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マルホランド・ドライブ  完全解読編
 オフィシャル・ページ

 まずい。わからん。
 難解映画の解読を得意技とし、すでに『ファイト・クラブ』『スネーク・アイズ』『御法度』『AI』などの難解映画を解読してきた。しかし、この『マルホランド・ドライブ』(以下『マルホ』)はわからん。難解映画解読の樺沢が、すっかりリンチのしかけた曲がりくねったマルホランド・ドライブに迷い込まされてしまったとは・・・。何たる失態。
 『マルホ』終了、15分前には、この映画のことが全くわからなかった。「どーしよう」という感じである。
 しかし、ベティの住む家の大家ココが、パーティーでアダム・ケシャー監督の母親として登場した瞬間、全ての謎が解けた。同時に、このパーティーでは、前半の登場人物が何人も再登場している。そうだったのか。ベティとダイアン、リタとカミーラの一人二役の構造が、このココの二役によって完全に解き明かされる。そして、ファミレス、「ウィンキーズ」のウェーイトレスの名札に「ベティ」の文字が・・・。この名札によって余計混乱した人も多いだろうが、この「ベティ」というウェーイトレスの登場によって、私の仮説が正しかったことを確信した。


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ココ 
大家/監督の母

 さて、解読しよう。もうすでに、いくつもの解読が出回っているが、ダイアンの心理状態と夢の意味をきちんとふまえた解読という点で、「完全解読」の名に恥じないと思う。

前半部は「ダイアンの見た夢」
 結果から言ってしまおう。前半部が「ダイアンの見た夢」、そして後半部が「現実」である。普通の映画は、いくつかの事実なり登場人物を紹介をしてから、夢のシーンや空想幻想シーンへと入っていく。しかし、『マルホ』の場合は現実部分の説明なしに、いきなり「夢」のシーンから入ってしまうので、観客は完全に混乱してしまう。前半と後半を入れ替えてこの映画を見れば、かなりわかりやすい映画に変身するはずだ。
 前半部がダイアンの夢であるという根拠。
 それは、以下の三点である。
1 タイトル前の毛布にくるまったダイアンとその寝息
 
2 カーボーイの「目覚めよ」というセリフでダイアンが目覚める
 
3 連続しないカット
 前半部のシーンにおいて、明らかに連続しないカットが二つある。
 ファミレス、ウィンキースでダン(気弱な殺し屋の相棒)が立ち上がる前には、机の上には食べ残しのベーコンエッグとコーヒーカップがのっているが、すぐ次のカットではベーコンエッグの皿はなくなり、コーヒーカップは下向きの状態できれいに置かれている。明らかに、つながらないカット。すなわち、夢。
 アダムが妻の浮気現場を目撃するシーンもそうである。妻の浮気を目撃したアダムは、妻の宝石箱を持ってガレージに。妻は、ブラジャーをつけてあわててその後を追うが、ガレージに着いたときに妻はドレスを着て、ハイヒールまで履いている。そして、浮気相手の男がすぐに、ガレージに追いかけてくるが、裸でベッドの上にいたこの男は、Tシャツを着てジーンズを履き、さらに靴まではいている。この短時間に服を切る時間はないし、服を着る必要もない。つながらないカット。すなわち、夢である。

4 浮浪者は夢を表す
 ウィンキースでダンは、自分の見た恐ろしい夢の話を刑事に語る。そこでダンは言う。「夢以外の場所でそいつ(浮浪者)の顔を見たくない」、つまり浮浪者の出ているシーンは夢、現実ではないということがこのセリフに現れている。このウィンキースでは、 ダンが夢で見たシーンが、そのまま展開する。刑事がカウンターの前に立つ。そして、裏の囲いに向かって歩き、浮浪者が現れる…。つまり、このシーンは夢であることが二重に示される。
 このシーンに限らず、浮浪者が登場するシーンは夢ということになるだろう。すなわち、最後の方で浮浪者がブルーボックスを拾うカットも夢という解釈で良いだろう。すなわち、 ブルーボックスは現実部分には登場しない。 

 以上の根拠から、前半部は「ダイアンの夢」という結論に達する。そして最も重要なのは、この前半エピソードが、いわゆる「夢」としての特徴を良く備えているということである。この前半部を「ダイアンの夢」とわかった上で、再構成してみよう。以下、映画前半部を「ダイアンの夢」、映画後半部を「現実」と表記する。

 

 特徴1 夢は断片化されたイメージが再構成されたもの
 
夢とは断片化したイメージの再構成されたものである。自分の蓄えられた記憶、その神経回路の発火が夢である。したがって、夢とは自分の記憶を断片の再現、再構成といえる。夢に登場する人物や場所は、ほとんどの場合、脳のどこかに記憶されたものである。
 「ダイアンの夢」に登場する人物は、ほとんどダイアンが「現実」において知っていた人物である。リタ(カミーラ)、監督アダム・ケシャー、ココ、殺し屋ジョー、12号室の住人。いずれも彼女が「現実」で知っていた人物である。そしてそれらの人物が出てくる場所も、ダイアンの家、近くのファミレスなどダイアンのなじみの場所である。
 さて、以上のことから、ハリウッドの映画会社の奥の院に鎮座する小人の正体が明らかになる。
 「ダイアンの夢」に登場する人物の多くはダイアンの身の回りに実在した人物たちである。そうでないのは、小人と会議室にいたマフィアくらいだろうか。すなわち、これはベティの記憶の再生ではない。すなわち、ベティの想像が補った産物ということになる。

