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ゲテモノ蠢(うごめ)く夜

岡村 淳



  年末年始や夏休みなど、日本の長期休暇の時期には、集中してさまざまな人たちがブラジルを訪ねて来ます。
  取材に限らず、いろいろな縁で知り合った方々がサンパウロに立ち寄るとなると、私もお付き合いをさせていただくことがしばしばです。
  今年(1999年)の正月にも、何人か日本からの珍客をお迎えすることになりました。市民活動家、人類学者、沖縄の西表(いりおもて)島で林間学校を営む先生などユニークな顔ぶればかりで、こうした人たちのお相手を我がホームグラウンドのブラジルでできるのは喜びだと思っています。

  西表島の先生とは今回、初めてお会いしたのですが、西表と聞いて私は郷愁の思いにかられてしまいました。
  1980年代半ばのことです。日本でドキュメンタリー専門のテレビ番組制作会社に勤めていた私は、すでに3年連続でアマゾンの長期取材を手がけていました。そして自分の関心や発想も、だんだんとアマゾンやブラジルに傾きがちになっていた頃です。
  そんな私に日本国内で取材を手がけるよう、社命が下りました。猶予はありません。苦しまぎれに書店で科学雑誌をひもといていて、西表島の天然記念物・イリオモテヤマネコに魅せられて現地に移住したという若手写真家の記事が目に止まりました。
  私は他にも西表島でフィールドワークをしていた生物研究者を、何人か知っていました。そもそも私には南方志向があり、沖縄へのあこがれもありましたので、この記事に登場する写真家の方にも参加していただけるような西表島についての企画をたててみることにしたのです。

  私はテレビ・ドキュメンタリーの仕事をするようになってから、社命によってナメクジ、サソリ、クモといったような、いわゆるゲテモノの取材を主に手がけていました。ブラジルの取材でも最初は毒ヘビ、吸血コウモリなどの、どちらかというと嫌われ者の生物の取材が中心だったのです。こうした経験から、小動物の扱いには多少の心得がありました。
  さてアマゾンあたりで生物の取材をする場合、地域は広大で、しかも動植物の種類は無数にあるので、わりと簡単に面白いものができるとシロウトさんは考えがちです。
  しかし「生物の宝庫」アマゾンの熱帯林に実際に入ってみても、姿は見えない鳥の鳴き声が聞こえる程度で、近くの樹木や地表をくまなく探してみてようやく見ばえのしないアリさんがみつかるぐらいのものです。
  アマゾンの「黒い絨毯(じゅうたん)」軍隊アリの群れはどこだ! 牛をも呑み込む大蛇アナコンダはどこだ! などと勇んでみても、まずお目にかかれるものではありません。
  現地の研究者の協力をあおがなくては、まともな生物モノの取材は不可能だということを、私はそれまでの失敗から痛感していました。しかしそもそもアマゾンでは研究者の数があまりにも少なく、そのうえ連絡の取りにくい人がほとんどでした。ようやく研究者にめぐり会えても、以前にマスコミの取材で不快な思いをしていて協力を拒否されたり、べらぼうな謝金を要求されたこともありました。いっぽう当時の低予算の番組作りでは、研究者に取材現場まで同行してもらう経費を工面するのも、むずかしい状況だったのです。

