『ファントム・メナス』と『ベンハー』の共通点 |
『ベンハー』 | 『ファントム・メナス』 |
![]() 主人公 ジュダ・ベンハーは奴隷 |
![]() 主人公 アナキン・スカイウォーカーは奴隷 |
![]() 悪どいライバル メッサーラ |
![]() 悪どいライバル セブルバ |
![]() 金にがめつい族長 |
![]() 金にがめついワトー 喋り方まで、族長に似ている |
![]() 馬の手入れを怠らないベンハー |
![]() レーサーの整備を怠らないアナキン |
![]() 族長はレースに大金を賭ける 賭けの最中のセリフ 「司令官は連戦連勝」 |
![]() レースにアナキンを賭けるワトー ワトーとの賭けの最中のセリフ 「セブルバはいつも勝つ」 |
![]() マッサージを受ける戦士 |
![]() マッサージを受けるセブルバ |
![]() レース前の駆け引き 相手を威嚇する言葉を言い合う |
![]() レース前の駆け引き 相手を威嚇する言葉を言い合う |
![]() フラッグに先導された戦車が 一列に並んで、観客にアピール |
![]() フラッグ・パレレード 各選手が観客にアピール |
![]() 戦士を一人ずつ紹介 出身地が呼び上げられる |
![]() 選手を一人ずつ紹介 名前と出身地が呼び上げられる |
![]() ご当地レーサー、ベンハーの出身ユダヤが呼び上げられた直後に、場内から大きな歓声があがる。 |
![]() ご当地レーサーのアナキンの名前が呼び上げられた直後に、場内から大きな歓声があがる。 |
![]() レースの始まりを示す ファンファーレのような音楽 |
![]() レースの始まりを示す ファンファーレのような音楽 レース会場の雰囲気もかなり似ている |
![]() ローマ提督の合図で、レースが始まる |
![]() ジャバの合図で、レースが始まる |
![]() 周回数を示す表示板 |
![]() 周回数を示す表示板 |
![]() 戦車は一台ずつリタイヤしていく |
![]() レーサーは一台ずつリタイヤしていく |
![]() 群集シーン |
![]() 群集シーン |
![]() コース内をうろちょろするピット要員 破壊した戦車の後片付けをしている |
![]() コース内をうろちょろするピットドロイド |
![]() 卑怯な手段を使って妨害工作をする メッサーラ |
![]() 卑怯な手段を使って妨害工作をする セブルバ |
![]() 離脱寸前 しかし、何とか体制を立て直し、 無事コースに復帰 |
![]() コースから離脱寸前 しかし、何とか体制を立て直し、 無事コースに復帰 |
![]() ムチが引っかかって、バランスを崩す メッサーラ |
![]() ポッドが引っかかって、バランスを崩す セブルバ |
![]() メッサーラ撃破 |
![]() セブルバ撃破 |
![]() しかし、メッサーラは生き残った |
![]() しかし、セブルバは生き残った |
![]() 優勝したベンハーを祝福するために 駆け寄る市民 |
![]() 優勝したアナキンを祝福するために 駆け寄る市民 |
![]() メッサーラの敗北に納得できない観客 両手を横に広げて、抗議の異を表明 |
![]() セブルバの敗北に納得できないワトー 両手を横に広げて、抗議の異を表明 |
![]() 「お前をローマ市民とする」 レースに優勝し、自由を手に入れた ベンハー |
![]() 「彼は自由だ。もう奴隷じゃない。」 レースに優勝し、自由を手に入れた アナキン |
![]() ベンハーに救世主のイメージが オーバーラップ |
![]() アナキンはフォースに調和をもたらす者 アナキンに救世主のイメージが オーバーラップしている |
![]() ヘンハーと母親との運命的な再会 |
はたして、『エピソード2』で、アナキンと母親シミとの再会は実現するか? |
ポッド・レースのシーンが、『ベン・ハー』の戦車レースと酷似していることは、昔ながらの映画ファンであれば誰でも気付くだろう。ここでは、『ファントム・メナス』と『ベン・ハー』の共通点を考察するが、そんなこと言われなくてもわかるという人も多いかもしれない。しかし、果たしてそうだろうか。『ファントム・メナス』では、黒澤明作品を筆頭に何本もの名作、傑作映画の共通性が指摘されているが、あくまでも映像的、ストーリー的な類似性のみの指摘で、なぜそれらの作品を引用したのかというテーマレベルでの考察に欠ける。『ファントム・メナス』が『ベン・ハー』に似せて作られているのも、実は非常に大きな理由がある。 まず、表面的、視覚的な類似点。これについては、詳細に記述しても意味がないので、一覧表にまとめた。 