[岡村淳 ブラジルの落書き] [岡村淳のオフレコ日記] [星野智幸アーカイヴズ]


冥土 in Brazil
マサコさんとの初体験旅行

岡村 淳



  今回もまた、日本とブラジルを往復していて巻き込まれたユニークな体験を披露しましょう。

  当時の私は、かなり風変わりなプロジェクトを行なっていました。日本は高知にある世界唯一のトンボ専門博物館「四万十トンボ自然館」と、当時、リオデジャネイロ国立博物館の館長だったブラジルの女トンボ博士との交流を仲介しながら、そのプロセスのドキュメンタリーをひとりで制作していたのです。

  私はこの「日伯トンボ交流」のドキュメンタリー番組の、日本での追加取材と編集作業のために訪日しました。東京でテレビ局と作業工程の打ち合わせをしたり、四国の取材のスケジュール調整をしたりと気ぜわしくしている時のことです。
  私が滞在していた東京の実家に、少女趣味の封筒が届きました。住所はM県M町大字沼袋字沢目、とあります。トンボの番組制作に没頭していた私は、いかにもトンボの多そうな湿った地名だな、と思ったものです。差出人は○○マサコ、とありますが、身に覚えのない女性でした。

  手紙によるとマサコさんは、私がサンパウロでお付き合いしている日本移民のKさんの長女のN子さんと親しくしているといいます。ブラジルからN子さんが出稼ぎに来た時に知り合って、仲良しになったというのです。
  ついてはオカムラさんが今回、日本からブラジルに戻る時に、一緒にブラジルに行くことにしましたのでよろしくお願いします、とあります。

  はて、私はブラジルを発つ前に、Kさんに訪日の挨拶の電話はしたものの、細かい日程や便名までは伝えていません。いったい何事だろう、とまずは手紙にあるM県のマサコさんの電話番号に連絡をとってみました。
  マサコさんは声から推測すると、封筒や便箋の趣味からの予想とはかなり距離のある、お国なまりあふれる年配の女性でした。マサコさんは手紙と同じことを繰り返して語ります。
「ブラジルに行かれるのは結構ですが、ビザや航空券はどうされているんですか?」
「それもすべてオカムラさんに一任しますので……」ときました。

  マサコさんのお宅は米作りの農家だそうです。地元の工場にパートの仕事に出た時に、当時、ブラジルから同じ工場に働きに来ていたN子さんと親しくなった、といいます。
「外国に行ったこともありませんし、東京に行ったこともありませんので、どうぞよろしくお願いします」とマサコさんは私に頼むのです。
  そもそも私は、いつも格安の航空会社のさらに格安の航空券を利用しています。この手のフライトは常に出稼ぎ団体などで満席で、私自身の座席を確保するのもひと苦労なのです。その私と同じ便をこれから手配するとなると、ただでさえ本業の取材と編集であわただしいなか、頭が痛くなってきました。

  ブラジルに旅行するための実務的な話をしても、マサコさんの理解をはるかに超えているようで「オカムラさんに一任しますので」を繰り返すばかりでした。しかし4月○日までには絶対、日本に帰って来なければならない、とおっしゃいます。
  私と同じフライトで日本を出て、その日までに帰国するとなると、ブラジル滞在はわずか一週間だけになってしまいます。「絶対」の理由を尋ねると、「田植えが始まりますので、家族と近所に迷惑をかけるわけには行きませんから」ということでした。

  こうして一面識もないマサコさんのために、私は東京と四国からブラジル往復格安航空券と観光査証などを手配することとなりました。
  余談ながら、日本にある中南米専門と銘打った旅行代理店のなかにはデタラメなところが少なからずあることをこの時、痛感しました。応対の態度が不遜極まりないところ、予約が取れたとなると最初に提示した金額に10万円も上乗せして吹っかけるところなど、在ブラジルの一邦人として情けない思いをしたものです。

  いろいろありましたが、マサコさんの航空券は、行きは私と同じ、そして帰りはみちのくの田植えに間に合うように、しかも私も驚くほどの格安で確保することができました。

  出発前にもユニークなエピソードは尽きませんでした。成田に行ったこともない、新幹線に乗ったこともないというマサコさんは「前の日に東京のオカムラさんのご実家にお邪魔させていただいて……」とおっしゃるのです。
  いやしくも私はかなり特殊な仕事のために訪日しています。離日前夜はたいてい、日本の関係者の方々に今回、仕上げたテレビ番組をダビングして、それぞれに手紙を添えて梱包して、といった作業などで徹夜になります。諸々の人へのご挨拶の電話の手間ヒマもバカにならず、自分の荷造りの時間もないほどです。
  初めての新幹線と東京、そして海外旅行を控えて興奮されていらっしゃるだろうマサコさんのおもてなしをするような時間と心の余裕は、まずありません。