  西表島の面積は東京23区の半分ほどで、取材する側にとっては手頃な広さです。
  そして西表島を含む南西諸島は「東洋のガラパゴス」と称されるほどで、ユニークかつ豊富な動植物が生息しています。なかでも西表島はいまだに大開発の魔手を逃れており、島の大半が亜熱帯の原生林に覆われています。
  そして日本のことですから、西表島についてのさまざまな研究者がいて、文献もたくさんあります。そのうえ、ほとんどの研究者とは電話一本で連絡がとれ、貴重な情報をしかも日本語で教えてもらうことができました。
  私は当時、いろいろな生物を紹介しながら、生物たちの棲む自然環境そのものをダイナミックにとらえた番組を作ってみたいと考えていました。
  たとえばアマゾンを例に取ると、大きく分けると舞台は熱帯降雨林に覆われた陸地と、川や湖などのふたつになります。さらに陸地の方は、雨期には浸水して乾期には陸地となるヴァルゼアと呼ばれる低地と、高台のテラ・フィルメに分けることができます。
  しかし予算も期間も限られた取材では、アマゾンの雨期と乾期の違いや、日本の17倍もの広さのある大アマゾンの地理的な全体像などを視覚的にとらえることはできません。
  いっぽう西表島は大きさはコンパクトながら、自然環境はバラエティに富んでいます。島の断面図を想定してみると、海岸にはマングローブ林が分布し、その奥には厚い亜熱帯林が広がっています。その森を貫く川には滝があり、島には鍾乳洞もあります。「星砂の浜」と呼ばれる海岸には、星型の有孔虫の殻が一面に散らばっています。
  こうした自然環境そのものをいとおしむ番組を、本場アマゾン仕込みのノウハウで作ってみようと思いました。
 「日本のアマゾン 西表島を縦断!」この企画はパスしました。私は♪なんてったってアーマゾン、などと当時の流行歌をもじりながら西表島に向かったのです。

  そんな体験もあって、今回サンパウロを車でご案内した西表島の先生とは、マニアックな話題で盛り上がりました。
 「あのミナミコメツキガニの群れは、見ていて飽きないですねぇ」
 「引き潮の時は壮観ですよね。地元じゃ兵隊ガニって呼んでますよ」
  こんな調子で、ヤエヤマオオコウモリ、カンムリワシ、サソリモドキなど、私は旧知の生物たちを十数年ぶりに思い出しながら、彼らの近況を尋ねていきました。
  オオコウモリのオシッコ、サソリモドキの分泌する強い酸の臭いが、ジワジワと記憶の彼方から押し寄せてきます。そしてアクセルを踏む私の脛(すね)あたりに何者かが蠢く感覚がよみがえり、私の体はまさに金縛り状態になろうとし始めました――。

  西表島の取材が始まりました。私が雑誌で知った写真家と共に、島の目玉であるイリオモテヤマネコの撮影に挑みました。エサ場近くにテントを張って1、2晩がんばればヤマネコの撮影はOKとのことでしたが、3晩にわたってねばったものの、ついにヤマネコは現れませんでした。ちょうど彼らの交尾シーズンにあたり、ネコちゃんどももテレビ出演どころではないようだったのです。
  当時、私が担当していた番組は、ただキレイで珍しい景色が写っていて、それにもったいをつけたナレーションをかぶせる、といった安易な手法は許されませんでした。映像自体に動きがあり、力があるシーンを、より多く盛り込むことを要求されていたのです。
  メインのヤマネコが撮れないこともあり、いきおい登場する生物の数を増やす作戦をとりました。こうなると自分の得意なジャンルであるゲテモノたちに頼らざるをえません。

  ディズニーの有名な自然モノのドキュメンタリー映画が、本物そっくりのセットを組んで撮影されたことが知られています。対象の生物にもよりますが、撮影条件の制約のために生物を自然の状態そのもので撮影するのではなく、事前に捕獲して飼い慣らし、撮影用のセットで行なうというのは、よくあることです。
  西表島での取材では、生物全般に詳しい琉球大学の研究生に協力してもらい、取材の後半では役者になりそうな生物、特にゲテモノの調達に奔走しました。
  こうしてムカデ、サソリモドキ、トカゲ、ナメクジなど、魔女のスープの素材になりそうなものをかき集めてはそれぞれをビニール袋やプラスチック容器に収容しました。そして出番がくるまで、取材の基地としていた民宿の、私の部屋の押入れにキープしておいたのです。そして民宿の庭に小さなセットを作って、これらの小物を順番に撮影していきました。

