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暴力映画を排除することは、教育的か?


『バトルロワイヤル』上映をめぐる論争に一言

 映画『バトルロワイヤル』公開の是非をめぐって、いま国会議員を巻き込んで論争をが起きている。激しい暴力シーンがある映画に制限をつけ、子供たちに見れなくすることは、教育的行為なのか? 似たような議論が、『ファイトクラブ』公開時にアメリカで起き、初期の『ファイトクラブ』予告編は上映禁止となった。
 現在、『ファイトクラブ』DVD発売を記念して、『ファイトクラブ』の完全解読を試みている。その一章として、「暴力映画を排除することは、教育的か?」という文章を既に書いていた。『バトルロワイヤル』論争とほぼ同じ主旨と考えられるため、ここに緊急掲載する。
 なお、現在『バトルロワイヤル』については、公開前であり未見であるため、『バトルロワイヤル』の批評については後日掲載する。

暴力映画を排除することは、教育的か?
 『ファイトクラブ』は暴力的な映画であるから、上映すべきではない。そんな意見が、『ファイトクラブ』公開時に巻き起こった。実際、『ファイトクラブ』の予告編の初期バージョンは暴力的であるという理由で、アメリカでは放映されなかった。
 最近日本でも、『バトルロワイヤル』の公開について、暴力描写が多い、激しいという理由で、国会議員を巻き込んで、ちょっとした論争が起きている。しかし、その論争は実にバカらしく思えるのだが、上映に反対する国会議員の人々は本気のようである。
 そもそも、暴力描写が多いかどうかということが、上映される基準になるというのがおかしい。短なる表面的な映像の激しさが議論されるのではなく、映画のテーマ、作品のありかたが議論されるべきではないのか。『ファイトクラブ』や『バトルロワイヤル』の上映反対論者の意見に従うと、暴力反対のテーマを持つ作品であっても、暴力シーンが激しいと上映できないことになる。実際、『ファイトクラブ』は、暴力肯定映画ではないし、むしろ人間の内面に存在する暴力衝動、攻撃衝動をどこに向けるのかが重要であると、今日の青少年の暴力犯罪に対する一つの回答を提示している作品であることは前述した。『バトルロワイヤル』は、かなりシニカナルな形ではあるが、最後の一人まで殺し合うという極端な場面設定により、暴力の無意味さを描いているのたろう。『バトルロワイヤル』も、やはり暴力に対する大きな問題提起をしていると思われる。
 国会議員の人たちは、暴力描写のない映画をお望みのようだが、暴力シーンが全くない映画で、暴力反対のテーマを描くことは、かなり困難である。結果として、暴力や人間の攻撃性というものを議論するチャンスを失うことになり、青少年による殺人事件が起きたときにワイドショーでの低次元な議論が行われるにとどまる。
 ここ数年の間で、私が見た最も残酷で衝撃的な映画は、『プライベート・ライアン』である。頭が銃で撃たれて脳みそが吹き飛ぶシーン。腹から流れ出る腸をおさえながら、走っていく兵士。数分間の間に、数百人の兵士が、銃弾に倒れ、もがき苦しむ姿を、まの当たりにする。
 残酷な映画を上映禁止にするのなら、まず『プライベート・ライアン』から、上映禁止にすべきではないのか。『プライベート・ライアン』が上映禁止にならなかったのは、この映画が反戦をテーマにしていることが、誰の目にも明らかであるからだ。『プライベート・ライアン』が、戦争を賛美する映画だと誤解する人は、まずいないだろう。戦争反対のテーマを描くのに、残酷な戦闘シーンを使うことは容認されているのである。
 では、なぜ『ファイトクラブ』や『バトルロワイヤル』が、上映反対の攻撃を受けるのか。それは、テーマがわかりにくいからである。すなわち、上映反対をするような普段映画を見慣れない人々には、暴力否定映画である『ファイトクラブ』が、単に殴りあうシーンがたくさんあるというだけで、暴力肯定映画に見えたのだろう。
 暴力がたくさんある映画を、非影響性が強く、判断力が定まらない子供たちに見せるのは反対であるという意見は、一見して正しい。しかしそれは、親や社会人としての責任を放棄しているように思える。暴力的な映画を排除する。その結果として、暴力に接する機会が全くないまま、高校生や成人へと成長していく。彼らは、「暴力が悪である」ということを、いつ学ぶのでろあうか。少なくとも、『ファイトクラブ』や『バトルロワイヤル』は、我々に暴力とは何か、人間の攻撃性とは何か、生きることや死ぬこと意味は何か、そうした日常生活では決して議論することのない、重要な問題について考え、話し合うチャンスを与えてくれる。