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ミスター・ローク 謎の小人
ハリウッド奥の院の象徴

 ハリウッドの映画会社の奥の院に鎮座する小人(ミスター・ローク)は、社長ないしは、大プロデューサーといったところか・・・。巨大な権力を持つ男がいて、重要な決定がこの部屋でなされる。当然、ダイアンが入ったことがあるはずがない。ダイアンの抱いた怪しげなハリウッドの奥の院のイメージ。権力と金の集まる場所。その怪しげな場所が、このベージュのカーテンと不気味な小人によってうまく表現されている。
 外界から、ミスター・ロークとは電話でしか話せないという設定も、彼とは直接話すこともできない遠い存在という雰囲気を演出し、その神秘性を高めている。

 特徴2 自分にとって都合がよい話
 誰もが夢で経験したことがあるだろうが、夢とは、とんとん拍子に都合よく話が進む楽しい夢か、悪いほうに悪いほうに話が進み全く自分の思うように進まない恐ろしい夢か、そのどちらか極端なことが多い。この「ダイアンの夢」は、その前者の特徴を強く備えている。
 田舎かから出てきたダイアンには、大女優の叔母がいる。そして、その叔母の高級アパートでのリッチな生活が始まる。さらに、叔母のコネで早速、オーディションを受ける。初めてのオーディションで、その演技を絶賛される。キャスティング・エージェントのリニーはベティを気に入り、別の大作映画のオーディション会場に彼女を連れて行く。そこで有名監督アダム・ケシャーを紹介される。そして、その有名監督はベティに強い興味を示す。
 こんな都合のいい話があるのか・・・。
 あるはずないだろう。
 演技の勉強もしたことのない素人の田舎娘が、そんなに調子よく女優の階段を上れるはずがない。これは、ダイアンの願望である。「現実」のダイアンは、脇役専門の二流女優である。それもカミーラのお情けで共演させてもらっていただけ。ダイアンの女優への階段は、厳しいものであったはずだ。
 ダイアンの叔母は死んだ(パーティーでの会話)、すなわちその叔母が有名女優のはずがない。またダイアンはオーディションすぐに合格することもできなかった。だからこそ、「私にコネがあれば、ひょっとしたら成功したかもしれない」というダイアンの思いが、それを現実化する夢を見させたのだ。
 コネ、そして調子の良いデビューで思い出されるのが、リタである。マフィアの圧力によって強引に主役の座を勝ち得たカミーラ。カミーラの輝かしい女優遍歴から考えて多少のコネを使ったことは十分に考えられる。それが「マフィアを使った強引な圧力」という誇張した形で夢の中で再生されているのだろう。

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初オーディションで大成功

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有名監督に紹介される

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マフィアのコネ

 ここで重要なのは、オーディションで歌を歌う女性(メリッサ・ジョージ)、カミーラ・ローズがリタ役のローラ・エレナ・ハーディングではないことだ。ここで、エレナが歌を歌ってると話は非常にわかりやすくなる。リンチの一種の映像的撹乱であるが、夢として解釈するなら、コネでデビューしたカミーラに対する羨望としてとらえられる。
 つまり、この「オーディションでカミーラが主演の座を勝ち取らなければ良かったのに・・・・」というダイアンの羨望、あるいはひがみが、カミーラがエレナでない別な女性の姿で登場させるのだ。

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オーディションで歌う
カミーラ・ローズ

彼女を演じるのは、メリッサ・ジョージ。ローラ・エレナ・ハーディングではない。


 あるいは、映画監督アダムは、マフィアから追われ、命まで奪うと脅迫される。預金口座に金は無くなり破産。妻には浮気され、家からも追い出される。とにかくアダムはひどい目にっている。なぜ、アダムがこれだけひどい目に合うのか。
 それもまた、「現実」部分で説明される。アダムとカミーラは婚約発表する。つまり、アダムはダイアンからカミーラを奪った人物である。「アダムさえいなければ、カミーラは自分のもとから去らなかったのでは・・・ダイアンのそんな思い、アダムへの恨みが、夢の中でアダムをひどい目にあわせることで解消されるのである。

 前半部は、「ダイアンの夢(夜に見る夢)」であり、さらに「ダイアンの夢(願望としての夢)」でもあるのだ。

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ひどい目にあう
監督アダム・
ケシャー

 

  特徴3 不安の表象
 夢には、不安が表象されると、フロイトは言う。実際、不安な気持ちを抱えていると、追われる夢や、落下する夢などの恐ろしい夢を見やすい。

 当然ながら、「ダイアンの夢」にはダイアンの不安が現れている。
 ファミレスの「ウィンキーズ」、ここで不気味なモンスターのような浮浪者が出てくる。この浮浪者の襲撃は、全く意味がわからない。
 しかし「現実」では、この「ウィンキーズ」という場所でダイアンが殺し屋ジョーに、カミーラを殺すよう依頼する。つまり、ダイアンにとっての「ウィンキーズ」は、「殺人を依頼した場所」である。そこに現れた浮浪者は、彼女の「殺しを依頼した」という罪悪感の表象である。「罪悪感」という表現が適切でなければ、「死」のイメージの表象でもいいだろう。殺しを依頼したというネガティブな気分が惹起される不安が、モンスター(浮浪者)を生み出したわけだ。
 また、ダイアンの叔母宅の隣家の女性も「何かよくないことが起きている」と騒ぎ出すシーンも、ダイアンの不安、自分がしたことがバレるのではないかいう不安の反映である。
 
