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ヤノマモ・インディオとの神話的関係

岡村 淳



  新大陸の先住民、インディオとかインディアンなどと呼ばれる人たちは、はるかアジアから渡って来たモンゴロイドと称される人種です。

  東アジアのモンゴロイドは様々な時期に、様々なルートでアメリカ大陸に拡散していきました。
  そのため、日本人とインディオは同じモンゴロイドなどでよく似ている、と言われるものの、その「そっくり度」はグループによってだいぶ異なってきます。

  私が1984年に1か月にわたって滞在した北アマゾンの山岳地帯に住むヤノマモ・インディオは、かなり日本人との「そっくり度」の高い人たちでした。
  ヤノマモには、彼ら個人個人の名前はもちろんあるのですが、それを他人に知られるのを極端に嫌うという文化があります。
  そのため私たち取材班は個人を識別する必要から、ヤノマモたちに日本人の知人のそっくりさんにちなんだ「源氏名」をつけて、エリカちゃんだのマユミちゃんだのと身内で呼んでいたものです。

  ヤノマモたちの方も、私たち日本人が彼らにそっくりなのに驚いていました。
  村の長老は、初めて私たちを見た時、自分のオジたちが天界から降りてきたのかと思ったそうです。
  長老との会見の際、彼はヤノマモの神話を語ってくれました。
 「遠い昔のこと、ヤノマモの大地を大洪水が襲った。そのためヤノマモの一部は、はるか西方に流されてしまったという。お前たちジャポン(日本人)とは、洪水で離れ離れになったヤノマモの子孫ではないか」 私たちへの興味と親近感がうかがえて、うれしくなりました。
  すると間もなく「ところで、土産は何を持ってきたのか」ときました。
  じいさん、なかなかの政治家だわい、と妙に感心したものです。

  ヤノマモは、他にもユニークな神話を数多く持っています。彼らがいかに世に現れたか、を語る創世神話を紹介しましょう。
  天界に、ふたりのヤノマモの神がいた。ふたりとも男だった。男同士の神は愛し合った。そしてひとりの神のフクラハギからヤノマモの祖先が誕生した。
  男同士が愛し合って、フクラハギから子供が生まれるとは、なかなかイマジネーションをそそる神話です。
  こうした神話に象徴されるように、ヤノマモにとって男の同性愛は日常的なもののようでした。
  私もそれを、身をもって体験することになったのでした――

  ここでヤノマモの村の作りを説明しておきましょう。
  ヤノマモは普通、村単位でシャボノと呼ばれるひとつの大型住居を作り、そこに村人全員が居住します。
  シャボノの中央は広場になっていて、それを囲んでドーナツ型にいくつもの家族が住んでいます。各家族はそれぞれ、ひとつの焚き火を囲んでハンモックを吊るしています。
  私たち取材班は、シャボノの一角をお借りしてハンモックを吊るし、彼らと同居生活をさせてもらいました。

  私たちの滞在したタバシナ村の人口は総勢50人あまりで、十数家族が居住していました。
  ヤノマモには、家族を数で認識する習慣がありませんでした。子供は何人いますか?という質問が通じないのです。
  子供と一緒にいる母親に、それはあんたの産んだ子供か、と確認したうえで、その子より先に生んだ子はいるのか、と聞いていくのですが、途中でだんだんこんがらがってきます。
  一夫多妻の夫婦もいるのですが、妻子たちが別居していたり、里帰りをしていたりで、夫婦そのものの実態を把握するのも困難でした。
  加えて青少年たちはしょっちゅう外泊をするため、住民の数はますます訳がわからなくなります。
  まあ我々はヤノマモの家族調査に来たわけじゃないから、テレビ番組のナレーションに書くためのソコソコの数がわかればいいや、と居直ることにした次第です。

  さて、私のタバシナ村での居候生活が間もない頃のことです。
  村にはもちろんトイレなどは存在しないため、深夜、小用のため大型住居の外に出て、再び自分のハンモックに戻りました。
  すると誰かが、ちゃっかり私の寝床を占領しているではありませんか。目を凝らしてみると、焚き火の明かりにオウムの羽と赤い顔料で化粧したヤノマモの青年が妖しく浮かび上がりました。
  当時、仕事一筋だった無粋な私は、珍客をからかう若者の悪ふざけだと思いました。いっぽうヤノマモの男どもは気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるおうとするので、私は眠い目をショボショボさせながら、住居の片隅にうずくまりました。若者が悪戯に飽きてハンモックを空けてくれるのを、ひたすら待ち続けることにしたのです。
  次の夜、再びこらえきれなくなって用足しに起きて戻ると、今度は別の青年がおめかしをして我がハンモックに横たわっていたのです。
 「白人」の世界から持ってきた私のハンモックを試したかったのか、あるいは私をからかったのか、それとも、私と「神話的関係」を結びたかったのか――真相はギアナ高地の山の中に埋もれたままです。
  私は深夜にハンモックを空けるのが恐ろしくなり、夕食後は水気を控えるようになりました。

  当時の私は、挨拶に毛の生えた程度のポルトガル語しか解しませんでした。
  またヤノマモの方は全くといっていいほど、ブラジルの公用語であるポルトガル語を理解していませんでした。彼らはまだFUNAI(ブラジル国立インディオ局)の保護政策のもと、彼ら独自の文化と時間に浸り続けていたのです。
  今となってはヤノマモたちとのこうした日常のささやかなことが、まさしく遠い神話時代のことのようになってしまいました。

  我々の訪問の数年後には、数万人のガリンペイロ(金採掘人)がヤノマモの保護区に群がり入り、ヤノマモ社会は未曾有の危機を迎えることになります。
  私たちの取材に同行してヤノマモ語の通訳も務めてくれたインディオ保護官は、ガリンペイロに発砲され、重傷を負いました。
 「ガリンペイロ、アミーゴ(友達)!」と覚えたてのポルトガル語で命乞いをするヤノマモたちを、ガリンペイロが虐殺するという事件まで生じてしまいました。

  欧米のマスコミや人権団体は、こぞってブラジル当局の無策ぶりを非難しました。
  すでにフリーとなってブラジルに移住していた私は、金採掘に使用される水銀の影響が心配になり、ヤノマモたちの毛髪を集めて水俣病の研究で知られる日本の研究機関に送って水銀のレベルを調べてもらう、という作業に関わりました。

  そんななか、当時の日本のテレビは「ヤノマモ族のオッパイにビックリ」といったおめでたいタイトルの「海外情報番組」をお茶の間に垂れ流していたのです。

オーパ No.147 1995年 改稿(2003年)

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