『ファイト・クラブ』DVD発売記念
 『ファイト・クラブ』 完全解読 

 21世紀に残すべき映画。この作品の の凄さにまだ気付かない君は 今すぐこれを読もう。あまりにも巧妙に作られた映画、そしてそこに隠された重厚なテーマは、わかりずらい。 『ファイト・クラブ』のDVD発売を期に、『ファイト・クラブ』の完全解読を試みた。

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1 主人公の名前とその意味

  『ファイト・クラブ』のエドワード・ノートン演じる主人公の名前は、何か? もし、この問いに即答できるなら、あなたの『ファイト・クラブ』に対する理解は、非常に高いといえるだろう。
 しかし、「ジャック」と答えた人は誤りである。いくつかの映画のホーム・ページを調べたが、主人公の名前はジャックと紹介されていた。また、DVDブレミアム・エディションにおけるエドワード・ノートンとブラット・ピットの解説バージョンでも、主人公の名前はジャックと呼ばれている。しかし、主人公の名前はジャックではない。 ジャックは、廃屋で見つけた本に書かれていた一節「俺はジャックの脳の延髄です」「俺はジャックの結腸です」というセリフを、その後も主人公が引用しているために生じた誤解である。ノートンたちは主人公の名前を仮称としてジャックと呼んでいたにすぎない。

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 主人公の名前は何か?

 では、ラストのクレジットにはエドワード・ノートンの役名は、何と書かれていたか。字幕には、「Narrator  Edward Norton」と出る。主人公の名前は、「ナレーター」なのか? ナレーターとは、「ドラマのナレーター」のように使われるように、語り手、ナレーションを入れる人という意味である。すなわち、『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって一人称的に語られる形式になっていたということが、この字幕から再確認できる。 結局のところ、主人公の名前は、映画の最初から最後まで一度も登場しない。自助グループにおいて、彼はいくつかの名前を名乗るが、それはあくまでも偽名であり、本名ではない。
 実は、主人公は名前を持たないのである。そして、それが映画の謎解き、そしてテーマとも密接に関係してくる。 原作では、主人公は「僕(I)」として登場しており、やはり名前は出てこない。小説では、「自分」や「私」を主人公にした作品というのはいくらもあるが、映画ではありそうであまりない。『ファイト・クラブ』は、エドワード・ノートンのナレーションによって語られる主人公の一人称的映画、主人公の視点から見た世界が描かれているのである。 この主人公の名前が出てこないというのは、謎解きにおいて非常に重要な伏線となってる。
 すなわち、タイラーと「僕」が違う名前を持っていたとしたら、二人が多重人格という話が成立しなくなる。一般的な多重人格、すなわち「ジキルとハイド」に代表されるような、交代型の多重人格であれば、多くの場合は主人格と交代人格は別な名前を持つ。しかし、『ファイト・クラブ』の多重人格は、交代型の多重人格ではない。実は、多重人格という言葉を使って解説すること自体が誤っているようにも思える。タイラー・ダーデンは主人公にとっての理想の姿である。しかし、実はタイラー・ダーデンは自分自身であるわけだが、理想とする自分が自分という意識の中で解離して、他人のように、別な人間として見えていたというに過ぎない。この「別な人間のように見えていた」というところが重要である。すなわち、『ファイト・クラブ』が一人称映画でなければ、この映画的なトリックは成立しないことになる。そして、主人公に一つの名前を与えてしまうと、それはタイラー・ダーデンと別な人格、人間ということを表象してしまう。それは結果としての、種明かしに矛盾する。主人公が名前を持たないという設定が、タイラーが主人公の産物であるという種明かしを完全に支えているのである。
  そして一つの考えが頭をよぎる。主人公の名前は登場していない。しかし、実は名前を持っていたのではないかと。すなわち、タイラー・ダーデンこそが、主人公の本当の名前ではなかったのか。
 主人公が名前を持たないのには、もう一つ大きな理由がある。それはテーマの普遍化である。この映画は、映画の架空の登場人物の物語ではなく、「僕」の物語として一人称的に語られる。「僕」とは誰か。それは、我々観客、一人一人である。主人公の名前、それは我々一人一人の名前を当てはめることが可能なのではないか。 『ファイト・クラブ』は殴り合いをする秘密クラブを描いたフィクションではない。現実の自分と理想の自分との間でせめぎあい、葛藤する我々自身の心の物語を、一つの具体的な物語として表象しているノンフィクションが、『ファイト・クラブ』なのである。フラスト・レーションを抱え、生きがいを感じない我々観客一人一人が、このエドワード・ノートン演じる「僕」に感情移入することで、主人公「僕」に無限の名前を与えることができる。

