[超映画分析]




完全解読
ギャング・オブ・ニューヨーク
 
 オフィシャル・ページ
  
prelastbattle.jpg (14307 bytes)
 久しぶりに、血湧き肉踊る映画を見た。単にアクション・シーンや群集シーンの迫力だけを言っているのではない。民族、宗教。家族愛、恋愛、愛国心。友情と裏切り。自由と平等。激動の歴史と変革の兆し。おおよそアメリカ映画で好まれるほとんどの題材が盛り込まれているゴージャスな作品である。
 しかし、この映画を存分に楽しむには、最低限のアメリカの歴史や宗教知識くらいは知っていないとキツイかもしれない。ファースト・シーンを見て、「ああ、WASP対アイリッシュの対決だな」と看破できた日本人は多くなかったであろう。さらに、ビルのアムステルダムに対する思いも、セリフに頼らずに演技と演出で表現しているので、伝わりづらい部分がある。
 いくつかの掲示板をのぞいたが、あまり評判はよくないし、議論もあまり盛り上がっていない。『ギャング・オブ・ニューヨーク』(以下『GONY』)は単なる血の気の多いギャングの抗争映画ではない。失敗した恋愛映画でもない。スコセッシ監督が何十年も企画を暖めてきただけはある凄い作品なのであるが、それを理解していただくには、かなりの説明が必要なようである。久々に解読しがいのある映画の登場だ。

 アムステルダムの意味 ニューヨークの歴史
 ディカプリオが演じるアムステルダム。彼の名前には、ちょっとした意味がある。
 ニューヨークは、その前は「ニューアムステルダム」と呼ばれていた。正確に説明すると、ニューヨークに初めて入植したのはオランダ人で、最初マンハッタン島は「ニューネーデルランド」と呼ばれていた。そのオランダ人がアメリカ先住民から24ドルでマンハッタン島を買い取った。1663年に、「ニューネーデルランド」から「ニューアムステルダム」に名前が変更される。1694年、英国がニューアムステルダムを占領し、名前をイギリス国王の兄弟のヨーク公にちなんで、「ニューヨーク」に変えたのである。ここでオランダの支配は終わり、1776年に英国軍が撤退するまで、ニューヨークは英国の支配下にあった。

diacaplio.jpg (10200 bytes)
アムステルダムを名乗る
ディカプリオ

 「アムステルダム」とはニューヨークの古い名前にちなんだものであった。したがって、ビルはそれを聞いたとき「お前がアムステルダムなら、俺はニューヨークだ」と言ったわけである。
 これは単なる言葉遊びではない。「ニューアムステルダム→ニューヨーク」というマンハッタン島の歴史的な支配者の交代に、アムステルダムの父ヴァロン神父からビル・ザ・ブッチャーへの支配者の交代が、裏の意味として重ねられている。
 さて、ディカプリオがアムステルダムと、名前を名乗るシーン。これは、『椿三十郎』のパロディなのだろう。本名を名乗るに躊躇した浪人(三船敏郎)は、椿の花を見てとっさに「椿三十郎」と名乗った。スコセッシ監督は、『GONY』の撮影中に、俳優やスタッフに『椿三十郎』を実際に見せたという(この椿の花のシーンかどうかは不明だが・・)・。スコセッシ監督は黒澤明監督の崇拝者であり、黒澤の『夢』では、ゴッホ役で出演していた。スコセッシの黒澤通ぶりを考えれば、『椿三十郎』と関係がないということがありえないように思える。
 また、「アムステルダム」と言う名前が、「偽名」かどうかについてであるが、『椿三十郎』のパロディであれば偽名のように思えるのだが、ビルに「アムステルダム」を名乗る前のシーンで、幼馴染のジョニーに「アムステルダム」と呼ばれるところが一箇所あったので、偽名ではない可能性が高い。
 人種対立と宗教対立
 
