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探検される側の事情

岡村 淳



  相変わらず日本からヘンな人たちが続々とブラジルにやって来ます。
  私も古い人間になったのか、昨今は私あたりの常識にそぐわない人たちが増えているようで、思わぬ不快な目に遭わされることがしばしばです。

  最近のケッサクは、日本の大学の探検部の若者たちでした。サンパウロに到着した彼らから、ダレソレの紹介とかで電話がありました。ブラジル奥地にあるというナゾの宮殿遺跡の調査に来たので情報を教えてくれ、というのです。 私は学生時代に考古学を専攻していました。ブラジル移住後も古代遺跡をテーマとしたドキュメンタリーをいくつか手がけ、各地の考古学者とのつきあいもあります。
  日本からの学生たちは地底都市から空飛ぶ円盤まで登場する「ユニークな」ブラジルの遺跡についての翻訳本を唯一のたよりとしているのですが、その訳者を私は個人的に知っていました。
  知っているどころか、彼がサンパウロの拙宅に訪ねてきて、私の集めたブラジルの考古学関係の資料をコピーさせて欲しいと頼まれたこともあります。すでに発表済みの私のドキュメンタリー番組や論文を提供しないというのも自分のポリシーに反するので、彼の要求に応じました。
  それどころか彼の結婚披露宴のビデオ撮影を頼まれたことも思い出しました。親族もいない異国で結婚に臨む同邦の心中を察して、一センターボももらわずに経費持ち出しでサービスしたのです。
  その後、彼は日本に引き揚げてしまい、風の便りにブラジルの古代遺跡についての訳本を出したことは聞いていました。公私ともにご奉仕した私のもとに件の本を送ってくる気配もなく、サンパウロの高野書店に並んでいたのをみつけてパラパラとめくってみたものです。
  そんな話のサワリを電話で伝えると、探検部のリーダーだという若者は「ゼヒ岡村さんに直接会って話を聞きたい」と言います。ちょうど予定がたてこんでいたのですが、私自身も学生時代から今日まで幾多の人たちの好意のおかげで現在があることを思い返しました。そして別の予定をズラして彼らの都合にあわせて時間を作ったのです。
  ところが──見事にスッポかされたのです。わびの電話ひとつありませんでした。私に利用価値がなければ結構なことですし、なにもシャシャり出る気は毛頭ありません。ただ、外国での探検どころか、人間関係の基本もこなせない日本の若者がブラジル奥地を徘徊することを思うと、気色の悪い限りです。
  このタンケン青年たちがきっかけで、イヤな記憶がよみがえってきました。テレビ番組制作に関わるうえで、大いに反省している苦い体験です。

