[岡村淳 ブラジルの落書き HOME] [星野智幸アーカイヴズ]


NHKが来た!

岡村 淳



  昨年(1998年)、私にとって思いもよらない事態が発生しました。
  日本のNHKから、ブラジル移民90周年にちなんで「岡村サンの取材活動を通して、岡村サンが記録を続けている埋もれたブラジル移民たちを紹介する」ドキュメンタリー番組を制作したい、という打診があったのです。

  ブラジルに移住して、ひとりでビデオ・ドキュメンタリを制作するようになってから、私は作品を発表する場にあまり恵まれているとは言えない状況にいました。
  しかし自分で自作を売り込むようなガラでもなし、そもそも私は以前、日本で民放のドキュメンタリー番組を制作していた体験から、視聴者の数というものに、さほど興味を示さなくなっていたのです。
  大手民放で私がディレクターを務めた番組を放送していた頃には、視聴率から単純計算をすると、日本の住民の十人に一人以上が私の番組を見ていたはずでした。それでも放送後に電話一本、ハガキ一枚の反響もないことが常だったのです。
  何千万人もの目に触れながらも何の余韻も残さずに消え去っていく番組より、たったひとりの人間でもその人に深い感動を呼び起こす作品をつくりたい、と思うようになった次第です。
  そんなわけで相手がイギリスのBBCだろうと日本のNHKだろうと、私としては友人の結婚式のボランティア撮影を引き受けるのと同じボルテージで臨むつもりで、気に入らなければ降りるだけのこと、おごらず、かつ卑屈にならずに、といった心構えでした。

  私は自分の取材対象を特にブラジルの日本移民に限っているつもりはないのですが、ブラジル移住後の作品を振り返ってみると、半数近くはブラジルの日本移民をテーマにしたものでした。
  私がフォローした移民たちの多くの共通した点は、ナントカ会の会長さんとか、日本政府の勲章といった名誉や、牛何万頭・資本金ナンボといった財産にはあまり縁も関心もないものの、地域の社会的に弱い人たちから尊敬され、ブラジルで築いた家族たちに愛されている、ということでした。
  私の作品のそうした移民像が、ブラキチを自認するNHKの若いディレクターの心をとらえたのです。
  さて、NHKの今回の番組のために、岡村がこれまでに取材してきた人の中からどの人たちを取り上げるかを煮詰めていくことになりました。
  そして、天下のNHKのご光臨ということで、ちょっとトンチンカンな事件が一部の人たちとの間で生じてしまいました。
  二つの事件をご紹介しましょう。

 @ 暴走するコロニア芸能人
  日系社会の芸能人として知られるAさんの例です。私はAさんを主人公とする番組を二回、まとめたことがありました。
  私との打ち合わせと下調べのために、日本からNHKのプロデューサーとディレクターがサンパウロにやって来ました。
  その時、岡村がサンパウロで今も親交のあるお年寄りの移住者の方々に何人かお会いしたい、とのことで、Aさんにも声をかけてみたのです。
  NHKの人が会いたい、とお伝えした時のAさんの興奮は尋常なものではありませんでした。
  しかし私としては今後、Aさんを積極的に取材するつもりはなかったのです。Aさんはもう何年も同じ題目の出し物ばかりをされていました。新作に取り組むようにと私が資料などを提供してアドバイスをしても、Aさんは無難なマンネリの出し物を続けるばかりで、新境地を開こうとはしませんでした。
  いっぽうNHKのロゴ入りの名刺と記念品を直接NHKスタッフから手にしたAさんは、もう有頂天です。
 「で、撮影はいつになりますか?」
  とAさん。
 「ボクは、Aさんが新しい出し物に取り組んでくれなきゃ、もう撮影する気はないですよ」と私。
 「アンタじゃなくて、NHKサンの方だよ」
  NHKの方では誰を取材対象とするかの調査段階であること、そしてあくまでも岡村が取材を継続中の人を対象とすることを、NHKのディレクターは懇切丁寧にAさんに説明したのですが…。
  数日後、Aさんから私に電話です。
 「NHKの撮影となるとヨ(自分)もおかしなのを助手に使えないから、可愛い二世の女の子にNHKが取材に来るからって助手を頼んだのヨ。そしたらOKしてくれて…」
 「でもNHKから正式に取材するって言ってきたんですか?」
 「そりゃまだだけど、準備をしておかなきゃね。なにせNHKだもんねェ」
  それから間もなく、下調べから日本に戻った気配り豊かなNHKのディレクター氏からAさん宛に、礼状と記念写真が届いたのです。後で確認しましたが、簡単な礼状で、Aさんを取材したいというようなことは全く書いてありませんでした。
  Aさんの方はもう止まりません。この写真を持ってサンパウロの日本語新聞各社を訪問したのです。
  そして一紙にこんな記事が出ました。
 「ブラジル移民90周年を記念してNHKが6月にAさんを取材に訪問の予定――」
  これを知って、私以上にNHKのディレクター氏が頭にきてしまいました。
 「まさかオカムラさん、Aさんにウチが取材するなんて言ってないですよね?」
 「言うわけないじゃないですか。そっちこそソレを匂わすようにもとれる手紙は送ってないでしょうね?」国際電話がはずみます。
  結局、私がディレクター氏をなだめる役にまわりました。
 「まあブラジルの邦字紙にこんな誤報が出ても、読者に迷惑がかかることもないでしょうし、傷ついたのはアナタとボクぐらいですから。Aさんをご紹介したボクも責任があります。もちろんAさんがここまで暴走するとは思いませんでしたけど――」
  ディレクター氏は、ブラジル日系社会における「NHK」の三文字言葉の 威力に、心底たまげてしまいました。

