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  ハンニバル

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 『ハンニバル』 『ハンニバル』を見て何週もたつが、その批評をうまくまとめられないでいた。衝撃のシーン、「脳の活き造り」シーンに対する判断をつけかねていた。映画を見ていくつかの疑問をいだいたが、原作に目を通してその謎が全て解けた。

 「脳の活き造り」シーンに対する最大の疑義、それはなぜレクター博士はクラリスに脳を食べさせなかったのか、というものである。 『羊たちの沈黙』におけるレクター博士とクラリスの関係性をふまえると、このシーンでは、レクター博士はクラリスに脳を食べさせなければいけないと思う。レクター博士とクラリスが脳を食べながら楽しく会食するというのが、クライマックスとして必然である。しかしながら、映画ではレクター博士は、クレンドラーに自分の脳を食べさせて、それをクラリスに見せるに留まる。

 「なぜ、レクター博士はクラリスに脳を食べさせなかったのか?」 この疑問は、原作を読むと完全に解消された。すなわち、原作では、レクター博士はクラリスと、脳を食べながら楽しい会食をするのである。すなわち、映画は原作の重要なシーンを完全に、書き換えてしまった。その結果として、最低の映画に成り下がってしまった。
 原作を読めばわかるが、映画『ハンニバル』は小説「ハンニバル」の映画化作品ではない。したがって、映画『ハンニバル』は、『羊たちの沈黙』と何の関係もない映画である。『ハンニバル』に登場するレクター博士とクラリスは、『羊たちの沈黙』の沈黙に登場していたキャラクターと同じ名前であるが、彼らは全くの別人である。なぜなら、精神的な連続性を持たないからである。特に、クラリスが。
 映画『ハンニバル』は小説「ハンニバル」を元にして、ほとんど同じシーンを盛り込みながら、重要な点を改ざんしてしまったために、全く別な作品になってしまっている。すなわち、映画『ハンニバル』のクラリスは、冷酷なFBI捜査官であ

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レクター博士
何もしない、ただ会話しているシーンが一番怖い


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クラリス
色気なざすぎ

って、レクター博士に何ら「共感」の感情を抱いていない。冷静にレクター博士を追い詰めていく。それだけであり、個人的な感情は待たない。一方、レクター博士は、クラリスに特別な感情を抱いているのだが、それがどんな感情なのかが、映画の最後までわからずじまいである。レクターはクラリスを捕えて、一体何をしたかっのか。それが全く不明である。
 『羊たちの沈黙』のおもしろさ、それは犯罪者であり監獄に入っていたレクター博士が、捜査にきたクラリスのトラウマを見抜き、彼女をカウンリングして、彼女が毎夜苦しめられていた羊の叫びを沈黙させる。すなわち、治療してしまう。囚人と捜査官という立場が逆転、あるいは鉄格子の垣根を越えて、心理的な交流をするところである。二人の関係は「恋愛」とか「愛」でないところがおもしろい。
 それは心理的交流というのが正しいと思う。牢獄で孤独を味わっていたレクター博士は、心の交流を真に切望していた。クラリスは不本意に、鉄格子の中の男に、自分の心の中を覗かれるのである。本来ならば、精神科医と患者の間だけで許されるこの特別な関係が、殺人者とFBI捜査官という全く相容れない二人の間で成立してしまったところが、非常に意外であり、スリリングなのだ。
 クラリスは、自分の心の中を打ち明ける。最初は事件の情報提供と引き換えであったが、後半はそうした最初の目的とは異なってきている。クラリスはカウンセリングを通して、レクターに癒されるのである。そして、そこには「共感」という特別な感情が生まれた。レクターはクラリスに共感し、その共感を感じたクラリスが、さらに自分の秘密を打ち明けるのである。これが、『羊たちの沈黙』におれるレクターとクラリスの関係である。
 この二者関係は、小説「ハンニバル」には、完全に踏襲されている。しかし、映画『ハンニバル』には、全く踏襲されていない。観客は『羊たちの沈黙』の人物のイメージを重ねて『ハンニバル』を見るのが当然だから、『ハンニバル』の滅茶苦茶な人物描写に当惑する。 「この映画は『羊たちの沈黙』とは全く関係がありません」というクレジットを映画の最初に出して欲しかった。『羊たちの沈黙』と全く関係のない人物が、全く新しいドラマを演じているということでこの映画を見れば、そう悪い映画ではないと思う。しかし、『羊たちの沈黙』の続編をうたっておきながら、あるいは小説「ハンニバル」の映画化をうたっておきながら、そこに描かれる人物描写、あるいは人物設定を完全に無視するというの許せない。
 レクター博士とクラリスが脳を一緒に食べるという行為は、不可欠なのである。『羊たちの沈黙』で、クラリスは危ない一線を超えている。殺人鬼レクターに自分の秘密を打ち明けたばかりではなく、精神的な共感を得ているからである。それを究極的なところまで突き詰めると、レクター博士とクラリスが一緒に脳を食べるということになる。レクターの人肉嗜好をクラリスもまた共感するのである。レクターからいえば、自分の最大の楽しみをクラリスにも味合わせたい。『羊たちの沈黙』では、その異常な感情の萌芽が、十分に描かれている。 『羊たちの沈黙』でレクターはクラリスを癒した。そして、小説「ハンニバル」ではクラリスがレクターを癒すのである。この壮大な物語のラストとして、レクターとクラリスの会食は不可欠なのだ。

 繰り返し言うが、映画『ハンニバル』は最低である。原作からいくつかのマイナー・チェンジをしただけなのだが、重要な点を変更してしまっているので、ストリーが空中分解している。例えば、冒頭部のドラムゴ事件の失敗の伏線は、どこにかかるのだろうか。冒頭で、クラリスは麻薬王ドラムゴ逮捕作戦の指揮をとるが、その作戦に失敗し五人の相手を射殺し、仲間の捜査官にも犠牲者を出す。そして、クラリスは謹慎処分を受け、失意のどん底に落ちる。この彼女の失敗体験、彼女が精神的なダメージを受けていたことが、後半のレクター博士の心理的接近を思わず受け入れてしまうという、非常にうまい伏線となっているのだ(小説で)。心理的にしっかりとした状態であれば、レクターの魔の誘惑をはねのけたかもしれないというエクスキューズ(理由付け)である。 それが映画では、失意のどん底におちたはずのクラリスが、レクター捜査に対して、異常な意欲を燃やしているのが、全く説明不能である。映画のクラリスの性格であれば、冒頭の挫折のエピソードがあっても、なくとも、執拗にレクターを追い詰めていくに違いないのだ。結局映画では、クラリスが挫折しなけむればならなかった、映画的な説明が全くないのである。

 なぜ、すばらしい原作小説を、ここまで改悪して映画化しなければならなかったのか、その理由がわからない。『ハンニバル』は単なる悪趣味の映画である。精神的な恐怖がなくては、映像的な恐怖は存在し得ない。レクターの「クラリスに脳を食べさせたい」という異常な愛(共感の極)があってこそ、「脳の活け造り」シーンは、心から恐ろしいシーンになるのである。