 「ダイアンの夢」の中で、ベティは非常に親切である。つねにリタに親身で、トラブルに巻き込まれていると知っても追い出すこともせず、一緒に彼女の記憶回復の手がかりを探る。おそらく、実際のダイアンはこんなに親切でやさいし女性ではないだろう。「現実」では、嫉妬深く、感情的になりやすい女性として描かれる。このやさしいベティの姿は、理想化された自我なのである。
 また、リタに対して極めて親切な態度をとるベティは、ダイアンがカミーラにしたこと(代理殺人)に対する、やはり罪悪感が反映されている。「カミーラにひどいことをしてしまった、だからせめて夢の中でだけでも親切にしてあげたい。本当は愛していたのだから・・・・」みたいな心性が働いている。

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ファミレス「ウィンキーズ」

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「何かよくないことが起きている・・・」

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リタに対して親切すぎる
ベティ

 

「ハリウッドの夢」としての『マルホ』
 
 この前半部分は、「ダイアンの夢」であると同時に、「ハリウッドの夢」でもある。厳密に言うと、前半部分のみならず、『マルホランド・ドライブ』という映画自体が、「ハリウッドの夢」なのである。主に、前半部が「ハリウッドの明るい夢」、後半部が「ハリウッドの悪夢」だ。
 前半部分に描かれたベティの夢(願望)。しかし、それはベティという一個人だけが描いた願望ではない。ハリウッドに来た女優の卵たち全員が、大女優になろうという大きな夢を抱いて、ロスにやってきたはずだ。つまり、ベティという個人の物語に、何万人、何十万人とロスにやって来ては消えていった女優の卵たちの集合的人格を重ねて描いているのである。
 ベティに関するエピソードに限らず、この映画に出てくるエピソードの全てが、ハリウッドで何万回と繰り返されてきた、ありふれた出来事である。
 新人俳優のオーディション。電撃的デビュー。
 金と名声。豪邸での華やかなパーティー。
 成功を収めたものが手にする高級車と高級住宅。
 あるいは、敗者の羨望、恨み。嫉妬。
 権力や人気からの失墜。
 あるいは、交通事故、変死、マフィアがらみのトラブル。
 スキャンダル。脅迫。映画製作に対する圧力。
 同性愛。セックス・スキャンダル。
 『マルホランド・ドライブ』は、ハリウッドの縮図なのである。ハリウッドの成功は一筋縄ではいかない。その曲がりくねった小道を、実在のマルホランド・ドライブという曲がり角だらけの道にたとえているのだ。
 『マルホ』が、「ハリウッドの夢」であることを説明するのが、最後に「ウィンキーズ」のウェーイトレスの名札へのアップである。そこには、「ベティ」の文字が書かれている。

 「ダイアンの夢」では、ダイアンはベティとして、カミーラはリタとして登場する。ベティはベティ・デービス、そしてリタはリタ・ヘイワースに由来している。
 ではなぜ、彼女たちはベティとリタという名前なのか。映画的には、カミーラがリタ・ヘイワースの映画ポスターを見るからである(『椿三十郎』のパロディか?)しかし、テーマ的には、「ハリウッドの夢」であることを説明するためである。

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同性愛

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失墜

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脅迫

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事件

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 ベティ・デービスとリタ・ヘイワースは、言うまでもなくハリウッドを代表する女優である。つまり、ベティ役とリタ役のダイアンとカミーラは、ハリウッドの女優たちの代表ということである。一方は、ヒット作に引っ張りだこの一流女優。一方は、万年脇役の二流女優。ハリウッドの成功者と敗者。
 この二人の個人の人格を借りて、ハリウッドの俳優たちの明暗、そしてスキャンダルやトラブルといったハリウッドの暗部を、集合的人格として描いている。

 「ウィンキーズ」のウェーイトレスの名は「ベティ」。女優の卵、あるいは売れない女優たちは、普段はウェートレスなどのアルバイトをして生計を立てている。このベティというウェートレスも、多分女優の卵なのだろう。
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カミーラ
リタ
(ローラ・エレナ・ハリング)
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ダイアン
ベティ
(ナオミ・ワッツ)

 

 すなわち、女優の卵としての総称を、この映画の中では、ベティ・デイビスの「ベティ」として表している。したがって、上京したばかりの女優の卵の少女の名前は、ダイアンではなくベティなのである。
 そもそも、「ダイアンの夢」では、『ウィンキーズ』のウェーイトレスの名前は、ダイアンであった。それを手がかりに、リタは自分の名前が「ダイアン」かもしれないと言い出す。なぜ、夢の中では、「ベティ」というウェートレスの名前が、「ダイアン」なのか。それは、ダイアン(ナオミ)がウェートレスとして働いていたからであろう。
 「現実」のダイアンは、「夢」の中のベティとは違い単にデビューできなかったはずだ。できなかったからこそ、願望としてそんな夢をみてしまう。すなわち、苦渋の女優生活を歩んでいた彼女は、アルバイトで生計を支えるしかない。ダイアンは、多分ウェートレスをしていた。そんな、下積み生活は、ダイアンにとって思い出しくない過去。つらくて苦しい過去の記憶は抑圧される。しかし、それは消し去ることができない。それが「夢」の中では、「ダイアン」の名前をつけた別の少女という形でほんのちょっとだけ顔を出しているのである。

