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パタゴニアと言へば

岡村 淳



 「武蔵野と言へば、かこたれぬ」、こんな一節が平安時代の古典文学『伊勢物語』にあったように思います。
 「京の都から、はるか東の彼方の武蔵野の地を思いやると、自然とため息が出てしまう…」受験勉強時代を思い出しながら現代語訳をすると、こんなところでしょうか。
  パタゴニアの旅から戻って、すでに一年半になります。その後も私はいろいろな旅を続けながら、はるかパタゴニアの大地を思いやっては今日もかこたれ続けています。

  2001年1月、在ブラジルの植物学者、橋本梧郎先生のパタゴニアへの調査旅行に私はビデオカメラをかついで同行しました。
  この成果を昨年の大半を費やしてまとめ上げ、『パタゴニア 風にそよ ぐ花 ―― 橋本梧郎 南米博物誌』と題した長さ2時間3分におよぶビデオ・ドキュメンタリーを完成させました。
  自主制作のビデオのため、まだあまり多くの方々の目に触れてもらっていませんが、ご覧いただいた人たちからは確かな手応えをいただいています。
 「驚異!です。私の住む地球にこんなところ、こんな植物があるの!…」
  今も日本からこんな感想が届きました。
  経済的にはいまだ赤字のままの仕事で私の生活は苦しくなる一方ですが、ビデオの出来は橋本先生ご自身にもお気に召してていただけたようで、まあいいかな、と思っています。

  南米大陸の南、南極に近い南緯40度以南、と「南」尽しの寒い一帯がパタゴニアと呼ばれています。面積はおよそ日本の3倍におよび、大西洋側はアルゼンチン、そして太平洋側はチリの領土となっています。
  大航海時代以降にパタゴニアを訪れたヨーロッパ人たちは、この地を「呪われた不毛の大地」「地上最悪の地」などと称してきました。金銀やダイヤモンド、香木や野生動物の皮革などを収奪するという目的では、パタゴニアは決して豊かな地とは言えないでしょう。
  しかしパタゴニアには、そうした物質的な価値を超えた何かがあるのです。

 「進化論」で知られるチャールズ・ダーウィンは、19世紀にイギリスの軍艦ビーグル号に乗って南半球の世界一周をしました。その後のダーウィンは再び大旅行に出ることはなく、余生をイギリスの地方でひっそりと過ごします。その間に記した『ビーグル号航海記』の最後にダーウィンは「私の心に深く印象を与えた風景」として、パタゴニアをあげています。
  ダーウィンがビーグル号で訪れた所で今日、観光名所として有名な場所をざっと記すとブラジルのフェルナンド・デ・ノローニャ島にサルヴァドール、リオデジャネイロ、そしてガラパゴス諸島にタヒチ、さらにニュージーランドにオーストラリア、インド洋の島々と結構づくめの地名が並びます。そのなかで彼はパタゴニアを筆頭にあげているのです。
  ダーウィンはパタゴニアについて「この平原はあらゆる人から、みじめな役に立たぬものと宣言されるところのものである」と書く一方、「過去の像を呼びおこせば、パタゴニアの平原が、しばしば眼の前に浮かんでくる。(中略)そしてこの事情は私だけに独特なものとはいわれない」と述べているのです(いずれも岩波文庫『ビーグル号航海記』島地威雄訳より)。

  最近、私は日本でこのダーウィンの持説を裏付ける体験をすることになりました。
  私はこの半年ほど、日本から南米に到着して今年で40周年を迎える、ある移民船の関係者を訪ねる取材を続けてきました。その移民船の監督官だった人が日本でご存命であることがわかり、ご自宅にうかがった時のことです。
  その人は80代のご高齢に加えて病気静養中でもあり、お話しをしているうちに記憶にいささか障害がおありなことが察せられました。
  その移民船の航海で印象的だったことをたずねると、パタゴニアの氷河が崩れ落ちる光景だとおっしゃるのです。
  件の移民船は日本を発った後、太平洋を横切ってパナマ運河経由で南米に向かいました。ブラジルではベレンやサントスなどに寄港してブラジルやボリビアへの移住者を下船させ、最後にアルゼンチンのブエノスアイレスでアルゼンチンとパラグアイへの移住者をおろしました。帰路はほぼ同じルートを通って日本に戻っているので、この船の航路からパタゴニアの氷河を見ることは考えられません。
  この人は後にアルゼンチンの大使館にも勤務したことがあるそうで、おそらくその時期にパタゴニアを観光で訪れて、有名な氷河の崩壊を見物したのでしょう。その時の記憶を混同しているようです。
  さて私は話題を変えて、この人に今も南米で活躍する移住者の方々へのメッセージをお願いして、それをビデオで録画させてもらうことにしました。 「皆さん、お元気で何よりです…私もどうにかこうにか生きていますけども、昔の面影はありません…あのパタゴニアの氷の落ちる光景は勇壮でしたね。それが今でも印象に残っています。唯一の思い出です…」ここまで言い終えるとその人は深く瞼を閉じました。
  人は生涯を終えようとしている時、どんな風景を思い描くのでしょうか。
  パタゴニアはいわば臨死体験の光景を、訪れた人たちにかいま見せてくれるのかもしれません。

