイリー・シニーズ)の間で、「おまえの負けだ。もう終わりだ。」という意味で、「スネーク・アイズ」という言葉が使われている。映画の最後で、コンクリートに埋め込まれた、赤いルビーが映し出される。その意味は「もう終わりだ」。誰が、終わりなのか。まんまと、生き残ったはずのパウエルである。それはなぜか。
 その前に、赤いルビーが劇中のどこに登場していただろうか。赤いルビーは、赤い髪の女がしていた宝石である。「そんなのわかんなかったよ。」というのは、まだまだ映画の見方があまい。なぜなら、そこにはかなりたくさんのヒントが隠されているからである。ダンをおびきだした赤い髪の女。セリフでは、「燃えるような赤い髪の女」と表現されることで、「赤」が強調されている。そして、女の来ているドレスも「赤」だった。「赤」い髪の女が、「赤」ドレスを着て、「赤」い指輪をしてたいたわけだ。そして、「赤」いドレスの模様を詳しく見ると、そこには「蛇」の模様が。いえ、多分「龍」ですが、「蛇」の模様のドレスを来ている女の人はさすがにいなので、この「龍」は、蛇を暗示しているわけである。たまたまこの赤い髪の女が、偶然に指輪をしていただけではないことが、周到に準備された描写によってわかる。ちなみに、「赤いドレスの女」といえば、『殺しのドレス』を思い出さねばならない。

