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北朝鮮的現実 ブラジル的現実

岡村 淳



  読者の皆さん、最近、犯罪に遭いましたか?

  ブラジル移民となって15年ばかりになる私ですが、昨年(2002年)末、久しぶりにやられてしまいました。
  サンパウロに暮らす家族と土曜の午後、近くのシュラスカリア(ブラジル式焼き肉屋)にマイカーで向かいました。車のキーを店の車番のオッサンに預けます。家族で限界まで肉を食べて勘定をすませ、再びオッサンに車を取り寄せるように頼んだのですが……。
  キーを持って岡村号を駐車させた場所に行って戻ってきたオッサンの褐色の顔から、血の気が引いています。ない、と言うのです。
  やられてしまいました。

  店主は自分も数ヶ月前に車を盗られたばかり、とのことで、うちの車が保険に入っていなければ弁償するといいますが、さすがに保険には入っています。いずれにせよ、警察への届け出、盗難証明書の取得などを行なわなければならず、結局、自前の保険でカバーすることになりました。
  店主からは、次回は料金は要らないから、ぜひ家族でまた食べに来てくれ、と言われましたが、さすがに子供達もトラウマになったようで、もうシュラスコは食べたくない、と言います。

  さらに恐ろしいことを知ってしまいました。同じ店に日曜の午後、強盗が入りました。客のひとりが拳銃を持っており、賊と撃ち合いになりました。流れ弾が、父とふたりでシュラスコを食べに来ていた8歳の少女に命中、少女は亡くなりました。合掌。
  サンパウロ 焼き肉食うのも 命がけ

  ブラジルに渡ってからの犯罪遭遇暦を振り返ってみると、すぐに思い出す事件があります。場所はリオ。そしてこの事件は昨今、日本で最も話題の国となっている北朝鮮との奇妙な関係もあったのです……。

  時は1987年。前年に日本のTVドキュメンタリー制作会社を辞めた私は、あこがれのブラジルに渡りました。以前から縁のあった日系二世の女性と結婚し、ブラジル永住権の取得を待っていた頃の話です。
  私が日本で所属していた会社は、都心のビルに映像作品上映用のホールを持っており、ユニークなテレビ番組やドキュメンタリー映画などを公開することで、マニアの間では知られていました。そのホールを、第三世界の映画を専門に上映する映画館にしようという企画が生じたのです。
  そしてブラジルでプラプラしていた私のところにも、南米の映画事情を調べないか、という話が持ちかけられたのでした。
  私は元・映画少年で、高校時代は年に300本以上、映画を観ていたほどですから、ホイホイとこの話に飛びついた次第です。

  その頃、ちょうどリオ・デ・ジャネイロでFESTRIOという国際映画祭が開かれることになりました。こうした映画祭には世界各地から映画関係者が集まり、各国の映画配給会社はそれぞれ宣伝用のブースを開いて、映画の売込みを行ないます。
  さっそく東京の古巣に連絡して、サンパウロからリオまでのバス代と、リオ滞在の最低限の実費をせしめることに成功しました。とはいっても当時の私のポルトガル語の能力は今どころではないお粗末なものでしたので、通訳として家内に同行してもらったのですが、その分の費用はこちらの持ち出しとなりました。

  リオ国際映画祭は、世界的に有名な映画祭ではありませんが、仮にも国際映画祭の体裁を整えていました。審査員には、著名な映画監督や俳優が名を連ねています。
  私の参加した1987年度は、ルイ・マル監督の「さようなら子供たち」とベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラスト・エンペラー」が特別招待作品として上映されました。

  映画祭の会場は、メインとなる五つ星ホテルの他に市内のいくつかのホテルや映画館に分散していました。カネの乏しいオカムラ夫妻は格安ホテルに泊まり、地下鉄とバスで会場を回り、第三世界諸国の映画を中心に観て歩きました。
  メイン会場には映画配給会社のブースがずらりと並んでいます。欧米からの映画関係者は、リオ映画祭を仕事というよりバカンス半分と受け止めているようで、スタイルからして観光客そのもの、商売にも熱が入らないようで、あまりブースにも貼りついていません。
  いっぽう私の目当ての第三世界の国々は、そもそもカネがありませんので、映画祭に出品できれば上出来、人を送ったりブースを開くなど、とてもとても、という感じでした。

