放送を語る会


「ETV2001事件」最高裁判決についての見解

2008年6月27日  

放送を語る会

 すでに報道されているように、6月12日、番組、「ETV2001『戦争をどう裁くか・問われる戦時性暴力』」をめぐる裁判で、最高裁の判決がありました。
 第二審の東京高裁は、NHK幹部が政治家の意図を忖度(そんたく)して番組を改編した結果、取材対象者の権利を侵害したと判断しました。この番組に対して取材対象者が抱いた期待と信頼を法的保護の対象とした判決でした。
 これに対し、最高裁判決は、放送事業者には表現の自由が保障されており、どのように番組を編集し、放送するかは放送事業者の自律的判断にゆだねられるので、取材対象者が番組に抱いた期待や信頼は原則として法的保護の対象にならない、と主張し、原審の東京高裁の判断をくつがえしました。  しかしこの判決には、少なくとも二つの大きな問題があります。

 第一に、この事件の核心は、東京高裁が認定したように、放送総局長や政治家対応を担当する幹部が、政治家の発言を必要以上に重く受けとめ、問答無用の削除や改変を行い、取材対象者のバウネット(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)が番組に抱いた期待と信頼を侵害した、というところにあります。
 法の適用や処分が憲法に反しないかを審査する最高裁としては、よほどのことがないと新たな事実認定はしない、とされていますので、今回の判決でも、番組の事実経過については立ち入っていません。しかし、判決文には趣旨次のような表現があります。
 「番組の編集に当たっては、放送事業者の内部で、さまざまな立場、様々な観点から検討され、意見が述べられるのは当然のことであり、その結果、最終的な放送の内容が編集の段階で当初企画されたものとは異なるものになるのは当然と認識されている」
 これは一般論のようでいて、この事件を検討する文脈で言われるとき、「ETV2001」におけるNHKの行為がこのようなものであった、と主張し、擁護するに等しく、不当と言わねばなりません。

 番組の制作経過は、通常の番組制作とはまったくかけ離れたものでした。放送の前日、政治家の意向を直接受ける立場の、ふだんは番組制作にかかわりがない国会対策の幹部が、現場のプロデューサーに直接削除や改変を命じるという異様な事態が起こりました。幹部が安倍晋三官房副長官に番組の説明を行なった直後のことです。
 さらに、放送のわずか数時間前には、放送総局長らが、現場の激しい抵抗を押し切って、番組の根幹となる日本軍「慰安婦」や兵士の証言を削除しました。
 しかし最高裁判決は、こうした経緯についてはほとんど触れず、その印象を薄めることで、政治家の圧力やNHK幹部の行為を事実上免罪したものとなっています。
 判決を報道した多くのメディアは、最高裁が「期待権」を認めなかったことを歓迎しましたが、本来は、NHKへの政治権力の介入疑惑を全メディアの問題としてとらえ、政治家とNHK幹部の行為を断罪しなかった最高裁をきびしく批判すべきです。しかし、判決の報道でそのような論調はほとんど見当たりませんでした。

 第二の問題は、判決が、「放送事業者に自律的な編集の自由を認める」という主張から、ほとんど直接的に「期待や信頼を法的保護の対象にしない」という結論を導き出している点です。ここには見過ごすことのできない飛躍があります。
 たとえ「自律的な編集」であっても、それが事実を曲げ、取材対象者、あるいはその活動自体に重大な打撃を与えることがないわけではありません。いわゆる「報道被害」が、メディアの「表現の自由」に基づく「自律的編集」によって引き起こされる場合があることを考えるべきです。
 また今回の場合のように、政治家の強い圧力による編集であっても、放送事業者が、「自律的編集」であると主張する場合もあります。
 現代の市民社会においては、取材を受ける側も、実はメディアを通じて自らの言論、表現の自由を実現しようとしています。同時に、放送事業者に保障される表現の自由は、国民の知る権利に奉仕することではじめて意味を持つことを忘れてはなりません。
 判決は、こうした事情を顧慮せず、取材者と取材対象者を画然と分離し、取材側のみに表現の自由を認めました。これでは万一被害を受けた取材協力者の権利は救済の余地がありません。また、視聴者市民の知る権利を侵害するような「自律的編集」を批判することも難しいでしょう。
 原審の東京高裁は、「期待と信頼の法的保護」という、取材を受ける市民の権利について重要な提起をしましたが、そのことの是非の議論は別として、今回の最高裁判決も、判決を歓迎した記者たちも、こうした市民的権利についての想像力を大きく欠いているといわなければなりません。

 裁判は形としては原告側の敗訴となりましたが、放送以来7年にわたる原告バウネッとの闘いは、貴重な財産として市民に共有されることになりました。なにより政治家とNHKの関係を、法廷の場で白日の下に曝したことの意義は大きなものがあります。
 バウネットと、NHK内外の勇気ある証言者が明らかにした事件の内容は、全国各地に市民の運動を引き起こし、NHKが真に自立した公共的な放送機関になることを求める市民の運動に可能性と展望を切り拓きました。
 放送を語る会も、この間通算6回にわたって「ETV2001」事件をテーマにしたフォーラムを開催し、また、必要に応じNHKや政治家への抗議や申し入れを行ってきました。 この立場から、「ETV2001」放送以後の市民運動の広がりを高く評価したいと考えます。

 裁判は終わりましたが、この事件はまだ終わっていません。「政治家の意図を忖度した自主規制」という疑惑は晴れず、視聴者のNHKへの不信感は残り続けています。東京高裁の法廷で現場のプロデユーサーが証言した事実について、説明責任が果たされたとは言えず、まだ未検証の事実はいくつもあります。
 当会は、NHKが公正な立場で、真相の解明に真摯に取り組むことを強く求めるものです。もしこの検証作業が実現すれば、市民のNHKへの信頼回復につながり、同時にNHKの良心的な現場制作者を大きく励ますことになるでしょう。