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AI  完全解読編  後編

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 ここでは、メインのテーマではありませんが、メインのテーマに通じる補足的な問題について論じます。
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ホビー博士はなぜ、マンハッタンにいたのか?
 
 「完全解読編前編」をお読みになった方から、多くの反響をいただきました。しかし、いくつか映画の基本的な描写で誤解されている方が多いように思いましたので、その点について補足説明したいと思います。

 ホビー博士は、なぜマンハッタンにいたのか? あまり重要な疑問には思えないかもしれないが、この点が『AI』をより深く理解するための鍵である。

 ホビー博士は、マンハッタンの廃墟ビル(ロックフェラーセンターに見えたが?)に隠れて、「永遠の愛」を持つロボットの研究をしていた。なぜこんな廃墟で、人目を忍んで彼はロボット研究をしていたのか?
 それは、隠れてやらなくてはいけない研究だからである。社会的に歓迎される研究であれば、彼の個人的研究としてやらなくても、会社が大量の資金援助をしてくれるだろうし、自分の会社で堂々とやればいいだけの話である。少なくともロボット会社は、愛のあるロボット開発を好意的に思っていなかった。
 ホビー博士が周囲からどう思われていたのかを示すのが、ファーストシーンである。最先端のロボットをお披露目し、凄いという感嘆の声があがる一方で、あまりにも進んだロボットを開発することに疑義を提出する研究者もいた。ホビー博士は研究者としては超一流ではあるが、彼の研究スタンスは多くの人によって支持されているわけではないというのが、このファーストシーンによって説明されている。
 では、当時の一般人のロボットに対する認識は、どのようなものであったか? ロボットは便利な道具として重宝されるが、不用になったロボットは容赦なくスクラップにされる。ジコロ・ジョーの性欲処理が極めて象徴的であるが、人間とっての便利な道具として、人間はロボットを重宝し、歓迎していた。しかし、それはイコール・パートナーではない。単なる道具として重宝していた。したがって、ジャンクになったロボットは処理するというのは、当たり前のこととして受け入れられる。道具と言えば聞こえは良いが、わかりやすく言えば奴隷である。当時の一般的な人々は「愛」を持つロボット、すなわち人間とのイコール・パートナーは望んでいなかっただろう。
 ではウィンストン夫妻が提供されたも「永遠の愛を持つロボット」であるデイビッドとは、一体何だったのか。彼は、ホビー博士が会社に隠れて、個人的に作成したロボットと思われる(それが、後半のマンハッタンのシーンで明らかにされる)。夫サムが、デイビッド提供の話をどこからか持ってくるわけであるが、これが異常にうさんくさい。これは、ロボット会社が公式な治験(実験的使用)として、ウィンストン夫妻に持ちかけた話ではなく、ホビー博士の独断先行(おそらく会社に隠れて行うなった実験)なのだろう。
 その根拠は、「永遠の愛」のプログラムを発動させる「7のパスワード」にある。この、「7のパスワード」を入力した後は、それを解除するのにはロボット全体を廃棄するしかないというのだ。非常におかしな話だ。ソフトだけを消去すれば済むだけの話なのに。そうすれば、何度だって転売できる。
 この点について、こんなおかしなロボットがまかり通るような設定を許している『AI』はダメな映画たどいう指摘がネット上のBBS上にありましたが、それは見当違いな指摘である。わざと違和感のある描写を埋め込むことによって、何かを伝えようとしているわけであるから。
 この「ハードの破棄によってしか、プログラムを解除できない」という異常なロボットによって、デイビッドが正規の提供でない、うさんくさいロボットである彼の出自を証明している。ホビー博士が手塩にかけた最先端ロボットが、他の会社や研究者などに渡らないようにする防御策のように読めます。また、会社の利益とは関係無しに、ホビー博士が個人の趣味でやっている実験なので、再生再利用する必要も全くない。
 デイビッドが当時のロボット技術からみて一般的なものではなく、極めて進んだ最先端型のロボットであることを示すのは、ジャンク・ショーのシーンである。人間がロボットと間違って捕まえられているという娘からの連絡で様子を見に行った係員の男が、どうみても人間にしか見えないデイビッドにロボット反応があることを知って、こんなロボットがあったのかと驚嘆する。ロボットの仕事に関わるこの男が始めて見るというほどに精巧なロボットガデイビッドである。すなわち、デイビッドが市販されているロボットではないこともこの描写からわかる。
