放送を語る会


 2011
311日、午後246分。
 私は、隣の富岡町にある職場の養豚場で子豚の移動後、使用した4トントラックの荷台を洗浄してました。その地震は、もちろん今まで経験したことのない規模のもので、トラックの上だったこともあり、横転しそうな程の横揺れでしたが、わりと冷静に荷台にしゃがんで収まるのを待ちました。 
 職場の建物は、築40年以上の古い物も含め倒壊した物はなく、餌用の大きなタンクが幾つか倒れた程度だったため、自宅は大丈夫だろうと判断し、仕事を続けることにしました。電話は不通、停電で情報も入らない状況でしたが、車に置いてあった携帯で連絡することはしませんでした。家も家族も無事だろうと安易に確信していました。 
 倒壊した建物は無かったものの、基礎が歪んで豚房の床が落ち、200頭以上の子豚が糞尿の溜まったピットへ転落していたため、職員全員でその救出にあたりました。子豚といっても既に体重30キロ以上あり、それは大変な作業になりました。誰も自宅の様子を見に帰ると言う者はなく、数人の従業員を使う立場にあった私が、瀕死の子豚を残して帰る訳にはいかず、みんなに一度帰ろうと提案することも出来ませんでした。残念ながら、自宅を流された社員が私以外にも何人かいましたが、幸いにも犠牲者は我が家の3人だけでした。 
 子豚の救出作業中、上司がラジオの情報で「3メーターの津波がくるらしい」と伝えに来ました。その情報で更に私は安心しました。自宅は海岸から100メーターと近かったものの、海抜は5から6メーターあり、3メーターの津波で流されるとは考えられません。更に家の前50メーターも歩けば高台で、今回の津波もそこまでは上がっていません。その情報が誤ったものであるなどと疑うこともなく、家族は大丈夫と思い込んでいました。
 その頃、自宅のある大熊町の熊川地区は修羅場でした。我が家族3人も恐怖のなかで戦っていたのだと思います。それが長く続いたのか、あっという間だったのか分かりませんが、何より守らなければならない者の命が消えそうな時、私は子豚の命を助けていました。苦しみや恐怖が長く続かなかったことを、今は願うのみです。皮肉なことに、助けた子豚も原発事故で置き去りにされ、豚房から逃げることの出来た一部以外は餓死しました。
 熊川に津波が来たのは、午後335分頃だったようです。一波目は川を遡る程度でしたが、2波目、3波目がすごかったそうです。20メーター以上ありそうな、海岸の松林を潮けむりを上げながら越えて来ました。
 その時間、自宅にいた住民は年寄ばかりでした。地震直後、熊川区長が先頭に立って住民を避難場所になっていた公民館へ集めましたが、そこも海岸から500メーター程で海抜は6メーター。もちろん津波にのまれましたが、木によじ登ったり、しがみついたりして、幸いにも犠牲者はでませんでした。その中には、津波の上がらなかった自宅から地震後に公民館に避難して波にのまれた92歳のおばあちゃんもいました。津波から生還したにもかかわらず、この冬、残念ながら避難先で亡くなられたそうです。
 そんな中、木村家は盲点でした。区長も、あそこは津波はあがらないと思い込んでいて見に行かず、行く余裕もなかったようです。

 地震が起きた時間、私の父王太朗は、私の長女舞雪を学校まで迎えに行く途中だったようです。既に校庭に避難していた孫娘の所に来て、「家に一人でいる婆ちゃんの様子を見に行くから、お前はここで待ってろ」と伝え、孫娘を残して戻っていきました。舞雪はこれで救われました。小学校は海から2キロ、海抜も50メーター以上あります。
 しかし、どうゆう訳か学童保育で学校の隣の児童館へ預けられていた二女の汐凪を王太朗は連れて帰ってしまいます。いつも母親が仕事を終えて迎えに来る5時まで児童館で遊んでいる汐凪も、この時は「爺ちゃんが迎えに来た」と喜んで車に飛び乗って帰ったそうです。
 何が姉妹を全く別の方向へ導いてしまったのか、そこに何があったのか、今となっては分かりませんが、それはほんの些細な判断であり、ちょっとしたことで簡単に生と死という全く反対の方向に導かれることを痛感しました。
 妻、深雪は海岸から6キロ程内陸に入った別の小学校で給食の仕事をしていました。地震直後に「家の様子を見に行くから」と職場を離れたそうです。深雪の父親が3時頃携帯で連絡がとれた時、「家に戻って、自宅の中にいる犬を連れだす」と言っていたそうです。その途中、児童館にも立ち寄っているようです。3時半頃電話しても、携帯はつながりませんでした。