 映画全体を通して、ハリウッドの町を見下ろす俯瞰カットが10カット以上もある。冒頭の事故後のハリウッドの夜景を初めとして、しつこいほど俯瞰カットがとうじょうする。すなわちこれが、『マルホ』はハリウッドを高所から見下ろした映画なのです、という映像的説明になっている。
 二人の老夫婦の意味は?
 二人の老夫婦。この二人は何を意味するのか?大笑いし、小さくなってダイアンの幻覚として、映画の最後に登場する。登場シーンは少ないが、何らかの意味を担った重要な役であることは間違いないだろう。
 『マルホ』は、「ハリウッドの夢」を描いている
すなわち、登場人物のほとんとんは、ハリウッド映画産業に関係する人物である。マフィア、カーボーイ、殺し屋ジョーなども、ハリウッドの寄生虫、あるいはハリウッドの闇世界の担い手としてハリウッド内の人間である。『マルホ』において、ハリウッドと関係のない人物、「ハリウッド映画産業外の人物」、それはこの老夫婦と12号室の住人くらいである。 

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「幸運を祈っているわ、ベティ」
 謎の老夫婦の正体は?

 つまり老夫婦はハリウッド映画産業と直接関係のない人たちの象徴ということになる。
 「幸運を祈っているわ、ベティ」「スクリーンで会えるのが楽しみね」と二人は言う。二人はスクリーンの前の存在(観客)、ハリウッドを外から見守る存在であることを、このセリフが示している。すなわち、一般人。世間の人たち。あるいは、映画の観客。こうした、ハリウッドの外にいて、ハリウッドの作り出す映画を見る人たちが、この二人の老夫婦に象徴されているだろう。
 では、この老夫婦が、なぜ自殺直前のダイアンの家に、小さい幻覚となって現れるのか? 自殺直前のダイアンは、カミーラを殺してしまった、ショック、そしてその罪悪感にとらわれている。彼女の罪悪感は、「ダイアンの夢」の部分でも数箇所にわたって描かれている(上記のとおり)。
 この老夫婦は、いかにも人の良さそうな人たちである。つまり、二人は世間の良識なり、世間の目である。冒頭のジルバ大会の映像。優勝した笑顔満面のダイアンの隣に、この老夫婦がいて微笑んでいる(ダイアンの優勝を喜んでいる)。これは、ダイアンの優勝を褒め称える良い意味での「世間の目」だ。
 ダイアンを嘲笑する小さくなった老夫婦。カミーラを殺したダイアンを責める世間の目、そして彼女の抱く罪悪感が、この老夫婦の幻覚を登場させたのである。

 

後半は「現実」?



 さて最初に、前半は「ダイアンの夢」、後半は「現実」と書いた。しかし、後半は「現実」という説明で納得する人はいないだろう。時間軸は目茶目茶だし、最後には大笑いする小さくなった老夫婦まで登場して、全く滅裂になっていく。
 でも、滅裂でいいのではないか?
 後半部分は、現実とはいっても、それはカミーラ殺しを依頼し、それが成功したことを知ったダイアンが、混乱した状態の中で過去をフラッシュバック的に回想した現実と理解できる。つまり、回想した事柄としては、ほぼ事実(現実)の列挙だが、フラッシュバックなので、時系列的には目茶目茶になっているわけだ。さらに、本当は愛していたカミーラを殺してしまったのだから、彼女の混乱の度合いは尋常ではない。
 実際、この小人の老夫婦の描写や、いろいろなシーンが縦横無尽に交錯していく部分に、ダイアンの混乱、いやそれを超えて錯乱に至っていることが、映像的に見事に表現されているだろう。

 

カミーラは本当に死んだか?
 ダイアンは殺し屋ジョーに、カミーラ殺しを依頼する。殺しが成功した場合は、その証拠にブルーキーが渡されるという。
 3週間の間、ダイアンは姿を隠した。警察に見つかるのではないかという恐怖、そしてカミーラに対する罪悪感からである。その恐怖感のせいで、夢の中では刑事がベティの家の前で張り込みし、ジョーの手下ダンは刑事に職務質問されている(不安の表象)。
 3週間ぶりに17号室に帰ったダイアンは机の上のブルーキーを発見する。
 ここまでの描写を、常識的に判断なするなら、カミーラはジョーによって殺された、ということになる。ブルーキーは、カミーラが死んだという証拠そのものなのだから。
 しかし、一つ気になる描写がある。「夢」の中でのジョーの登場シーンである。ジョーはとんでもなくトンマで間抜けな暗殺者として登場していたではないか。この描写が正しいとすれば、こんなトンマな暗殺者が暗殺を成功させることができるのか、という疑問がわく。すなわち、暗殺が失敗したのではないかという疑念が起きる。
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 しかし、これは「夢」の中のシーンである。現実ではない。すなわち、ダイアンの願望として解釈しなければいけない。
 ダイアンは、カミーラの暗殺を依頼したものの、強い罪悪感を抱いていた。その証拠は、前述の浮浪者のシーンなど、繰り返し表現されている。殺しを依頼したものの、ダイアンのカミーラを愛する気持ちに変わりは無い。ダイアンがカミーラを愛していないとするなら、その後ダイアンが混乱して自殺するはずがない。本当は、カミーラのことがまだ好き。だから、罪悪感も抱くし、自殺に至るのだ。
 ダイアンはカミーラのことを殺したいと思ったが、死んで欲しくないという気持ちがどこかにあった。それが、映画のオープニングである。絶対死ぬはずの交通事故。しかし、リタはちょっしたかすり傷しか負っていない。ありえない。しかし、これはダイアンの願望。絶対死んだはず。でも、ひょっとしたら助かったのかも。
 ダイアンは、本当は死んで欲しくないと思っていた。つまり、殺人を依頼しておきながら、「暗殺が失敗して欲しい」という願望も少なからずあった。そのダイアンの願望が、超ドジな殺人者ジョーの描写なのだ。これだけジョーがドジな奴なら、暗殺も失敗するかも・・・。
 「本当は死んでしまったけど、死なないで欲しかった」というダイアンの願望、それがドジなジョーを通して描かれるのだ。
 