  そんな中にひとつ、異質なブースがありました。
  いつも地味な背広を着た東洋人の二人が、じっと控えています。トロピカル・ムードがあふれ、コパカバーナ海岸の延長のような会場で、周囲を拒むような構えのこのブースには、他の映画関係者の人影を見ることもまれでした。
  このブースは、北朝鮮人民共和国の国営映画ミッションのものだったのです。
  北朝鮮映画! 当時、日本ではようやく韓国映画が一部で公開され始めた頃でした。いっぽう北朝鮮となると、情報鎖国の独裁国といったことぐらいしか、一般には知られていなかった時代です。当時から北朝鮮による日本人の拉致があるらしいということは、ささやかれてはいましたが、実情はナゾのベールに包まれていました。
  私も映画少年の頃には、さまざまなイカモノ映画もたしなみ、就職してからもアマチュア映画の予備審査員や、世界各国の映像マテリアルの試写等も業務として行なっていました。そんな私でも北朝鮮映画となると、観たことがないばかりか、見当もつきません。究極の第三世界映画!

 「アンニョンハシムニカ!」
  私は、挨拶ことば程度の朝鮮語のたしなみがありましたので、妻と共に意を決して北朝鮮のブースに乗り込んで話しかけてみました。
  背広にネクタイの二人は、まさかリオで母国語を聞くとは思わなかったようですが、二人から好意的な表情を読み取った私は、次に続く朝鮮語のボキャブラリーがありませんので、英語に切り替えてみました。
 「英語を話しますか?」
  何を言ったのかはわかるようで、二人とも首を横に振って「ノー」といいます。
 「ポルトガル語かスペイン語はわかりますか?」
  ポルトガル語に切り替えて聞いてみますが、同じ答えです。
  おいおい、英語もポル語もスペイン語もノーで、国際映画祭に何しに来たんかい、と思いつつ、朝鮮語で話しかけてくる二人に、ほとんど忘れていた朝鮮語のボキャブラリーを駆使してみました。
 「私ハ日本人デス。朝鮮語ヲ少シダケ勉強シマシタ」
  あとは笑顔ですが、これでは進展がありません。
  そこで思いついたのが、漢字による筆談です。
 「我日本人。在BRAZIL……」などと漢字にアルファベットを混ぜての自己紹介です。いっぽう家内が大学で習ったというフランス語で話しかけてみると、年長の方の男性は多少、フランス語のたしなみがあることがわかりました。
  何カ国語もの言葉と文字が飛び交い、ようやくコミュニケーションが成立したのです。

  私が前年までドキュメンタリー制作専門の会社に属し、世界各地で取材をしてきたことを伝えると、先方もかなりの興味を示してきました。
  私の目的はあくまでも日本での上映を前提とした第三世界の映画の発掘ですので、ぜひ御国の映画を拝見したい、とお願いします。先方も自国の映画の宣伝と販売が目的で、ブラジルくんだりまで来ているはずです。
  すでに私の方は一本でも多くの映画を見るために近場の予定が詰まっていましたので、後日に彼らの映画の試写を約束して、その場を離れました。

  北朝鮮映画。映画としての芸術性や完成度、娯楽性はあまり望めそうにありませんが、ナゾだらけの国で作られた映画ということで、話題性はあるかもしれない、と判断しました。
  しかし何か本能的なヤバさも感じます。私はリオのホテルから日本の友人・知人たちに絵葉書を出しました。
 「……もしオカムラ夫妻が突然、リオから失踪するようなことがあったら、その前に北朝鮮の映画ミッションと会っていたことを伝えて下さい……」
  もちろんオカムラらしいブラック・ジョークのつもりでしたが。

  約束の日時となり、私たち夫妻は再び北朝鮮のブースを訪ねました。
  ブースの中にしつらえたビデオ・デッキとモニターで待望の北朝鮮映画、しかも先方のおススメの一本を試写、とあって緊張します。
  さて……これが、どうもこうもないようなシロモノでした。
  ある北朝鮮の村が、金日成思想のもと、平和な日々を送っています。ところが大暴風雨が村を襲い、村は壊滅的な被害をこうむります。しかし村人は金日成思想のもと、一丸となって復興に尽くし、めでたしめでたしというお話。
  映画としては、見れる水準のものではありませんでした。
  それ以上にショックだったのは、岡村夫妻の横で一緒にビデオを見ていた年長の方の北朝鮮映画人が、映画の後半から感極まって泣きっぱなしなのです。
 「何度見ても、この映画を見る度に泣いてしまうのです。同じお気持ちですね?」
  フランス語で感想を求めてくる彼氏を後にして、とにかく外に出てリオの大気と陽光を浴びたい気持ちでいっぱいでした。
  洗脳というものの恐ろしさを、まざまざと見てしまったのです。