 A 呼んでくれるな、おっ母さん
  これまでの取材が縁で知り合った日本人一世のお年寄りから、昼食の集いやお茶飲み会などに誘われることが、しばしばあります。
  車で送っていけ、こないだの写真をもっと焼き増せ、訪日する時は日本のダレソレに荷物を届けろ、ウンヌンと私は便利屋扱いされがちです。
  もはや取材には結びつかないのに、なんでアカの他人のジジババのおもりをしなけりゃいかんのか、と嫌気がさすこともあります。
  それでも「アンタが来てくれてホントにうれしい」などと手を取られて感極まって言われると、そう悪い気はしません。そしてこんなご奉公の積み重ねから、移民史の表層には出てこない埋もれた人間模様を掘り当てることもあるのです。
  B子さんとはそんな集いで出会いました。小学校一年生の時に両親に連れられてブラジルに渡った彼女は今や70歳、未亡人です。
  B子さんは自分の人生を自作の歌と語りで茶飲み仲間に披露する、という特技を持っていたのです。同様の苦労を味わった仲間の笑いと涙を誘いながら、座を盛り上げていきます。
  普通の女性が自らを語る移民史というのはあまり残されていません。
  私は何かの機会にまとめたいと思い、一昨年からB子さんの歌と語りの撮影を始めていました。
  さてB子さんの記録をまとめるとなると、彼女の日常生活や、子供や孫たちが集まってのフェスタ(パーティ)などをぜひ盛り込みたいところです。
  B子さんに何度となくそうした撮影のお願いをしたのですが、「忙しい」という理由で、いつも先送りにされていました。
 「お手伝いはしてもジャマはしないようにしますから、忙しくされているところもゼヒ撮影させて欲しいのですが――」と説明し、私の作品のビデオテープも差し上げていたものの、私の行なう記録活動をよく理解していただけないようで、私の方も行き詰まっていたのです。
  さてNHKのディレクター氏は、このB子さんに食指を動かしました。B子さんの仲間うちでの歌と語りは岡村がすでにかなり撮影しているので、岡村がB子さん宅を訪ねて、B子さんの個人史をインタビューするシーンをNHK取材班が撮影しようという計画を立てました。
  これまで岡村がお願いした時には「忙しい」の連発だったB子さんも「NHK」の三文字でスケジュールが豹変し、いつでもOKとおっしゃいます。
  私には、ある懸念があったのでディレクター氏自らに直接B子さんに電話をしていただき、  「B子さんのお話をじっくりうかがいたいので、他の方々には声をかけないように――」と念を押してもらいました。
  約束の日、私はNHK取材班に撮影されながら、私流のふだんの取材スタイルでB子さん宅を訪ねました。
  私の懸念が当たってしまいました。B子さん宅の応接間にはB子さんの仲間のうちでもウルサ型の婆様方が、NHKのど自慢に出場するような衣装で待ち構えていたのです。
  岡村がB子さんにカメラを向けて話を聞こうとすると、婆様方はそれをさえぎって身を乗りだし、写真やら手紙をかざしながらそれぞれが勝手に自分史を語り始めました。
 「主役」の面目を奪われたB子さんは、自分が声をかけた友人たちと岡村を無視して、直接NHKのカメラに向かって自作の歌と踊りを演じ始めたのです。婆様方はそれに負けじと音量を上げて、岡村の理解と限界を超えた話をがなり続けます。阿鼻叫喚の世界でした。こんなシーンが番組で使えるわけがありません。

  ハプニングはいろいろとありましたが、NHKクルーと私はめげずに耐えてブラジル各地をまわりました。
  番組はNHK―BS1(衛星第一放送)の「日曜スペシャル」という一時間の番組で「第二の祖国に生きて 映像作家が記録したブラジル移民」というタイトルで昨年(1998年)8月に放送されました。
  さて「NHKだろうが何だろうが」とタンカを切って挑んだ私ですが、内心は「天下のNHKでの放送だから」番組を見た人のなかから、例えば志あるご老人から「このオカムラさんの記録活動にゼヒ私の遺産○億円を使って欲しい」、あるいは妙齢の女性から「オカムラさんとゼヒ個人的にトクとお話ししたい」という申し出でもないかと夢想したのですが、そんなボロい話は「今のところ」ありません。
  見事に何も変わらず、私は再びもとのビンボーひとり取材の日々に戻っています。

Bumba No.1 1999年

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com