[岡村淳 ブラジルの落書き HOME] [星野智幸アーカイヴズ]


蚊取りがない

岡村 淳



  私の取材旅行の装備のなかで欠かせないものに、日本から持参した携帯式の蚊取線香があります。
  深夜に耳元であの蚊の羽音にささやかれると、眠気も全く失せてしまいます。私は蚊に悩まされる位なら電気をつけたまま寝たほうがはるかにいいのですが、同室に他の人がいる時や、電気のない奥地ではこうもいきません。

  蚊取線香を知らないブラジル人はけっこう多いもので、私が怪し気な臭いの煙をたて始めると「マクンバ(黒魔術)をやるのか?」と眉をひそめられることがしばしばです。
  我らが日本の除虫菊の効能をポルトガル語で説明するのも面倒くさいので「きれいなモッサ(おねえちゃん)をひきつけるためのおまじないさ」などと言ってブラジル人を煙に巻いています。

  私の日本の友人に世界各地の熱帯地域をまわっている昆虫写真家がいます。彼の体験によると日本のK印の蚊取線香がバツグンによく効くといいます。 確かにブラジル製の蚊取線香は人間サマもまいってしまうような毒々しい臭いがして、あの「日本の夏」といった芳香とは程遠いものです。
  そのため私は訪日の度にあのニワトリマークの蚊取をどっさり購入してブラジルにかついで来ることにしています。
  さて最近、ミナス・ジェライス州のさる日系農場に通って取材を続けています。ひとり取材のため、装備もひとりでバタバタと用意しますので、時折うっかり忘れ物をすることがあります。先回は携帯蚊取を忘れてしまいました。 すると農場の付近でよりによってデング熱(蚊が媒介する伝染病)が流行し始めているといいます。農場の主婦もデング熱の疑いで町の病院で検査を受けていました。
  目が蚊取線香のようにぐるぐる回る思いをしたものです。

  ブラジルでは近年、ミナス州やリオ州からアマゾン流域までデング熱が猛威をふるい、ついに軍隊までが動員されることとなりました。
  軍隊が出動するといってもデング熱の対策はボウフラがわきそうな所の水を除去したりカバーをかけたりといった程度ですから、なにか心もとない気もします。
  蚊やボウフラを退治するために強力な殺虫剤をまくと、今度は他の生物たち、とりわけ蚊とボウフラの天敵であるトンボやヤゴなどまで殺してしまうことになります。
  トンボが健全に生息できる水環境が保たれていれば、デング熱やマラリアを媒介する蚊もコントロールされて大発生は「自然と」防げるのですが――。

  最近ブラジルでは環境保護関係の法律がいっそう厳しくなり、野生動物の国外持ち出しも厳重に取締りが行われるようになっています。
  リオの国際空港からカニグモを持ち出そうとしたドイツ人が逮捕されたという報道もありました。
  クモは昆虫ではないものの、ブラジルは世界の昆虫コレクターにとってあこがれの国です。
  日本にも相当数の昆虫マニアがいて、小金のある昆虫マニアから昆虫業者までがブラジルを訪れています。そろそろサンパウロの空港で昆虫を大量に持ち出そうとした日本人が検挙された、といったニュースが登場してもおかしくありません。

  一昨年のこと、私の所にも先回ご紹介した日本の高知県にある「トンボ王国」を通して日本の若いトンボマニアから連絡がありました。
  子供の頃からあこがれていたアマゾンでトンボを捕りたい、ついては日本からの旅費も含めて「総額三十万円の予算で」アマゾンを二〜三週間まわりたいのでぜひ岡村さんに同行してもらいたい、という問い合わせです。この額では私への謝礼はおろか私のアゴアシ代も捻出できません。それどころか彼一人の費用としてもだいぶ心もとないのです。
  私は日本―ブラジルの格安航空運賃、昨今のブラジルの物価事情と治安事情、そしてこちらの博物館などの正式なルートを通さないと昆虫採集がシビアな状況等々をお伝えしたのですが、その後、何の連絡もありません。
  ブラジルもオカムラもつくづくナメられたものです。毎度のことですが――。