   冒頭のネイティブズとデッド・ラビッツの対決シーン。ネイティブズは、アメリカの先住民であると説明がされるだけで、人種的なコメントは劇中の中ではないが、彼らがWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタン)であることは明白である。日本人には明白ではないが、アメリカ人観客のほとんどは、そう思ってみただろう。具体的に言えば英国系なのだろう。
 「説明がないのにどうして断定できるのか?」と反論する人もいるかもしれないが、説明がないことが最大の説明である。1700年代後半のアメリカの民族構成で英国系が過半数を占めていたことから、アメリカ先住民を自称する彼らの多くが英国系であることは間違えないだろう。
 ネイティブズがプロテスタンであることは、セリフで語られる。ビルの「彼らとは信念は同じだった。違うの宗教だけ」というセリフがある。このセリフが、自分たちはカトリックではない。すなわち、プロテスタントであることを説明している。
 アイリッシュのほとんどはカトリックである。すなわち、ネイティブズとデッド・ラビッツの対立構造。これは、単なる二大ギャング団の対立ではなく、WASP対アイリッシュという人種対立。プロテスタント対カトリックという宗教対立の二つの要素が重なっていることが重要である。
 この構造を理解していないと、なぜデッド・ラビッツがカトリックの伝道所を根城にしていたのかとか、ネイティブズが差別的な言葉ばかりを喋っていたのかとか、細かいところが理解できなくなってしまう。

naitiveamerican.jpg (13948 bytes)ネイティブ・アメリカン

prefirstbattle.jpg (13052 bytes)
デッド・ラビッツ

lewis.jpg (11883 bytes)
鬼気迫るデイ・ルイス
の演技

   ちなみに、ヴァロン神父を演じたリーアム・ニーソン。モンクを演じたブレンダン・グリーソンはアイリッシュである。体格の良い二人は、外見的にもまさにアイリッシュらしい。はまり役である。
 しかし、実は、ビルを演じる、ダニエル・デイ・ルイスの父はアイルランド出身で、デイ・ルイスはアルランドの市民権を得ている。
 

擬似親子関係の行方・・・

 アムステルダムは父の仇をうつために、ビルに接近していく。次第にビルの信頼を集め、重要な側近にまで登りつめる。子供のいなかったビルは、アムステルダムを息子のように可愛がる。ビルはヴァロン神父が自分の唯一尊敬できる人物であったことをアムステルダムに告白した後に言う。
 「I never had a son.(俺には息子がいなかった)」
 過去完了形で言っている。すなわち、今は息子がいるということを暗に言っているように読める。
 「お前は俺の息子だ」というビルの気持ちが、このセリフの裏にはあるのだろう。 劇場でのビルの暗殺未遂事件。アムステルダムはとっさに自分の身を挺して、殺したいほど憎かったビルの命を救ってしまう。アムステルダム自身が、自分の行動に驚き、悩む。本当は殺したいほど憎い父の仇。その命を救ってしまうとは・・・。つまりこの時点で、ビルはアムステルダムにとって、父のような存在になりつつあったのかもしれない。
 私にとって、『GONY』の中で一番おもしろかったのは、二人の間に擬似親子関係が生まれていく過程、男どうしの師弟関係が父子愛に近いものに高まっていく過程である。
 しかし、その疑似父子関係は、一人の女性の登場によって、微妙な変化をもたらす。ビルの方はジェニーに対して、現在は愛情のようなものを抱いていないようだが、アムステルダムにとっては彼女とビルが昔どういう関係だったかが、気になってしょうがない。
 疑似父子関係のアムステルダムとビルが、ジェニーという一人の女性(ビルのもと情婦)を奪い合うのは、エデイプス・コンプレックスとして捉えられる。父親の女を奪い、父親を殺して一人前の男に成長していく。神話によくあるパターンである。

 日本の配給会社の戦略によって、『GONY』はディカプリオとキャメロン・ディアスとの恋愛映画であるかのように宣伝されたことは、この映画にとって不幸である。『タイタニック』を期待して、『GONY』を見た人は、何がなんだかわからなかっただろう。
 

father.jpg (10927 bytes)
親子愛?
それとも偽り・・・

jerous.jpg (10365 bytes)
嫉妬?

meeting.jpg (11150 bytes)

kiss.jpg (11165 bytes)
全ては愛のために? 