  日中のゲテモノ集めと撮影で疲れ切って、民宿のタタミ部屋で眠り込んでいた深夜のことです。
  私は自分の左脚の上を、何かが這い上がってくる気配を感じました。
  ハテ? 暗闇のなかで頭が少しずつ、さめてきます。何かの生き物です。その長さ、動き方からして私に心当たりがありました。押入れに格納したはずの、長さ15センチにおよぶオオムカデです。
  あのアゴに噛まれたら、毒液による激痛と腫れで、のた打ち回るといわれます。蠢きは左脚を通過し、右脚を登っていました。私は身も凍る思いで、それが右脚から遠のいてくれるのを待ち続けました。
  意を決して起き上がり、電気をつけましたが、すでに相手の姿は見当たりません。押入れをチェックしてみると、予想通りオオムカデを入れて何重にも覆ってあったビニール袋が噛み切られていました。私はそれまでオオムカデを扱ったことはなく、先方にこれだけの脱出能力があるとは思いませんでした。ムカデはすでに部屋のタタミの縁にでも潜り込んだのでしょう。

  私は考えこみました。取材日数は後わずか、追い込み作業の最中で、スタッフは疲労も重なり気が立っています。彼らをムカデ脱獄騒動に巻き込むのは、ディレクターとして気がひけます。いっぽう民宿のおばちゃんに打ち明けたら、あんたらもう出てってくれ、ということになりかねず、私たちは残りのゲテモノたちと共に路頭に迷うでしょう。
  いちばん心配したことは、私たちが立ち去った後にオオムカデが再び深夜の徘徊を始めて、他の宿泊客に噛みついてしまうことでした。
  ちょうどテレビ取材のヤラセ問題が、世間で騒がれていた頃です。有毒生物を安易に公共の宿泊施設に持ち込み、管理を怠ったとして、私だけでなく、番組や会社までもがヤリ弾にあげられてしまうでしょう。

  私は絶望の思いにかられながら、事態を皆に明らかにする前に、一晩だけ自分にチャンスを与えることにしました。そして自分なりに把握してきた生物の行動パターンに賭けてみることにしたのです。
  翌晩のこと、前夜と同じ深夜の3時頃です。私は昨晩と同じ場所で同じ姿勢をとり、祈るような気持ちで横たわっていました。
  来た! 私の左脚を再び無数の脚が這い上がって来たのです。オオムカデは新しい生活環境になじみ始め、同じ時刻に獲物を求めて新たな隠れ家から這い出してきたのでしょう。
  彼が私の体に食指を動かさないことを願いつつ、私の両脚を渡り終えてくれるのを待ち続けます。
  ようやく右脚から蠢きが過ぎ去ると同時に飛び起きて電気をつけ、タタミの上を移動するオオムカデに、枕元に用意してあったバケツをかぶせました。すかさず板を通してフタにしてバケツをひっくり返し、かろうじて事なきを得たのです。

  このオオムカデは、撮影の方でも活躍してくれました。
  10センチ以上あるトカゲを取り押さえてムシャムシャと捕食するという、動きも力もタップリあるシーンを演じてくれたのです。
 「オオムカデ、トカゲを襲う!」しかしこのシーンは、あまりにも気色が悪いという編集者の意見でカットとなりました。
  思えば、私がムカデの餌食になっていたかもしれません。ムカデの餌食にしてしまい、視聴者の目に触れることもなかったトカゲに手を合わせるばかりです。

  こんな騒動をいくつも重ねて、私はもはや生物をアレンジするような取材は止めて、生物でも人間でも、あるがままを観察して撮影をするという方法をとり続けています。

  このオオムカデには、もっと罪なことをしていました。
  ゲテモノ探しの時、大きな石ころをドッコイショと動かしてみて、その下にダンゴムシなどと共に潜んでいたこのムカデを見つけました。その時、ムカデはタマゴをいくつか抱いていたのです。
  隠れ家の石をどけられたムカデはパニック状態となり、這い回って逃げようとするばかりで、再びタマゴを抱くことはありませんでした。そして母ムカデに置き去りにされてしまったタマゴは、かえることはなかったのです。再び合掌です。

 「ムカデの赤ちゃん誕生!」もう私自身が手がけることはないでしょうが、誰かが制作してくれた意欲的な生物ドキュメンタリー番組で、ぜひ見てみたいものです。きっと愛らしく、感動的なことでしょう。
  私が多くを教えてもらいながら、ろくに恩返しもできなかったゲテモノといわれる生き物たちの名誉と尊厳のためにも。

Bumba No.4 1999年

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