  私にK印の蚊取線香をすすめた日本の昆虫写真家と一緒にアマゾンをまわったことがあります。
  昆虫商の町として世界中に知られる北アマゾンの町、オビドスを訪ねました。
  日本人とみると、さっそく何人もの昆虫の「売人」が交互に近づいてきます。新聞紙にはさんだチョウなどをチラッとみせながら「アグリアス(ミイロタテハ)の珍しいのがあるゼ」といった具合にこちらの関心とサイフの中身にサグリを入れてくるのです。
  町には何人かの昆虫商のボスとその手下、そして大手に入れてもらえない個人の採集人兼販売人までが入り乱れています。それにそれぞれのお得意さんである外国人ルートが絡んでいるのです。昆虫の採集と販売が大きな産業という実に不思議な町でした。大の得意先の国はドイツと日本だといいます。
  現地の採集人の得る報酬がオス・メス一組で六千ドルにもなるチョウもいるといいますからバカになりません。

  近くの森に行ってみると、年端もいかない子供たちが青いモルフォチョウをひきつけるワナをかざしながら補虫網を構えています。家計のわずかな足しにするための労働なのです。
  日本で夏休みになるとデパートなどで「アマゾン大昆虫展」といったイベントが開かれます。そして夏期講習の塾の合間に子供たちがつめかけ、珍虫・奇虫の標本に目を輝かせています。
  学業もおろそかに昆虫捕りにいそしむ現地の子供たちが得た報酬に、ゼロがいくつくらい上乗せられて虫たちは日本に売られたことでしょう。
  アマゾンで生活するために虫を採集する少年と、日本のデパートで小遣いを払ってそれを観賞する少年。昆虫の複眼は両者から何を見取っているのでしょうか。
  現地でも昆虫商のボスたちの暮らし向きは豪華なものでしたが、いっぽう末端の採集人の生活はみじめなものでした。
  私が案内した昆虫写真家は「こうした昆虫採集と昆虫商の存在が博物学の原点であり、研究に貢献もしている」とそれなりの評価をしていました。
  私はどんな虫でも一緒くたに皆殺しにする都市生活者にも納得がいきませんが、こうした虫捕りを商売にする産業構造にもしっくりいかないものを感じました。

  奥地のジャングルで長期間にわたって野営をしながら虫捕りを続ける採集人たちに、いろいろ話を聞いてみました。
 「最近エコなんとかなんて言って世の中がうるさくなってるけど、オレたちは金掘りの連中よりいいと思うよ。金鉱なんぞに行ったらマラリアでヘロヘロになるしな」
  密林を拓いて金採掘を始めると、マラリア蚊のボウフラが好む腐った水たまりがあちこちに生じます。いっぽうマラリア蚊を捕食するトンボのヤゴの生息する着生植物類はなぎ倒されてしまうため、マラリア蚊が異常発生して人々を襲うのです。
  昆虫ハンターである彼らはそれなりにエコロジーを体得していました。当時、私はアマゾンでの金採掘とそれに伴なう水銀汚染問題に関わっていましたので、採集人たちの言うことはナルホドもっともだと思いました。

  チョウやトンボは何百といった単位の数の卵を産みます。昆虫ファンが網を振って成虫を捕えるくらいでは、なかなか種を絶滅するまでには追い込めたものではないでしょう。しかしこれに金もうけという欲望と産業が絡んでくると、ちょっと過激になってきます。
  最も問題なのはチョウの幼虫の食草(幼虫がエサとする特定の植物)のある森を広範囲に伐採して焼き払い、トンボのヤゴが生息する水を汚したり涸らしたりすることであり、これは昆虫を始めとする生物の大量虐殺ともいえる行為なのです。
  どうも生態系へのより正確な認識を欠いたうえで、皮相な「ご都合エコロジー」がはびこっている気がします。

  生物マニアを擁護するこんな意見があります。例えば虫を採集して標本を作るとなると、生き物を殺さなければなりません。少年時代にこうした殺生を体験することは、命のはかなさと尊さを知る大切な情操教育に役立ち、テレビゲームなんかよりずっといい、という考えです。
  しかし、二年前に日本で私と同名の小学生を殺害して首まで斬って見せ物にし、全国を震撼させた「酒鬼薔薇」少年はナメクジやカエルを殺すのでは飽き足りなくなってネコも殺すようになり、ついに人間を殺してみたくなった、と言います。

  子供心もエコロジーもなかなか複雑で奥が深く、簡単に知ったようなことは言えないものだと思っています。

Bumba No.6 1999年


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