 私は『ファイトクラブ』や『バトルロワイヤル』を上映禁止にするという行為はナンセンスだと考える。むしろ、私は今の小中学生全員に見てほしいと思う。特に、『ファイトクラブ』は見てほしい。私が中学校の時、学校で映画館を丸ごと貸しきって、全校生徒全員で映画鑑賞をした覚えがある。見たのは『砂の器』だった。今もそうした活動をしている学校があれば、是非とも『ファイトクラブ』を見てほしい。ただし、見せた後に、何のフォローアップもしないのには問題がある。この映画について、大いに語り合うべきだ。子供たちが「暴力」に対して、どういう印象を持っているのか。彼らが暴力について、どういう善悪判断を持っているのかを、容易に知ることができる。学校で無理であれば、家族の中でも十分である。『バトルロワイヤル』の上映禁止を訴える議員は、自分の子供たちと、暴力とは何かについて、直接話し合ったことが何度あるのだろうか。自分の子供とそうした問題について顔を突き合わせて話し合えない、そんな自分たちの恐怖のせいで、親たちは暴力を隔離していくのかもしれない。
 暴力を隔離しても、何の問題解決にもつながらない。暴力にふれることなく、またそのの善悪について議論することもなく純粋培養されて育った大人に、私は恐怖を感じる。
 『ファイトクラブ』を見れば、子供であっても、人を殴ると殴られた人間は痛いということはわかるのではないだろうか。『ファイトクラブ』のファイトシーンは、実に痛々しい。しかし、人を殴ると相手が痛いということを知らない子供がたくさんいる。ナイフで人を刺すと、相手は痛いし死ぬということも知らない。結果として、ちょっとしたことで、教師や同級生をナイフで刺して殺してしまう。
 『ファイトクラブ』や『バトルロワイヤル』を上映禁止にしたり、鑑賞に制限を加えることで子供たちから遠ざければ、暴力的な子供や、ナイフで人を刺す子供が減るのだろうか。むしろ、私は増えるのでないかという気がする。もし、減らしたいのであれば、『ファイトクラブ』のように、ファイトさせて、子供たちに殴られることは痛いということを、実際に教えるのがよいだろう。と言っては言いすぎだが、大人は子供たちを暴力から遠ざけて、純粋培養してきた。教師の体罰を反対し、親も子供に手をあげない。友達に殴られれば、親がその家にまで押しかけるので、子供同士が喧嘩することもない。
 少なくとも、私が小学校の時は、教師によくビンタされていたし、時には喧嘩することもあった。実は、昔の子供たちの生活というのは、毎日がファイトクラブであったはずだ。幼稚園の頃の私は、アカチンキ(消毒薬)なしでは生きられない生活をしていたように思い出す。毎日のファイトクラブ的生活を通して、殴られることの痛み学び、転んで膝をすりむいて血だらけになることで、怪我することの痛みを知るのである。
 人を殴ることや傷つけることの痛みを知らずに成長していくのは、正しい成長といえるのか。神戸の殺鬼薔薇事件の犯人は、殺人事件に至る前に、ウサギや動物を実験と称して、傷つけ殺していた。人や動物が傷つくことの痛みを、彼は知らなかったのだう。
 子供たちを実際に殴り合わせることは、さすがに無理である。であるから、映画を使って疑似体験させる必要がある。リアリズムを持った体験。映画のメリットはそこにある。

 暴力の隔離は、暴力を減らさない。暴力を隔離しようとする人間は、『ファイトクラブ』の主人公のように、抑えようのない暴力衝動を味わったことなどないのだろう。人間の攻撃性は、それ自体は悪ではない。むしろそれは動物的本能であり、攻撃性か全くなければ生きていくことも困難であろう。攻撃性をどこに向けるか、それが一番重要である。少なくとも、子供たちの多くは攻撃性をコントロールする術を、最初から知ってはいない。それを教えることは、親や大人の責任である。暴力映画の隔離は、大人の責任逃れであり責任放棄である。
 子供たちと一緒に『ファイトクラブ』を見よう。そして、それについて子供たちと語り合おう。これが、樺沢紫苑の提言である。


 以上、『ファイトクラブ』を『バトルロワイヤル』に置き換えても、おおむね意味は通じると思われる。