  十年以上も前のことです。日本に住むA子さんという中年の女性から連絡がありました。A子さんはブラジル奥地のM州で生まれ育った日系二世です。彼女は夫の都合で日本に暮らすことになり、二十年近くになっていました。久しぶりに里帰りした時にブラジルの雑誌で故郷の町の近くに古代のインディオが山中に残した岩絵の遺跡があることを知り、彼女も現地を訪ねてみたと言います。
  ついては日本のテレビ番組で彼女の故郷の遺跡を紹介してもらえないか、という話でした。件の雑誌や彼女が現地を訪ねた時の写真を見せてもらったものの、映像的にはあまりパッとしない岩絵で、テレビ屋として考えるとあまり食指が動きません。
  しかし考古学に関わった身としてはブラジル国内でもほとんど知られていない古代遺跡には興味がありました。また在日本のブラジル二世のオバサンが故郷の遺跡をなんとかしたい、という意欲にもひかれました。話を広げることでちょっとしたドキュメンタリーにならないかな、というスケベ心もわいてきたのです。
  まずは自分の目で遺跡を見てみよう、とサンパウロから長距離バスに乗り、現地を訪ねてみることにしました。A子さんと古くからの知人という日本人の移住者、Mさんが岩絵のある現場を案内してくれました。しかしドキュメンタリー屋として、また考古学的な観点からしても見栄えのしない岩絵です。この遺跡だけでは大ヤラセ作戦でもデッチ上げない限り、テレビ番組の成立はむずかしいと判断せざるをえませんでした。
  その後の日本でのA子さんの奮闘はたいしたもので、家事と家業のかたわら夜間アルバイトをして軍資金を稼ぎました。そして日本の先史美術の研究の第一人者である先生に、現地を訪問してもらう計画をたてたのです。
  私の方もブラジルの考古学の資料を集め続けました。専門家の来伯となるとM州のものだけではさすがに貧弱なので、後にUNESCOの世界遺産に指定されることになるブラジル北東部のピアウイ州の岩絵遺跡群の資料などをA子さんに送り、ピアウイにも案内することを提案しました。
  A子さんの尽力でこの計画は実現しました。特にピアウイの方は遺跡の規模もさることながら、現地に研究所を設立して遺跡の研究と保護に奔走する考古学者たちもいたため、日本の先生も満足されました。この先生は日本の新聞などに、ブラジルの岩絵遺跡についての紹介記事をA子さんの名前も入れて寄稿してくれたのです。
  勢いづいたA子さんは、この先生や私などを理事としてブラジルの岩絵遺跡の普及と保護を訴えるNGO(民間団体)を自宅に設立するに至ったのです。
  私にとって協力できる最大のことは、彼女とこの団体のことを世に広く知らしめる「感動的な」テレビ番組を日本でつくることでしょう。ピアウイの遺跡は見栄えもデータも十分にあり、M州でも地元のMさんらが次々と新しい岩絵遺跡を発見していました。さまざまな研究成果をまじえれば、A子さんの活動を軸にドキュメンタリー番組をつくるだけの題材はそろいつつありました。
  しかしテレビ番組の企画を実現するというのは並たいていのことではありません。しかも私はフリーで在ブラジルの身、日本の大きなテレビ局の有名番組ともなればもう「人力」だけでは不可能な領域といえます。
  機の熟していない時には、いくらあがいてもうまくいかないものですが、条件がそろってくると思わぬ好機が訪れるものです。
  大手民放の有名な紀行番組で、人類史のナゾをテーマとするシリーズの企画募集があったのです。これまでの私の仕事や人脈が幸いして「ブラジルの岩絵遺跡」の企画はOKとなりました。
  ここでまた問題です。番組を担当する二人のプロデューサーのうち、若い女性プロデューサーが当時の流行語の「オバタリアン」そのもののA子さんを番組の主人公として起用することに反対しました。
  しかし番組にA子さんが登場するかどうかで、今後のA子さんの団体への世間の注目度は大きく違ってくるでしょう。私はそんな戦略はもちろん伏せて、遺跡に思い入れのないタレントや若いギャルをリポーターにしてもテーマが軽くなってしまう、ぜひともA子さんの活動に沿ってストーリーを展開するヒューマン・ドキュメンタリーを作りたいと熱弁をふるい続けました。そして日本のTVドキュメンタリー界の大御所であるもうひとりのプロデュ―サーが「A子さんでいきましょう」と決断してくれたのです。
  私は視聴者に少しでも好感を持たれるA子さん像を築くよう努めました。
  環境破壊によって消滅の危機にある故郷ブラジルの遺跡の研究と保護のために私費を投じて毎年、現地に通い、岩山や原生林を踏査しながら未知の岩絵を発見していく日系女性。日本人もブラジル日系人も岩絵を残した古代のインディオもルーツは同じモンゴロイド(黄色人種)だ。これは新たな夢と大地を求めてアジアからはるか新大陸まで渡っていった私たちモンゴロイドのロマンの物語である――
  実像とは「いささか」ズレがありますが、誰に迷惑をかけるわけでもないと考えました。ブラジルの古代遺跡の啓蒙活動という大義にかけたつもりでした。 いろいろなトラブルもありましたが、終わりよければすべてよし、番組は日曜夜のゴールデンタイムの一時間ものとして好評裡に放送されました。しかし――効果があり過ぎたのです。
  テレビの視聴者は、まず番組で描いたA子さん像を疑うことはないでしょう。何よりも当人がその気になってしまいました。そして同志としてボランティアでA子さんというミコシをかついでいた現地のMさんや私に対して、高い所から「命令」をしてくるようになったのです。

