[岡村淳 ブラジルの落書き] [岡村淳のオフレコ日記] [星野智幸アーカイヴズ]


南米に病む ――私の病歴――

岡村 淳


 私はこれまで取材のために、南米を中心に世界のいくつかの秘境や辺境といわれる地域を旅してきました。そんな体験のなかで特に恐ろしいのが、病気やケガ、とりわけ風土病です。
 若い時は、自分の体を気づかうことなく過信しているのが常で、さらに無知という強みが加わります。いわばアクシデントに対して無防備に近い状態で、日本のマスコミが要求してくるムチャクチャなスケジュールに盲従しながら、辺境のドサまわりを続けていたのでした。

 私が長く担当していたテレビドキュメンタリーは、当時の言い方だと原住民モノ、そして動物モノが主でした。そのため、どうしても奥地での長期の滞在取材が多くなりがちでした。今ふり返ってみると、かつての先輩や同僚たちはほとんどマラリア、ウイルス性肝炎、デング熱といった熱帯に多い伝染病に倒れています。
 なかでも深刻なのは、日本に戻ってからでは診断も治療も困難な、特殊な風土病にかかってしまった場合で――と、ここまで書いて、いまだにどこまで公にしていいか躊躇する問題もありますので、今回は私自身のつたない病気体験を披露させていただきます。

 20代の頃は、相当ハードなスケジュールでアマゾンを始めとする熱帯地域などの取材と東京の会社の編集室の往復を繰り返していました。それでいて、これといった風土病にかかった覚えがなく、少なくとも今日まで発病した気配もないようです。
 かといって、現地で特に何かに気をつけていたということもありません。私はどちらかというとトロい方で、現場では年配のカメラマンあたりにドヤされていることが多かったものです。無病ですんだのは、ありがたい幸運としかいいようがありません。
 私のさる大先輩などは、アマゾンなどの取材から戻って番組の編集作業が追込みの時に、マラリアの発熱で苦しめられることがしばしばでした。しかし日本の病院では処置なしとのことで、現地から持ち帰った薬で当座をしのいでいました。その後も徹夜仕事などの無理が続くと、肝臓に潜むマラリアの原虫がうずき出すといいます。

 さて私の乏しい病歴をふり返ってみて、チベット奥地での体験を思い出しました。テレビ業界1年生の時でしたが、わがプロダクションに中国チベット自治区から3ヶ月におよぶ特別取材許可が出され、そのスタッフに加えてもらったのです。アシスタント・ディレクター兼録音担当という役どころでしたが、スタッフ最年少の初年兵として「生かさず殺さず」の扱いを受けていた修行時代のことでした。
 チベット南部にあるチベット仏教の寺院を訪ねた時です。チベットでは来客があると、バター茶をふるまうのが常でした。ヤクと呼ばれるウシの仲間の動物の乳で作ったバターと、固形の茶葉を煮たものです。この寺では人のよさそうな老僧が、ヤクの乳そのものと茶を煮て砂糖を足したとみられるミルクティー状のものを、私たち取材班に出してくれました。
 文化大革命の荒波のなかをかろうじて生き残っただろう寺院と老僧は、もはやくたびれ果てたという印象がありました。この飲み物も、古いものを温め直したのか、ミルクそのものが傷み始めていたのか、すえたような臭いがします。
 我がスタッフたちは社交上、わずかに口をつけただけにとどまりました。老僧がしきりに飲み干してお代わりをしろとすすめます。ディレクターが私に命じました。
「オカムラ、お前、飲めよ」
 上官の命令は…NOということが許されない立場でした。私が観念して「ハイ」の一言でいっきに飲み干すと、老僧はニコニコとお代わりを注いでくれました。

 その日は近くにある中国語で「招待所」と呼ばれる簡素な宿泊施設に泊まりました。高度4000メートル、初冬のチベット高原です。施設には十分な寝具も寝室もなく、我々は羽毛ジャケットをまとって持参した寝袋に入り、雑魚寝をしました。
 私に来るべきものが来ました。激しい下痢です。招待状の建物のなかにはトイレがありません。中国式の横の人との仕切りのない共同便所の小屋が、離れにあるだけでした。
 夜間、何度か小屋通いをした私は、衰弱する一方でした。寝袋から這い出すのもひと苦労で、招待所の建物の外に出るのが精一杯になりました。私はチベット高原の凍てつく夜陰にうずくまって用を足すことにしました。大チベットの天空を寒々とした月が運行していくのを、しゃがみ込みながら朦朧と見やること十数回におよんだでしょうか。
 翌日、私は一日安静にしていることを許されました。新たにトイレに向かうために外に出ると、招待所の入口近くの枯れた地表の随所に、毒々しいピンク色の紙―トイレットペーパーが散乱しているのに唖然としました。