 「全ては愛のために」 
 「でも、どの愛よ?」と突っ込みを入れたくなる。
 アムステルダムのジェニーへの愛(恋愛)ではないことは確かだ。
 アムステルダムは父の復讐のために、全てを犠牲にした。そして、ビルはアムステルダムに抱いた息子に抱くような家族愛すら感じる。
「全ては愛のために」・・・「全ては家族のために」・・・
 親子。父と子。
 ジェニーは、復讐をやめて自分とサンフランシスコに行こうと誘うが、アムステルダムは全く聞き入れる耳を持たない。彼は愛よりも、復讐を選んだ。ジェニーとの絆よりも、父との絆を選ぶのである。

ビルはアムステルダムの正体を知っていた?

 アムステルダムの旧友ジョニーは、密かに思いを寄せるジェニーがアムステルダムに奪われたという嫉妬心から、ビルにアムステルダムはヴァロン神父の息子であったことを密告してしまう。しかし、ビルはその事実に全く気付いていなかったのか?
  「アムステルダムはヴァロン神父の息子だ」という驚愕の事実を知ったビルは、その貴重な情報をもたらした密告者ジョニーに強い怒りを表明する。彼に向かってナイフを抜いて脅しつける。
 「お前がわざわざここへ来て言わなきゃならんようなことをあいつはやったのか? お前なんぞいらん」
 ジョニーは極めて重要な情報を提供した。アムステルダムのビル暗殺を未然に阻止したわけだから誉められて当然であり、ここまでひどい言われようでビルの機嫌を損ねるとは思っていなかっただろう。

 さて、ここでちょっとした疑問が湧く。すなわち、ビルはアムステルダムの正体をジョニーから教えられるまで、全く気付かなかったのだろうか? 彼の過去や正体を疑うことは、全くなかったのか? ビルは極めて頭の良い男である。その彼は、アムステルダムに完全にだまされていたのか?  
 ビルは極めて頭の良いギャング団のボスとして描かれている。その彼が、アムステルダムの正体について、全く知らなかったということが、ありうるだろうか?  その根拠は、以下の通りである。
1 ビルは初めてアムステルダムを見た瞬間に、こいつは只者じゃないという直感を得た。
 その直感にしたがって、彼の正体を探るべく、いくつかの質問をアムステルダムにした(アムステルダムが自分の名前を名乗るシーン)。
 ビルは、店にあった祭壇にヴァロン神父の肖像画をアムステルダムが一瞥するのを見逃さなかった(同上シーン)。
 ビルは、ヴァロン神父について極めて良く記憶していた。ヴァロン神父に息子がいて、その子供について「役人にわたして教育を受けさせろ」と言ったことや、その子供がビルを憎しみの目つきでにらみつけた表情も、当然記憶していたはずである。
ヴァロン神父の子供が生きているとすれば、20歳前後であることを、ビルは知っている。 それを確かめようとしたのか、「お前は何歳になった」とアムステルダムに尋ねる(劇場での暗殺未遂の夜)。
 モンクは、アムステルダムがヴァロン神父の息子であることに気付いた。つまり、誰から教えられなくても、彼の顔や行動などから、「アムステルダムがヴァロン神父の息子である」という事実に到達しうるという前例が劇中に描かれている。
 ジェニーはアムスタルダムが秘密の過去を持っているだろうことを察していた。同様に他の人間にとっても、アムステルダムが怪しい人物であることは歴然としていた。

secret.jpg (11330 bytes)
嫉妬のごまかし?