私が自宅へ戻ったのは、夕方6時頃だったと思います。家は基礎を残すのみとなっていました。それでもまだ、家族は無事と思い込んでいました。
 避難所に行くと母と長女がいましたが、そこで初めて3人がいないことを知りました。愕然とした私はまず、避難所に止まっている数百台の車の中に、妻と父の車がないか確認し、その後他の避難所、更に病院を回りましたが3人を確認できず、再び自宅へ戻った時、裏山の暗闇から飼い犬がリードを引きずって飛び出してきました。そこで初めて誰か、恐らく妻が家に戻り、被災したかもしれないと思いました。それから一晩、犬を連れて自宅周辺を捜しましたが、3人を見つけられず、12日朝、熊川区長から避難指示が出たことを聞かされました。「生きてる者の方が大事だぞ」その区長の言葉で別のスイッチが入りました。残された長女を守らなければならない。
 先に避難していた長女らと川内村の避難所で合流し、12日の水素爆発後にそこからも出て、いわき、那須、埼玉と避難しましたが、1415日の爆発で更に妻の実家、岡山県美作市まで逃げることを決めました。安易に大丈夫と思い込んだために3人を失った私にとって、妥協することは許されませんでした。美作についたのは、16日早朝でした。 そして、その日の昼には、どうしても付いていくと言って聞かない妻の妹と2人、福島へと引き返しました。

 それから3月いっぱい、大熊町が避難していた田村市の総合体育館でお世話になりながら、3人の情報を求めて福島県内の避難所、自治体を回りました。それしか出来ませんでした。こっそり警戒区域に入ることも可能だったようだし、義妹もそれを望みましたが、若い彼女を被爆させるわけにはいかず、私に何かあって長女を孤児にすることも出来ない。さらに、警戒区域から放射能を持ち帰ってばら撒いてしまうことは、決して許されないことでした。私たちは、警戒区域外からバリケードの向こうを睨めつけることしか出来ませんでした。

 4月からは、1人、各地の遺体安置所を回って歩きました。客観的に見て3人が生きているとは考えられません。海へ流されてることを考え、茨城、宮城の警察にも連絡をいれました。  そんな中、父親が見つかりました。429日、どこで飛ばしてたのか未だに解らないのですが、無人のヘリコプターによって、自宅前の田んぼで倒れている父親は発見されました。震災から49日後のことでした。震災直後は水没して見つけてあげることは出来ませんでしたが、312日に捜索していれば、確実に発見出来た所でした。
 この責任は誰が取るのでしょうか? 発見の遅れは原発事故のせいであり、事故の原因は、原発は安全だと言ってきた東電幹部、御用学者たちにあると思うのですが。そんな方々は、今どんな生活をしているのでしょうか?

 妻は、震災後丁度1ヶ月の4月10日、警視庁のヘリコプターによって自宅から50キロ南の海上で発見されました。それが妻だということがわかったのは、6月2日、DNA鑑定によるものでした。しかし、私は4月中旬の時点でいわきの警察署でその情報を見ていました。身長145センチ、女性、下着と黒のタンクトップ。
 妻の身長は158センチ。身長の誤差はせいぜい5センチ程度だという警察の話。その時点で、それは、深雪ではないと判断してしまいました。よくよく見ると、黒のタンクトップには見覚えがありました。しかし私は、警察の情報をうのみにして彼女に気づいてやれなかった。遺体も痛みが激しく、足先が脱落していたらしいです。
 そして、二女汐凪は未だに発見してあげられていません。

 捜索の情報を最初に聞いたのは、震災10日後の3月20日頃だったと思います。しかし、それがどんな捜索だったのかは、横一列になってローラーをかけたという程度しか伝わってこず、はっきりしたことは分かりません。
 5月19日から6月5日まで、自衛隊による大規模な捜索がありました。それには私も1日だけ、深雪の父親と共に同行させてもらいました。有難いことではありましたが、それは瓦礫の片づけと共に行われていて、7月から始まる一時帰宅へ向けての準備とも思えました。一時帰宅中に遺体を見つけられたのでは、問題があるのでしょうか。
 それ以降も警察による捜索は定期的に行われていたようですが、その内容は全く伝わってこず、捜索報告書の様なものもないとのこと。ということは、ただ、現地に行って闇雲に捜してるだけなのか? こっちから催促して、やっと最近は捜索状況の報告をくれるようになりましたが、遺族としてはなかなか納得いきません。
 我々の望むことは、自分の力で汐凪を捜すことです。「俺は、精一杯お前を捜してるぞ」汐凪にそう言えないことが、遺族にとって一番辛いことです。「お気持ちは分かります」警察や行政の方々はそう言いますが、とても分かっているとは思えません。先日も、実は捜索に同行させて頂きました。捜してるのは、20代、30代に見える若い警察官がほとんどで、海岸のテトラポットの間などを目視しながらの捜索でしたが、なんだか彼らに無駄に被爆させているような気がしました。残念ながら、今の警戒区域内の捜索に限界を感じます。汐凪には申し訳ないが、被爆しながらの捜索を打ち切ってもらったほうがいいのではないか? その代り、捜索出来ない罪悪感は自分が一生背負っていくことになります。定期的に帰って自分で捜せる機会をつくれればいいのですが、今は3か月に一度の一時帰宅のみで、それでは全く足りません。
 東電にどう責任をとってもらうのか。放送でもありましたが、東電の幹部に被爆してでも捜索して頂きたいというのが本音です。補償金ももちろん大事ですが、精神的苦痛を和らげてくれるものではありません。しかも、それが税金で賄われるなんて納得できるはずもありません。
 東電幹部、過去の役員、御用学者、原発安全神話を作り上げてきた方々は、今どんな生活をしてるのでしょう? 4畳半一間に小さなキッチン、ユニットバスのついた部屋に住んでるのでしょうか? もしそれ以上に良い生活をしてるなら、その財産をすべて売って補償金に充ててください。他の関連企業に天下ってないでしょうか? もしそうなら、そこでの役員報酬は全て原発避難民のために使ってください。東電でもらっていた報酬も全て返還すべきだとも思います。安全管理に関して全く仕事してなかったようなものですから。良心がある方なら、普通そうするはずです。税金を使うのはそれからです。更に、刑事責任にもとわれるべきだと私は思います。