  その後、もう一度、彼らと会う約束をした覚えがあります。再び彼らのブースの前を通りがかった私たちに、年長の方がぜひまたゆっくり話をしましょう、というのです。
  私の懐具合はうすら寒いものがありましたが、せっかく知り合ったんだし、観光もしないで来客もまれなブースにいるばかりの彼らに、大日本帝国時代のお詫びの意もこめて、リオの日本メシかブラジル料理でもサービスさせていただこうかと思った次第です。
  東京の会社には、試写した北朝鮮映画についての岡村の見解をファックスで伝えてありましたので、ことによっては話題性狙いで、北朝鮮映画の購入の可能性について交渉を進めよ、といった指示があるやも知れません。
  正直なところ、彼らにメシをおごっておけば、いずれ北朝鮮国際映画祭でも実施の際は、彼らも東アジア的な礼節を心得ていて、招待でもしてもらえるかもしれない、という甘くスケベな下心もあったことも確かです。

  ところが、再び彼らに会うことはできませんでした。それがなぜだったのかは、私の記憶が途絶えているのです。
  今回、よくよく思い出してみて、わかりました。この時のリオでの、もうひとつの大事件のせいだったのです。
  私が、強盗にやられてしまったのです。

  その日、私はブレザーにスラックスという、リオではかなりフォーマルに見える服装でした。さるブラジルの映画人に会って、私が目をつけた彼の映画の購入の可能性について、話し合ってみるつもりだったためです。
  ガイジンと交渉事をする時は身だしなみを整えること、と日本の会社で仕込まれていました。
  この日も一本でも多くの映画を見るため、家内と共にリオの町を行脚していました。
  タクシー代が惜しまれ、再び市バスに乗った時です。このバスは後部から乗車、中央に座る車掌に運賃を払って前方に進むというシステムでした。
  車掌に料金を払うと、本来は乗客が通り抜けて回転させるロレッタと呼ばれる回転扉を、車掌が自分で回してしまいました。私が前に通り抜けようとすると、もうロレッタが回ってしまったから、後部に座って後部ドアから下車しろ、と言います。このヤロー、日本人をなめてやがんな、と頭にきますが、しかたがありません。

  家内と並んで後部に並んで座って、間もなくの事です。
  後部ドアから二人組の青年の強盗が入ってきました。
  二人は他の乗客には目もくれずに、私のところにやってきます。手にはナイフ。
  運悪くその日はカバンの中にパスポートを持っていました。ホテルの荷物がいじられている気配があったからです。リオの映画祭の後、日を置かずに永住権の手続き等で日本に戻るつもりだった私は、菊の紋章のパスポートを守ることしか頭にありませんでした。

  ……あとは後に家内に聞いた話です。家内は、お金は渡すから何もしないで!と叫び続けたそうです。
  肝心の亭主の方は、ふだんから家族も驚かすほどの大声に輪をかけて、ひたすら、オレはガイコクジンだぞ!何もするな!とわめいていたそうです。
  もちろん先方は、こちらがいかにも外国人のカモと見て、いらっしゃったのでしょうが。
  あまりの大声に強盗もひるんだようですが、私の顔面にパンチを食らわし、私の死守するカバンを引きちぎって、中にあったポケット・カメラと、私の腕時計をかっさらって後部ドアから去っていったのでした。
  運転手もグルだ、車掌もグルだ、と疑わざるを得ない事件でした。

  私はその時、観光ビザでブラジルに入国していました。日本国旅券に日本国外務大臣の名でどんな文句がうたわれているかは、皆さんご存知でしょう。
  日本国民が外国で犯罪に遭遇したのですから、私は国民の義務として、在リオデジャネイロ日本国総領事館に連絡しました。
  その時の領事館職員の、実に不埒な態度については、紙面を改めてご報告しましょう。
  その前に私が失踪したら、犯人は……。

  数日後、顔を腫らせながら再び映画祭のメイン会場を訪ねると、すでに北朝鮮映画のブースには人影がありませんでした。
  こうして私の北朝鮮行きは、淡い夢に終わったのです。北朝鮮行き……。招待で、それとも拉致で?

  最近の報道で、北朝鮮の金正日総書記が映画好きだという理由により、1978年に韓国の映画監督を拉致して、北朝鮮で映画を制作させていたことが明らかにされています。
  いっぽう私が北朝鮮の映画人とリオで接触した1987年には、映画祭の後、北朝鮮の工作員による大韓航空機の爆破事件が生じています。

  あの二人の北朝鮮人は、本当に自国の映画の宣伝のためにブラジルにやって来たのか。
  そしてあの時、私が強盗に遭わなければ、彼らとの間にどんな「友情」が芽生えていたのか……。

  おめでたくも自分が関わってしまった現代史の断面に、慄然としています。

Bumba No.19 2003年

岡村さんへのメールは
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