 

2 主人公が自助グループに通った理由
 『ファイト・クラブ』の核心に近づくために、まず主人公がどのような性格なのか、その人間像を明らかにする必要がある。
 出張ばかりの事故車のリコール(自動車の事故車の保険査定)という機械的な仕事に、彼は嫌気がさしていた。管理人つきの高級マンションに住む彼は、金銭的には全く不自由していなかった。すなわち物質的は充足していた。彼の唯一の楽しみは、北欧の高級家具を買うことだったが、好きな家具を次々と買っても、彼の渇望感を全く満たすことはなかった。すなわち、物質的充足は、精神的な充足とは結びつかないことが描かれ、主人公もそれにうすうす気付いてはいたが、物質的な呪縛から逃れられないでいた。物質的な呪縛から逃れられないというのは、現代人のほとんどに当てはまる特徴である。

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生きている実感が
感じられない主人公

 そんな主人公は生きている実感を感じられない。そして、頑固な不眠に悩まされるのである。不眠症のために精神科を受診するが催眠剤は出してもらえず、自助グループへの参加を勧められる。主人公は「末期癌」「膀胱癌」などの自助グループへ通い出す。そして、自助グループのハシゴをすることで、つかのまの精神的安定を得て、睡眠がとれるようになる。 では彼はなぜ、自助グループにはまっていったのか。それは、自助グループに通うことで、「生きている実感」を少しは感じることができたからであろう。端的な例が、末期癌患者のグループである。余命いくばくもない、末期癌患者が、悲痛な心の叫びを吐露する。死する者を見て、自分が生きていることを初めて実感する。 我々人間は、呼吸しているし、生きている。しかし、それはあまりにも当然のこととし
て、誰も意識して生活しない。海で溺れそうになったり、喉に食べ物をつまらして苦しくなったとき、初めて自分が酸素を吸って呼吸しているという事実に気付くのだ。生きているということも、日常的には当たり前である。しかし、現代社会において、生命の危機に瀕することは滅多にない。生きている実感を感じられなくなっても、それは当然なのかもしれない。主人公は、死に行く人々、余命いくばくもない人の苦しみの声を聞くことで、自己を相対化し、自分が生きていることを知るのである。
 彼が一時の心の安息を手に入れたことは、彼が不眠症から開放されたことが、証明している。しかし、その安息もつかの間で、彼はマーラ・シンガーとの出会いにより、彼の精神状態は再び不安定になっていく。

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自助グループ
 そこにはつかのまの
安息があった

 

3 マーラ・シンガーとは何者か?
 主人公は、マーラのことを「腫瘍のような女」と呼び、彼女の存在を憎む。しかし彼は、なぜマーラをそんなに憎んだのだろう。 コイランドリーの服を盗んで古着屋に売り、老人給食サービスの弁当をくすねて、なんとかその日の生活を食いつなぐ。確かにマーラは最低の女かもしれないが、憎悪の対象にするほどではない。
 マーラ・シンガーは高級マンションに住み、高級家具に囲まれて暮らす主人公とは全く人種が異なる。一見すると全く別人の二人だが、同じように自助グループに通い、そこにつかの間の安息を求める。マーラも主人公同様生きている実感がない。何のために生きているのか、目的も持たない。自殺しようと睡眠剤を飲んでも、主人公にしか電話をかける相手がいない、マーラは友達もいない孤独な人間。不全感につつまれ、幸せとは縁遠い。