 原子力発電は必要なのか、不要なのか。私は不要と考えます。今回のような事故を引き起こす可能性のあるものをそのまま使っていくことには納得できません。大飯原発再稼働がかなり現実味を帯びてきたことは、残念に思います。いわゆる原子力村に群がってきた方々にとっては喜ばしいニュースなのでしょうか。 原発を出来るだけ早い段階で廃止させる方法は、我々一般市民の意識にあると私は思います。節電です。私たちは贅沢することを当たり前と思ってないでしょうか? 無理をしようとは思いません。無駄をしない、大事にする意識を一人一人の人間が持つことだと思います。
 今年の夏、原発無しでやってみればよかったのにと思います。人も企業も考えるはずです。人間ってそうやって発展してきたのに、一部の人の利益のために進歩のチャンスを先送りしてしまった気がします。
 一部の人ではなく、全ての人間が幸せで、地球がずっときれいであることを望むなら、意識して生きることだと思います。

 昨年の震災では、あまりに大きなものを失いました。それに対する後悔の念は日々強まるばかりです。ああしておけば良かった、こうすれば助かったかもしれない。特に、まだ大人に頼って生きる存在だった子供たちを守れなかったことが、悔しくてなりません。後悔の念と共にそれを教訓として残していかなければと思います。
 こんな例があります。ある津波にのまれた小学校では、奇跡的に犠牲者は一人も出なかったそうです。でも、それには校長先生の大きな判断がありました。校長先生は、地震後に父兄が迎えに来ても子供たちを一人も返さず、思いついた高台へ全員で避難しました。他の先生方は、そこまでしなくてもと思ったそうです。しかし、そのまま子供達を帰していたら、津波の犠牲になっていた可能性が高かった。結果として、校長先生の決断に子供達は救われました。 その校長先生のような大人が汐凪の周りにいたらと、つくづく思います。彼女を救うチャンスはあったはずです。そうできなかったのは、父親である私も含め責任と想像力のある大人が彼女の周りにはいなかったからではないでしょうか?
 人間誰しも、そんな不幸が自分に降りかかる訳ないと思いがちです。しかし、全く無いとも言えない。東日本大震災しかり、突然車が突っ込んで来たり、乗っていたバスが事故を起こしたり・・・。運が悪かったで片付けず、自分にも降りかかるかもしれないと考えるべきだと思います。自分だけでなく、大人がそういう意識を持つことで、子供達が不慮の事故から救われると思います。
 先に述べたエネルギー問題と同じ結論になってしまいますが、危険に対する意識を持つことが大切だと思います。



47回放送フォーラムアンケートのまとめ

12610 放送を語る会事務局

回答16通(参加者48名)

●この集会をどこでお知りになりましたか?
 
