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『サイン』について解読して欲しいという要望が、何人かの読者から寄せられた。単なる宇宙人ものの、ホラー映画としか思っておらず、何の期待もしていなかったのだが、「解読が必要なほどの奥深い映画なのか・・・」と多少の期待感が湧いた。そんな中、『サイン』を見た。 謎。一体、この映画に謎などあったのだろうか? 特に難しい描写もなく、謎らしい謎の提起されていない。妻の死。妻が残した言葉"Swing away."と"See"。これらの言葉についての説明は付与されるが、これは「謎」と呼べるレベルのものではない。これは、映画の世界では「伏線」というのだ。ただの伏線である。ミステリーやサスペンス映画であれば、この程度の伏線は、日常茶飯事であり、何の意外性や驚き、感動を引き起こす何かはそこにはない。もし、謎をいだくとするならば、次のような事柄であろうか。 1 エイリアンの地球侵略の理由 人間を食物にするというが、食糧確保のためにUFOに乗って何万光年も旅して来たのか? 2 星間航行ができるテクノロジーを有する宇宙人が、地球上の目標地点を示すのに、地面に大きく書いた矢印という原始的な標識を用いるだろうか? 3 水を弱点とするエイリアンが、水に対する防御を全くしていない。水の多い地区にミステリーサークルがないということは、彼ら自身が水が弱点であるということを知っていたという証拠であるのに。 4 水か苦手なのに、全身の約70%以上が水分で出来ている人間を食べても大丈夫なのか? 5 オリンピック選手なみの走力と、二階にジャンプできるほどの跳躍力を備えたエイリアンが、メリルのバット攻撃に対して何の回避行動もとらず、全く抵抗しなかったのはなぜか? いくら、ボーを抱いていたとはいえ、多少の回避行動はできたはずである。 6 エイリアンはモーガンにいきなり毒ガスをかけて、噛み付こうとしていた。外に連れ出す2-3分も我慢できないほど、彼らは飢えていたのか? オリンピック選手なみの走力で、外の安全な場所でゆっくり食べても遅くなかったであろうに。 といったように、エイリアンの目的や行動は、謎だらけで、設定も実にいい加減である。こうしたお粗末さも、二十年前の映画であればまだ許されたかもしれない。しかし、宇宙人侵略映画に見飽きている現在の観客に、こんなお粗末なエイリアンがリアリティのある存在として通用するだろうか? 『サイン』の前半部。それは極めて現実的に、そしてスリリングに展開していく。しかし、後半の謎解き場面。映画のクライマックスで、エイリアンが姿を表した瞬間に、全ては崩れ去る。宇宙人のデザインにもセンスがなく、モーガンに毒ガスを吹きかける姿には、思わず失笑する。「これで終わりかよ!!」と思わず突っ込みたくなる。 さて、ここまでが、私の映画を見終わった直後の感想である。私と似たような感想を抱いた人も多いと思う。しかし、この感想で終わってしまっては、「超映画分析」とは言えない。 |
1 家族の不全 2 信仰の喪失 3 環境問題 4 テレビ、ラジオ万能主義 5 食の問題 6 コミュニケーション不全 これらが、『サイン』で我々現代人につきつけられるリアルな問題である。 環境問題。ボーが言う「汚染された水」という言葉。皿に入った水を出されて狂ったように吠える犬は、水の危険性に感覚の敏感な動物は気付くという意味か・・・。エイリアンが水で熱傷を負うのも、きれいな水ではなく「汚染された水」だからなのかもしれない。 テレビ、ラジオ万能主義。ヘス一家のUFOや宇宙人に対する情報源は、全てテレビやラジオ(一部本も)に依存している。テレビに映るUFO中継を全員で見つめる。しかし、ヘス家の人々は決して窓の外を見ようとはしない。テレビからの情報収集よりも、自分の家の外にUFOは来ているのか? 宇宙人は来ているのか? その方がはるかに重要なはずなのに、決して彼らは外界を見ようとしない。 また、テレビの映像のリアリティのなさ。例えば、ニューメキシコ上空に現れたUFO映像。不思議なほどリアリティがない。これは、貿易センタービルへの飛行機突入のライブ映像を見ていた我々現代人の姿に重なる。 