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フォトジャーナリストのタマゴ ブラジル漫遊編

岡村 淳



R指定記事
本稿は事実に基いて書かれたエッセイですが、健全な家庭生活には好ましくない表現や女性蔑視ともとれる表現が含まれています。今日の日本人男性の女性観、そして日本人の第三世界観のキレイ事では済まされない部分を、ひとりの日本人青年の言動を鏡として問題提起するのが筆者の狙いです。しかしそうした表現になじまない方には、いたずらに不快感をもたらす恐れもありますので、どうぞ本稿を飛ばして下さるようお願いします。

  先号に引き続き、フリーのフォト・ジャーナリスト(報道写真家)を志して大量のカラースキン(色付きコンドーム)と共にブラジルへ乗り込んで来た日本人青年B君の話です。
  B君がブラジルに到着した当時、ちょうど私は取材旅行を目前にひかえていたので何かと「オカムラさんにお願いが─―」と言い寄ってくるB君を最初にメシをおごる程度で振り切り、あとは不在を理由にかわすことができました。

  B君来伯から二ヶ月ほど経ち、私もいくつかの取材を終えてサンパウロに一時、落ちついていた折のことです。
 「オカムラさん、インディオX族の祭りの取材に成功しました!」サンパウロに戻ったB君から喜び勇んだ電話がありました。
  X族は日本でも知る人ぞ知る有名なインディオの部族で、そうした「売れ筋」の部族を選んだのは、いかにもB君らしいところです。
  さてブラジルのインディオ居住区はFUNAI(国立インディオ基金)の管轄になっており、外部の者、特に外国人のジャーナリストなどはなかなか正式に立入ることができません。私の先輩たちもFUNAIの取材許可を得るために首都ブラジリアにお百度を踏まされてさんざん泣かされ、なかには絶望のあまり東洋人街の大阪橋から身投げを計ろうとした人もいるくらいです。
  いっぽうB君は大学でポルトガル語を学んだとはいえ、卒業後まもなくヒョッコリとブラジルにやって来て短期間のうちに有名なX族の祭りの写真撮影に成功したというのですから、まさしく快挙といえるでしょう。
  よく聞いてみると、B君は彼を私に紹介した日本のフリージャーナリストの集団、Aプレスから別の正式メンバーの名前でプレスカード(記者証)を発行してもらっており、そのおかげで現地のFUNAI事務所から立入り許可が出たと言います。いっぽう彼はお世話になっているAプレスにはその後、何の連絡も入れていないと言うのです。
  B君は明後日にはブラジルを発つとのことで、私は翌晩にいっぱい振るまうことにしました。インディオ取材の成功をお祝いすると共に、この道の不肖の先輩として、せめて取材のイロハのイである「お世話になった人にすみやかにお礼の連絡をする」くらいは伝授しておきたいと思った次第です。

 「オカムラさん、ぼくはブラジル女性のテイソーカンネンを疑ってますヨ」開口一番のB君の言葉です。
  私としては最近のインディオ取材の事情を彼から聞いておこうという狙いもありました。しかしB君はX族の村でインディオと寝起きを共にしたのではなく、FUNAIの支所に滞在して村の祭りに通ったというだけで、その方面の話題ははずまず、もっぱら下半身事情の話が続きました。
 「いゃあホント、自分で処理するヒマがないくらいでしたヨ」
  よもや保護区内の不特定多数のインディオ女性と関係を結んだのか、と懸念したのですが、さすがにそれはなかったようでひとまず安心です。
  それにしてもB君の体験談は、ブラジル各地のドサ廻りの長い私でもホントカイナと思うようなものばかりでした――。

  B君の滞在していたとある地方のホテルで、その州のミス・コンテストが行われたそうです。日中の審査が終わり、深夜になると選り抜きの金髪・白肌のミス達が「全裸で」プールでハシャギはじめたというのです。泊まりの男客は彼ひとり、B君は次々と押し寄せる美少女たちの攻勢に往生したといいます。
  ある時は町の有力者の婦人に車で誘い出されました。彼女は哀願してB君を求めてきました。ギャル相手ですでに食傷気味だったB君は、とても五十近いオバサン相手ではその気になりません。かといって地元の有力者に嫌われると立場がまずくなると計算した彼は「奥さん、あなたの結婚指輪を忘れてはいけませんヨ!」と殊勝なセリフをはいて車から脱出しようとしました。しかしオバサンは「今晩だけはこの指輪を忘れて!」とB君を怪力でねじふせ、ついにムシャブリつかれてしまった、といいます。
 「でもボク、人助けもしているんですヨ」B君は「お女郎さん」の身受けをしたというのです。
  ある町のホテルで、ポルトガル語もわからずヒマとカネを持て余している年配の日本人観光客と知り合いになりました。B君はこのオジサンをボアッチ(ナイトクラブ)に案内して「女郎買い」の通訳をしてやり、自分もお姉ちゃんをおごってもらいました。
  そのお姉ちゃんの夜伽話で、男運に恵まれずに遠い故郷に子供を残して春をひさいでいる、と聞かされ、B君はいたくカンドーしてしまいました。B君は勇を鼓して女郎屋のボスとわたり合って彼女の借金を全額スッパリ肩代わりしてやり、晴れて自由の身にしてやったというのです。
 「で、いくら払ったの?」
  B君の支払ったのは当時の相場で二万円くらいの金額でした。
 「それじゃサンパウロで日本人相手のお姉ちゃんに一晩つき合ってもらう金額だよ。いくら場末でも、ちょっと安過ぎるよ。今頃そのお姉ちゃん、 故郷に帰るどころか、また別のカモの日本人でも相手にしているかもよ」
  オカムラごときに自分のヒロイズムを傷つけられたB君は、いささかむくれています。
  私たちは河岸(かし)を東洋人街の中華料理屋からバール(一杯飲み屋)へと変えました。小ぎれいなモッサ(お姉ちゃん)が立ち寄り、バーテンと話しています。
 「オカムラさん、あれはプロですよ。イッパツいくらくらいでしょうかね?」
  私の目にはそうとも見えませんが、ブラジル女性遍歴を現役で疾走中のB君の発言です。彼女が席を立ってからそっとバーテンに聞いてみました。バーテンは侮蔑の目で私たちを見すえ、彼女は日中のオフィス勤めを終えて夜学に通うガンバリ屋の女学生だといいます。
 「いや、あれはプータ(売春婦)ですヨ」
  B君の目には、すでにブラジルの女性はすべて「何も拒まず、人格を持たない歩く女性器」としか映っていなかったようでした。