knife1.jpg (14358 bytes)
挑発

cinflict.jpg (10801 bytes)
対立

 ビルはアムステルダムに、ヴァロン神父が自分の最も尊敬する男だったと告白する。自分の父の死に様を聞きアムステルダムは動揺を表情に表わし、無言になる。ビルがそのアムステルダムの変化を見逃したはずがない。
 ビルはアムステルダムの正体に薄々感づいていたのではないか? 
 映画だけから、十分その結論に到達しうるが、シナリオの中にその証拠を発見した。
 クライマックスのアムステルダムがビルにとどめを刺す直前のビルのセリフである。  「お前が誰かはわかっていた。俺が知らねえとでも思っていたのか? お前はまだ父親に及ばねえ」 ビルはアムステルダムの正体を既に知っていたと、彼に告白するのだ。このセリフはカットされているが、前述の七つの描写と合わせて、ビルはアムステルダムの正体を知った上で、アムステルダムを受け入れていたことは間違いないだろう。
 ビルはアムステルダムが尊敬するヴァロン神父の息子だからこそ、アムステルダムを部下として息子のように可愛がり、重要な役割を与えて、彼を育てて行ったのだろう。
 多分、『GONY』を見て「おもしろくない」と感想をもらす観客のほとんどは、この映画の根幹をなすこの重要な事実を見逃しているだろう。「ビルはアムステルダムがヴァロン神父の息子だと気付いていた」ことを気付かないでこの映画を見ると、ビルという人間の魅力が半減する。ビルがアムステルダムをヴァロンの息子と知っていたかどうかによって、物語は全く別な話に変容するのだから。では、その変容した物語を、ビルを主人公として採録してみよう。

もう一つの『GONY』

 ビルはある日、新顔の男を見つける。その表情、いでたち。喋り口。只者ではないことを、一瞬でビルは悟った。そして、その眼光には、どこか見覚えがあった。その青年は「アムステルダム」と名乗った。ビルの鋭い観察眼は、アムステルダムが祭壇のヴァロン神父の肖像を一瞥したのを見逃しはしなかった。そう、この青年は・・・。
panchi.jpg (11032 bytes)
 喧嘩に強く、才能豊かなアムステルダムは、ギャングとしての頭角を発揮する。ビルは息子のようにアムステルダムを可愛がり、アムステルダムも自分を慕っているように思えた。ナイフの使い方、急所の刺し方。自分の子供のように、ビルは、アムステルダムにいろいろなことを教えていった。ビルは、自分の昔の女ジェニーとアムステルダムが親しい関係になりつつあることを知っていたが、そんなことは彼にとってどうでも良いことであった。
 ビルはアムステルダムがヴァロンの息子であることに気付いていた。彼が敬意をいだくヴァロンの息子だからこそ、自分の本当の息子のように思えたのかもしれない。彼が自分の跡目をついでくれたら・・・。しかしビルは、アムステルダムが自分に対して父の復讐のために近づいてきていることも当然知っていた。
 そんなある日、劇場で暗殺者に狙撃されるビル。アムステルダムは命をかけて自分を救ってくれた。ビルにとっては、非常にうれしい出来事である。ひょっとしてアムステルダムは、自分への復讐の念を捨てたのであろうか? その晩、夜中、ジェニーと寝ているアムステルダムをビルは不意に訪ねる。アムステルダムの真意を確かめるためだ。
 自分とヴァロン神父との壮絶な戦いについて語り、「私が尊敬した唯一の男はヴァロン神父だった」とアムステルダムに伝える。しかし、アムステルダムには動揺の表情が見られた。まともに言葉すら出ない。父の死を受け入れてない。それは明白だった。また、自分のヴァロンへの敬意を知らせることによって、アムステルダムが復讐を断念するかもしれないという期待もあったかもしれない。
 そして、ビルは最後に言う。 「俺には息子がいなかった」。お前が俺の息子になってくれという、ビルの呼びかけである。俺への復讐心など捨てて、俺の息子となって一緒に楽しく暮らそうじゃないか・・・。しかし、その呼びかけは、アムステルダムには届かなかった。
翌日、ビルのもとにジョニーが現れ、アムステルダムはヴァロンの息子でビルを殺そうとしていると密告する。激怒するビル。そんなこと、お前に言われなくても知っている。お前が、そんなことを言い出すと、ギャング団のボスとして落とし前をつけなくてはいけなくなるではないか。俺たちの親子関係をぶちこわしやがって。ジョニーに殺意すら抱いたビルは、ナイフでジョニーを脅しつける。
 本当に、アムステルダムは自分を殺そうとしているのか。復讐をあきらめてくれはしないのか。 勝利を祝う祝典の日。舞台で、ジェニーにきわどくナイフを投げつけるビル。アムステルダムへの挑発である。
 お前は、俺に怒りを抱いているのか? それなら、もっと怒ってみろ。
 本当に俺を殺したいと思っているのか? それなら、殺してみろ。
  しかしビルの内心には、そうじゃない可能性を信じたい気持ちがあったかもしれない。
 沈着冷静なビル・ザ・ブッチャーも感情的になっている。親子のような深い師弟関係は、アムステルダムの演技だったのか・・・。偽りの関係だったのか・・・・。やはり、俺はあいつに裏切られるのか・・・。
 儀式のクライマックス。炎のカップを飲み干そうとする瞬間に、アムステルダムはビルにナイフを投げようとする。とっさに反応したビルは、投げナイフで応酬した。
 アムステルダムは自分を殺そうとした。しかし、ビルのアムステルダムへの思いは、アムステルダムの裏切りによっても、変わってはいなかった。恐怖こそ支配の法則であると豪語していたビルは、自分を殺そうとナイフを投げようとした男の命を救い、解放する。昔のビルには考えられないことである。何という、寛容さ。
 復活したアムステルダムは、死んだ兎を広場につるすという挑発行動をとった。ギャング団のボスとして秩序を乱す行動に対して対処しなくてはいけない。ビルは悪徳警官ジャックにビル殺しを依頼する。口ではアムステルダムを片付けろと行っておきながら、ビルの眼からは涙が流れる。そして、部下の前だというのに、泣きくずれる。ビルの中には、アムステルダムを殺したいという積極的な気持ちはなくなっている。