  折りしも地下鉄サリン事件の起こった直後でした。東京というのはホントに恐ろしいところだから、早朝、お宅を出られて新幹線と成田エクスプレスを乗り継いで、直接、空港に行かれた方がよろしいですよ、とマサコさんを言い含めました。時刻表を調べて電車の乗り換えの段取りをお伝えするのも私の任務です。
  さて空港でマサコさんと落ち合う時に間違いがないように、彼女の顔写真を送ってくれるよう頼んでおきました。数日してパノラマサイズの写真が郵送されてきました。最近、地元に完成したという巨大な観音像の下に、日本にいた頃のN子さんとマサコさんらしき人が、それぞれ米粒ぐらいの大きさで写っていました。

  初めて飛行機に乗ったマサコさんは、まず機内の広さにたまげていました。機内食が出されると「こんなに食べさせていただいて」と恐縮して手を合わせています。
  徹夜疲れの私がまどろんでいると、マサコさんは臨席の外人さんに「すいません、トイレはどこでしょうか?」と日本語で尋ねています。私は再び恐縮するマサコさんをトイレまで案内して、中から鍵をかけることを忘れないよう、重ねてお願いして席に戻りました。
  機内で映画の上映が始まり、マサコさんは再びトイレに立ちました。ところが映画が終わる頃になっても帰ってきません。心配してあたりを見回していると、客室乗務員に連れられたマサコさんが「ギャハハハハ、サンキュー、サンキュー」と笑いながら戻ってきました。
  マサコさんは先のトイレの向かい側に入ったため、帰り道がわからなくなってしまったといいます。機内をさんざん迷った末、客室乗務員に助けを求めたというのです。
「スチュワーデスさんに、何語で聞いたんですか?」と私。
「そりゃあ英語ですよ」とマサコさん。
「英語で何て聞いたんです?」
「3人がけの席だったから、スリー、スリーって聞いたんですよ」。
  ちなみにこのジェット機のエコノミー座席の両サイドは、すべて3人がけの席でした。

  30時間近い道中の半ば、私もだいぶ疲労から回復して、マサコさんからよもやま話をうかがう余裕が出てきました。
  かつてマサコさんの勤める工場に、日系ペルー人の娘さんが出稼ぎに来たことがあるそうです。日本語がわからず、いつも寂しそうにしている娘さんに、マサコさんはジェスチャーを交えて話しかけました。「私の家に来て、ペルーの料理を教えてくれない?」
  家に来た娘さんにマサコさんは晴れ着を着せてやり、「ペルーの親御さんに送ってあげてね」と写真を撮ってあげました。娘さんはアリガトウを繰り返して泣きじゃくったといいます。
  我々の近くの席に、何とかパックだかの日本人のオバサンがたの団体が陣取り、旅行歴の自慢を大声でかましながら、添乗員をつまらぬことでいびっているのが目に付きます。これらの日本人と、米作農家に嫁いで海外初体験だというマサコさんの、どちらがより国際的だといえるでしょうか。

  さてマサコさんはその後、ブラジルから来たN子さんと親しくなりました。彼女の帰国後、毎週のように国際電話でブラジルに遊びに来るように誘われて、ついに「冥土の土産だと思って」一大決心をして一族の了解を取り、ブラジル行きに挑んだというわけです。
  この時のマサコさんにとってのブラジルのイメージを聞くと「カーニバル、サッカー、マルシア」といったところでした。

  私はできるだけマサコさんのブラジル像を豊かにするお手伝いをしたい、と思いました。しかしその時、折りしも在ブラジルの家内が出産を控えており、その件で取り込んでしまって、残念ながら機中以外のお付き合いをすることはできませんでした。
  後でKさんに聞くと、KさんたちはマサコさんをサンパウロのM県人会、中華料理店、そしてカラオケ店に案内したとのことでした。
  私はマサコさんのご案内を半日だけでもできなかったことを、再び後悔しました。

オーパ No.154 1996年 改稿(2005年5月)

岡村さんへのメールは
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