[岡村淳 ブラジルの落書き] [岡村淳のオフレコ日記] [星野智幸アーカイヴズ]


それぞれのシャーマン

岡村 淳



  先回、アマゾン北部の山岳地帯に住むヤノマモ・インディオのシャーマン(まじない師)との体験をご紹介しました。
  文化人類学の専門書を見ると、ヤノマモ族のシャーマンの特徴はかくかくしかじかである、などと規定されています。しかし同じヤノマモでも実際にいくつかの村をまわってみると、村ごとのシャーマンの違いの大きさに驚くばかりでした。

  最初に訪ねたタバシナ村のシャボリ(ヤノマモ語でシャーマンの意)は、狩猟や力仕事などふつうのヤノマモの男の仕事は一切しませんでした。彼は時折ひとりで山に入ってはヤクアナと呼ばれる幻覚剤を作製して、村に病人が出るとこれを自ら服用して神がかり状態になって治療にあたっていました。
  私としては体験取材という大義名分で、ぜひともその筋では有名な幻覚剤ヤクアナを自ら試してみたいと願っていました。しかしシャボリは、取材班に心を許して数々の秘儀を披露してくれたものの、これだけは応じてくれませんでした。
  それなら私が病気になるかケガをして、シャボリのまじない治療を受けてみようとも考えたのですが、これといって体の不都合はありません。私自身、畏敬の念を抱く霊能力者シャボリのこと、ヘタな仮病でも装えばとんでもないことになりかねないと思い、これも断念しました。

  しかし私はヤノマモのシャーマン体験を、全くあきらめてしまった訳ではありませんでした。タバシナ村を去った後で、徒歩一日の距離にある隣村のスルクク村というところも取材することになったので、そこのシャボリに新たにあたってみようと考えたのです。
  さてこのスルクク村のシャボリは、風貌から生活スタイルまでタバシナ村のシャボリとはまるで違っていました。
  スルククのシャボリは、自ら弓矢を手にとって男衆の狩猟の先頭に立つような、実に活発な人だったのです。そして待望の幻覚剤ヤクアナについては、スルククのシャボリは作りもしないし、使うこともないといいます。ついに念願の幻覚体験はあきらめざるをえませんでした。

  いっぽうタバシナ村からスルクク村まで、雨期でぬかるむ山道をまる一日、重い機材を担いで歩いた私はヒザを傷めてしまいました。そうだ、これでディレクター自らがヤノマモのシャーマンの治療を受けるシーンを撮影できるかもしれない、というテレビ屋らしいスケベ根性が湧き上がって来たのです。
  FUNAI(ブラジル国立インディオ局)の医療スタッフによると、スルククのシャボリ先生はなかなかウイットに富んだ治療をするといいます。
  スルクク村の子供たちにFUNAIのスタッフが予防接種の注射を行なおうとした時、どうにもこうにも注射がイヤで狂ったように泣き騒ぐ女の子がいたそうです。それ以来、この子はふだんも発作的に泣きわめくようになってしまいましたが、ある時シャボリが手をかざすと、それ以来ピタッと泣かなくなったといいます。その際、シャボリは自分の口のなかから折れた注射針を吐き出して、これが少女の体に残っていたんだ、とFUNAIのスタッフに言ったそうです。
  病人の体に触れて、サワリのあるものを自分の口のなかから取り出すというのは、南米の先住民のシャーマンの間で広く行なわれている治療法のひとつです。

  私はFUNAIのインディオ保護官に通訳を頼んで、スルクク村のシャボリに私の傷んだヒザの治療をお願いしました。するとシャボリはその場で私のヒザをなでると、口をモゴモゴさせて自分の手のひらに何かを吐き出したのです。
  あっという間の出来事です。カメラマンが撮影機材の準備をする余裕もありませんでした。
  シャボリの手のひらには、唾液に混じって炭のカケラがありました。これを取り出したからもう大丈夫だ、とシャボリは言います。そしてなんとも悔しいぐらいに不思議なことに、私のヒザの痛みは消え去っていました。
  悔しいのはもちろん、撮影チャンスを逃したからです。我々取材班がすでに撮影していたタバシナ村のシャボリの場合は治療に何時間もかけていたので、おそらく似たようなことをやるのだろうと思って、つい油断をしてしまいました。
  それにしてもスルククのシャボリはどんなウイットで私のヒザの痛みと炭のカケラを結びつけたのでしょう。
  撮影できずにスミません、というシャレでしょうか。