ラストの決闘シーンの解釈
 ネイティブズとデッド・ラビッツの最後の決闘。しかし、徴兵暴動と砲撃が始まり、決闘にはならない。このクライマックス。「最後は男らしく決闘するところをじっくり見せて欲しかった」という人も多かったかもしれないが、ビルにはもはやアムステルダムと決闘しよう、命を賭けて戦おうという気持ちなかったはずだ。
 不完全な決闘シーンを振り返ってみよう。煙の中、ビルはアムステルダムに切りつける。砲撃を受けて、気を失う2人。朦朧とした意識の中、対峙する2人。ビルはアムステルダムを見て言う。「ありがてえ。俺は本当のアメリカ人として死ねる」。ビルはナイフを抜く。アムステルダムもすかさずナイフを抜き、ビルを突き刺す。しかし、ビルのナイフはアムステルダムには向かっていない。いつものビルのあざやかなナイフ裁きはそこにはない。それ以前に、つまりアムステルダムにとどめを刺される前、ビルは「俺は本当のアメリカ人として死ねる」と自らの死を宣言している。つまり、ビルはアムステルダムに意図的に殺されたということだろう。自分が密かに息子のように愛したアムステルダムに殺されること。自分の死を持って息子を成長させようという親心。あるいは、アメリカ人として名誉ある死に場所を求めていただけか。
 アムステルダムのナイフがビルを突き刺した瞬間、ビルの手はアムステルダムの手を握る。ビルの義眼が入った左眼が閉じられた後も、すなわちビルが生き絶えた後も、ビルはその手を決して離さないのだ。その名残惜しいビルの手をカメラは、しばらく写し続ける・・・。
 「全ては愛のために」・・・「全ては我が子のために」・・・
 少年は父親を倒して大人に成長した。アムステルダムは擬似父であるビルを倒すことで、亡き父親の呪縛から解き放たれ、本当の意味で自由になり、大人の人間へと成長しただろう。