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マーラ・シンガー
「腫瘍のような女」

 主人公とマーラ・シンガーは、表面的には全く別の人間である。しかしその心の内面は、主人公にそっくりである。 主人公がマーラを嫌った理由。それは、マーラに自分の中の嫌いな部分を投射したからである。マーラを見ることは、嫌な自分の内面にある「生きている感じがしない」「自己に対する不全感」を直視することに等しい。
 主人公はなぜ自助グループに来ていたのか。それは、現実からの逃避。自分自身と直面化することからの逃避である。しかし、自分と精神的に共通した存在であるマーラーを見ることで、その目的が完全に崩れ去る、いやむしろ悪影響にすらなるだろう。そうした心理が、マーラに対する憎しみや嫌悪という感情を生んだと考えられる。
 では「腫瘍のような女」マーラを、なぜ主人公は好きになるのか。映画の後半で、マーラと結ばれたタイラーに対して、主人公は嫉妬を抱く。これは、マーラに対する愛情の表れである。そして、ラスト・シーンでは、二人は結ばれる。嫌悪や憎しみが、なぜ愛情に変化したのか。
 マーラ・シンガーというキャラクターは、主人公のネガティブな部分のコピーとして登場している。主人公の心の中にある嫌なものの表象がマーラなのである。したがって、マーラを好きになるということは、自分自身の中にあった嫌いな部分を好きになっことを意味する。彼女に対する嫌悪が愛情に変わったということは、自分自身に対する嫌悪感を乗り切り、生身の自分自身を好きになれるようになった、ということである。ラスト・シーンの解釈と直結するが、主人公の成長、そしてマーラー・シンガーとの愛の成就は、カードの裏と表。全く同じことを意味しているのである。

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主人公とマーラ・シンガー
主人公とそのうつし鏡

 

4 タイラー・ダーデン 理想化された自己
 マーラー・シンガーは、主人公のネガティブな部分の象徴であった。では、ブラット・ピット演じるタイラー・ダーデンとはどのような存在か。主人公とタイラー・ダーデンを比較してみた(表1)。

主人公

タイラー・ダーデン

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ダメ男
軟弱
モテない男
信頼なし

本来の自分

自信満々
筋骨隆々
精力絶倫
厚い人望

理想とする自分の姿


 ダメ男で軟弱な主人公に対して、自信満々で筋骨隆々のタイラー。勢力絶倫で人望もあるタイラーは、主人公の持ち得ないものを全て持っていた。主人公とタイラー。二人全く対照的な人間である。二人を対照的に描いた理由は、最後に明かされる。自分にとっての理想像が、別人格として体現したのが、タイラー・ダーデンだったわけだ。
 主人公は、タイラーに感化されることで、タイラーに近づいて行く。主人公がタイラー自身であった事実を知ってこれを解釈し直すと、自分自身の理想に向かって努力邁進するということである。単なる理想、それを一つの人格として誕生させてしまったのは、主人公のネガティブ・パワーの強さゆえであろう。自分自身をあまりにも矮小化した結果として、強力なタイラーというパーソナリティーが具現化されたのである。 主人公はタイラー自身であった。すなわち、既に主人公は自分自身の中に、自分が欲しかったもの全てを持っていたということにもなる。我々は、欲しいものは自分自身の中に既に持っているのかもしれない。ただ、それに気付かないだけで。あるいは、それをただ引き出さないで押し込めているだけなのかも。
  『ファイト・クラブ』を批判する人は、『ファイト・クラブ』を暴力的映画、破壊の映画としてとらえているだろう。しかし、本当にそうであろうか。私には『ファイト・クラブ』は、「我々はただやらないだけで、やればどんなことだって可能になる」「自分にもっと自信を持て」というメッセージを持った応援歌に聞こえる。

 

5 『ファイト・クラブ』は、暴力的映画か?
  『ファイト・クラブ』は、殴りあうだけの暴力的映画だという批判がある。しかしその指摘は正しいだろうか。殴りあうシーンはいくつかある。そしてそのシーンは、かなり痛々しい。そして、そうした暴力的な描写が入っている理由は何か、ということが重要になる。 『ファイト・クラブ』に、人を殴るとスッキリする。暴力は良いことだ、というメッセージが入っているのか。あるいは、暴力に対する批判的なメッセージが入っているのか。その点が問題である。

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 『ファイト・クラブ』の攻撃性はどこに向いているか?