ここで重要なのは、アナキンがベン・ハーであるのは当然だが、アナキンのライバル役セブルバが、ベン・ハーのライバル、メッサーラに対応していることである。セブルバは、メッサーラのようにイカサマ的手段によってライバルを蹴落としていく。レース前にセブルバはトワイレック女性(頭にしっぽのようなものが二つ垂れている青い肌の女性)のマッサージを受けているが、これも『ベン・ハー』からの引用なのである。 しかし、これらの引用は単なる物真似ではない。以下の三点において、『ファントム・メナス』は『ベン・ハー』のエッセンスを、うまく作品の中に取り込んでいる。 まず、ベン・ハーとアナキン・スカイウォーカー、この二人の最も重要な共通点は、奴隷であるということである。ベン・ハーは、いさかいによって無実にもかかわらず、ローマ帝国の奴隷にされるが、たぐいまれな体力と精神力によって、剣闘士、戦車のりとして成功を収める。そしてクライマックスの戦車レースでの勝利によって、市民の権利を獲得し、奴隷の地位から脱する。 アナキンは、タトウィーンで奴隷として使われていたが、たぐいまれなフォースによって、ブーンタ・イヴのポッド・レースに勝利し、奴隷の地位から脱する。 戦車レースとポッド・レース。この二つのレースは、奴隷から脱するという意味を持った重要な戦いであった。 『ベン・ハー』の原作はルー・ウォーレストの「ストーリー・オブ・クライスト(救世主の物語)」である。『ベン・ハー』は、スペクタクル映画ということで、アクションの印象が強いがテーマ的には宗教映画といってもいい。主人公ベン・ハーは、エルサレムに入場したイエスと出会い、イエスにひかれていく。やがて、母の病が癒されるというイエスの奇跡に直面し、イエスへの信仰に目覚めるのだ。救世主(キリスト)の物語、すなわちそれはイエスの物語である。と同時に、ユダヤ人のヒーロー、奴隷たちの精神的な支柱であったベン・ハーにも、救世主のイメージが重ねられる。 では、『ファントム・メナス』でアナキンはどう描かれていたか。第90節「聖書的世界観からみたスター・ウォーズ」で詳述したが、ジェダイ評議会で、アナキンは予言された、フォースに調和をもたらすものではないか、と言われる。イエスの登場は、旧約聖書により予言されていた。イエスもまた、予言された者であった。 そして、アナキンの父親は不明で、シミのセリフは、処女懐胎を想起させる。もちろん、イエスは聖母マリアの処女懐胎により生まれた。 このように、アナキンは、救世主のイメージとして描かれている。 「ポッド・レースのシーンで眠たくなって寝た」という話を何人かの人から聞いた。しかし、そうした人は『ベン・ハー』を見たことがあるのだろうか。『ベン・ハー』の大ファンである私に、ポッド・シーンのシーンは『ベン・ハー』の感動の再現と再構成という、大きな楽しみを与えてくれた。昔ながらの映画ファンで『ベン・ハー』を見ていない人というのは考えられないが、最近の若者は『ベン・ハー』といっても全くピンとこないかもしれない。もし映画史上の傑作『ベン・ハー』を見ていない人がいれば、必ず見るべきである。そして、その後にもう一度『ファントム・メナス』を見ていただきたい。『ベン・ハー』の感動の再現と再構成という意味が、理解できるであろう。 『ベン・ハー』においてもう一つ、見逃してはいけない重要な描写がある。それは、ベン・ハーと母親との関係である。ベン・ハーとアナキンの重要な共通点として「家族思い」ということがある。ベン・ハーは、ローマ帝国への反逆罪で奴隷の身分におとしめられるが、その時も自分の母と妹は反逆には全く関係ないと、家族を守り通した。アナキンが母親思いであることは、今さら説明するまでもないだろう。 戦士として成功を収めたベ・ハーはエルサレムへと戻るが、そこで母と再会する。業病に犯された母と十数年ぶりに再開する。この再開のシーンは感動的である。『エピソードU』では、アナキンと母の再開が鍵になる。果たして、アナキンは『ベン・ハー』と同じように無事母親との再会を果たすことができるのか。母との再会シーンが重要という意味で、『ベン・ハー』のテーマは、『エピソードU』にも持ち越されそうである。 単なる、映像的に類似しているのではなく、作品のエッセンスにまで深くとりこんでいる点がスター・ウォーズの凄さである。『ベン・ハー』を見たことがない人は当然として、過去に見たことがある人も今一度、『ベン・ハー』を見直して欲しい。『ファントム・メナス』を見た今、全く別な意味で『ベン・ハー』を楽しめる。『ファントム・メナス』は、『ベン・ハー』に新しいおもしろさを賦与した。これもまた、ウター・ウォーズ・ユニバースの拡大と言えるかもしれない。スター・ウォーズそれ自体だけではなく、過去の名作を再構築しながら、ユニバースの中に取り込んでしまう。壮大な楽しみが、果てしなく広がっていく。 |