それをビデオに録画しようというモーガンの態度も危機感がない。将来生きた自分がそのビデオを本当に見れるかどうかを、まず危惧すべきであるのに・・・。 テレビの向こうの世界とこの現実が連続しているというリアリティが欠除しているという問題提起だ。 食の問題。これは、水の汚染、環境問題にも通じるものがあるが、かなり強調、反復されて描かれていた。 UFO番組の間に何度も流されるコーラのCM。最後の晩餐に食べるのは、ハンバーガーやフレンチトーストなどのジャンクフード。せっかくのピザ屋での外食も、実に味気ない。荒れた食生活は、そのまま家族の食卓での団欒の破壊に通じ、「家族の不全」の問題にも重なる。 食の問題が重要な社会問題であることは、「BSEの牛肉問題」「虚偽の食品表示の問題」「基準値を超える農薬の検出」など最近のニュースの重要項目を見れば明らかであり、安全な食品を普通に食べるという当たり前のことが最近では困難になっている。そうした現実に対する問題指摘である。 コミュニケーション不全。ヘス家は近所付き合いがないのか? ヘス家の家は広々としたトウキビ畑の真ん中にあるが、彼らは全く近所付き合いをしていない。彼らの近所は、イタズラをしかける変な兄弟しか登場しない。調査に来た保安官は妙によそよそしいし、町に行っても「神父」と呼びかけ、グラハムに神父に戻って欲しいと言う一方で彼らの態度に、神父に対する親しさは微塵もない。グラハムに親密な態度で接するのは少しキレた薬屋の店員だけなのである。 UFOや宇宙人が来ているかもしれないのに、保安官や近所の人から電話がかかってくるわけでもなく、彼らとは何の情報交換もない。唯一かかってくる電話は、ヘス家と最も険悪な関係にあったはずのレイからである。しかし、彼はすぐに電話を切ってしまう。実際に、グラハムはレイに会いに行くが、彼はすぐに立ち去ってしまう。エイリアンが現れたという情報や、どうやったらエイリアンを殺せるのかという貴重な情報をレイは持ちながら、それをグラハムに教えようともしない。グラハムは近所の人たち、町の人たちとのコミュニケーションがほとんどないのだ。 |
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コミュニケーションの不全は、コミュニティとの関係に限ったものではない。当然、家族のコミュニケーション不全に通じる。 |
家族の問題。母の死をきっかけに、ギクシャクした家族関係になっていたヘス家。その家族が宇宙人の襲来を通して、一致団結し、何とか家族の絆を回復しする。これが、『サイン』の別な側面である。 自分の感情をコントロールできずに子供たちにぶつけてしまうグラハム。あるいは、湖に逃げるかどうかの投票で、日ごろのグラハムへの不信感が露出して、投票結果が1対3になってしまう描写、楽しいはずの最後の晩餐が家族の修羅場になるシーンなど、家族の問題に関しては、わかりやすくストレートに描かれているのではないだろうか。したがって、これ以上の解説は不要であろう。 信仰の問題。さて『サイン』において、最も重要な問題である信仰の問題が最後に残った。信仰の問題が最も重要な問題であるのは、シャマラン監督の「信仰を扱った映画を作りたかった」という言葉を引用するまでもない。映画を見れば誰にでもわかるだろうが、実際に信仰の問題がきちんと描かれているかどうかという点においては、人によって感想が異なるだろう。 まず、グラハムは神父だったという設定だ。しかし、彼は妻の事故死に直面し、神への信仰を捨てるが、果たしてそんなことがあるのだろうか? つまり、神父の重要な仕事は、葬式である。死者を見取り、祈りをささげるということ。最愛の家族を失った遺族を励まして彼らに生きる希望を与えるというのが、神父の重要な仕事である。当然、グラハムは何度も葬式を行い、遺族になぐさめと励ましのことばをかけてきたはずである。そうした神父が、いかに妻を愛していたからといって、妻が不条理な事故死をしたからといって、神への信仰全てを捨ててしまうだろうか? 普通の神父であれば、神が自分にくださった試練と理解するかもしれない。