 1、放送を語る会や、協賛団体からの連絡 9
 2、友人、知人からの紹介 1
 3、インターネット、各種メーリングリストなどの情報 2
 4、新聞、雑誌からの情報 4

● 本日の集会の内容についてのご感想、ご意見

 ・被災者の方の実際の話を聞けたのは貴重でした。
 
 ・ゲストの方、よく話してくださいました。辛い心境を抑えて。東電への怒りを共有しなければと思いました。
 
 ・木村さんの話に感動しました。東電の責任追及はその通りだと。(日本人の国民性から無理かなと思うが・・)。
 
 ・木村さんの映像と報告はリアルでよかった。メディア関係の質問発言は有意義でした。
 
 ・木村さんのリポートが強く印象に残った。東電の責任は今後も追及されるべきと思う。本当に悲しい。家族の遺体の見つからない悲劇。根底には原発事故があると思う。何ともやりきれない。
 
 ・旧満州からの引揚者ですが、当時も非常な経験をしました。その頃、「あのことを思えば何でも耐えられるよ」ということが家族の合言葉でした。しかし今回、このTV番組を見、木村さんの話を聞いて、それ以上の言葉で表せない胸に迫る思いを味わいました。時間が気持ちを解決することはないでしょうが、生きる勇気を、お子さんのためにも(亡くなった方、お元気な様子でいらっしゃる長女さん)生きていってください。
 
 ・被災されたご本人のお話を多くの時間伺うことができて胸いっぱいです。くしくも、昨日、野田首相の会見があり、あれだけの災害から日本は何を学んだのか、いつまでも長く検証してほしいです。
 
 ・木村さんの東電への「命令と受け取ってほしい」という言葉、直接の被害者でない私との事故の受けとめ方の違いに考えさせられた。大分で市長がガレキの受け入れを表明した後、大分に避難している福島の人が異議を唱えているという話を聞きましたが、直接被害者と大分にいる私とのギャップを強く感じた
 
 ・ボランティア活動に参加の機会を逸し、現地の訪問も申しわけなく、ジャーナリズムを通さず、直接、直視したいと考えていました。先日、毎日新聞で知り、駆けつけました。木村さんもつらいところをこらえて発言され、心中察する手段もありませんが、大変ありがたく思いました。また(聞き手の写真家)尾崎氏も現場の状況を隠すことなく伝えながら、木村さんとの橋渡しをうまくしていただいて、隠れた部分、見えなかった(あるいはみなかった)ことが、少し見えてきた。報道(ジャーナリズム)のあり方にも、今回のみならず疑問と不信感をつのらせていた(我々1人ひとりが真剣に自分の目で見、頭で考えていかねばならないのが基本ですが)ので、また改めて前向きに現実に向かう気持が湧いてきた。
 
 ・被災者の生の声を聞く機会はめったにないので有意義でした。その声を聞いて、何をなすべきなのか、考え行動することが大切だと思う。脱(反)原発運動にも参加し、いろいろと話を聴く機会も多いが、大きいパワーにならないことに歯がゆさを感じる。運動に自己満足と心地よさを感じて終わるのではなく、メディアを通じて市民の声をパワーに変えられればと思う。木村紀夫さんに自分自身を重ねるのは無理でも、“死”を幾度も目の当たりにしているものとして感慨深い会でした。感謝いたします。
 
 ・木村氏の毎日新聞記事に関するコメントと記者のコメントを聞くことができてよかった。
 
 ・震災の報道が少なくなり記憶の薄れるなか、避難者の声を直に聴くことができよかった。それぞれの想いや今後の展望などについて考えていることをもっと聞く機会があってもよい。
 
 ・政府、東電の責任は改めて追及されなければいけないと思った。取材される側の気持ちもよく判った。
 
 ・「国民を守る責務」から大飯再稼働する――。野田首相の能面のような無表情と強い発言。フクシマの大事件の収束どころか、すでに世界中にまき散らした放射線をどうすることもできないし、今後とも放出し続け、更なる大危機も予測できるのに、野田は事件の責務をとらず、何を守るのか。こんな滅茶苦茶な国政のなかで、木村さんのような何万もの方々の被災者を思い、ビデオに声もありません。許しがたい暴政,利権まみれの主犯たちの薄ら笑い。こんな日本をそのままやり放題させて止められない私たち国民。NHKや諸マスコミの良い働きを期待しています。木村さんのような苦痛の声をもっともっと多くの人に届けたいです。  

● 今後の「放送を語る会」の企画や運営についてのご要望、ご提案

 ・NHKの公平性、中立性を問う企画を。
 
 ・年1回は大分からフォーラムにくるよ。
 
 ・こうした企画、是非。大変と思いますが、幅広く続けていただければと考えます。また関連フォーラム等、会員でなくとも情報いただければありがたいです。本日は大変ありがとうございました。
 
 ・原発問題(推進、脱原発、廃炉、安全問題、管理運営、電力会社対応)なのか、あくまで放送メディアの報道のあり方を問うのか、特にテーマを絞り込まず自由に語るのか、多少散漫になるケースも多いので、運営について一度話を聴きたいと思う。
 
 ・放射能に関する知識や報道についても期待。
 
 ・久しぶりに語る会の企画をうかがいました。取材された側の声というのはなかなか聞けませんし、原発事故の検証の観点からも、ジャーナリズムとしての報道のあり方の検証の点からも、被取材者と視聴者(市民)の場からの取り組みにもっと多くの機会を望みます。