  『ファイト・クラブ』が、人を殴ることを勧める映画と理解している人は、かなり映画を間違ってとらえている。『ファイト・クラブ』における暴力の方向性、それは明らかに自分に向いている。『ファイト・クラブ』を象徴する言葉、宣伝などでも使われていたが、「自己破壊」という言葉がある。
 主人公はタイラーと素手で殴り合う。そして、爽快感と至福感を感じる。それは、人を殴ることによってストレスが解放されて爽快感を感じたのではない。むしろ殴られることによる快感である。殴られることによって痛みを知る。痛みを感じることで、生きている実感を味わう。痛みによって自己を相対化できる。「痛み」を受けることで、自分がこの世に存在し、生きているというあたりまえの事実を確認するのだ。 『ファイト・クラブ』の暴力の方個性は、他者には向かない。自己に向く。したがって、「自己破壊」なのである。これを証明するシーンは少なくとも四ヶ所ある。
 一つ目は、最初に主人公とタイラーが殴りあうシーン。バーから出てきたタイラーは主人公に言う。「俺を一発殴ってくれ。」このセリフが、「俺に一発殴らせてくれ」ではないことが重要なのである。「殴る」ことではなく「殴られる」ことの方が重要であることが、この映画の最初の殴り合いのシーンで、きちんと前置きされている。
 二つ目は、彼らは飲み屋の地下を使って勝手にファイト・クラブを開いていたが、そのビルのオーナーに、ファイト・クラブの存在を知られるシーンである。オーナーは激怒して、タイラーをこてんぱんに殴る。しかし、タイラーは全く反撃せず、大笑いして喜んでいる。殴られることを喜んでいる。実に奇妙なリアクションである。その反応を不気味がって、オーナーはビルの使用を許可して、その場を立ち去る。
 三つ目は、エンジェル・フェイスを乱打するシーンである。タイラーの行き過ぎた行動に腹を立てた主人公は、その怒りをエンジェル・フェイス(容姿端麗な男)とのファイトに向ける。戦いは、主人公が圧倒的に優位で、エンジェル・フェイスを徹底的に叩きのめす。エンジェル・フェイスの美しい顔が、血に染まり、彼が顔をゆがめても、主人公は攻撃の手を一向に緩めようとはしない。このシーンはあまりに暴力的という理由で、劇場公開では若干カットされた。DVDにはカット前のオリジナル版が収録されている。 しかし、このシーンで注目すべきは、

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主人公とタイラーとの
初めてのファイト
タイラーは言う。
「俺を一発殴ってくれ」

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エンジェル・フェイスを際限なく殴りつづける主人公

その暴力行為そのものではない。主人公の表情である。エンジェル・フェイスを叩きのめす主人公は全くの無表情。そしてそこには、いつものファイトでみられる生気はない。血だらけになったエンジェル・フェイスを置いて立ち去るときの主人公に、爽快感は全くない。このシーンは、非常に重要なことを表している。怒りを暴力に投射することは無意味であると、強く主張しているのだ。激しい暴力から得られるものは何もない。この時の主人公の感情は、空虚だった。周囲でファイトを見守る男たちも苦痛の表情を浮かべ、主人公に対して冷たい視線をあびせる。ファイト終了後に、ダーデンが主人公に言った言葉は、「気が済んだか、サイコ・ボーイ。」であり、主人公の暴力が常軌を逸したものだと言っている。徹底的な暴力シーンによって、暴力の無意味さが見事に表現されている。このシーンから伝わってくるテーマは、暴力の推奨ではなく反暴力なのである。
  『ファイト・クラブ』の暴力の方向性が自分に向いていることを示すもう一つのシーンは、苛性ソーダで手の甲を焼くシーンである。煮え切らない態度をとりつづける主人公に対し、タイラーは強アルカリ性の苛性ソーダをかける。手の甲が焼け、白い煙が立つ。激痛にあえぐ主人公。タイラーは言う。「苦痛に意識を戻せ。」痛みと直面せよ、痛みを味わっている生きている自分に直面せいという意味である。主人公は痛みを我慢し、受け入れることで、何かをつかんだ。自らを痛めつけ、自己と直面化する作業、それが「自己破壊」である。「自己破壊」とはいっても、肉体は破壊しているかもしれないが、精神的に作り上げる、あるいは再構築する作業である。『ファイト・クラブ』を批判する人はそこまで映画を詳しく見ていないのだろう。
 上記のシーン以外でも、例えば手放しで車を暴走させるシーンなど、自己破壊は何度も繰り返されて描かれるのである。
  『ファイト・クラブ』の暴力の方向性は自己である。主人公がタイラーであるという種明かしが、その最大の説明である。主人公とタイラーと骨が砕けんばかりの死闘は、結局自分自身を殴るという行為に等しかったのである。『ファイト・クラブ』の攻撃性は、他者には向いてない。 従って、暴力という言葉を使うこと自体が、見当はずれである。

 