あるいは、半身を失い本当であれば生きているはずのない状態の妻と、生きたまま会えてその死を直接見取ることができたことを奇跡と捉え、神の恩寵を感じるかもしれない。 しかし、グラハムは毎日世界中で起きている交通事故が、自分の妻に起きたということで、信仰を全て捨てるのである。なんという浅薄な信仰心だ。というか、よくそれで今まで神父がつとまってきたという気がする。 ひどい人物描写だなあとも思うが、これもまた監督の確信犯的な描写かもしれない。主人公というのは、観客の感情移入を一身に集め、観客を代表するような存在である。主人公の信仰心の欠除は、現代にあける信仰の欠除、浅薄な信仰心をそのまま象徴しているのか? |
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繰り返し登場する十字架のイメージ。あるいはエイリアンの皮膚を焼き尽くす水は吸血鬼の皮膚を焼き尽くす聖水のようだ。こうした映像描写も「神のサイン」の一つなのだろう。 神は存在すると思えば存在するし、いないと思えばいない。神の信仰さえあれば神の存在のしるしを容易に見出すことが出来るし、信仰がなければそれはただの偶然。これがこの映画のテーマの一つなのだろう。 とはいっても、『マトリックス』や『オズの魔法使い』も、広い意味ではこれと同じテーマで、新味は全くない。この映画が「信仰を扱った映画を作りたかった」結果として出来たとするなら、非常にお粗末な感じがする。 グラハムは言う。 『人には2つのタイプがある。ひとつは、この世には偶然などなく、奇跡が存在すると信じているタイプ。 もうひとつは、すべては単なる偶然で、未来は自分次第なのだと思うタイプ。お前はどちらのタイプだ?』 さて、映画についてこれを樺沢流に言い換えよう。 『映画の観客には2つのタイプがある。ひとつは、映画の描写には偶然などなく、全てに監督の意思が介在していると信じているタイプ。 もうひとつは、映画の描写は偶然だらけで、全ては自分次第、自分の感想こそが全てだと思うタイプ。』 さて、あなたはどちらのタイプだろうか? 私は基本的に前者のタイプなのであるが、監督の狙いがうまく観客に伝わっていたかは疑問である。前半部が緊迫感があって非常に良く出来ている一方で、モーガンが宇宙人に殺されそうになるという最大のクライマックスで、突然回想シーンになって緊迫感を分断してしまう演出は失敗であろう。私は、「ここまで詳しく説明しなくても分るだろう」と思ったが、これだけ説明してもわからない人が多いというのも現実だったりする。 20年前であれば傑作と言っていいかもしれないが、たくさんの映画を見慣れている映画ファンにとっては物足りない作品だろう。 <<補足>> さて、主要な問題についての解読、解説は終了したが、いくつか補足すべき疑問。問題について、簡単に言及しておこう。 グラハムが子供に生まれた時の話をした理由 グラハムはエイリアンが家の周りを包囲し緊迫が高まる最中に、子供たちに生まれたときの話をする。それも、ボーとモーガンそれぞれに二回も話す。エイリアンの恐怖をそらすためにエイリアンと関係のない話をして子供たちを安心させたというのは言うまでもない。どうして、それが生まれた時の話なのかということ。 それは、『サイン』のテーマの一つが「生と死」だからである。 「死」については分りやすい。妻の死によって、神への信仰を失った主人公グラハムという設定。妻の死の瞬間、グラハムもまた死んだ。精神的な死である。生きがいを失い、大切な子供たちに対しても、感情的になってしまうグラハム。 エイリアンに捕らわれていたモーガンの呼吸は停止し、ほとんど死の寸前であったが、何とか蘇生する。死からの復活である。「復活」は当然、イエスの復活を暗示し、信仰のテーマにも通じる。モーガンの復活によって、信仰をとりもどしたグラハムの精神も復活した。 レイがエイリアンを生かしておいた理由 レイからの電話。そして、レイのもとを訪れたグラハムはドアごしにエイリアンと遭遇する。レイは死んだエイリアンを車で運んで行ってしまうが、家にはエイリアンが一匹生け捕りにされていた。なぜ、レイはエイリアンを一匹は殺し、一匹は生け捕りにしておいたのか。そして、それをほのめかすことをグラハムに行ったのか? このレイの不可解な行動に対するストーリー上の理由は、はっきりとはわからない。しかし、テーマ的な理由は明らかである。二匹のエイリアン。一匹は生き、一匹は死ぬ。「生と死」のテーマである。 |
