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大アマゾン究極のグルメ

岡村 淳



  取材のこぼれ話で、特に一般の方々に受けるのが、食べ物のことです。
  アマゾン奥地の保護区に暮らす先住民インディオと、同じ屋根の下で寝起きを共にしながら取材をした、などと言うと、食事はどうしていたの?としばしば尋ねられます。
  取材が長期にわたり、しかもスタッフが複数の場合は地元に余計な負担はかけられません。それに不慣れな食生活で、スタッフにストレスがたまる懸念もあります。このため、食料持参で自炊の体制を取るのが常となります。

  滞在中には時折、インディオたちから食べ物の差入れがあったり、こちらからおすそ分けをしたり、なんてこともしばしばです。
  大蛇ジボイア(ボア)の丸焼きなどのおすそ分けがあると、それまで油を売っていたカメラマンや助手たちはサッと機材を持ち出し「ハイ、オカムラちゃん、ディレクターが試食するシーンを撮るから、どうぞ僕らの分も召し上がれ」などと私を矢面にたてるのです。

  伝統的な文化に属する人々ほど「同じ釜の飯を食べる」とか「オレの盃(さかずき)を受けねえのか」といったような、飲食を通しての同属意識が強いようです。ドキュメンタリー番組のディレクターたる者、差し出されたものは取材の成功を祈って社交の笑みを浮かべつつ、さもおいしそうにいただかなければなりません。
  こんな時ふと、小学校の頃、嫌いな給食のオカズを残そうとしたため、罰として昼休みも食器盆を前に座らせられたトラウマがよみがえってきます。

  そもそも食は文化そのものであり、他人の食生活を部外者が自分の好き嫌いでとやかく言うものではありません。悪食とグルメとは紙一重であり、表裏一体でもあるのです。
  例えば我がブラジルでは、日本食文化に接したことのないガイジンにとって、生魚や生タマゴを食らう連中などというのは、多様性に寛容なお国柄ゆえに迫害こそしないものの、吐き気を催されていることでしょう。
  とは言うものの、私自身、昆虫や爬虫類・両生類の類は出来れば口にするのを避けたいもの、と思っています。

  1980年代半ばに私が訪ねたアマゾン北部のヤノマモ・インディオは、独自の伝統文化を保ち続ける、いわゆる裸族でした。
  彼らの主食はマンジョーカ芋や、青いバナナを焼いたり、ゆでたりしたものでした。
  男たちが弓矢を用いてのイノシシ猟に成功した時は、村の全員に獲物が分配されました。彼らには塩を始めとする調味料を用いる習慣がありません。私にもイノシシのもも肉がおすそ分けされましたが、お湯でゆでただけのものでした。
  塩や醤油でもかけたら、さぞうまかろうに、と思うものの、インディオたちの衆目の前で誤解を受けるようなことは出来ません。観念して、剛毛のついたままのもも肉にかじりついたものでした。

  リーダーというのは、取材班でもインディオでもそれぞれ同じような苦労があるもののようでした。
  スタッフの夕食として私の作ったカレーライスを、私とカメラマン、そして助手と取材に同行してくれたインディオ保護官の4人で食べ始めた時です。
  ヤノマモの若者たちが我々を取り巻き、自分たちにも食べさせろ、と言います。視覚的に、いかにも彼らの食指をそそらない料理に思えましたので、スタッフ向けにかなり辛口にしてあります。塩味にも慣れていない彼らに耐えられる味ではありません。
  案の定、少し口に含んだだけで、奇声を上げて吐き出しました。
  若者たちは、まるで我々がイヤガラセをした、とばかりに騒ぎ始めました。険悪な事態になりました。
  すると村のリーダーが私のところにやって来て、自分にも食べさせろ、という仕種をします。
  リーダーは、私が控えめに盛ったカレーライスを黙々と食べ始めました。きれいに平らげると、彼はひとこと、周囲に響く声で「トディヒ(うまい)」と告げました。
  これで、いきり立った若者たちも静まらざるを得なかったのです。
  この時のリーダーの胸中、そして胃中を察すると、感無量です。