6 暴走する『ファイト・クラブ』
 週末に殴りあうだけの集団「ファイト・クラブ」が、タイラーの「メナヘイム(かく乱)計画」によって、反社会的行動へと拡大していく。すなわち、自己に向かっていた攻撃性が他者や社会に矛先を変えるのである。ここに一つの問題提起がある。
 攻撃衝動が内面に向かっているうちは、誰にも迷惑をかけない。しかし、それが他者に向かったときに、大きな問題につながる。極端な例が殺人であり、犯罪である。すなわち、攻撃衝動をいかにコントロールするかが重要であることを、『ファイト・クラブ』は示している。
 主人公は「メナヘイム計画」の異常さに気付き、それを阻止しようと奔走する。主人公はタイラー自身である。暴走するタイラーとの格闘は、自分自身との格闘。自己への直面である。マーラを憎んでいた主人公、すなわち自己への直面化を拒否していた主人公が、自分を見つめなおして、自らの自我をコントロールしようとし始める瞬間である。

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「暴力の根源を検証していない映画にかかわったことは
一度もない」
    (エドワード・ノートン)

 

7 ラスト・シーンの解釈
 『ファイト・クラブ』のラストシーン。このラストシーンは、映画史に残る最高のラストシーンである。この映画史上最も悲しいハッピーエンドは、少なくとも私にとっては、最高のラストである。
 このラストシーンが最高かどうかは別として、このラストシーンにはいくつかの解釈がありえるかもしれない。そして、このラストシーンを正しく解釈していない人のほうが多いように思う。まず、主人公はタイラーを倒したのか? そして、主人公はマーラと結ばれたが、これはハッピーエンドといえるのか。すなわち、最後に主人公とマーラは死んだのかどうかという点が、わかりずらいかもしれない。
 このラストシーンの前が、タイラーと主人公との格闘シーンである。タイラーは主人公のもう一つの人格であることが明かされる。そして主人公は、自分の顎を銃で撃ち抜くことで、タイラーの姿を消す。これは、一体どのように理解すべきか。主人公とタイラーが戦い、主人公がタイラーを倒したという理解は、私は間違えだと考える。主人公とタイラー二つの人格が、一つに統合し、別な人格が完成した。あるいは主人公が、分裂した人格を統合することにより、一段と高い完成された人格に至ったのではないかと考えられる。主人公がタイラーを倒したのか、あるいはタイラーと同一化したのかは、どうでもよい問題に思えるかもしれない。しかし、テーマ的に考えると、非常に重要である。タイラーは主人公の理想とする人格であった。主人公はその理想とする人格をタイラーとして具現化していたのである。その理想人格を、最終的に排除したのか、あるいは統合することで、その人格を乗り越えたのか。つまり、主人公がどのような形で成長したのか、そこに結びつくからである。
 主人公はマーラに言う。「俺を信じろ。これからは全てうまくいく。」この時の、主人公の目には、自信とやさしさがあふれている。さっきまでの主人公とは、目の輝きが違う。主人公の気持ちを理解したマーラ。二人は自然に手を結ぶ。崩壊し始めるビル群。マーラは、崩壊するビルに驚くが、主人公は全く動揺の色を見せない。
 これらの行動は、タイラーを生み出していた主人公の時とは全く異なる。もともと彼が持っていたやさしさとタイラーの持っていた自信とたくましさが合体した状態である。
 主人公が自分の顎を打ち抜いた瞬間、タイラーの口から、ドーナツ状の煙が出る。そして、タイラーの姿は消失する。その次のカットでは、主人公の口からやはりドーナツ状の煙が出ている。タイラーと主人公の口から出る同様の煙。もし、主人公がタイラーを倒したという描写なら、同じ煙が出るというのはおかしい。やはり二人は、同一の存在であるという再確認が、このドーナツ状の煙に託されているのだろう。  
 「出会いのタイミングが悪かった」と言う主人公。この瞬間、神経質な女マーラは信じられないほどやさしい表情を浮かべる。主人公とマーラの心が通じ合った。生きている実感を感じられずに、もがき苦しんで主人公とマーラは、この瞬間に圧倒的な充実感と生きている実感を感じたに違いない。
 しかし、二人の至福のときは長くは続かなかった。次の瞬間、手前のビルが激しく崩れ落ち、画面が乱れて映画が終わる。この最後の画面の乱れは一体何か。彼らがいたビルが崩れたということであろう。ファースト・シーンでタイラーは言う。「あと三分。それで全てが木っ端微塵。」ビル地下にあった白いバンに時限爆弾が仕掛けられていて、あと三分で爆発するというのだ。