 あまり思い出したくない取材体験もあります。ブラジル中西部に広がるパンタナール大湿原で、地元の牧童たちのピラニア釣りを撮影していた時です。
 水中から勢いよく引き上げた牧童の釣り針が、空を切って私めがけて飛んできたのです。
 その牧童は、大ナマズ用の巨大な釣り針を使っていました。釣り針は、牛乳ビンの底と呼ばれていた私のぶ厚いメガネの右レンズを直撃しました。レンズは粉々に割れてしまい、細片が私の眼球周辺に突き刺さったのです。
 さほど痛みは感じませんでしたが「こりゃあ右目はダメか。まあ左があるし、独眼のテレビディレクターでやっていくか」と血のしたたる顔面を押さえながら、覚悟を決めました。
 私は牧場で手配できた最も高速の移動手段・トラクターに乗り、ぬかるみの泥道を半日かけて近くの町の診療所まで運ばれることになりました。
 トラクターの振動と共に、レンズの細片がグイグイと眼球を深くえぐっていくのが感じ取れます。この拷問がまだ何時間も続くと思うと、とても耐えられたものではありません。
 当時、私の取材の通訳兼アシスタントを務めてくれた日系人のロベルトさんは、手先のとても器用な人でした。そしてそれなりに人生の修羅場もくぐってきていたことがうかがわれました。
 ロベルトさんは痛みを訴える私を見かねて、トラクターに停止を命じました。そして胸ポケットのボールペンを取り出したのです。
 彼は私の右目を指でこじ開けました。そしてボールペンのキャップのポケットに挿す支えの部分を用いて、私の瞳に刺さっていたガラス片を取り出そうとしたのです。このロベルトさんの天才外科医マンガのような試みで主だったガラス片は取り除かれ、痛みも和らぎました。
 パンタナールの田舎町で応急処置を受けた私は眼帯をすることになり、大きな町で眼科専門のクリニックを訪ねるよう勧められました。幸い次の取材地は大都市で、日系の眼科医もいたので精密検査をしてもらいました。
 その先生いわく「右の瞳に傷が残っとるね。これは一生、直らんよ。でもあんた、もともと相当の近眼だからね。かえってよく見えるようになるかもしれんよ」。
 ちなみにロベルトさんはその後、日本に長期の留学をして東洋医学と日本人妻を取得、現在はサンパウロの郊外で鍼灸院を開いています。

 私は大学時代には、コンタクトレンズを使用していました。しかしこの仕事を始めて、レンズ洗浄用の水にも不自由するような僻地取材が続いたため、メガネを使うようになりました。落としても容易には割れないほど、度の強いレンズです。もし私がぶ厚いメガネをかけていなかったら、大ナマズ用の釣り針は、私の眼球を直撃して深くえぐっていたことでしょう。何が幸いするか、わからないものです。

 私がフリーランスとなって、ブラジルに移住して間もない頃です。リオデジャネイロで開かれる映画祭で、環境問題や先住民を取り上げた作品が数多く上映されることを知りました。私はリオに乗り込んで映画祭の期間中、安宿に滞在して1本でも多くの作品を見ることにしました。これはという作品があれば、私が日本で関わっていたテレビ番組や民間グループに紹介しようというのが目的です。
 実はこの前年、事件がありました。私は日本のかつての職場の依頼でリオの国際映画祭に参加することとなり、日系二世の妻に通訳を頼みました。経費節約のため、会場から会場への移動に市バスを使って、バスのなかで夫婦そろって強盗に襲われて、まさしく痛い目に遭ってしまいました。リオにはいい印象がありません。
 今回はまだ不自由なポルトガル語を駆使して、ひとりで犯罪都市リオに滞在しなければなりません。そもそもこの映画祭は、前年のものの比ではない無秩序ぶりです。上映の予定されている会場は市内の各地に散らばっており、ようやくたどり着いてみると、まるで上映をしようとする気配もないことがしばしばでした。本部の主催者に抗議すると「プログラムをまともに信じるのがバカだ」と言わんばかりです。
 若かった私は、むきになって埋もれた作品をひとつでも発掘しようと奔走しました。昼は炎天下の市内の移動にうだりながら、夜は追いかけてくる物取りの襲撃をかわしながら、交通費も食費も惜しみつつ上映会場をハシゴしました。そして一筋縄ではいかない作品の製作者との交渉で、さらに消耗しました。