"See."の意味 グラハムの妻が死ぬ間際にグラハムに言った言葉。 "See." 一義的には、死の間際に夫に対して「私を見ていて」といったニュアンスなのであろうが、それをグラハムは「そこにいる宇宙人を見ろ!!」、すなわち宇宙人の存在を知らせるサインとして理解する。 このセリフが全ての出来事が「神のサイン」であることをグラハムに気付かせるきっかけのキーワードであったことから、「神の存在を見よ」という意味も含まれているだろう。。 ただ、この言葉には他にも意味が込められているように思う。奇妙な描写がある。グラハムたちはテレビのUFO番組は凝視する一方で、決してUFOや宇宙人のいるかもしれない外の現実の風景を見ない。ミステリーサークルにUFOが着陸していてもおかしくないはずなのに、決して窓から外を眺めることはせず、逆に外が全く見えなくなるにもかかわらず窓を全て木で覆ってしまう。彼らは不自然なほど、現実の風景を見ようとはしない。 すなわち、「現実を見ろ」という意味、テーマに照らせば「現実の問題を見よ」、「現実世界の危険なサインに気付け」というメッセージも込められているだろう。 |
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ヒッチコックの影響とは? シャマラン監督は、『サイン』はヒッチコック監督の『鳥』の影響を受けたと語っている。では、どの部分が影響を受けているのだろうか? 映像と音で恐怖を表現していくという手法、これはヒッチコック的だ。そして、『鳥』と言えば鳥が1匹、2匹と少しずつ増え、無数の鳥に増えるというシーンが有名だが、恐怖の増殖。不安の拡大という点に、『鳥』の影響を見ることができる。 だが私が、最もヒッチコック的だと思ったのは、オープニングとラストである。ヒッチコック作品の一つのパターン。それは、主人公が精神的な弱点や日常的な不全感を持っているが、それが劇中で起きる大事件を通して克服される、あるいは充足されるというパターンである。例えば、『めまい』は高所恐怖症の主人公が登場するが、犯人との対決を通して高所恐怖症を克服してしまうというオチになっている。 言うまでもなくも『サイン』では、妻を失い神への不信感から神父を辞めてしまったグラハムが、宇宙人襲来騒動を通して、神のサインに気付き、信仰を回復し、神父に復帰したというオチである。 「サイン」の意味 多くの人は分っているとは思うが、最後にタイトルの「サイン」の意味についてまとめておこう。 映画の前半部で、ミステリー・サークルの出現が、「宇宙人のサイン」ではないか、という謎かけとして登場する。 主人公グラハムの妻は、交通事故で死亡するが、下半身切断という生きられないはずの状態でグラハムと会い、最後の言葉「See(見て)」と「Thing away(打って)」を残す。 しかし妻の最後の言葉は、宇宙人の攻撃から息子を守るために神が託したメッセージ(サイン)であるとグラハムは気付く。すなわち、「エイリアンを見てバットで打て」というメッセージと理解し、メリルとグラハムはその言葉に従い、宇宙人を退治する。モーガンは喘息によって呼吸停止していたため、エイリアンの毒ガスを吸わずにすみ、一命をとりとめたので、モーガンが喘息であったことも「神のサイン」とグラハムは理解する。「神のサイン」に気付いたグラハムは、神(someone)が自分たちを守ってくれていたことに気付き、神への信仰を回復する。 「sign」とは、「前兆、印、徴候」あるいは「(神意の)印、おつげ、奇跡」という意味である。前半では、「sign(宇宙人侵略の前兆)」のように見せておいて、最後は「sign(神の印)」であり、モーガンの復活が「sign(神の奇跡)」にんなる。 それとテーマ的な意味からは、現代社会は破滅の危機を迎えているがその「前兆、徴候」はいたるところに現れている。そのサインに気付きなさい(see)ということだ。 (2002年10月12日) |