  橋本梧郎先生はパタゴニア行の前年に体調を崩され、周囲からは高齢の先生が、もはや現場の調査に出ることは無理だという声も聞かれました。
  しかしなんとか体調を持ち直した橋本先生は、ぜひとも青年時代からの夢だったパタゴニア行を果たしたいとおっしゃいます。
  88歳の誕生日を目前に控えての強行軍でした。

  パタゴニアへの旅を前に、私はさまざまな文献や映像をチェックしながら、どんなドキュメンタリーを作るかの構想を練りました。
  日本のテレビで放送されたパタゴニア関係のドキュメンタリー番組をいくつか見てみました。同業者の目から見ると、いずれも初めにテレビの方の都合や事情があって、それに合わせてタレントなり作家なりをパタゴニアくんだりまで出向かせて、テレビ的な見せ場作りに苦労していることがうかがえます。つまり登場人物がその地を旅行なり探検なりをする強い動機と必然性がうかがえないのです。
  すでにこうしたテレビ番組作りを卒業(落第?)したつもりの私は、その旅本来の目的そのものに沿ったドキュメンタリーを作ることを心がけました。ビデオ撮りの都合にあわせて橋本先生や現地の人たちにああしてくれ、こうしてくれとお願いすることを極力避けて、あるがままに起こっていくことを、素直にかつ丁寧にフォローしていくという方針です。
  また私自身、学生時代には日本で考古学や民俗学などのフィールド・ワーク(野外調査)に数多く参加していました。ドキュメンタリー作りの仕事を始めてからはさまざまな分野の専門家のフィールド・ワークに同行させてもらって、いろいろな現場調査のドラマチックな面白さを堪能してきました。
  そうしたフィールド・ワークの持つ胸ときめく知的な面白さと感動を、専門家のみならず、さまざまな人たちに開放して共有してもらうようなドキュメンタリーを手がけてみたい、とかねがね思っていたのです。

  私にとってドキュメンタリー作りにおいて最も大切で、かつ最も苦心するのは、取材の対象となる人との人間関係の構築です。
  橋本梧郎先生は清貧の生活を続けながらも、自分の信念をひたすら貫いてきただけあって、なかなか手強いお方です。いっぽう私は1996年に数ヶ月をかけて橋本先生のこれまでの歩みを取材させてもらって『花を求めて60年・ブラジルに渡った植物学者』と題して日本のCS放送の番組(朝日ニュースター「ビデオ・アイ」)で発表しています。最初の頃は緊張の連続で私なりの努力もありましたが、その後も取材を離れて先生とのお付き合いは続いています。新たな取材に入るうえでの人間関係は「現状維持」を保てばいいわけで、この点はだいぶ気が楽でした。
  パタゴニア植物旅行の段取りは、橋本先生の弟子で私の親友でもある薬草研究者の井ノ上俊介さんが行ない、ビデオの企画も井ノ上さんの肝いりで実現することになりました。
  地の果ての『臨死体験の大地』、老移民植物学者の執念の旅、そして被・取材者と制作者との信頼関係といった、望ましいドキュメンタリーを作るお膳立てはそろいました。
  さてその結果は?
  橋本梧郎先生の渾身のフィールド・ワークを通して、パタゴニアは『臨死体験の大地』であることを超えて、『再生の大地』でもあることも教えてくれました。
  ぜひビデオそのものをご覧いただき、私の駄文では伝えきれない数々のことを感じていただけたら、と願っています。

Bumba No.17 2002年

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