  飲み物では、究極の思い出があります。
  ボリビア領のアマゾン低地に、イソソと呼ばれるインディオのグループを訪ねた時のことです。
  彼らは早くから、いわゆる白人と接していたため、スペイン語をたしなみ、西洋式の衣服を着ていました。
  イソソの人たちは年に一度、トウモロコシの収穫期に「アレッテ」と呼ばれる先祖供養の祭りを行ないます。
  ちょうど日本のお盆のようなもので、あの世から戻って来るご先祖さまをもてなして、再びあの世に帰っていただく、というお祭りです。

  このお祭りになくてはならないのが、チチャと呼ばれる地酒でした。チチャと呼ばれる酒は、インディオには広く見られますが、イソソのものはとりわけユニークでした。
  原料はトウモロコシで、これを口に含んでよく噛み、唾液を混ぜて発酵させるのです。
  木臼でついたトウモロコシを大きな甕に入れて煮込んだものを、甕ごと村の広場に持ち出します。これを村の女衆が囲んで、煮詰めたトウモロコシを手でつかみ出しては口に運び、再び甕に戻していきます。

  本来は、村の処女たちだけがこの役目にあたっていたそうです。しかし今日では、子とも孫ともつかない幼児を抱いた、歯の抜けた年配の女性までがモグモグとやっています。
  聞くと「今どき、どこでも処女不足だからねぇ」とフガフガ笑いながら、喉のタンをきりつつ口に含んだものを甕に吐き出していました。別にタン壷でも用意してもらいたいものでした。
  女性の持つ不思議な力が酒を醸し、甘味をもたらすとのことでした。

  この話を聞いてゲエーという人は、自国の歴史に嘔吐するようなものです。
  そもそも日本語で発酵させることを「かもす」というように、日本でも古代には巫女(みこ)のような神に使える乙女が米などを口で「かもして」酒を作っていたといわれています。

  私の訪ねたイソソ・インディオのコペレ村には70家族500人ほどが住んでいましたが、3日間の祭りのために計600リットル、ビール瓶にして1000本近いチチャをかもし出しました。
  村人は男も女も、祭りの間はひたすらこの酒を飲み続けます。アルコール度数は普通のビールぐらいでしたが、トウモロコシを醸造したものなので、なかなか腹持ちのいい酒です。

  村から私たちへの取材許可の条件は、薬用アルコールの20リットル入り缶を3缶、祭り用に差し入れされたし、とのことでした。
  そもそもチチャはがぶ飲みしても腹が張るばかりで、なかなか酔いがまわりません。このため、近年になってチチャを純アルコールで割って飲んで、酔いを早めることが流行(はや)り出したのです。

  この時も、村人がチチャをヒョウタンのドンブリになみなみと注いで、日本人取材班にすすめてくることがしばしばでした。すると我が取材班はにわかに撮影する側に専念する体制に入るそぶりを見せ、いきおいディレクターである私が代表して何度も一気飲みをするハメになりました。
  伝統的なチチャの方は、製造過程に思いをはせなければ、甘酸っぱくもモッテリとして、それなりにオツなものでした。
  恐ろしかったのは、純度ほぼ100パーセントの薬用アルコールを、わずかに泥水で割っただけのものを無理やり飲まされた時です。喉から食道が焼け付く思いでした。
  この薬用アルコールの水割りには、第二次大戦後にボリビアのアマゾン低地に入植した日本人移民も肝臓をやられ、命を縮めた方が多いと聞いています。

  それにしても、一度ぐらいは正真正銘の乙女たちだけが醸(かも)した美酒をたしなみたい――などと何ともオヤジ臭い願望を抱きつつ、濁都サンパウロでブラジル民衆の安酒・ピンガをあおりながら拙稿を叩いています。

オーパ No.146 1995年 改稿(2003年)

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