 カミーラが死んだもう一つの証拠。それは、事故後に立ち込めた白い煙である。この白い煙は、ダイアンが自殺した直後にも立ち込める。銃の硝煙と映像的に一致する。その意味は、「死」。
 もう一箇所だけ、白い煙がたち込めるシーンがある。「クラブ・シレンシオ」の、司会の男が消失するシーンである。
 なぜ、ここで白い煙がたちこめるのか・・・。
 下記の「クラブシレンシオ」の意味を知れば、それは必然のこととわかる。
 
 さて、ブルーキーは何を象徴していたのだろうか。
 ブルーキーは殺人の成功の証、つまり、「死」の象徴である。
 ブルーキーを持つのは、前半部のリタと後半部のダイアンだけである。
 リタが自分が殺された証拠であるブルーキーを持ち歩くのは、大きな矛盾である。しかし、リタは本当は死んでいるとすればそれは当然のこと。リタがブルーキーを持ち歩くという行為そのものが、リタが死んでいることを表わしている。

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ブルーキーの意味
 それは「死」

 そして、後半。ブルーキーを見つけたダイアンはどうなったか?
 ブルーキーがダイアンを混乱させ、ダイアンを死に誘った。やはり、ブルーキーは、「死」の象徴である。

 

腐乱死体は誰か?

 17号室、すなわちダイアンの部屋のベッドの上の死体は誰か? カミーラ、それともダイアン?
 このベッド上の死体は黒髪である。ほとんどの人は、この死体は黒髪のカミーラだと考えるだろう。
 しかし、最後まで見るとわかるように、ダイアンは自分の部屋の机の上に、カミーラの死のあかしであるブルーキーを見て混乱し、自分の部屋で自殺する。
 ブルーボックスが開けられ、ベッドの死体に向かってカーボーイの声が「よう彼女、起きる時間だ」と呼びかける。画面が暗転して、その死体にダイアンの寝姿がオーバーラップする。ベッドの死体に、ダイアンの寝姿がオーバーラップ。その映像的意味は、「死体=ダイアン」である。
 ダイアンの部屋で横たわるベッド上の死体はダイアン以外には考えられない。

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この死体の正体は?
カミーラ or ダイアン


   さて、ここで大きな問題が生じる。前半は「ダイアンが見た夢」だとすると、いつその夢を見たのかということになる。
 ダイアンの夢には、ベッドの上の死体が登場している。すなわち、ベッドの上に死体がある状況で、ダイアンは夢を見た。それはすなわち、ダイアンが死んだ後。あるいは、死ぬ直前、ということになる。
 この前半の「ダイアンの夢」部分を、ダイアンの死後、あるいは死ぬ間際の夢と考えたらどうなるか。カミーラとの愛が破綻し、自殺したダイアン。女優としても成功できず、カミーラへの愛も裏切られた。報われない人生。悲惨な幕切れ。この瞬間のダイアンの心情を想像してみよう。
 「本当は女優として成功したかったし、カミーラともうまくやっていたきかったのに・・・」 
 そんな無念さにつつまれていたことは間違いない。すなわち、この瞬間に彼女が夢を見たとすれば、まさに前半のような夢を見るのではないだろうか?

 では、なぜ「ダイアンの夢」では、ダイアン(の死体)はカミーラの姿(黒髪)として登場しているのか? その答えは簡単。夢は願望。そうありたかったから、である。
 ダイアンのカミーラへの思い。それは、同一化という方向性をおし進める。アダムと結婚するカミーラ。カミーラと精神的に一体となることを拒否されたダイアン。結果、彼女は、カミーラとの同一化を強く希求する。カミーラを思いながら泣きながら自慰するシーンは、それを補強する。カミーラを失った精神的枯渇、精神的欠落感を補うために、ダイアンのカミーラへの同一化欲求がエスカレートする。
 ラストのダイアンの自殺。それは、罪悪感にさいなまれて自殺したと考えられるが、それは彼女の心理の一面にすぎない。混乱した精神状態の中で、ダイアンの同一化欲求はピークに達する。それが自殺である。いや、心中である。心中という表現が、一番彼女の心理にピッタリくる。
 カミーラは死んだ。死後の世界で、彼女たちは二人きりとなり、誰にも邪魔されることなく、愛を育むことが出来る。つまり、ダイアンもカミーラと一緒に死ぬことで、死後の世界での同一化が達成されるのである。そして、それは実際達成された。
 前半部の「ダイアンの夢」という形で。
 同一化願望は、現実の世界では単なるダイアンの願望に過ぎなかったが、「ダイアンの夢」ではそれが体現するのだ。
 リタが長髪を切り、ブロンドのカツラをつける。これも同一化願望の別な表現である。ダイアンが望んでいたのは、カミーラとの両思いであったはずだ。つまり、「自分がカミーラと同一化したいという願望」が、カミーラによって受け入れられなくては意味がない。自分がダイアンへの同一化を希求すると同時に、「カミーラも自分と一緒になることを望んでいる」はずだというのが、ダイアンの思いである。両思いになりたいというダイアンの願望が、「リタのベティ化」として表現されている。
 夢の中で体現される同一化要求。自分(ダイアン)の死体が、カミーラ(黒髪のナイスバディ)に見えるという描写に、ダイアンのカミーラへの同一化要求が見事に現れているのである。
 