  番組を見た何人もの若者たちが現地に行ってみたい、とA子さんのところへ問い合わせてきました。A子さんはますます有頂天です。
  私の方は日本の若者に観光気分で乗り込んで来られても、受入れ体制のない現地に迷惑がかかるばかりと考えました。そして訪問希望者をフルイにかけること、せめてポルトガル語なり遺跡の発掘調査なりを事前に日本で短期間でも学ぶ意志のあるような人だけをブラジルに送り出すように、と提案しました。
  A子さんは「若い人の気持ちの熱いうちに現地に行かせるべきです」と、もはや私に耳を貸しませんでした。
  A子さんがどんな若者を送り込んできたか、一例をあげましょう。
  M州の岩絵遺跡調査で尽力してくれたMさんから私に電話がありました。「いやあ今どきの日本の若いモンの立ちションベンには往生したよ」。
  いわく、Mさんに日本のA子さんから国際電話がありました。○月○日にMさんの町のバスターミナルに日本の大学生が二人到着するので迎えにいくこと、そしてしばらく面倒をみてくれとのことでした。
  Mさんは観光ガイドをしているわけではなく、町の郊外に農園を構えて生活をしています。頼まれるとイヤと言えない性分、Mさんは告げられた日にちから忠犬ハチ公のごとくバスターミナルに連日、はりつめること一週間。若者たちは現れず、誰からも何の連絡もありません。人のいいMさんは腹を立てるより、何か事故でもあったのかと心配しつつ農園に戻りました。
  十日ほどして、ようやく件の若者たちから電話がありました。「いま、バスターミナルに着きました」。
  ふたりの若者は日本の大学で考古学のサークルに入っているといいます。例の番組に刺激され、自分たちもキャンプをしながら岩山をまわって岩絵遺跡を発見してまわりたい、というのです。もちろんポルトガル語はできません。 案の定、A子さんは現地の事情をろくに理解させずに若者たちを気軽に送り出していたのです。
  確かに番組では簡単に新遺跡が発見されるような印象があったようです。しかしこれも私が「未知の遺跡をA子さんと一緒に発見するその瞬間を撮影したい」と事前に地元のMさんら協力者に再三お願いして綿密に未踏査地域を調査してもらい、周到な準備のもとでようやく「感動的」なシーンが実現できたわけなのです。
  そもそも岩絵遺跡はそこいらにポコポコあるわけではなく、それぞれ何十、何百キロと離れています。しかも遺跡は私有地のファゼンダ(大農牧場)のなかにあるので、立ち入るためには事前にファゼンデイロ(地主)に仁義を通さなければなりません。
  ファゼンダでは牛泥棒などの疑いのある不審な者は、警察も黙認で密かに処刑してしまうことがしばしばです。それに他所者の腕時計や運動靴をねらって持ち主を殺しかねない土地柄です。
  言葉もわからないバックパッキングスタイルの日本の若者がふたりでどうにかなる世界ではありません。
  Mさんは頼まれた自分にも責任があると思い、ふたりにこうした事情を説明して勝手に動き回らないように言い含めました。ふたりはふてくされながらも、Mさん宅の食客となったのです。
  Mさんは自動車を持たず、運転もしません。そのため遺跡をまわる時は車のあるブラジル人の友人と共に動いています。若者たちを案内するとなると、Mさんも友人も仕事を休んでつき合わなければなりません。Mさんがせめてガソリン代ぐらいは出してくれ、と言うと彼らはますますむくれてしまい、一晩ふたりでヒソヒソ相談した末に不承ぶしょう応じたといいます。
  さて、問題の立ちションです。Mさんが日中、二人を連れて町の中心の広場を歩いていると、一人が無言で立ち止まりました。何事かと振り返ると、前をはだけて芝生にむけてジャーッと液体をほとばしらせ出したのです。ベンチでくつろぐ市民、通行人、そして売店の人たちが、あ然としています。青年はそんな視線を無視して「粗品」をチョンチョンと振るとジッパーの中におさめ、無言でMさんと相棒のもとにやってきました。
 「がまんできないなら言ってくれればそこらの店を借りるから」Mさんが注意しても返事もありません。
  彼らを遺跡に案内するため、土地の所有者であるファゼンデイロに立ち入り許可を求めてあいさつに行った時のことです。そのファゼンデイロは土地を管理人たちにまかせ、本人は町なかの豪邸に住んでいました。二人を連れて豪邸の門をくぐると、また一人が立ち止まり、きれいに整備された庭先でジャ―ッと始めたのです。地元で何十年もかけて築いてきたMさんの信用も顔もあったものではありません。
  後日、Mさんから「さすがに電話では言えんかった」更にショッキングな話を明かされました。
  二人を国道脇の岩山地帯にある岩絵遺跡に案内した時のことです。私もここを二度ほどMさんらと訪ねたことがあります。道路端でココヤシの実を売る店の二十歳前の娘さんがブッシュ地帯をさっそうと案内してくれました。
  若者たちの時も娘さんに案内を頼みました。岩絵見物をした帰路、水浴びのできる小さな滝のある所で二人は娘さんとちょっとだけ下を見てくるからMさんに上で待っていてくれ、と言います。
  しばらくして娘さんの悲鳴。Mさんが駆けつけると若者たちはビショ濡れになりながら二人がかりで娘さんを押さえ込み「指ぐらい突っ込んでいた」ところだったと言います──
  Mさんは三週間も彼らの「おもり」をさせられ、その後は連中から電話一本ハガキ一枚ないそうです。「無事、日本の親御さんのもとに帰っただろうか」Mさんはさらに心配するばかりでした。
  私は滝の事件は最近まで知らなかったのですが、立ちション事件だけで頭に血がのぼり、日本のA子さんに抗議の手紙を書きました。
 「日本から人を送り込んでくるのなら、せめてお宅の猫チャンくらいに『シモのしつけ』をして下さい」。
  A子さんから激怒の返答です。「そんなくだらないことは現地で処理するべき問題です。わざわざ私に報告するとは何事ですか!」。 A子さんとは長らく苦楽を共にしてきましたが、私はたもとを別つことにしました。
  相手側の痛みに無感覚になった時、もはや真の国際交流は成立し得ないと肝に銘じています。

  日本の若者の皆さん! 埋蔵金に鍾乳洞、ニホンオオカミにツチノコ! 日本の国内にはまだまだ秘境とナゾが埋もれています! 治安も悪いブラジルなんぞで皆さんの将来にキズをつけてはいけません、どうぞ日本の国内をたんとご探検あそばせ!
  ブラジルは公衆便所じゃねぇぞ!!

Bumba No.12 2001年

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