  ボリビアのアマゾン低地に、イソソと呼ばれる先住民のグループを訪ねた時のことです。
  イソソはいわゆるグアラニー語族に属するインディオですが、早くからスペイン人との接触があったため、ふだんは西洋式の衣服をまとい、スペイン語も話します。
  私たち取材班が滞在していた村に、イソソの出身で優れた治療能力を持つため、ボリビア各地をまわっているというクランデイロ(スペイン語でまじない師のこと)が訪ねて来ることになりました。
  村では、このクランデイロが失明者を治療したとか、歩けない人を瞬時に歩かせたとかの聖書に出てくるような奇跡話で持ち切りになりました。
  ようやくクランデイロの来村です。彼の宿泊先の家には、早朝から治療を求める村人がつめかけました。
  いっぽうクランデイロの方は、村に着くなり村の若い娘たちを相手に夜半まで飲み騒いでいたせいか、なかなか治療を始めようとはしません。
  そんな彼氏のところに取材の許可を得ようと訪ねました。まだ20代の若者で、二日酔いに加えてかなり神経質そうな顔つきです。
  話を切り出すと、撮影の条件として金を要求されました。フリーとなり、すべてひとりで取材をするようになった今では、私は金銭を求められるような取材はしないことにしています。しかしサラリーマン・テレビディレクターだった当時の私は、ともかく撮影をしてネタをかせぐことが先決と考えました。彼の望む金額は、乏しいロケ費用でも何とかすることのできそうな額でもあり、私はこの条件を呑みました。クランデイロは日を改めて、村人3人の治療の撮影を許すと言います。

  撮影の日となりました。相変わらず二日酔い気味のクランデイロは、治療の前にタバコの煙を忙しげに吸い始めました。
  そもそもタバコは新大陸起源の植物で、先住民が古くから宗教儀式に用いていたものです。いちおう伝統にかなっているな、と思いながら見守ると、クランデイロは病人の体に煙を吹きかけながら触り始めました。
  しばらく体を触り続けた後、自分の手のひらに何かを吐き出しました。ヤノマモのスルクク村のシャボリと同じ手法のようです。手のひらには甲虫の幼虫のような1センチほどの白い虫が2匹、吐き出されていました。
  クランデイロはちょっと意外そうにその虫を見て「これがこの男の病のもとだ。病がひどかったので、虫が2匹も出てきたのだ」と言います。
  次の病人への治療も似たようなもので、今度は虫を1匹、吐き出しました。2人目の治療を終えたクランデイロは「今日の病人は重病だったので疲れた。3人の治療をするつもりだったが、2人でやめにする」と言って私たち取材班に退出をうながしました――
  日本の伝統芸に、白黒の碁石を呑み込んで、客のリクエストに応じて白黒それぞれの石を吐き出してみせるというのがあります。この芸はある程度の訓練でできるようになるといいます。
  イソソのクランデイロの治療もこの手口なのでしょう。撮影の日、彼は事前に3匹の虫を呑み込んでおいて、1匹ずつ取り出して、3人の治療を披露するつもりだったのでしょう。ところが最初に2匹、吐き出してしまったため、2人の「治療」で切り上げざるをえなかったとみられます。修行不足の感は否めませんでした。
  この時、治療を受けた人たちも、その場は気分がよくなった気がしたが、また元に戻ったようだ、とこぼしていました。
  残念ながらイソソのクランデイロは、私に奇術は見せてくれても、超常現象を垣間見せてくれることはありませんでした。

  我らが南米大陸には、今日も活躍するあまたのシャーマンたちがいます。
  私はこれからの旅で、どんなシャーマンと出会い、どのようなユニークで不思議なパフォーマンスを見せてもらえるだろうか、といつもワクワクしています。

オーパ No.150 1996年 改稿(2004年)

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com