イタリア系が出てこない ! !
 『GONY』を見て「イタリア系ギャングが出てこないとは一体どういうことだ!!」と思った人も少なくないだろう。スコセッシ監督自身イタリア系だし、イタリア系ギャング(とユダヤ系ギャング)を扱った『グッドフェローズ』という作品も撮っている。
 ニューヨークでのイタリア系ギャングの活躍は、『GONY』よりも後の時代のことである。アメリカへのイタリア系移民が本格化するのは1870年以降である。
 ギャングの支配者は、移民におけるエスニック・グループの人口の多さと密接に関係している。最初は、WASP→アイリッシュ→ユダヤ系、イタリア系の順に、時代によって移民の人種構成が変化する。そして、その人種構成を反映するかのように、裏社会のボスも変化していく。
 アムステルダムが、「毎日何千人もの仲間が港に着く」と、数の論理を展開するが、まさに数こそが力でなのである。
 それと、『GONY』にイタリア系らしき人物が一人も登場していないと言う理由は、イタリア系が登場すると、テーマが分りづらくなるためであろう。すなわち、イタリア系の大部分はカトリックである。『GONY』では、「カトリック対プロテスタント」が「WASP対アイリッシュ」にそのまま重なるように描かれているが、イリリア系が登場してしまうと、「カトリック対プロテスタント」が「WASP対アイリッシュとイタリア系」という図式になってしまって、複雑な映画が余計複雑になってしまう。ユダヤ系が登場しないのは、同様に宗教の「カトリック対プロテスタント」の対立図式を混乱させないため。
 本当の先住民であるインディアンは、現在はネイティブ・アメリカンと呼ばれるが、劇中のビルの属する組織「ネイティブズ」との混乱を避けるために、どこにも登場しない。
 とにかく、「WASP対アイリッシュ」の対決構造に焦点を集め、それ以外は第三者の「中国系」と南北戦争の原因を作った「アフリカ系(黒人)」だけが登場するのである。  こんな微妙なところまで考え抜かれて作られている。「イタリア系が出てこない」という些細な事実の裏には、それなりの歴史的事実と映画としての描写意図が隠されているのだ。
 『GONY』は反キリスト映画か?

 マーティン・スコセッシは、反キリスト的である。
 私のスコセッシに対する全く個人的な印象であるわけだが・・・。スコセッシが反キリスト的かどうかというより、スコセッシの映画には、反キリスト的な人物ばかりが登場しているということなのかもしれないが・・・。
 では、『GONY』の主人公アムステルダムはどうだったのか? 彼は神父の息子である。神への祝福の言葉も何度も述べるし、神への祈りも欠かさない。
 しかし、映画の冒頭部に印象的なシーンがある。アムステルダムが少年院を出所した直後。アムステルダムは渡された聖書を、すぐに川に投げ捨てる。わざわざ、聖書が水に沈む瞬間の抜きのカットまで入って、「BIBLE」の文字をしっかりと観客に読ませる。
 このカットの意味は何か?
 最初はスコセッシお得意の(?)反キリスト描写かと思ったが、そうではなさそうである。
 アムステルダムに祝福を与えたのは、多分プロテスタントの牧師ではないだろうか? そう思ってシナリオを調べてみると、案の定「CALVINIST」と書かれていた。すなわち、カルビン派の牧師ということだ。

faith.jpg (10434 bytes)
アムステルダムに
信心はあったか?


scossesi.jpg (10514 bytes)
スコセッシ監督の
宗教観は?

 アイリッシュであるアムステルダムは、当然カトリック教徒である。その彼が、少年院では、プロテスタントの牧師によって説教を受けていたという、宗教的な矛盾。あるいは、当時のアイリッシュの虐げられた状況が、さりげなく描かれていたということだろう。
 劇中のアムステルダムは、父ヴァロンが神父であったこと。大切な場面では神への祈りを欠かさなかったこと。父の形見である大天使ミカエルが悪魔を追い払うメダルを大切にしていたこと。これらの描写から考えて、アムステルダムは信心深い人物ととらえていいのではないか。