    snake_2.jpg (12555 バイト)  赤いルビーをした赤い髪の女。
 赤いドレスには、蛇(龍)の柄が。
 
 
 さらに追加しておけば、「女におびき寄せられて、長官のそばをはなれてしまった。」とダンが、リックに告白する。そしてさらに、「女の胸に注意を奪われて、大切なことを忘れてしまった」と続ける。これは明らかに、我々観客に向けられた、デ・パルマからの挑戦状である。「女の胸に注意を奪われて、大切な女の指輪を見落としていませんか」という、観客に対する皮肉である。案の定、彼女の指輪を見落とした人はたくさんいたようです。
 「赤い髪の女」とボクサー、タイリーにダウンのタイミングを指示した男は、ダンにあっけなく殺されてしまう。そして、遠くにはミキサー車がくるくると回っている。なぜ、こんなところにミキサー車がいるのかおかしいなあ、と一瞬思ったが、それはラストの赤いルビーへの伏線であり、ここにミキサー車が存在しているのは、このカジノが大改装されるという伏線がはられているので、当然のこととして理解でききる。
 「赤い髪の女」は、コンクリート詰にされて、そのルビーの指輪が、壁から、「スネーク・アイズ」のように見えている。「スネーク・アイズ」の意味は「もう終わりだ」、この指輪の先からは死体が発見され、カジノのオーナー、パウエルの運命は終わりなのである。ちなみに、「スネーク・アイズ」が赤いルビーを示すことは、タイトルロゴを見てもわかる。
 パウエルの悪事が近い将来ばれることは、他の描写によっても支持されている。それは「赤い髪の女」と一緒に、殺されたイャホーン男である。イヤホーン男は、八百長を引き受けたボクサーのタイリーに、ダウンするタイミングを支持する。その合言葉は、「痛みを知れ !」非常に不自然な言葉である。聞いた瞬間に、うさんくさいとわかる。つまり、何らかの伏線になっていることが、露骨に示される。これは、デ・パルマが、我々に与えたヒントの一つでもある。「痛みを知れ!」誰に対しての言葉なのかを考えろということである。陰謀をたくらみ長官暗殺の黒幕であった軍人ダンは警官に射殺される。八百長に荷担したタイリーも、後半姿が見えずに行方不明になっているので恐らく殺されたのだろう。陰謀を暴露して表彰を受けたリックだが、麻薬と賭博の容疑で起訴される。罪をおかしたものは、罰を受ける。「痛みを知れ!」陰謀の黒幕であるパウエルも、間違いなく痛みを知ることになる。伏線は、それを示しているのだ。
 「罪」、これは『スネーク・アイズ』の隠された重要なテーマなのである。実は、私は映画を見る前からそれがわかっていた。というか、予想していた。『スネーク・アイズ』には、何か大きな謎解きがあるらしいとは、見る前に聞いていたが、その謎は「聖書」と関係しているのではないかと、勝手に予想していた。というのは、多くのハリウッド映画が、裏の意味として「聖書」的な解釈を隠していることが多いからである。
 「スネーク」「蛇」の聖書的意味は、何か。それは「罪」である。「創世記」のアダムとエヴァのエピソードで、蛇はエヴァに禁断の果実を食べるよう誘惑する。エヴァは神の命令にそむき、禁断の果実を食べてしまう。神にそむいた人間は、原罪を背負うのである。
 この映画の舞台となるアトランティック・シティーは劇中で「Sin City(罪の街) 」と呼ばれている。これは、偶然とは考えられない。の街を舞台にを背負った人間たちが、痛みを知るのが、『スネーク・アイズ』という映画である。「痛みを知れ」という言葉も、おそらく聖書からの引用だろうが、クリスチャンでない私には、具体的に何章何節からの引用かはわからない。
 パウエルの悪事が発覚するというのは、他にも伏線がある。カジノの前で再開したリックとジュリア。そこでリックがした話が、灯台の話し。昔、海賊が暗礁に灯台を作って船をおびき寄せて、乗り上げたところを襲ったという。はっきり言って、全く場違いな話しである。なんで、久々にあったジュリアに、教訓めいた話しをしなければならないのか。。明らかに、何かを暗喩している。「ストーリーに関係しています」と。露骨に示されている。このエピソードの後、すぐに映画は終わり、土木作業員が円柱状の石をクレーンで吊り上げる。この円柱状の石、明から灯台を意識している。というか、このカジノのシンボルとして屋根に灯台のモニュメントを載せるのかな、と早とちりしてしまったくらいだ。。すると赤いルビーは、灯台の光を意味することになる。「海賊(=悪人パウエル)は、暗礁(パウエルの隠れ家)に灯台(円中の石)を立てて、人の目を引き付ける」という意味である。人の目を引き付けた結果どうなるかは、誰にも予想がつくだろう。
 大どんでん返しを期待していた人には、最後の赤いルビーは、たいしたことのないオチに見えるかもしれない。しかし、このように振り返ってみると、『スネーク・アイズ』は意外性のおもしろさの映画ではなく、必然性の映画といえる。しつことほど、伏線がはられて、証拠とヒントがちらばされているのだから。 
 私が『スネーク・アイズ』で最も意外だったのは、ハリケーンがどうストーリーにかかわってくるか、という点である。映画のファースト・シーンはケーブル・テレビの女性キャスターが、大雨のカジノの前がら、これからボクシングのタイトル・マッチが行われるというビデオ撮りをしているシーンである。そして、キャスターは天気を「ハリケーン」と言ってしまったため、同じテイクをもう一度撮らされる。明らかに「ハリケーン」が、ストーリー関係してくるという、伏線なのである。案の定、重要な部分で「ハリケーン」は生きてきた。
 ダンに追い詰められた、リックとジュリアは、命の危機に瀕する。そこに、パトカーがスリップして、壁を突き破ってくる。突然、警察に包囲されたダンは、反抗すると思われて射殺される。こんなにタイミングが良く、丁度パトカーが、まさにこの場所に突入してくるのはおかしい。全くのご都合主義だ、と感じる人もいたかもしれない。しかし、私はこのシーンで、完全にデ・パルマに負けたと思った。カジノのシンボルの丸い看板は、数回に渡って、映し出されていた。これもまた伏線で、この丸いタマが、ストーリーに絡んでくることは、映画的に見て明らかなのである。つまり、「丸い玉」と「ハリケーン」の伏線が、丁度このクライマックスまでに残されていた。この二つのファクターが映画のマ最後でどう収束するのか、私は全く予想がつかなかった。それが見事に収束するのが、パトカーの突入なのである。つまり、パトカーの突入は偶然ではなく、映画的必然なのである。
 伏線がある。その伏線を見て、どう映画が展開していくか、いかに伏線が収束していくのか。それは、映画全般に通じる醍醐味なのだが、普通の映画は、ここまで細かいところまで作られていないのである。そうう意味で、『スネーク・アイズ』は、シナリオのおもしろさを、まさに体現させてくれる作品なのである。
 シナリオ的なおもしろは凄く楽しめる一方で、映像的には大いに不満が残る。映画史上最大の長回し。現場の苦労は、相当なものであっただろうが、結局照明の位置などが限定されるせいか、映像のクオリティとして非常に低いシーンになってしまった。私は、この長まわしに全く緊迫感を感じなかった。デ・バルマの本来の味わい、短いカット割を見せて欲しかった。主役のニコラス・ケイジ。個人的にあまり好きではないが、演技的にも一人だけ異常にテンションが高くてういてしまっている。
 デ・パルマ・ファンの私としては、『スネーク・アイズ』は完全燃焼できない、物足りない作品になってしまった。