  いずれにせよB君は翌日にはブラジルを去る身ですし、私に何かと便宜を計ってくれていたAプレスが紹介してきた若者です。私は彼に最後の好意を申し出ました。
 「で、カネは足りているの?」
 「ええ、実はそれで困っていたんです。ヤドの支払いもあるし、こっちのCDとか本も買いたいと思っていたんですヨ。日本に帰ったらスグ返しますから―」
  ちょうどこの日、私は生活費のためにわずかな手持ちのドルをブラジルの通貨に換金していました。しかしこれまでの経緯から取りっぱぐれのリスクが多そうなので、五〇レアル(当時約七千円)だけ貸すことにしました。
  そして明晩、空港に行く足がないというB君に「夜8時前にホテルの建物の前で待機していること」を条件に車で送ってあげることを私はおめでたくも約束してしまったのです。

  翌晩、8時を過ぎてもB君の姿は現れません。駐車スペースもないので私は横断歩道に停車して急ぎ足でホテル内に駆け上がりました。
  B君はまだ自室にいて、スーツケースも閉じていませんでした。日本から来たばかりらしい若者に何やらエラそうな口をきいているところでした。
 「オイ、8時前に下で待っているって約束だったろ!?」初めてみせる私の剣幕にB君はさすがにうろたえたようでした。
 「ええ、あの、カレ、日本からサッカーの修行に来た青年で…」
 「駐車違反の罰金をとられるの、オレなんだからな。オレ、車に戻るから」
  あとわずかでもカンにさわったら私は彼を置いて車を走らせ、帰るつもりでした。
  さすがのB君もほうほうの体で荷物運びをサッカー青年に手伝わせながらやって来ます。
 「オマエ、女遊びばっかりしてないでガンバるんだぞ!」B君はサッカー青年に別れ際まで兄貴カゼをふかせていました。

  車の中はしばらく気まずい雰囲気が続きます。
  ようやくB君が昨晩のおどけた口調で口火を切りました。
 「いやぁ、きょうの昼間、セントロ(ダウンタウン)に行ってみたら立ちんぼのプータがいたんですよ。値段を聞くと二十五レアイスだって言うんで、ホテルにしけ込んだんですヨ。で、もうイッパツやりたくなっちゃって、そしたらもう二十五取られて、けっきょく五〇も使っちゃいましたヨ」
 「キミ、もうカネがないって言ってたじゃない!? ヤドの支払いとか、どうしたのよ!?」
 「ええ、まだトラベラーズチェックが残ってますから」
  もう私に言葉はありませんでした。サンパウロ国際空港の出発ターミナルに車をつけると「ここは駐車場代も高いし、キミはポルトガル語もわかるから、これで失礼するよ」とそそくさとお別れしました。

  案の上、私が業を煮やしてAプレスに報告するまでB君は借金を返そうとはしませんでした。
  それはともかく、私には悪夢のような光景が浮かんできます。
  最後の晩、B君に今後の抱負を聞いてみたのです。「アフリカにポルトガル語が通じる国がありますよね。そこで地雷にやられた不具の子供たちの写真を撮りたいと思ってるんです。ボクは大学を出ていてもフリーの写真家なんてヤクザな道を歩もうとしているんで、地雷の犠牲になった子供たちと心情的に通じるものがあると思うんですヨ」

 ――アフリカの内戦国です。ひとりの黒人少年が松葉杖にすがりながら立っています。片足は地雷に飛ばされてありません。少年は口に先端のくびれた毒々しい色の風船をくわえています。いや、風船と見まがえたのは、日本から来たという自称フォト・ジャーナリストの置いていったメイド・イン・ジャパンのカラースキンでした――こんなおぞましい映像が現実とならないよう、祈るばかりです。

Bumba No.10 2000年

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