 とはいっても、理解に苦しむ宗教描写は、他にもいくつかある。
 アムステルダムは自分を殺しに来た警官ジャックを、絞殺する。ジャックの息が絶えた瞬間、後ろのカーテンが倒れて、十字架の祭壇が目に入る。そして、その死んだジャックは見せしめのために広場につるされるが、それは十字架への磔のように見える。
 あるいは、市民への見せしめのために行われた公開の絞首刑。首がつるされるショッキングな映像の次のカットは、慈善ダンスパーティーのシーンで、教会の中の「神に栄光あれ」という看板が大写しである。これは、どうみても神への祝福ではなく、侮辱にしか見えない。
 これらの描写の真意は? 死を見つめる神ということか? 人間同士のおろかな殺し合いを神は、黙って見ているだけ・・・。殺す者にも殺されるものにも荷担しない。それは、神のもとの平等・・・。。
 暴動勃発直前。最後の対決を前にして、ビルとアムステルダム、そして上流階級の男の三人が、神への祝福の言葉を述べて「アーメン」と言う。WASPもアイリッシュも、金持ちも貧乏人も。男も女も。神の前には全てが平等なのだ。
 暴動鎮圧後、無数に並べられた死体。黒人も白人も。貧乏人も金持ちも。プロテスタントもカトリックも。そこには差別も対立もない。静かに横たわる死体。
  歴史という激流の中で翻弄されるちっぽけな人間。同様に、神の前で繰り広げられる個人の営みは、とるにたらないちっぽけなものに過ぎないということか・・・。『GONY』では、個人を相対化する存在として「神」という記号が使われているのだろう。
 
個人主義と国家主義  家族愛VS愛国心
 宗教と民族の対決図式が、『GONY』の核心部分なのだが、それだけではないところが、『GONY』を深みのある映画にしている。
 アメリカ人は個人主義を大切にする。しかし、何かことがあれば「愛国心」のもとに立ち上がり、「人種のるつぼ」と呼ばれ、多くの人種から構成されるアメリカが、一つに団結する。しかし、昔からそうだったわけではないのだろう。アメリカの歴史が、そうした国民性を生んだ。その、個人主義と民族主義の微妙な対立と葛藤が、この『GONY』では描かれている。ディカプリオの行動の基本は、父親の復讐。あるいは、ジェニーへの愛である。家族愛であり、恋愛感情といった個人的な感情が行動の基本になっている。すなわち、個人主義を代表する人物がアムステルダムである。
america.jpg (17204 bytes)
 一方、ビルは「アメリカのために死ねるのがネイティブズ」と言い切るように、自分の命よりも、アメリカへの愛国心を重視する男だ。最後には「俺は真のアメリカ人として死ぬぞ」と叫んで、息絶える。まさに、「アメリカ万歳」である。ビルは、そんな男でありながら、ディカプリオへの疑似親子関係(個人的な感情)に心を動かされるところがおもしろい。
 『GONY』の時代(1844年頃)。アメリカがイギリスから独立してまもなくで、南北戦争で国を二分して戦争をしている。一方、毎日何千何万人という移民がおしかける。最近、アメリカ国民になったばかりの人々も多い。そんな状況であるから、「アメリカ人として死ぬ」「アメリカ万歳」というアメリカへの愛国心というものは、当時はあまり一般的なものではなかったのだろう。
 個人主義対国家主義という矛盾する大きな潮流の対立。南北戦争の終結により、アメリカが一つにまとまり、アメリカ人としての誇り、国家としての誇りが、確固としたものになっていくわけだが、そのアメリカの思想史の流れという意味からも、アムステルダムとビルの対立の図式は、興味深い。