 これらの描写から、サムがデイビッドを連れてきたのは、「最新型のロボットでいいのがあったから買ってきたよ」ということではないことがわかるだろう。
 ウィンストン家の不死の病であった息子が、奇跡的に最新の治療法の開発によって治癒し、家に戻ってくる。このくだりを映画ならではの、ご都合主義と感じた人も多いだろうがそうではない。わざとそうなることを知っていて、ホビー博士がウィンストン家にデイビッドを送り込んだと考えれば、息子の奇跡的な生還は、偶然ではなく必然である。
 一流の科学者であるホビー博士にとって、医療の最先端の研究がどうなっているのかを知るのはたやすい。むしろウィンストン家のように、本物の息子と偽りのロボットというアイデンティティの問題を喚起するような環境が起こるような家庭を、何万組という候補から選択してきたということではないのか。
 マンハッタンで、デイビッドに会ったホビー博士は、「ここに来ると思っていたよ」と言う。ホビー博士は、こうなることを全て知っていたということである。デイビッドのアイデンティティの目覚め、自立、人間になりたいという欲求、これらの全てをホビー博士は予測して、そうなるかどうかを実験していたということだ。
 デイビッドがウィンストン家に来たということは、ロボット会社の販売行為ではない。ホビー博士の壮大な実験(あるいは独善的な実験)であったわけだ。そうすると、なぜホビー博士は、こんな実験をしたのかということが問題になる。ホビー博士の研究所に、彼が子供と一緒に写っている写真が見える。おそらく、ホビー博士の子供は、幼くして死んだのだろう。その無き息子の影を追って、彼は自分の愛を受け入れてくれる存在、すなわちロボットを作り続けるのだ。
 しかし、ホビー博士の亡き息子への愛、あるいはロボットであるデイビッドへの愛を、あなたは素直に了解することが出来ただろうか。別な面から考えると彼の実験は、ウィンストン家の家族を滅茶苦茶にして、モニカに精神的苦痛を与えているわけで、ホビー博士はとんでもない奴と言えるだろう。だから、独善的な実験と書いた。
 ホビー博士は、亡くなった息子に対して永遠の愛を持っている。あるいは、そう彼自身が思っている。だからこそ、「永遠の愛」を受け入れてくれるロボットが、ホビー博士自身にとって必要であった。
 マンハッタンの研究所に、デイビッドと全く同型のロボットが何台も並んでいるのは、かなり不気味であった。いや、一種の戦慄を感じた。そして、そのロボットの名前は、全てデイビッドなのだ。おそらく、ホビー博士の亡くなった息子の名前もデイビッドではないのか。
 ホビー博士の息子、そしてロボットへの愛は偏執的である。というか、明らかに偏執的なものとして描いている。ここで、映画のテーマに戻ろう。「永遠の愛など存在しない。」ホビー博士の亡き息子への愛情は、永遠の愛のように思えるが、その独善によってウィンストン家の人々や、彼の開発したデイビッド自身が大きく傷つくのである。「永遠の愛」に対するネガティブなメッセージが、ホビー博士によっても補強されている。
 ホビー博士はロボットに対して深い愛着を抱いているように思える。というか、私もそう思っていた。しかし、実際は違う。彼は自らの開発した子供のようなロボットが、苦しみもがく様子を、楽しげに観察していたであろうから。開発者であり実験をしかけたホビー博士は、デイビッドがモニカに捨てられ傷つくこともまた知っていたのである。
 ホビー博士にとって、ロボットは所詮ロボットなのだろう。ロボットに自分の息子を本当にオーバーラップさせているのなら、デイビッドが苦しむ様を客観的に観察などできるはずかない。
 そもそも、「永遠の愛をインプットされたロボット」という設定自体に、何か違和感を感じなかったか? 感じて当然であろう。永遠の愛を持つ子供など、現実にはいるはずはないのだ。デイビッドの「永遠の愛プログラム」は、私には「永遠の服従プログラム」にしか見えない、人間の子供というのは、小さい頃は唯一絶対の存在として親を慕うが、思春期に入ると反抗期を迎える。親に反抗し、その葛藤と軋轢の中から、いろいろなものを学習して、大人へと成長していくのである。逆に言うと、葛藤や軋轢を乗り越えるから、本物の親子の愛情へと成長するのだろう。
 ラストシーンを見て、デイビッドにプログラムされた「永遠の愛」のプログラムはなんて素晴らしかったんでしょう、と誤解している人も多いのかもしれないが、手放しでは喜べないこのラストの複雑さは、「永遠の愛」に対する疑義が、『AI』の作品全体に流れているからなのであろう。
 
 なぜ、主人公のロボットの名前は、デイビッドと言うのか?

