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トンボ王国にハメられる

岡村 淳



  私が日本でドキュメンタリー専門のテレビ番組制作会社に勤めていた頃のことです。
  当時の私は、年のうち三分の二近くも外国に渡って取材を行っていました。日本にいる時は番組の仕上げに追われて連日、会社のロッカールームで仮眠するといった生活が続きました。
  週に十時間程度の睡眠時間ということもあり、ヘロへロを通り越した恍惚状態で番組をまとめたものです。こうして番組を作り上げると、その放送も終わらないうちから「仕事が終わったのにナニ遊んでんだ! 早く次の取材に出ろ!」と上司にドヤされ、逃げるように再び外国に出て行くことの繰り返しでした。

  そんなある年の初夏のことです。私は数ヶ月におよぶ南米取材から戻って連日連夜の編集作業を続け、作業も終盤を迎えていました。
  当時、私より後から入社してくる新人たちは激務に堪えかねてたいてい一年も持たずに逃散しました。そのため私は何年たっても最年少ディレクターのままでした。いきおい諸々の雑事は私にまわってきます。
  そんな折、先輩ディレクターたちの取材班が、何組も当初の帰国スケジュールがせまっているのに音信不通だったり、現地で取材終了の見通しが立たないという事態が生じてしまいました。
  私たちの取材対象は第三世界の先住民や動物が主でしたから様々なトラブルはつきもので、予定通りに事が運ばないことは日常的なことでした。しかし会社の方は週一回放送の番組を二本かかえており、「天皇崩御」でもない限り番組をテレビ局に納品して放送し続けなければなりません。
  会社の代表である大プロデューサーが私を呼びました。
 「いいか、オカムラ。おまえ、みんなが帰って来るまでデスク(諸々の事務の仕事)をやれ。 それとだな、番組にアナをあけるわけにいかないから、うちの倉庫のアリモノ(すでに撮影した映像素材)を使ってだな、それに国内の新撮(新たな撮影)を足して前・後編の二本の番組を作れ。 いいか、時間もカネもかけるなよ。もう放送日は決まっているからな。グズグズしないですぐに撮影に入れ!」
  命令に異議をはさむことは許されません。

  予算調整ということで、通常よりカネをかけないで番組を作るということはテレビ業界ではよくあることです。
  ドキュメンタリー番組の場合は、以前に放送した映像を使って新たにチョコチョコと撮影したものをつなぎ合わせ、いかにも新作らしくまとめ上げることがしばしばあります。それをスポンンサーと視聴者に再放送臭さと手抜きをさとられないように作り上げるのが「プロ」の腕前、ということになるのです。
  例えば十年前に撮影したどこぞの先住民の村に新たにサッと取材に行って先回の映像と合わせて編集して「あの村は今」といったようなタイトルでまとめるのです。
  いかにも継続的に記録を行うドキュメンタリー制作の真骨頂のようにみせながら、日時と経費をかけずに失敗も少ない作品を作り上げてしまうというわけです。

  当時、野生動物の保護や輸出入の問題がマスコミに取り上げられるようになり始めていました。我がプロデューサーはこれに目をつけ、今までに取材した世界各地の動物の映像を再利用し、それに日本の動物園や生物保護団体の現状を撮影して番組を二本まとめることを私に命じたのです。
  命令された番組そのものは冷や汗モノでなんとかデッチ上げたのですが、この時の調査で私は日本国内のさまざまな自然保護活動の存在を知ることになりました。
  当時、すでにアマゾン関係の番組を何本も手がけていた私ですが、日本の視聴者が期待する猛魚ピラニアや大蛇アナコンダなどの大味なゲテモノ大アマゾン番組を提供し続けることに、いささか食傷気味でした。なにか日本の風土をいとおしむような自然モノを手がけてみたいというひそかな願いがあったのです。
  そんな時に知ったのが四国の「トンボ王国」です。

  日本最後の清流といわれる高知県の四万十(しまんと)川のほとりにある中村市は、単位面積あたりのトンボの種類が全国でもトップクラスに入るほど多いといいます。この中村に生まれ育った地元のトンボマニアの青年がトンボの生態写真を撮影し続けるかたわら、世界初のトンボ保護区「トンボ王国」を築こうと奮闘しているというのです。
  「トンボ」と聞いて私の心は激しく高鳴りました。
  私は学生時代に考古学や民俗学を学びながら「日本人のルーツ」や「縄文文化の立体像」などを探っていたのです。
  およそ二千年前の弥生時代に作られたナゾの青銅器、銅鐸(どうたく)の表面には様々な絵が描かれたものがあります。狩をする人や高床式建築物などの絵と共にしきりとトンボが描かれています。なぜトンボか? という解釈として、トンボは弥生時代に盛んになった水稲耕作の風物誌であるから、などといわれています。しかしそれなら他の水田の住人たち、カエルやドジョウやアメンボはなぜ描かれずにトンボばかりがひいきにされたのか? という疑問が残ります。