 新生デッド・ラビッツのボスとなったアムステルダム(公的存在)は、決戦の前日にジェニーに一緒にサンフランシスコに行ってと誘われるが、公の存在となり集団が動き出してしまっている以上、恋愛という個人的な感情で、公的立場を放棄することはできない。
 同様に、ビルは息子のように可愛がったアムステルダムを殺したくないと思っていたが、ネイティブズのボスという公的立場から、アムステルダムを殺すように命令せざるを得なくなる。さらには、最後の1対1決戦では、ビルはわざと負けたようにも見える。「私」を重視していたアムステルダムが」公」を重視し、「公」を重視していたビルは「私」として死ぬ。
 団体に所属することで、個人としての気持ちを犠牲にしなければいけない。そして、歴史という激動の中で、個人の判断というのが、どれほどの価値をもっているのか・・・。ラストの徴兵暴動を見ると個人の無力さを痛感する。しかし、ビルとアムステルダムという二人の主人公に代表して対立的に描かれていた、民族主義と個人主義、愛国心と家族愛は、現在多分全てのアメリカ人の心に共存しているのだ。
 ギャングの抗争や徴兵暴動は、ほとんどの人の記憶から忘れ去られているが、そうした歴史の激流にもまれて育まれてきたアメリカ人の心は、間違いなく現在に引き継がれているし、それをこの映画は実感させる。
 『GONY』は、価値観が変化し、時代が移り変わっていく歴史の流れを、肌で感じさせてくれる。

prelastbattle.jpg (14307 bytes)
テロ事件の影響

wtc.jpg (4161 bytes)
ワールドトレードセンターのある
マンハッタン島の風景


 『GONY』のラストシーン。
 かってアメリカではこんな事件があった。今は忘れられているかもしれないが・・・。   暴動によってマンハッタン島のあちこちから煙が立ち昇り、壊滅的な被害を受けたニューヨーク。当然、2001年9月11日のテロ事件のイメージと重なっていく。
 そして、昔のニューヨークから現代のニューヨークへと変化していく映像。そこには、崩れ去ったはずの貿易センタービルのツインタワーが映し出されていた。
 ニューヨークを舞台にした映画『スパイダーマン』では、ワールドトレードセンタービルのシーンがカットされ、映像が修正された。被害者とその家族の心理に配慮してということだ。しかし、この映画では、全く逆である。
 その理由は?
 「ナイフについた血は消えない」
  映画のファーストシーン。ヴァロン神父が息子に残した言葉である。
 表面的には、復讐心を忘れるな」という意味に理解されるが、映画を最後まで見るとかってアメリカで起こった事件を忘れるなという普遍的な意味として理解できる。
 「ナイフについた血は消えない」
 これをテロ事件に当てはめて「テロ事件のおとしまえはしっかりつけろ」と誤解してはいけない。
 マンハッタン島で起きた血塗られた歴史という意味で、ギャングの抗争も徴兵暴動も、テロ事件も同じである。多くの人の犠牲の上に、今日のニューヨーク、そしてアメリカは出来上がっているのだと・・・。
 
最後に
 さて、セットの素晴らしさ、群集シーンの迫力など、まだまだ語り足りない気はするが、見ればわかることを延々と説明するのは当ホームページの本意ではない。
 『GONY』の理解を助けるためのいくつかのキーワードを列記してみたので、反芻しながら、改めて『GONY』を味わっていただきたい。
 なお、物語をより深く理解するために、『ギャング・オブ・ニューヨーク メイキング写真集』についているスクリーン・プレイが参考になるだろう。
 また、原作本とされるハーバート・アズベリーの「ギャング・オブ・ニューヨーク」(ハヤカワ文庫)は、原作の小説ではなく、当時のギャング事情を詳細に描いたノンフィクションである。ディカプリオ演じたアムステルダムは登場しないが、映画の理解を深めるために、また歴史の勉強には格好の一冊である。
 また、実際にマンハッタンのファイブ・ポインツを歩きたいという人は、「マンハッタンを歩く」のホームページが参考になる。

book.jpg (6323 bytes)
スクリーンプレイを
購入


book2.jpg (5802 bytes)
原作本を購入


『GONY』を理解するためのいくつかのキーワード

 先住民と移民
 プロテスタントとカトリック
 WASPとアイリッシュ
 白人と黒人

 父と子
 貧乏人と金持ち
 政治家と市民
 民族主義と個人主義
 個と公
 秩序と混乱
 利用するものと利用されるもの

 信頼と裏切り
 力を持つものと力を持たないもの

 昔と今
 歴史と記憶

 生きるもの、死に行くもの
 神の前の平等
 平和のための暴力