 なぜ、主人公のロボットの名前は、デイビッドと言うのか?
 熱心な映画ファンの読者は、「そんなことお前に言われなくてもわかる」と思われるかもしれないが、その反論はとりあえず最後まで読んでから、承りたい。
 デイビッドの一つ目の意味。それは、キューブリック的な側面から理解される。キューブリックの代表作である『2001年宇宙の旅』のデイビッド・ボーマンに由来するだろう。木星探査の任務をおって宇宙船ディスカバリー号は、デイビッド・ボーマン船長たちを乗せ出発する。しかし、その途中非常に高度なAIを持ったコンピューター「HAL」が反乱をおこす。ボーマン対HALの壮絶な戦いの末、ボーマンはHALを殺すのだ。
 高度なコンピューターが、自分なりの思考、判断をし始める。その点において、『AI』と同じモチーフを備えている。逆に言えば、『2001年宇宙の旅』を作ったキューブリックが、『AI』のアイデアの源泉である「スーパー・トイズ」に非常に強い興味を抱いたのは、一部共通したテーマ性を持っていたからなのだろう。
 キューブリックのスピルバーグに残したシノプスに、ロボットの名前まで具体的に書かれていたどうかについては不明だが、スピルバーグのキューブリックに対する敬意も含めて「デイビッド」という名前が命名されたと思われる。

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主人公のロボット
デイビッド

 デイビッドの二つ目の意味。それは、スピルバーグ的な側面から理解される。『シンドラーのリスト』を監督したスティーブン・スピルバーグがユダヤ人であることは、周知の通りであるが、スピルバーグ作品のほとんど全てに、ユダヤ的な描写やテーマが加えられている。したがって、『AI』においてもそうしたユダヤ的テーマによる味付けを期待するわけだが、それがかなり露骨なところに現れていた。
 デイビッドとは「キング・ダビデ」を語源とするように、ユダヤ人に多い名前である。例としてデイビッド・クローネンバーグ監督や脚本家デイビッド・マメット(『評決』『殺人課』)を挙げておこう。したがって、何でそんなユダヤ名を普遍性、中立性を持たせるべき存在である主人公ロボットに命名したのかが疑問であった。しかし、それはジャンク・ショーのシーンで明らかになる。
 必要以上の残酷さほ持って、ジャンク・ショーの処刑シーンは描かれる。子供の観客だっているのにと思うが、そこには一つの大きな理由があった。『AI』の世界で冷遇され迫害されるロボットたちに、スピルバーグは歴史的に迫害を受け続けてきたユダヤ人の姿をオーバーラップさせているのだ。したがって、主人公ロボットの名前はユダヤ名でなくてはいけない。『AI』には、『ET』『インディ・ジョーンズ』『未知との遭遇』など過去のスピルバーグ作品の自己オマージュが数多く含まれている(詳しくは近日アップ)。その一つとして、『シンドラーのリスト』も含まれているということだ。
 特に、デイビッドが危機一髪で処刑される寸前をギリギリ助かるというくだりは、アウシュビッツ収容所に誤って転送されたシンドラーの工場のユダヤ人たちが、シャワー室まで連れていかれて、ぎりぎりのところで処刑を免れるというくだりとそっくりである。
 あるいは、ジャンク・ショーのシーンに、『グラディエーター』を感じた人も多いだろう。 『グラディエーター』は、スピルバーグたちが作った映画会社ドリームワークスの製作映画である。その点から言えば、自分の映画みたいなものである。『グラディエーター』ではローマ帝国の新皇帝が悪役となる。ローマ帝国といえば、ユダヤ人を迫害した元凶である。そういう意味で、このジャンク・ショーが、『グラディエーター』に似ているということも、それなりの意味を持っている。

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『シンドラーのリスト』

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『グラディエーター』の剣闘シーン
残酷な殺戮場面を見て歓喜する観客は『AI』と全く同じである。

 それと、キューブリックもまたユダヤ人であることは知っておきたい。その点から彼の監督作品『スパルタカス』を見直せば、また新しいものが見えてくる。『スパルタカス』もまたローマ帝国ものである。ローマ帝国で奴隷にされていた剣闘士たちの反逆の物語である。『スパルタカス』に「赤狩り」批判のテーマが含まれていることは、既に指摘されているが、ユダヤ人迫害に対する批判的テーマも含まれているのである。主人公スパルタカスは、劇中ではユダヤ人の役ではないが、彼を演じるカーク・ダグラスが代表的なユダヤ人俳優であるわけだし。
 やや脱線したが、いろいろな映画へのオマージュという視点から、ジャンク・ショーの処刑シーンにユダヤ迫害への批判的テーマが含まれていることは間違いなく、それゆえに「デイビッド」という名前に大きな意味が出てくるのである。