  そして少し時代が下がったヤマト朝廷の時代にはヤマトの国はアキツシマ(トンボの国)という別名で呼ばれていました。
  古代の日本列島の住民は国名にするほどトンボを好んでいたのです。はっきりとした理由はわからないものの、トンボは「日の丸」や「君が代」などよりずっと以前から私たち日本人の先祖に親しまれていたわけです。

  過疎化の進む四国の片隅に芽生えようとしていた「トンボ王国」は、自分たちの歩んできた道も将来への見通しも見失いつつある今日の日本人に豊かなメッセージを投げかけているように思えました。

  日本人の郷愁と感性の琴線に触れるトンボと清流・四万十川の風景を通して日本文化と自然保護問題についての理解を静かに深めていく─―そんな番組をぜひとも実現してみたくなりました。

  とりあえず社命の「穴埋め」番組を仕上げ、行方不明の取材班もボツボツ帰国し始めたので、私は珍しく一週間もの休暇をいただくことになりました。
  私の心はすでに四万十川でした。「休暇中止。スグ出社セヨ」の連絡が届かないように私は東京からの客船で海路、高知に向かいました。
  高知駅から四国の小京都といわれる中村まで、さらに列車で二時間かかります。「中央」からのこれだけの距離が最後の清流とトンボの楽園を守り続けたことを実感できました。

  トンボ王国の立案者、杉村光俊さんはこの年、三十歳になったばかりでした。フィールド焼けの浅黒い顔と、意思の強い眼光が印象的です。
  杉村さんは幼少の時からトンボマニアでした。小学生の昆虫マニアというのは今どきの日本の子供たちでもみられます。しかし中学、高校生となっても捕虫網をかついでいたら同級生から奇異の目で見られ、イジメの対象になりかねません。
  杉村さんは年の離れた弟をカモフラージュに使って同行させ、トンボの観察と採集を続けてきたのです。
  四万十川は都会からヒョッコリとやって来た人間には驚くばかりの透明さで、河川敷も他の川のように土建屋の魔手を感じさせませんでした。私は日本の川の本来あるべき姿を見る思いで心を打たれました。
  しかし地元の人にとっては、近年の汚染と乱開発は嘆かわしいほどだといいます。

  杉村さんが高校三年生の時でした。彼がトンボの観察の聖域として連日、通っていた四万十川べりの湿地帯が突然、公共工事で埋め立てられてしまいました。
 「いつかきっと絶対に奪われないトンボの聖域を作ってやる!」
  彼は都会にある大学の生物学部に進学するのを断念しました。家業である喫茶店を手伝いながら、地元にへばりついてひたすらトンボの観察と調査を続けたのです。
  私の訪れた一九八五年、ようやくトンボ王国設立の実現のメドがつき始めていました。
  折りしも日航のジャンボ機が群馬県山中に墜落する事故があり、また地球温暖化がささやかれ始めた暑い夏でした。
  杉村さんはジェット機の飛行の原理と構造がトンボと同じだったら、今度の事故は起きなかったと語り、そして近年の四国でのトンボの分布から温暖化のきざしを読み取って熱っぽく私に語りました。
  人間いかに生きるべきかに始まり、森羅万象すべてをトンボを通して語っていくのです。
  かつて真言宗の祖、弘法大師・空海は唐の国で仏教を学んだ後、仏教の宇宙を日本の風土の中に適合させて自らの生地である四国に八十八ヶ所の霊場を開きました。
  私は杉村さんとトンボ王国に空海の風景を見る気がしました。
  こうして私が手弁当で立案したトンボ王国の番組企画は実現する事になったものの、代表プロデューサーの一存で私たちの会社で初めて仕事をすることになったフリーのベテランディレクターが小手調べとして手がけることになってしまいました。
  自ら担当できなかったのはもちろん残念でしたが、完成した作品は番組のカラーにとらわれない情感豊かな秀作でした。
  オレのようなチンピラにはこれだけの作品にはとてもできなかっただろう、とうれしく思いながら杉村さんとトンボ王国の武運長久を願ったものです。

  翌年、私は会社を辞して特に当てもないままブラジルに渡ることを決心しました。知人たちに挨拶状を出したところ、なんでまたブラジルなんぞに……というあきれた反応がほとんどでしたが、そのなかで熱烈に喜んでくれたのが杉村さんだったのです。
  さすがはトンボ王国の弘法大師、我が真意を深く汲み取ってくれることよ、と感激しました。

  しかし杉村さんからの度重なる手紙はトンボの移動から解釈する今日の海外移住の意義などではなく、トンボの標本の作り方と保存方法についてのシロウト向けの手ほどきだったのです。
  杉村さんはブラジルが「世界最大のトンボ」などトンボの宝庫であることを知っていました。そしてトンボ王国のなかに築いた博物館のコレクションのために、ぜひともブラジルとのトンボ・コネクションが欲しかったのでした。

  こうして極楽トンボの私はブラジルに移住した後、杉村さんからのラブレターに応えるために、中年も近くになってから捕虫網を振りかざすハメになってしまったのです―─。

Bumba No.5 1999年

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com