 オーディションのカミーラがリタと違う人物なのは?
 『マルホ』では、同性愛がエスカレートすると同一化願望に至る。このことは、一つの謎を解く。
 前半のオーディション・シーンで登場したカミーラ・ローズは、ローラ・エレナ・ハーディングではなく、メリッサー・ジョージによって演じられていた。なぜ、カミーラが、メリッサによって演じられていたのか?。
 メリッサは、パーティのシーンにも登場し、カミーラと熱烈キスをする。熱烈キスの意味は? それは、メリッサとカミーラができていたということ。カミーラの恋人は、ダイアンだけでなかった。リタとベティが初めて肉体関係を持

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オーディションで歌う
カミーラ・ローズ

彼女を演じるのは、メリッサ・ジョージ。ローラ・エレナ・ハーディングではない

つとき、リタが同性愛が初めてではないことが説明されていたのも、メリッサとの関係をにおわせるものだったのだ。メリッサとカミーラの関係は、アダムとの婚約発表だけでなく、ダイアンに精神的ショックを与える原因の一つとなる。

 

「お静かに」の意味は?

 あやしげなクラブ、「クラブ・シレンシオ」とは一体何なのか? そして、そこで語られる「お静かに」という言葉は? 『マルホ』を見て誰もが抱く疑問である。
 「クラブシレンシオ」は実在したクラブなのだろうか? 車が一台も止まっていない駐車場。しかし、劇場内には多くの人が。車社会である現実のアメリカでは、考えられない風景。つまり現実ではないということ・・・。
 「クラブ・シレンシオ」のシーンは、リンチ的映像世界が炸裂している。他のリンチ作品にも通じるリンチ的映像、それは『マルホ』では、「クラブシレンシオ」と「小人のいるベージュのカーテンの部屋」の2シーンである。これらの場所は、ハリウッドに存在する現実世界ではない。過去のリンチ作品を見ていれば、このリンチ的異世界を現実ではないと直感するのが当然のように思える。どうしても根拠が欲しいなら、「ダイアンの夢」に含まれるほとんどの場所が、後半の「現実」部分に登場しているが、「クラブ・シレンシオ」は「現実」に登場していないことを挙げておこう。
 「クラブシレンシオ」は現実ではない。じゃあ、「クラブ・シレンシオ」は何?
 これは、死後の世界ではないのか?
 あるいは、死後の世界への入り口。
 「クラブシレンシオ」、すなわち「クラブ沈黙」。
 沈黙。静寂の死の世界。死後の世界を象徴するのに、これ以上良い名前があるだろうか?
 ベティとリタは、一緒に「クラブ・シレンシオ」に来る。ここが重要である。「クラブ・シレンシオ」が死後の世界とすると、ダイアンとカミーラが二人とも死んだということをこのシーンは表わしている
 ブルーキーは「死」の象徴であると前述した。
 舞台で女がささやく。
 「シレンシオ(お静かに)」
 この「シレンシオ」の女の髪の色は「青」、すなわちブルーキーと同じ色。偶然ではありえない。「青い髪の女」など、そうめったにいない。つまり、この髪の色の青は、ブルーキーと同様に「死」の象徴である。つまり、「クラブシレンシオ」が死後の世界であることが、この女の髪の色によって映像的に表現されている。
 
 では、この「シレンシオ」の言葉の意味は何か?

 「シレンシオ」は、映画の最後にも登場する。画面が暗転して、青い髪の女が登場し、「シレンシオ」とつぶやく…。ダイアンが自殺した直後である。
 「シレンシオ」は、「silence(沈黙)」のスペイン語である。「silence」を辞書で引くと、その意味の一つに「黙祷(もくとう)」とある。
 ダイアンは自殺する。悲惨な死をとげたダイアン。しかし、死後(または、死の直前)にダイアンは夢を見る。輝かしい女優の道を歩んだ、願望の世界の自分を
 画面は暗転し、「シレンシオ」・・・。
 黙祷。ダイアンの死に」

 

泣き女の意味は?
 泣き女の意味は?
 泣き女の歌を引用してみよう。
「あなたはさよならを言って、私を置き去りにした。私は泣いている。一人泣いている」

「あなたの愛は冷めてしまった。だから私は永遠に、あなたのをしたって泣き続けるだけ」
 これを読めば、誰でもわかる。一回見ただけでは、この泣き女の後のシーンのことを歌っているので、わかりづらいが、二回見ればこの歌の意味は明白である。
 ダイアンのことを歌った歌。ダイアンそのものである。
 この歌を聞きながら、ベティは泣く。こんのシーンに限らず、この後の現実部分ではダイアンは泣きまくっている。泣き女とは、すなわちダイアンのこと。
 そしてベティだけでなく、リタも泣き崩れる。ダイアンの思いを、泣き女が全て代弁してくれた。その歌を聞いてリタが泣き崩れるというのは、ダイアンの思いがカミーラに通じたということ。ベティとリタは、二人して泣き続ける。このとき、二人は精神的に一体となった。精神的に同一化を果たす。
 この瞬間、カバンの中にブルーボックスを発見するベティ。

 

ブルーボックスの意味は?

 さて、『マルホ』最大の謎に、到着した。
 このブルーボックスとは、一体何か?
 