 映画祭も終わりに近づき、私はサンパウロで気になっていた会合があったので、リオの疲れをそっくり背負い込んで長距離バスでサンパウロに向かいました。
 そんな折、私のかつての会社の先輩ディレクターが、ブラジルの取材にやって来ました。この人は、サンパウロの夜の東洋人街でハチャメチャなハシゴ酒をするのが大好きでした。私はやむをえずかつてのタイコモチ時代のオカムラを演じながら、東洋人街の空が白むまで先輩のお付き合いをすることになりました。
 そしていよいよ、ある会合です。これはかつての「勝ち組」の人たちの集いでした。第二次大戦の終結後、ブラジルの日本人社会は情報の混乱から、日本が戦争に勝ったと信じる勝ち組:信念派と、日本が負けたという事実を認める負け組:認識派に分かれて争うことになりました。勝ち組側のテロにより、30人近くの死者が出ています。終戦直後は当時の日系人の9割近くが日本の勝利を信じていたといわれていますが、祖国との通信の再開や戦後の移住者の到来によって、次第に「勝ち組」は鳴りを潜めていきました。
 そんな勝ち組関係者が集うというのですから、この問題に関心を持つドキュメンタリストとして、ビデオをまわすことができなくてもぜひ現場に参加したい、できれば顔をつないで今後に結び付けたいと願った次第です。私は誰の紹介もなく、メンバーとの面識もないまま、集いの場所を探し出して訪ねてみました。
 怪訝そうに私を見る主催者の老人に同席を許されたものの、出席者はマスコミを好ましく思っていない方々ばかりです。
 私は「敗戦国日本」「戦後の日教組教育」の罪を代表した立場になったようで、私にとって衝撃ではあっても同意はしがたい御説をたっぷり拝聴することになり、パワフルな老人たちの怪気炎にさらされ続けたのでした。

 その夜。私は腰と背中の激痛に襲われて、のた打ち回りました。内科医である妻が応急処置をしましたが、まるで効きません。さらに体に赤い発疹が現われ始めました。
 妻は水疱瘡(みずぼうそう)じゃないかしら、と言います。
「ちゃんとオタフクカゼ、ハシカ、ミズボーソーぐらい日本の幼稚園時代に済ましてらあ!いいかげんなこというな、イテテ…」
 こうした病気は、子供の頃にかかると終生、免疫ができて再発することがないことは、私あたりでも常識として知っていました。痛みがやや落ち着いてから、私は日本の実家の母に国際電話をかけて、自分の病歴を確認しました。いっぽう、この半月ほど前に水疱瘡にかかったブラジルの甥っ子が、いつになく私になついてきたことを思い出しました。

 妻は友人の医師たちに電話をして、私の症状について相談します。その結果わかったことは、幼年期に水疱瘡にかかっていても、免疫力が極端に低下すれば再感染の可能性がある、ということでした。そして成人になってからの水疱瘡は、発疹がどぎつい斑点となって長く皮膚に残る、といいます。
 カリオカ(リオ人)やら勝ち組やらで消耗しきってしまった私は、見事に再び水疱瘡にかかってしまったようでした。
 ようやく体調は回復したものの、全身があざとい斑点だらけになってしまった私は、外出すると人々が私を見て眼をむくのがよくわかりました。
 しかしこの斑点も、その後の度重なるアマゾン焼けや虫刺されにまぎれて、徐々に地肌と判別がつかなくなってきました。

 免疫力が衰えるほどの無理はしないこと。これを異国に暮らすフリーランスの鉄則、と肝に銘じて、不本意な病をえて亡くなった先輩や同僚たちを偲んでいます。

オーパ No.161 1997年3月 改稿(2007年)