[岡村淳 ブラジルの落書き HOME] [星野智幸アーカイヴズ]


人の死ぬ取材 人を生かす取材

岡村 淳



  サンパウロでの、ある休日の夜のことです。
  Oさんから電話がありました。Oさんはサンパウロ市内で、主に日本のテレビ取材班を相手に取材の調査・コーディネイトと撮影機材のレンタルを行なう会社を営んでいます。
  サッカーからアマゾン秘境ものまで、さまざまなブラジル関係の番組が日本のお茶の間で流れますが、その過半数はOさんの会社の手を借りていることでしょう。

 「Rが死んだよ」
  R氏は日系二世で、Oさんの所でビデオ・エンジニアやコーディネイトの仕事をしていました。そのR氏がOさんの知らないうちに個人で日本のテレビ番組のアマゾン取材のコーディネイトを引き受け、現地で事故に遭って亡くなったというのです。
  R氏とは何度か顔を合わせたことがあります。彼は以前、テレビの修理の仕事をしていたそうです。その後、国際協力事業団(JICA)の宣伝映画などを手がけていたサンパウロ在住の日本人、Sさんのプロダクションで働くようになりました。Sさんはブラジルを引き揚げてしまい、R氏はOさんの所で仕事をするようになっていたのです。

  Oさんは私にお葬式の場所や日時も教えてくれましたが、私はR氏とは顔見知り程度であり、別の予定もあったので列席は見合わせることにさせてもらいました。
  しかし後で驚くことになりました。R氏が命を落とすことになったテレビ番組の制作会社は、私がフリーになってからディレクターとして働いていたことのある会社だったのです。そして取材の責任者である今回の番組ディレクターは、私が直接、知っている人でした。もし私がお葬式に参列していたら、思わぬ形で彼と再会することになっていたでしょう。

  私に入って来る断片的な情報では、事故の顛末はナゾの多いものでした。
  アマゾン支流での撮影で、泳げないR氏が取材班のなかでひとりだけ救命胴衣をつけずにボートに乗り込んだところ、そのボートが転覆、日本の有名俳優などの他のスタッフは川岸に泳ぎ着いたものの、R氏は流されて溺死したというのです。
  有名俳優がらみの事故ということで、日本の新聞や週刊誌もこの事件を取り上げていましたが、現地に出向いて綿密に取材することはなかったようです。

  私自身はこうした日本のテレビ取材における事故について、証言をする立場にあり、追求する立場ではないと思っています。
  しかしR氏の死は運・不運の問題ではなく、私自身の問題として受け止めています。また同じような事件を、より悪い形で繰り返さないためにも、取材を業とする者として、この事件から学ぶべきこと、改めるべきことをくみ取っていくべきだと思っています。

  昨年(1998年)、ペルー領アマゾンで早稲田大学探検部の学生が二人、殺害されるという事件が生じました。この時、探検部は二人が行方不明とわかった段階で、捜索のため部員を現地に派遣しており、後に大学当局も調査員を送っています。
  いっぽう残念なことに日本のテレビ局と番組制作会社は、大量消費・大量廃棄時代にふさわしい番組作りに貢献するばかりです。大手テレビ局によるヤラセ事件発覚の時のように、新聞などの別のマスコミにたたかれでもしない限り、現地のスタッフの人命まで奪うことになった事件を検証するという回路を持っていないのが現状です。

  R氏にはブラジル人の奥さんがおり、まだ幼い二人の子供を残しました。事故の起こる前夜、同行したブラジル人のカメラマンに「もう疲れた。この取材を最後にして、日本のテレビの仕事から足を洗う」とこぼしていたといいます。