 ブルーボックスを発見したベティ。
 二人は、急いで家に帰る。
 クローゼットに入っていた帽子の箱からブルーキーを取り出そうとするリタ。
 しかし、その時、ベティの姿はない。
 リタは一人でブルーボックスを開ける。
 ブルーボックスは開けられる。
 ブルーボックスの中にカメラ移動。
 ベティの叔母さんが振り向くが、何もなかったように部屋を出る。
 腐乱死体
 カーボーイの声で、「よう彼女、起きる時間だ」と呼びかける。
 画面が暗転して、その死体に、ダイアンの寝姿がオーバーラップ。
 ドアの激しいノック音で目を覚ますダイアン。

 ブルーキーを発見したリタ。ブルーボックスを発見したベティ。
 ブルーボックスブルーキーを差し込む行為は、ベティとリタ、すなわちダイアンとカミーラが同一化を果たしたことを象徴する。そしてその時、ベティの姿はない。すなわち、ダイアンがカミーラと同一化を果たしていたからこそ、ダイアン(ベティ)の姿はなかったのである。

 ブルーボックスのオープンは、夢の最後の部分。
 ダイアンの願望である夢世界で、ダイアンはカミーラとの同一化を果たし幸福な気分に包まれる。
 その一瞬の至福の時を破るのが、カーボーイの声である。
 前半部分(「ダイアンま夢」)は、毛布にくるまったダイアンが寝息をたてて眠るカットと横になって目を覚ますカットに、きちんと挿入されている。実にわかりやすい説明である。

 ここでダイアンは眠っていた。日本語で死んだことを「永眠した」というが、英語でもそれは同じである。映画の始まりでダイアンは眠っている。すなわち、それは居眠りではなく、永遠の眠りにダイアンが入っている(入って行った)と考えられる。
 すなわち、「ダイアンの夢」は、ダイアンの死ぬ間際の夢。
 それを示すのが、カーボーイの声である。
 では、カーボーイの意味は何か?

カーボーイの意味は?
 カーボーイの登場シーン。
 牛の骸骨。ライトが不気味に点滅。
 ようやくライトがついて、カーボーイが登場する。
 彼女を選ばないと、アダムを殺すと脅迫する。
 アダムと話が終わる去っていくカーボーイ。
 ランプが不自然に消燈。
 そして、カーボーイの姿は跡形もなく消える。
 忽然と姿を消したカーボーイに驚き、顔面を引きつらせるアダム。
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カーボーイの意味
 死の番人、あるいは死神
 このシーンをそのまま解釈すれば、カーボーイは普通の人間とは考えられない。「死の代理人」あるいは「死神」である。映像的にそう表現されている。少なくとも、生身の人間ではない。アダムの生殺与奪の権は、このカーボーイに握られている。まさに、死神である。
 では、何で死神がカーボーイの格好をしているのか? 私は、『ペイルライダー』という映画を思い出した。クリント・イーストウッド演じる主人公の男は「死神」を名乗るカーボーイであった。

 カーボーイは言う。「うまくやれば、君はもう一回私に会う。間違えたらもう二回会うことになる」
 この解釈として追加された一回は、カーボーイがアダムを殺しに来るということは間違いない。しかし、最初の一回は何か? パーティーのシーンにカーボーイの姿が見えるので、それを一回とカウントする見方が多いようだ。そうした解釈は可能である。しかし、夢の中での人物のセリフを、そのままストレートに現実世界に照らすという方法自体が誤りであるように思える(もし、そうなら現実をストレート示すセリフが他にもたくさん夢部分に入っていなければいけない)。
 死んだ後、誰もが死神に誘われて、死後の世界に向かう。すなわち、死の間際に自分にとって都合のいい夢をみていたダイアン、現世への執着にとらわれたダイアンを、「目覚めよ」と現世への執着から目覚めさせ、あの世(死後の世界)へと誘う役どころが、カーボーイだった。
 つまり、カーボーイは、死後の世界の案内人。
 つまり、どんな人間でも、一度は死神に会うということ。
 それが最初の一回である。

 こう解釈すると、「シレンシオ」にもう一つ別な意味が見えてきておもしろい。「シレンシオ」と「目覚めよ」は、対立する言葉である。「目覚めよ」に対して、「静かに眠らせてあげなさい」という意味で、「シレンシオ」を理解することができる。
 映画の最後の「シレンシオ」・・・・・・。
 「お静かに。ダイアンを心地よい夢の世界のまま、このまま寝かせてあげましょう」

 

完全解読に挑戦

 さてと、あまりに長くなったきたので、かなり詳しく解読したにもかかわらず、余計わけがわからなくなってしまった人もいるかもしれない。
 ここでもう一度、ストーリーをわかりやすく、再構成してみよう。