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「これからはすべてよくなる」

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自然と手をつなぐ二人

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数秒間のハッピーエンド
二人が生きている実感を
感じた瞬間である

 主人公がバンの中にあった爆弾を解除するシーンがある。しかし、その後タイラーとの格闘で打ちのめされ、意識を失う。そして、ファースト・シーンのタイラーに銃を突きつけられているシーンにつながる。主人公が意識を失っている間に、タイラーは時限爆弾を再度セットしたということであろう。
 タイラーの宣言どおり、三分後には爆弾が爆発し、ビルにいた主人公とマーラは死んだと理解すべきであろう。ラストの画面の乱れは、それを示している(実際には、男性のOOOの映像が、サブリミナル的に入れられている)。仮にビルが崩れなかったとしても、顎を打ち抜くという重症を負った主人公は長くは生きない。
 念のため、原作も見てみよう。原作では、ビルが爆発するところまでは描かれていない。しかし、主人公は朦朧とした意識の中で、「天国でまたマーラと会う」と言う。主人公が死ぬことが間接的に描かれている。
 心を通じ合い、圧倒的な至福感に包まれる二人。しかし、その至福はわずか数秒しか続かなかった。最高の幸福に包まれて二人は死んでいく。悲しいラストであるが、これ以上のハッピーエンドが存在するだろうか。彼らは死ぬ。だからこそ、二人が心が通じ合うことができたわずかな時間が貴重なものとなり、輝きを放つ。死があって、はじめて自らの生が輝く。
 生と死のコントラストは、『ファイト・クラブ』におけるテーマの一つであろう。他人の死を傍観して、自らの生を感じる自助グループの描写にも、生と死のコントラストが描かれていた。生と死のコントラストが、数秒間と言う短い時間に凝縮され、体現されているのが、このラストシーンなのである。「 映画史上最も悲しいハッピーエンド。このラストシーンに、この称号を与えたい。

 

8 原作との比較から見た『ファイト・クラブ』
 『ファイト・クラブ』を見ておもしろいと感じた人は、その原作であるチャツク・ポーラニックの小説を読むことをお勧めする。ポーラニックの斬新な世界と、この原作を映画化したフィンチャーの凄さを再確認せざるをえない。 ポーラニックの原作は、ぶっ飛んでいる。時間と場面がページごとに飛んでいる。時間軸と空間軸が解体されながらも、イメージは明らかな連続し、拡大していくのだ。全く経験したことのないポーラニックワールドを堪能することができる。

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デイビッド・フィンチャー
21世紀を代表する映画監督になるだろう

 それにしても、この原作をよくフィンチャーは映画化したものである。時間と場面が次々と移り変わり、イメージと回想が多いこの原作を、よくここまで分かりやすく再構築できたと思う。とはいっても、原作の内容をほぼ90%以上は踏襲している。セリフもかなりの部分は同じであり、重要なエピソードは残さず拾っている。 この原作から脚本を起こすという作業はとてつもなく大変だったに違いがないが、原作自体が多くのイメージを沸き起こす起爆剤となっている。映画作家としては楽しい作業だったに違いない。
 そしてフィンチャーは、原作のおもしろみを損なわないように、絶妙の変更を行っている。例えば、主人公とタイラーとが初めて出会うシーンである。飛行機で隣り合う主人公とタイラー。そして、二人は同じカバンを持っている。しかし、この同じカバンを持っているという設定は原作にはなく、映画オリジナルのものである。主人公とタイラーは同一人物である。同じカバンを持っているのは当然である。すなわち、多重人格というオチを密かに暗示している。そして、主人公のカバンが空港の荷物検査で調べられるという場面に結びつく。主人公のカバン、イコール、タイラーのカバンであり、そこには何かあやしいもの、爆弾の部品か何かが入っているのではないかという可能を連想させ、物語に緊迫感を与えている。
 原作との最大の相違点は、原作に何度も登場する主人公の言葉が、映画では繰り返されないことである。「ぼくがこれを知っているのは、タイラーがこれを知っているからだ。」「タイラーが考えることはぼくが考えることだ」こうした、主人公とタイラーを結びつける言葉が、原作では数ページに一回のペースで繰り返される。主人公とタイラーは同一人物という種明かしをバラすような言葉が、何十回と繰り返される。さすがに、映画ではこのような繰り返しは見られなかった。
 他には、痛みを我慢するシーンで、氷の洞窟をイメージするところである。原作はそうなっていない。この洞窟のイメージ・シーンは、 『ファイト・クラブ』の中で一服の清涼剤になっている。
 とりあえず、原作を読もう。もう一つの 『ファイト・クラブ』が、映画 『ファイト・クラブ』をさらにおもしろくしてくれるだろう。