  私はかつて、日本でドキュメンタリー番組専門の制作会社に番組ディレクターとして勤めていました。フリーとなってブラジルに移住して数年してから、すべてひとりで現地取材を行なうようになりましたが、それまでは何人かのスタッフを組んでの取材班のディレクターとして、いわば取材の現場監督をしていました。
  当時をふり返ると、さすがに人を殺した覚えまではないものの、結果的に人間以外の動物を殺してしまった暗い過去を持っています。
  それが上司やら会社からの指示に従った結果だという弁明はできても、私が現場責任者だったという事実からは逃れることはできません。
  第二次世界大戦の時の、日本のBC級戦犯のことを思い出します。天皇や大本営の命令ということで連合軍将兵の捕虜などの虐待や処刑を実行し、日本の敗戦後に連合国側の裁判でその罪を問われ、多くの人たちが死刑にされてしまいました。

  ひとりで全責任を負って取材をするようになってからは、虫一匹でも撮影そのもののためにアレンジして殺したりはしないつもりにしています。
  取材というものは、人命を奪うことはなくても、社会的に弱い立場の人たちの心や誇りを著しく傷つけることがあります。
  例えば「ブラジルの日系人はこうあるべきだ、こうだったら面白い」といったような日本の視聴者の期待に合わせたり、深く取材をしない制作者の勝手な解釈によるナレーションが、取材された人を困らせた例はいくらでもあります。
  現地でいいかげんな約束をしておいてそのまま日本に立ち去ってアッカンベーをする、それがバレそうになると「なにせ忙しいもんで…」とトボけてまたごまかそうとする、などというケースは枚挙にいとまがありません。
  けっきょく取材という「大義名分」に快く応じた善意の人たちがバカを見ることになってしまいます。
 「人のフリみて我がフリ直せ」といいます。「人を犯す取材」ではなくて「人を癒す取材」を心がけていきたいと思うばかりです。

  以前にもお話しした日本のNHKのドキュメンタリー取材で、思わぬハプニングがありました。
  昨年、ブラジルでの私の取材活動そのものをNHKの取材班が取材するという、ちょっとややこしい取材がありました。私は一ヶ月あまりにおよぶ日本からの取材班のブラジルでの撮影に、ある時は「主演男優」として、またある時は案内人としてお付き合いをすることになったのです。

  取材の行程もおしせまり、サンパウロの町のさまざまな情景の撮影をすることになりました。こうした撮影は簡単そうにみえますが、毎度おなじみの景色では芸がありませんし、天候や時間帯、取材許可申請やら強盗対策など、意外と手間のかかるものなのです。

  東洋人街の撮影のついでに、三重県橋の上からサンパウロ市東部の街なみと橋の下のラジアル・レステ大通りの車の流れを撮ろうということになりました。
  取材班のメンバーは日本から来たNHKのディレクターとカメラマン、「主演男優」の私、そして日系人のRさん(奇しくもアマゾンで亡くなったR氏と同じポルトガル語名です)の四人です。
  Rさんは十五年以上前、私が初めてブラジル取材に訪れた時に通訳を勤めてくれ、それ以来、親友としてつき合っています。
  Rさんは現在、鍼灸師と翻訳業が本業です。今回の取材では内容にデリケートな部分があったため、私の気心の知れたRさんにお願いして、いろいろと手伝ってもらっていました。
  Rさんは風貌もユニークですが、取材業のプロではないので、なかなかユニークなチョンボをかましてくれたり、いっぽう思いもよらない大ヒットを飛ばしたりと、予断を許さないハプニングを招いてくれました。

  取材開始早々のことです。私が懇意にしている八十三歳になる日本人のT子さんのお宅を訪ねて、サンパウロ近郊の町に取材班で出向きました。
  あまり治安のいい町ではないので、RさんにはT子さんの家の庭にスタンバイしてもらい、予備の機材を積んである自動車の番をしてもらうことになりました。さてTさん宅での撮影にひと区切りがついて、カメラマンがバッテリーやビデオテープを補充しようと表に出ると、Rさんは車のカギごと失踪していたのです(彼は近くのバールに行っていたのでした)。
  ようやく戻って来たRさんは、さすがにNHKスタッフと私の険悪な表情を察したようです。私もNHKにRさんを紹介した手前、プロの鍼灸師である彼にお灸をすえざるをえないところでした。
  するとT子さんが「あなたも外にいないで中に入りなさい」とRさんを招き入れたのです。私がRさんの「本業」を紹介すると、T子さんは「最近、右手の親指が痛くて…」ともらしました。
  RさんはT子さんの右手を自分の手にとり「ちょっとヤイト(お灸)をしてみましょうか?」と申し出たのです。Rさんはさっそく携帯の鍼灸セットを取り出しました。
  T子さんの痛みは一回のヤイトで見事に消えてしまいました。T子さんは手を合わさんばかりの喜びようです。
  思わぬ形で「人を癒す取材」となってしまいました。