 「ジルバ大会での優勝をきっかけに、オンタリオから女優になる夢を抱いてハリウッドにやってき少女ダイアン。しかし、実際のハリウッドは厳しかった。脇役につくのが精一杯。二流女優としてやっていくのが限界である。しかし、ダイアンには愛人カミーラがいた。カミーラだけは信頼できると信じていたダイアン。やがてカミーラは、大女優へと駆け上がり、ダイアンとカミーラの距離が離れていく。そして、カミーラのダイアンに対する態度も冷たくなっていく。演技指導中に、いちゃつく有名監督アダムとカミーラの姿に、ダイアンはショックを受ける。ダイアンにパーティに誘われるが、そのパーティーでダイアンはアダムとの婚約を発表する。「裏切られた」信じていたと思っていたカミーラに裏切られた。許さない。私の持っていない全てを、カミーラは持っている。女優としての成功。愛。金。美貌。私もカミーラのようになりたい。私もちょっしたコネさえあれば、チャンスを手に入れられたはず。カミーラは好き。でも、私を裏切った彼女は許せない。殺してやる。叔母の遺産の残りを使って、殺し屋ジョーに殺人を依頼するダイアン。」
 殺人を依頼したダイアンは、3週間の間姿を消していた。警察に追われることを心配したためである。3週間ぶりに家に帰ったダイアン。カミーラの死を知らせるブルーキーが、机の上に置かれていた。カミーラを殺したいと思ったダイアン。しかし、ダイアンはカミーラを愛していた。本当は、死んで欲しくないという気持ちも心のどこかにあった。ブルーキーを見て、強い罪悪感にとらわれ、動転するダイアン。
 ドアのノック音。この瞬間に彼女は、ハリウッドにやってきてからカミーラとの思い出の全て(上記の「 」部分)を一瞬に回想する。混乱した精神状態であるから、時系列は滅茶苦茶。さまざまなカミーラとの思い出が、フラッシュバック的に湧き上がってくる。そしてさらに、ダイアンは混乱し、錯乱状態となり小さい老夫婦の幻覚を見る。
 強い罪悪感。でも、やっぱりカミーラが好き。カミーラと一体になりたいという同一化願望が、ダイアンを死へと誘う。
 「これで私は、カミーラと一緒に死ねるのね」
 死に至る朦朧とした意識の中で、ダイアンは夢を見る。
 もし、私にコネがあったら、簡単にデビューできたのに。
 カミーラとも仲良く楽しい同棲生活をずっと続けたかった。
 カミーラと私は一心同体。カミーラだってそう思っている。
 そう、私はダイアンではない。もう、カミーラなの。
 ベッドの上に横たわるダイアンの死体は、彼女にはカミーラの姿にしか見えない。そして、カミーラがブルーキー、ダイアンがブルーボックスを出し、その箱を開けることで、カミーラとダイアンは同一化を実現した。
 二人は一緒になることが出来たのだ ! !
 ダイアンにとって、至福のひと時。
 その瞬間、カーボーイ(死神)が、「目覚めよ」と至福の夢をさえぎる。
 画面は暗転する。
 青い髪の女は言う。
 「シレンシオ」
 「お静かに。可愛そうなダイアンを心地よい夢の世界のまま、このまま寝かせてあげなさい」

 「お静かに・・・・・・ダイアンの死に黙祷・・・・・・」

 

リンチ映画に完全解読などない

 どうだろう? 以上が、樺沢の解読である。とりあえず、主要な謎に対する答えは全て盛り込まれており、夢は願望や不安を表象しているという視点から、一元的に理解している。
 でも、なんて悲しいラブストーリーなんだろう。

 いや、悲しい物語ではない。
 ダイアンとカミーラは一体化するのである。夢の中ではあるが・・・。

 夢ではあるが、ダイアンの一人称的理解では、ハッピーエンド
 悲惨な死をとげた少女が死ぬ間際に見た幸せな幻影。
 そう、これは「マッチ売りの少女」だ。
 つらい人生を歩んできた少女が、朦朧とした意識の中で見る夢。
 死ぬ間際の一瞬の至福。
 そう思うと、非常にわかりやすい。

 『マルホ』は、そのまがりくねった道の中に、観客を迷い込ませることを目的として作られている。 『マルホ』を難解と言う人は多い。『ツイン・ピークス』や『イレーザーヘッド』を難解という人も多い。難解というのは、文字通り、解き難いという意味。そして、それは解くべき答えがあって初めて成立する言葉。
 たとえば、「10÷3=」を計算して、「3.333333」といつまでも割り切りない。
 では、「10÷3=」は難解な問題か?
 割り切れないものをいつまでも、割り続けても決して答えは出ないのだ。
 『ツイン・ピークス』を見ればわかるように、リンチの作品は割り切れないのである。つまり、提示した問題について完全形の答え、100点の模範解答は用意されていない。80点、あるいは90点の答えは存在するし、そのヒントは提示される。しかし、一、二割の残りの疑問は放置される。
 「10÷3=」の答えは「10/3」でいいではないか? つまり、そのままに理解すればよろしい。直感的な理解で十分いいように思う。
 ディテール全ての辻褄合わせをしても。決して辻褄はあわない。というか、あえて辻褄が合わないように、リンチは仕組んでいる。算数で言えば「割り切れない」ように出題してあるのである。
 そこが、リンチ作品の魅力なのだ。実際、その魅力に魅入られて『マルホ』を何回も見た人は多いだろう。
 『マルホランド・ドライブ』は、小道にとらわれすぎる(あまりディテールにこだりすぎる)と、道に迷う。『マルホランド・ドライブ』を上空から眺めるように、その大きな構造を理解するように見れば、そんなに難しい映画ではないだろう。

 とりあえず、樺沢の解読として、一つの模範解答を示したが、この答え自体完全ではないかもしれない。
 『マルホ』についての模範解答は、いくつか存在してもおかしくない。とりあえず、これはその一つということで、80点くらいの点数はもらえないだろうか・・・。重要なのは、どんな立派な模範解答を描いても、100点というのはないということ。誰も100点がとれないようにリンチは問題を作ってる。今度の試験
100点とろうと思って勉強するように、100点の答えがあるのではないかという幻想にとりつかれて、もう一回見てしまう。これが、『マルホ』の魅力であり、リンチの策略だ。