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日伯トンボ交流記

岡村 淳


  より気のきいたドキュメンタリーを作りたいばっかりに、これといった当てもないまま私がブラジルに移住したのは十年以上も前のことです。
  私のブラジル移住を知って最も喜んだのが、高知県の四万十(しまんと)川のほとりで「トンボ王国」と呼ばれるトンボの保護区と博物館を築いた杉村光俊さんでした。
  杉村さんの目には、おめでたいオカムラの背後にブラジルの無数の知られざるトンボ群がヒラヒラと飛び交って見えていたことでしょう。私のサンパウロの仮住まいのもとに、どんな捕虫網がいいか、捕えたトンボをどう保存するかなどをわかりやすく説明した手紙が何度も届きました。
  ブタもおだてりゃ木に登る、といったところで、私は杉村さんの熱いレターに応えるために三十路も近くなってから捕虫網を手にすることになりました。

  少年時代の私はソコソコの昆虫ファンでしたが、東京の町の中で生まれ育った悲しさで採集よりも飼育が主でした。岡村少年の周囲で野生の昆虫となると、少しはサマになるのはクソカナブンくらいしかいなかったのです。
  かれこれ三十年も昔のことながら、当時の私はデパートの屋上や夜店で売っている養殖カブトムシを親に買ってもらいました。そんな私がいまや世界的に有名な昆虫写真家の大著「世界昆虫記」の協力者として名前を連ねさせていただいているのですから、皮肉なものです。

  私はサンパウロから離れる度にトンボの生態写真の撮影とトンボ採集に努めました。トンボの写真もシロウトがオイソレと撮れたものではありませんでしたが、最も苦手だったのはトンボの死体処理、いや標本処理でした。
  杉村レターには「トンボの胴体は折れやすいので、できるだけトンボの生きているうちに細い竹ヒゴを胴体に刺し込んでおくこと」とあります。世界のトンボ研究の一助とはいえ、トンボに生まれ変わったことを考えるとあまりいい気はしませんでした。
  そして標本は「乾燥剤と共にタッパー等に入れ、冷蔵庫で保存すること」とリクエストがあります。こうして私のトンボコレクションが冷蔵庫のなかで然るべき空間を占めるようになると、家内の苦情が聞こえるようになりました。
  新たな標本を入れるため、冷蔵庫のタッパーのフタを開けてみました。するとメザシの腐ったような異臭が鼻をつきます。トンボは肉食ですから死後、日数が経てば、いい臭いがするはずがありません。冷蔵庫じゅうの食品にこの臭いがこびりついてしまったような気がして、ゲンナリしてしまいました。
  そもそも私は運動神経が鈍く、ド近眼ですので、敏捷なヤンマの類はなかなか捕獲できません。いっぽう研究機関などの肩書きを持たない人間が、公然と捕虫網をふるのはむずかしいご時世になってしまいました。
  トンボ捕りはトンボ屋にまかせよう、やはりドキュメンタリー屋はドキュメンタリー作りでトンボ王国にご奉仕しよう、と思いを固めた次第です。

  さて私が採集したブラジルのトンボを日本のトンボ王国に送ったところ、さすがの杉村さんたちにも種類のわからないものがいくつもありました。またブラジルのトンボ研究の状況も知りたくなり、そもそもブラジルにトンボの専門家がいるのかどうかを調べてみることにしました。
  サンパウロ大学を皮切りに調査を始め、ようやくリオデジャネイロ国立博物館にジャニラ・マルチンス先生という女性のトンボ研究者がいることを知りました。
  初めてリオの博物館に彼女を訪ねた時のことです。リオの国立博物館は自然科学の分野では中南米最大といいますが、建物の老朽化と慢性的な予算不足がそこかしこからにじみ出ていました。
  鉄格子のエレベーターを降り、迷路のような通路に迷いながらようやく女トンボ博士の研究室にたどり着きました。
  ジャニラ先生はペルナンブコ州のファゼンダ(大農場)で生まれ育ち、小さい時からお人形遊びよりターザンごっこの方が大好きなアウトドア志向の少女だったといいます。
  大学時代にブラジルのトンボ研究の父といわれるニウトン先生に出会い、トンボ研究を志す決意をしました。
  幼虫(ヤゴ)時代は水中で過ごし、成虫になると陸にのぼって大空を飛翔するという、生涯かけて水・陸・空の三次元を自在にめぐるトンボのダイナミズムのとりこになった、とジャニラ先生は語ります。
  この広いブラジルにトンボの研究者の数はジャニラ先生の教え子すべてを合わせても十指にも足りません。広大な国土をまわる研究資金も自費に頼らざるを得ない状態で、ブラジルのトンボ相はまだまだ未知の領域が多いのです。
  オカムラがマットグロッソでチョコッと捕えたトンボですらジャニラ先生によると新種の可能性があるといいます。
  さてジャニラ先生に私の採集した標本の同定〈生物の種(しゅ)の名前を調べること〉という面倒くさい作業を依頼する手前、トンボ王国特製の土産を持参しました。
  ビーズ玉の色を組み合わせて各種のトンボを模して作ったトンボブローチです。日本人らしい創意工夫と器用さのあふれた傑作で、トンボマニアでなくても見とれてしまうアクセサリーです。
  ジャニラ先生はこのブローチを見るなり、キャーッと歓声をあげて私に抱きつき、ホッペタにブチュッということになりました。
  このブチュッが尾をひいたというか、私のトンボボランティアが効をなしたというか、この日伯トンボ交流は思わぬ発展をとげることとなりました。
  五年前のこと、日本のトンボ王国創立十周年を記念して、ブラジルの女トンボ博士を王国に招待したいという申し出が岡村に届きました。
  リオの博物館に電話をすると、さんざんタライ回しにされてようやくジャニラ先生につながりました。最近はムチャクチャに忙しくてとても岡村の標本の同定まで手がまわらない。何と自分は博物館の館長に選ばれてしまった、というのです。
  研究者らしからぬ気さくでダイナミックな性格が皆に好かれたのでしょう。
  そうですか、日本から招待の話があるのですが、それほど御多忙でしたら他の方を推薦していただけませんか? と下手に出ると、なんとか行けるようにする!自分は館長だから休暇時期ならかなり思い通りにできる、さっそく根回しするから至急、英文で公式の招待状を郵送してくれ、スギムラにブチュッを送ってくれ、と言うではありませんか。

  こうして岡村はひとりでコーディネイトから通訳、そしてビデオの撮影までを行いながら、女トンボ博士との訪日珍道中をすることになりました。
  この旅の成果は「四万十川からブラジルへ ナゾの巨大トンボを発見!」というビデオドキュメンタリーにまとめました。ブンバ編集部でも貸し出しています。

  トンボ話のしめくくりにちょっと恐い話をひとつ。
  地球温暖化ということが叫ばれるようになりました。日本列島の温度がわずかに上昇すれば、西日本はマラリア蚊の生息地域になってしまうといいます。
  近い時代の話では、第二次世界大戦の頃までは沖縄の西表島はマラリアの巣窟でした。日本列島に人類が移り住んで以来、すでに何度か温暖化の時期が到来しています。その度に古代日本人たちはマラリアに悩まされていたのでは、と想像するのです。
  先の連載で書きましたように、古代日本人は、異常にトンボを好んでいました。その訳は、トンボがマラリア蚊を捕食することを彼らがするどい自然観察から知り得ていたためかもしれません。
  新たな温暖化により再び日本にマラリア蚊が繁殖し始める時、日本人に新たなトンボ信仰が生じるのでは、と夢想しています。

Bumba No.7 1999年

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com