『隣人は静かに笑う』

 いきなりラスト・シーンに言及してしまう。このラスト・シーンは意外である。といっても、「全く予想できなかった」という意味で意外というよりも、ハリウッド映画でこれほどアン・ハッピーなラストは少ないという意味での意外さである。
 大事件における冤罪、死んだ人間への罪の押し付けは、この映画の重要なテーマであり、伏線も十分張られていた。したがって、このラスト・シーンは、予想できなくはなかったが、改めてこの悲惨なラスト・シーンに直面すると、「凄いなあ」と思ってしまう。つまり、テロリストを憎む主人公マイケル・ファラディ(ジェフ・ブリッジス)が、隣家に住むテロリストの陰謀に気付き、テロを防ごうと命懸けで戦う。しかし結果は、彼の完全な敗北。彼は爆死し、さらにテロの実行犯にされてしまう。そして、真犯人とその一味は、捕まることなく生き延び、次のテロ工作へと向かう。全く救いのないラスト。ハッピーエンドが主流を占めるハリウッド映画の中で、やはり異色な映画である。
 サスペンスとしてこの作品を評価すれば、意外であり異色ということになるわけだが、社会派映画として見れば、実に重要なテーマを含んでいる。大事件における冤罪、死んだ人間への罪の押し付けである。最も有名な例を挙げれば、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件における、オズワルドである。JFKの暗殺がオズワルド一人の単独犯でないことは歴然としているにもかかわらず、犯人はオズワルドというのが定説になってしまっている。他にも、例はたくさんあるが、我々はそうした重大犯罪の一面をどれだけ正確に知らされているか、という問題を真剣に考えると、この映画の真の恐ろしさに気付くのである。
 『隣人は静かに笑う』というタイトルは、この意外なラストを暗示しているが、あまりセンスの良いタイトルとは言えない。というのは、現題の『アーリントン・ロード』の持つ、微妙なニュアンスが完全に失われてしまっているからである。『アーリントン・ロード』は、主人公が住む住宅が面する通りの名前であるが、『アーリントン・ロード』という名前は、我々にいくつかの情報を与える。「アーリントン」といえば「アーリントン国立墓地」が思い出される。「国立墓地」の名前が示すように、「アーリントン国立墓地」には、国家のために犠牲になった人、殉死した人たちが葬られている。戦死者が大部分であるが、例えばスペース・シャトル・チャレンジャーの爆発事故で死亡した宇宙飛行士や、先に紹介したケネディ大統領なども葬られており、戦死者に限定されるものではない。映画において「アーリントン国立墓地」は、よく登場する。例えば最近では、『プライベート・ライアン』のファースト・シ−ンとラスト・シーンは、アーリントンであろう。私もワシントンに行った際、当然のことながらアーリントンを訪れた。敷地内は広大でバスに乗って回るわけだが、何度もの戦争を戦ってきたアメリカの歴史、戦争は死者の犠牲の上に成立しているという当たり前の事実、そして常に正義をふりかざす国家アメリカは多くの死者によって支えられていたことを知ることができ、貴重な経験をできた。映画ファン、あるいはアメリカについて学びたい者にとっては、一度は訪れるべき場所である。
 そして、このアーリントン墓地に葬られているのが、主人公マイケルの妻である。彼女はFBIの任務中に殉死した。国家のために死んだのだ。劇中、彼女の葬られている墓地が、アーリントンであるという描写はなかったように思うが、国家のために殉死した彼女は当然「アーリントン国立墓地」に葬られるであろうという常識が、アメリカ国民に広く浸透していることを想定して、敢えて紹介するまでもないため、そうした描写が割愛されたのであろう。
 そして、『アーリントン・ロード』というタイトルは、当たり前であるが、この映画の舞台がアメリカの首都ワシントンDCであることを示唆している。まあ劇中に登場するキャピタル(国会議事堂)を見れば、そんなことはすぐに分かる。しかし、実はラストで爆発する建物「FBI本部」があるのがワシントンであり、ワシントンという舞台設定は、その伏線とも考えられるであろう。
 さらに『アーリントン・ロード』には、「国家のために殉職する者」というニュアンスが含まれているだろう。それは、マイケルの妻のことであるが、実はマイケル本人が国家、あるいはアメリカの人々を救おうと努力する過程で命を落とすというラスト・シーンを示唆してもいるのだ。そうした何通りもの意義から、「アーリントン」という言葉を日本語タイトルにも残して欲しかった。
 とはいっても、『隣人は静かに笑う』が、素晴らしい作品であるとは、言い難い。例えば、妻が死亡する原因となった事件の描写があまりにもトンマである。銃を持って突入する前に、もっと内偵できたのではないか。少なくとも24時間の張り込みを続けていれば、事件の当事者が、家にいなかったとうことは起きないであろう。家に何人の人間がいるかも確認せずに、何千丁の銃と膨大な弾薬を所有している家に突入するということがありえるだろうか。
 マイケルもテロリストの専門家として序盤では、卓越した洞察力と調査力を発揮するのだが、いざテロを阻止しようという後半の行動があまりにお粗末ではないか。テロの実行犯が単に隣人の男だけではなく、組織であると判明したにも関わらず、彼は孤軍奮戦で自動車を爆走させるだけである。子供が誘拐され冷静さを失っているとはいえ、武器も何も持たずに、百戦錬磨のテロ組織から子供を救出することは、どうみても不可能である。オリバーの脅迫に負けて、友人の黒人FBI捜査官に全く相談できないというのも、あまりにも愚かしい。そうしたディテールの詰めの甘さが目立つ。
 既に書いたように、この映画はサスペンスと見るよりも、冤罪の成立過程を暴露した社会派映画と見た方が、楽しめそうである。

arlington1.jpg (12391 バイト)  シェリル・ラング役のジョーン・キューザックは、ハッキリ言って怖かったです。