[岡村淳 ブラジルの落書き HOME] [星野智幸アーカイヴズ]


長老の下僕となりて

岡村 淳



  これまで人様に向かって、ぶしつけにもビデオカメラなんぞで撮影し続けたバチが当たってしまいました。
  昨年(1998年)のこと、ブラジル移民90周年にちなんで日本のNHKの取材班が、私のブラジル移民の記録活動を紹介するドキュメンタリー番組を制作することになったのです。

  私は昨年はじめから、ブラジル内陸部の山地のファゼンダ(大農場)で暮らす I さんという明治生まれの老移民夫妻の記録を手がけていました。
  その前年、縁あって初めてこのファゼンダを訪れた時はカルチャーショックを受けました。峻険な山脈を登りも下りもローギアで乗り切り、地元の人に「ジャポネスのファゼンダはどこ?」と聞きながら、ようやく到着しました。
  この土地は19世紀後半に生じたパラグアイ戦争で功績を収めたブラジル人の大佐が恩賞としてもらったものだそうで、その大佐が建てた母屋にそのまま老夫妻が暮らしているのです。
  ご主人の I さんは俗世離れした風貌をしており、客人の到来を一眼レフカメラを構えて迎えます。かつてはサンパウロの日系社会で要職に就いていましたが、糖尿病を契機にあこがれだった家畜との共棲をはかるファゼンダの生活を実現しました。
  夫人のT子さんは、70歳を過ぎてからこのファゼンダで家事のかたわら念願の陶芸を始めました。いまや州都で展覧会も開かれるようになり、ブラジル人のお弟子さんも育てています。
  サンパウロあたりで、やれ天皇様のご来伯だ、それNHKのど自慢の慰問公演だ、と日本的な権威に追従する移民たちに食傷気味だった私にとって、ブラジルの大地でたくましく生きる I さん夫妻の存在は新鮮な驚きだったのです。

  私はかねてからブラジルで日本移民のある一家族に焦点を合わせて、家族が世代を経るに従って「日本人」の何が継承され、何が絶えていくのかを見つめていくドキュメンタリーを作ってみたいと思っていました。
  すでに第4世代が誕生している I さんファミリーは格好の題材です。しかし今どきの日本のテレビが食いついてくるようなネタではありませんし、別件も抱えているので身銭を切って記録する余力もありません。

  すると面白い展開がありました。T子さんの日本にいる妹(といっても80過ぎの方です)のM子さんという方が、テレビ番組の制作会社の社長をしていたこともあり、ご自分の肉親の伝記の自主出版も手がけていました。M子さんはブラジルの姉夫妻の映像による記録も残したいものの、自分の会社のスタッフを使っても経費がかかり過ぎるので断念していたのです。
  そんなM子さんが、現地在住でしかもケタ違いに安い制作費で「良心的な」ドキュメンタリーをひとりで制作している岡村の存在を知ったという訳です。
  M子さんはまさしくケタ違いに安い予算で、私に I さんファミリーの記録をまとめるよう頼んできました。
  折から I さんは心臓病を患い、先行きがかなり危ない状態となりました。年末年始の休暇を利用して、子供や孫たちがお別れのつもりで遠くは外国からも続々と I さんをファゼンダにお見舞いに来る、といいます。
  日本のM子さんからせき立てられ、私は1円のカネも受け取らないまま自家用車に器材やら土産の日本食品やらをつめ込んで、片道10時間はかかる知る人ぞ知る悪路をひたすら走り続けました。

  件のファゼンダには親類たちがひしめき合っており、私の寝る場所もありません。かといって別の宿を取ったのでは家族の密着取材にはなりませんし、更に出費がかさんでしまいます。
  私は夜間は居間のソファにビデオカメラを横に置いて着のみ着のまま横たわることにして、24時間臨戦体制で撮影を開始しました。
  いっぽう外国に住むお嬢さんの到着の時などは空港まで車で迎えに行くことを頼まれてしまい、肝心な時に「撮影どころじゃない」こともしばしばでした。

  こうして私は日本のM子さんから口は出されてもカネは振り込まれないまま、折に触れて I さんのファゼンダに通いました。時には越中富山の薬売りのようにサンパウロの町の風と情報を伝え、時にはカウンセラーや宗教者のようにご老人の自慢話やグチに耳を傾けてあいづちを打ち、家族の一員のように溶け込みながら通常のテレビ取材ではとらえられないような老夫婦の心の機微、そしてファゼンダの森羅万象を撮影していきました。