  さて三重県橋での撮影に戻ります。治安のよくない場所なので、三脚を構えて撮影するカメラマンを残りの三人でガードする、という体制をとりました。
  近くを見やると、カメラ位置から数メートル離れたところで、三十代くらいのブラジル人が橋の欄干から上半身を乗り出すように、もたれかかっていました。
  いきなり男がカメラの方に襲って来るかもしれません。私が警戒の目で男を見ると、いかにもシケた陰気なツラ構えをしています。
  これはドロボーというより飛び降り自殺でもしかねない輩だわい、とやや安心しながらも男の動向に注意していました。
  すると男は何かを乞うような、おびえるような眼差しで私をみつめるのです。そして体を欄干の外に乗り出しました。
  こりゃ本物の飛び降り自殺です。
  しかしこうした事態が突然、目の前で進行すると、かえって現実感がありません。
  男はいつでも飛び降りOKの姿勢をとっているものの、最後の踏ん切りがつかないのか、そのまま静止しています。眼下のラジアル・レステ大通りは片側五車線、車の流れは絶えることはありません。高さはおよそ十五メートル。
  どうしよう? こういう時はポルトガル語でなんと言ったらいいんだろう? 日本語でだっていいセリフが浮かびません。
  ただでさえ私は迷惑なほど大声ですし、トンチンカンなポルトガル語ではかえって相手がひるんで手を離してしまうかもしれません。
  NHKのふたりも事態に気づいたものの、なす術がありません。
  それにしてもNHK取材班のすぐ横で身を投げられても、NHKの衛星放送のニュースにもならないでしょうし、「主演男優」の私は一生、後味の悪い思いをするでしょう。

  するとRさんがいつものようなニタニタ顔で男に近づいていきました。私たちは男を刺激しないように、そっと事態を見守るばかりです――。
  以下の会話は後にRさんから聞いたものです……
  R「やぁ、どうだね、景気は?」
  男「最悪だね。それにしてもオレは臆病だ、死ぬこともスンナリできやしない――」
  R「なんだ、こんなところでやるつもりかい? 下で子供連れの車にでもブチ当たって関係のない子供でも巻き込んだらどうするね?」
  男「それは避けたいな。アパートでガスでやろうとも思ったんだけどね――」
  R「それもグッド・アイデアとは言えないよ。他の住民を巻き込んじゃうじゃないか」
  男「そうなんだよ。ああ、それにしてもオレは臆病だ――」
  R「どこか自然のなかでやったらどうだい? 森のなかなんて、いいと思うけどね」
  男「森のなかか。フム、それは悪くはないな――」
  こんな話をしながら、Rさんは近くで路上駐車の車番をしていた若者に手まねで知らせ、彼に警察に通報させました。
  まもなく私服の警官が二人、「世間話」を続けるRさんと男の背後に忍び寄り、無事、男を取り押さえることが出来ました――。
  一件落着、NHK取材班の目前での投身自殺はRさんのファインプレーで防ぐことができました。
  これはひとえにRさんの功績ですが、彼も取材班の一員でしたので、思わぬ取材班の「人命救助」ということになったわけです。
  とんだハプニングのお話をしましたが、取材行為そのものが命をいとおしむことを大前提としていきたいものです。

――とか書きながらも、私はいま、自ら関わってしまった「土地なし農民」と大農場の用心棒たちとの紛争事件の記録をまとめようとして現地にひとりで通い続け、家族らに心配をかけ続けている始末です。

Bumba No.3 1999年

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com