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洞窟のイメージシーン
映画のオリジナルである

 

9 暴力映画を排除することは、教育的か?
 『ファイト・クラブ』は暴力的な映画であるから、上映すべきではない。そんな意見が、『ファイト・クラブ』公開時に巻き起こった。実際、『ファイト・クラブ』の予告編の初期バージョンは暴力的であるという理由で、アメリカでは放映されなかった。
 最近日本でも、『バトルロワイヤル』の公開について、暴力描写が多い、激しいという理由で、国会議員を巻き込んで、ちょっとした論争が起きた。しかし、その論争は実にバカらしく思えるのだが、上映に反対する国会議員の人々は本気のようである。
 そもそも、暴力描写が多いかどうかということが、上映される基準になるというのがおかしい。短なる表面的な映像の激しさが議論されるのではなく、映画のテーマ、作品のありかたが議論されるべきではないのか。『ファイト・クラブ』や『バトルロワイヤル』の上映反対論者の意見に従うと、暴力反対のテーマを持つ作品であっても、暴力シーンが激しいと上映できないことになる。実際、『ファイト・クラブ』は、暴力肯定映画ではないし、むしろ人間の内面に存在する暴力衝動、攻撃衝動をどこに向けるのかが重要であると、今日の青少年の暴力犯罪に対する一つの回答を提示している作品であることは前述した。『バトルロワイヤル』は、かなりシニカナルな形ではあるが、最後の一人まで殺し合うという極端な場面設定により、暴力の無意味さを描いているのたろう。『バトルロワイヤル』も、やはり暴力に対する大きな問題提起をしていると思われる。
 国会議員の人たちは、暴力描写のない映画をお望みのようだが、暴力シーンが全くない映画で、暴力反対のテーマを描くことは、かなり困難である。結果として、暴力や人間の攻撃性というものを議論するチャンスを失うことになり、青少年による殺人事件が起きたときにワイドショーでの低次元な議論が行われるにとどまる。
 ここ数年の間で、私が見た最も残酷で衝撃的な映画は、『プライベート・ライアン』である。頭が銃で撃たれて脳みそが吹き飛ぶシーン。腹から流れ出る腸をおさえながら、走っていく兵士。数分間の間に、数百人の兵士が、銃弾に倒れ、もがき苦しむ姿を、まの当たりにする。
 残酷な映画を上映禁止にするのなら、まず『プライベート・ライアン』から、上映禁止にすべきではないのか。『プライベート・ライアン』が上映禁止にならなかったのは、この映画が反戦をテーマにしていることが、誰の目にも明らかであるからだ。『プライベート・ライアン』が、戦争を賛美する映画だと誤解する人は、まずいないだろう。戦争反対のテーマを描くのに、残酷な戦闘シーンを使うことは容認されているのである。
 では、なぜ『ファイト・クラブ』や『バトルロワイヤル』が、上映反対の攻撃を受けるのか。それは、テーマがわかりにくいからである。すなわち、上映反対をするような普段

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 プライベート・ライアン
 戦争の残酷さを描くためには、残酷なシーンは不可欠。