  さて日本から来たNHK取材班は、岡村が I さんファミリーを取材している様子を撮影したいと言います。
  ふつうの取材班でしたら、時間をかけずに少しでも楽をするため、まずサンパウロから最寄りの都市まで飛行機で向かい、そこから大型のチャーター車でファゼンダに入ることになるでしょう。
  私は若いNHKのディレクターの覚悟のほどを探るため「オカムラの記録活動そのものを取材したいのなら、ふだんのようなボロ車でのエンエンとした取材旅行に同行したらいかがですか」とかましてみました。すると「それでいきましょう」ということになってしまったのです。
  一台では器材とスタッフが乗りきれないので、二台の車を連ねて片道700キロの悪路を移動することになりました。それも撮影をしながらです。
  私は決して運転が得意でも好きでもありません。それがカメラマンの移動などのため駐停車が危険な地区で車を停めるよう指示されたり、「移動ショット」用に大型トラックを追い抜いたり追い越させたり、また運転中にややこしいインタビューをされたりです。NHKスタッフには道中、居眠りをする余裕もありましたが、主演男優兼運転手の私はヘロヘロになってしまいました。
  夕暮れ時、予定時刻をだいぶ遅れて I さんのファゼンダにたどり着きました。
   I 老人はNHK取材班を待ち構えていました。疲れ切っている岡村には「遅かったじゃないの」とひと言いい捨てただけで、「岡村と I 老人の再会と心の交流」を撮影しようと構えているNHKのスタッフにむかって満面の笑顔で「よくぞ遠方お越し下さいました。オタク、日本はどちらで?」と始まったのです。
  T子夫人が居間にケーキと紅茶を用意してくれました。NHKのディレクター氏は「じゃあオカムラさんが I さんご夫妻とお茶を飲んでいる所を…」と気を取り直して撮影体制に入り、私はそれらしく「自然に」ふるまい始め出したのです。
  すると I さんは私にむかって「あんた、座ってないでNHKの皆さんにボーロ(ケーキ)を切ってお茶をついで!」としかりつけるのです。 I さんにはNHKが「岡村を通して」 I さんファミリーを取材するということも私の「本業」もちゃんと理解されていなかったのです。
  さすがにシャクにさわった私は「NHK御光臨にはしゃぐ I 老人と、取材にならずにうろたえるNHKスタッフ」の模様を私の小型ビデオカメラに収めておきました。
  この日、私はそのままファゼンダに泊まり、NHKスタッフは近くのリゾート・ペンションに宿泊することになりました。
  私は自分を僕(しもべ)のように扱う I さんにいささかムクれていますが、 I さんご本人は「岡村サンのおかげでNHKに出られて、もういつ死んでもいいヨ」とうかれっ放しで家族を心配させています。
  翌朝早くから農場の情景の撮影に来たNHKスタッフに I 老人は心臓病の体を杖で支えながら付きまとい、ウンチクを披露し続けます。T子夫人が止めるのも無視して、だんだん息を切らせながらもディレクター氏に「あれはあちらから撮って下さい」などと指示をする始末です。
  心優しいNHKのスタッフは「このままだと I さんはぶっ倒れてしまう」と危惧して昼前に撮影もソコソコにペンションに引き上げてしまいました。
   I さんはスタッフ内から「カントク」の異名をとるようになり、私はディレクター氏から「オカムラさんがふだん腰を低くし過ぎるからこんなことになるんですよ。もっとエラそうにされたらどうですか」と、ありがたいアドバイスまでされる始末です。
  こんな調子の3日間のファゼンダ取材でした。案の定、 I さんはハシャギ過ぎがたたって入院、酸素吸入が必要な状態になってしまいました。
  NHKスタッフと私の方はといえばそれはプロのこと、私がこれまでに撮影していた素材を多用して I さんファミリーのシーンをなんとかデッチ上げ、 I さんご夫妻はNHKの番組の一部に登場することになりました。

   I さんは再び小康状態となり、退院してファゼンダに戻りました。しかし今度はNHKから送られてきた完成番組のビデオテープを見て、ガックリ気を落としてしまいました。一時間番組の中でご自分が登場するのは5分あまり、「自分の人生は5分の価値しかない」とフテくされておっしゃるのです。
  再び私は I さんのファゼンダに向かいます。
 「NHKの番組の方はホンの予告編ですよ。ボクの方がイヤというほど長い I さんご夫妻の決定版の記録をまとめますから」となぐさめ励ましながら再び記録を始めたのです。

  ところが新たにとんでもないことになってしまいました。私に I さんファミリーの記録を依頼した日本のM子さんが、1円のカネも支払わないまま意味不明の理由でビデオ制作のキャンセルを宣言してきたのです。かつての女社長もご高齢で体も精神も急激に弱ってきたようですが、アカの他人の私としてはたまったものではありません。
  その後もM子さんにはだいぶ振り回されましたが、ようやくお約束の金額の一部が振り込まれました。さて取材を再会しようかと思った矢先に「もうこれ以上おカネはありません」「それでも撮影をしておく必要があります」宣言が届きました。
  私はブラジルの土地なし農民問題については回収の見込みのない出費を続けながら、記録を続けています。
  そのうえ I さんのような大土地所有ファミリーの記録まで、M子さんのような東京の高級住宅地に邸宅を構える大奥様の命令でボランティア活動で行なっていたら、私の薄氷を踏むような生活は完全に瓦解してしまいます。
  という次第で「ブラジルの土に生きて 明治生まれの地球人」とタイトルまで考えて完成間近だったビデオ記録が日の目を見るかどうかは「神のみぞ知る」状態となってしまいました。
 「ビデオ制作中断」の報にグンと血圧が下がってしまったという I 老人には「今年の90歳のお誕生日までには完成させたいと願っています」と伝えてありますが──。

  それにしても世のご老人の方々にどうしてこうも振り回されるのでしょう。自分の腰の低さや、人を信用し過ぎることを反省するより、前世でよほど老人を虐待したバチだろうと、前世の自分を反省している次第です。

Bumba No.2 1999年

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil-ya.com