映画を見慣れない人々には、暴力否定映画である『ファイト・クラブ』が、単に殴りあうシーンがたくさんあるというだけで、暴力肯定映画に見えたのだろう。
 暴力がたくさんある映画を、非影響性が強く、判断力が定まらない子供たちに見せるのは反対であるという意見は、一見して正しい。しかしそれは、親や社会人としての責任を放棄しているように思える。暴力的な映画を排除する。その結果として、暴力に接する機会が全くないまま、高校生や成人へと成長していく。彼らは、「暴力が悪である」ということを、いつ学ぶのでろあうか。少なくとも、『ファイト・クラブ』や『バトルロワイヤル』は、我々に暴力とは何か、人間の攻撃性とは何か、生きることや死ぬこと意味は何か、そうした日常生活では決して議論することのない、重要な問題について考え、話し合うチャンスを与えてくれる。
 私は『ファイト・クラブ』や『バトルロワイヤル』を上映禁止にするという行為はナンセンスだと考える。むしろ、私は今の小中学生全員に見てほしいと思う。特に、『ファイト・クラブ』は見てほしい。私が中学校の時、学校で映画館を丸ごと貸しきって、全校生徒全員で映画鑑賞をした覚えがある。見たのは『砂の器』だった。今もそうした活動をしている学校があれば、是非とも『ファイト・クラブ』を見てほしい。ただし、見せた後に、何のフォローアップもしないのには問題がある。この映画について、大いに語り合うべきだ。子供たちが「暴力」に対して、どういう印象を持っているのか。彼らが暴力について、どういう善悪判断を持っているのかを、容易に知ることができる。学校で無理であれば、家族の中でも十分である。『バトルロワイヤル』の上映禁止を訴える議員は、自分の子供たちと、暴力とは何かについて、直接話し合ったことが何度あるのだろうか。自分の子供とそうした問題について顔を突き合わせて話し合えない、そんな自分たちの恐怖のせいで、親たちは暴力を隔離していくのかもしれない。
 暴力を隔離しても、何の問題解決にもつながらない。暴力にふれることなく、またそのの善悪について議論することもなく純粋培養されて育った大人に、私は恐怖を感じる。
 『ファイト・クラブ』を見れば、子供であっても、人を殴ると殴られた人間は痛いということはわかるのではないだろうか。『ファイト・クラブ』のファイトシーンは、実に痛々しい。しかし、人を殴ると相手が痛いということを知らない子供がたくさんいる。ナイフで人を刺す
と、相手は痛いし死ぬということも知らない。結果として、ちょっとしたことで、教師や同級生をナイフで刺して殺してしまう。
 『ファイト・クラブ』や『バトルロワイヤル』を上映禁止にしたり、鑑賞に制限を加えることで子供たちから遠ざければ、暴力的な子供や、ナイフで人を刺す子供が減るのだろうか。むしろ、私は増えるのでないかという気がする。もし、減らしたいのであれば、『ファイト・クラブ』のように、ファイトさせて、子供たちに殴られることは痛いということを、実際に教えるのがよいだろう。と言っては言いすぎだが、大人は子供たちを暴力から遠ざけて、純粋培養してきた。教師の体罰を反対し、親も子供に手をあげない。友達に殴られれば、親がその家にまで押しかけるので、子供同士が喧嘩することもない。
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 主人公につぶされたエンジェル・フェイスの顔
 
このシーンを見れば、人を殴ければどうなるのかは、小学生でもわかるだろう。
 少なくとも、私が小学校の時は、教師によくビンタされていたし、時には喧嘩することもあった。実は、昔の子供たちの生活というのは、毎日がファイト・クラブであったはずだ。幼稚園の頃の私は、アカチンキ(消毒薬)なしでは生きられない生活をしていたように思い出す。毎日のファイト・クラブ的生活を通して、殴られることの痛み学び、転んで膝をすりむいて血だらけになることで、怪我することの痛みを知るのである。
 人を殴ることや傷つけることの痛みを知らずに成長していくのは、正しい成長といえるのか。神戸の殺鬼薔薇事件の犯人は、殺人事件に至る前に、ウサギや動物を実験と称して、傷つけ殺していた。人や動物が傷つくことの痛みを、彼は知らなかったのだう。
 子供たちを実際に殴り合わせることは、さすがに無理である。であるから、映画を使って疑似体験させる必要がある。リアリズムを持った体験。映画のメリットはそこにある。

 暴力の隔離は、暴力を減らさない。暴力を隔離しようとする人間は、『ファイト・クラブ』の主人公のように、抑えようのない暴力衝動を味わったことなどないのだろう。人間の攻撃性は、それ自体は悪ではない。むしろそれは動物的本能であり、攻撃性か全くなければ生きていくことも困難であろう。攻撃性をどこに向けるか、それが一番重要である。少なくとも、子供たちの多くは攻撃性をコントロールする術を、最初から知ってはいない。それを教えることは、親や大人の責任である。暴力映画の隔離は、大人の責任逃れであり責任放棄である。
 子供たちと一緒に『ファイト・クラブ』を見よう。そして、それについて子供たちと語り合おう。これが、樺沢紫苑の提言である。