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DEKASSEGUIタウンを観光する

岡村 淳



  イヤハヤなんともエキゾチックでした。
  訪日のついでに、日系ブラジル人の居住者激増で知られる愛知県の保見団地を訪ねてみたのです。このマンモス団地では、全人口1万1千人のうち、現在なんと三分の一を越える3500人以上がブラジルを大半とする中南米からの就労者とその家族で占めるようになってしまいました。

  数年前に東京で開かれた私のドキュメンタリー作品上映会に、この団地に住むKさんという男性が愛知県からわざわざ参加してくれました。
  Kさんはその後、ブラジル人の増加する保見団地についてのニュースを度々送ってくれました。事態がどんどん深刻になっているのがわかります。近年はブラジル人の増加を嫌って住民が立ち去り、空家になったところに失業したブラジル人が不法に居住するケースまで生じている、といいます。そしてついに、「ブラジル人は出て行け!」と右翼の街宣車が大騒音でがなりながら団地内を廻るようになったというのです。 日系ブラジル人がかもす騒音や、ゴミ回収などのルールを守れないことから、日本各地で地域住民との摩擦が生じているとは聞いていました。しかしこうしたあからさまなブラジル人排斥運動が起こっているとは、日本とブラジルの間にいる者として無視することはできません。

  そんな折、私が別件で訪日した際に地元で私の作品の上映と話をして欲しい、というKさんらボランティアのグループの申し出があり、渡りに舟、とばかりに名古屋へと向かいました。

  名古屋から電車を乗り継ぎ、迎えの車に乗ってようやく保見団地に到着したのが午後九時。初めて見るウワサの団地群は冬の冷気のなかに静まり返っています。
  サンパウロの「中流」クラスの我がアパートあたりよりずっと新しくモダンな印象です。東京近郊のベッドタウンの団地群とさして変わらず、「ブラジル人によるスラム化」というイメージは外見からはうかがえませんでした。
  問題の右翼の街宣車も最近は鳴りをひそめたといいます。そもそもブラジル人の増加を嫌った「在日」日本人の住民たちが、これ以上マスコミに団地の「ブラジル化」を喧伝されると自分たちの資産価値が下がると計算し始めたとのことで、実に複雑かつ微妙な情勢です。
  意外なことに金曜日の夜だというのに、団地内からフォホーやムジカ・セルタネージャなどのブラジル音楽も聞こえず、スペースの広い庭地でナモーラ(恋愛)にいそしむカップルも見当たりません。
  夜の団地からは、まるでブラジル的なものがうかがえないのです。詳細な見学は明日にまわして、近くにあるブラジル人相手のレストランに案内してもらいました。

  このレストランがなんともエキゾチックでした。ブラジルにある諸々のレストランや彼地の日本メシ屋とも違うのです。思い浮かぶ類似の店は、日本の別のブラジル人集中地域にあるブラジル人相手のレストランです。
  日本の建物と内装という制約のもとで日系ブラジル人がレストランのレイアウトをすると、ほぼ似かよったものになってしまうのでしょうか。
  メニューはポルトガル語表記のみのため、遠路やってきた来客の私が案内をしてくれた地元の日本人たちに、メニューを翻訳することになりました。
  ピカーニャ(牛のもも肉)定食がサラダ・副食類が食べ放題で1500円とあります。安くはありませんが、日本でどんなピカーニャにありつけるのが挑戦してみました。
  運ばれて来た大皿を見てたまげました。女性のサンダルほどの大きさ、厚さは一センチ以上のステーキが二切れも登場です。本場ブラジルでもお目にかかれないほどの巨肉でした。
  店はビデオケも兼ねており、奥を借り切っていた若い日系人のグループが盛り上がって次々と日本の歌をこなしていきます。しかも日系人の大集中地であるサンパウロでも見かけないようなモッサ・ボニータ(キレイな姉ちゃん)が何人もいるではありませんか。
  彼女たちにとってもズバリ日本人の我々の存在が珍しいとみえて、何かと視線をからませてきます。
  ご承知のように日本では見ず知らずの女性を直視したりすると、失礼どころかヘンタイあつかいされてしまいます。いっぽうブラジル文化ではその逆で、女性からの視線にこちらが目をそらすとかえって失礼になる場合もあるので、むずかしいところです。
  アルコールも進み、日系ブラジル婦女子の視線に答えるべく不肖ワタクシメも数少ないポル語で歌える曲を披露しようと、カラオケをリクエストしてみました。しかし、いっこうに順番がまわってきません。
  店の常連いわく、ブラジルの歌はここでは当たり前なので、日本語の歌が優先されるといいます。
  何やらバカバカしくなって酔いもさめてしまい、日本人の連れの手前「逆差別だ!」といちおう息巻いて店を後にして、夜も更けてさらに静まり返る団地で一夜を過ごしました。

  翌朝、Kさんの案内で団地内を歩いてみました。
  中学生くらいのメスチーサ(混血)の少女らとすれ違います。日本のモノカルチャーの風土のなかで、奇しいまでの輝きを放っています。
  愛知に来る前に、私は東京で中学生相手の講演を済ませてきたところでした。一方的に話すばかりも芸がないので、事前に「ブラジル」「日系人」といった項目について日本の中学生たちがどんなイメージを持っているかのアンケートをしてみたのです。
  回答はなかなか刺激的なものばかりでしたが、「日系人」の項目に「ハーフとかがきれい」といった答えがあるのが特に印象に残りました。
  ナルホド日本の中学生は目が肥えとる、「ハーフとか」は確かにキレイだな、などと感心しながらメスチーサの少女にブラジル式に「オーイ」と声をかけてみました。少女は意外そうに、かつ微笑みを忘れずに「オーイ」と応じてきます。
  怪しいオジサン二人組はそれ以上の深入りはせずに、ゴミの収集日でもないのにゴミ置き場へとまっすぐに向かって行きました。

  ゴミ置き場はぜひとも見ておきたい場所でした。分別ゴミや収集日などのルールが理解されずに、外国人労働者と在日・日本人とのあつれきが強まったといいます。
  今では日本語とポルトガル語でゴミの分別基準やそれぞれの収集日について書かれたプレートがいくつもあり、事態はだいぶ改善されたようでした。
  カラスや路上生活者がゴミ袋をひっかき回すこともないようで、東京やサンパウロあたりのゴミ置き場より小ざっぱりした感じがある程です。
  ついついゴミのなかのメイド・イン・ブラジル製品に目が行きました。ブラジルではマイナーな銘柄の製品がいくつも見受けられて、流通というものの不思議さに感じ入ってしまいます。
  ところどころに団地生活のマナーについて、日本語とポルトガル語で書かれた仰々しいプレートが掲げられていました。
 「団地の窓から物を捨てないようにしましょう」に始まるオキテが箇条書きにされているのですが、同行のKさんには失礼ながら思わず笑ってしまいました。Kさんによると、最近の深刻な問題はエレベーターのなかで用を足す輩がいることで、これもブラジル人が疑われています。
  私もブラジルでは団地暮らしをしていますが、窓から物を捨てない、エレベーター内でオシッコ・ウンコをしないなどということは、さすがのブラジルでも常識以前のことで、いちいち注意書きを掲げるような次元のことではありません。
  いったい誰がこんなことをしているのでしょう。これらはゴミ出しのルールなどとは違って、注意書きでどうにかなる事態とは思えません。

  団地のはずれに、トラックヤードと呼ばれるスペースがありました。ワゴン車をそのまま店舗にしたり、バラックを建てたりの可動式の飲食店のスペースです。経営者も客層も日系ブラジル人ばかりのたまり場となっています。
  パステルやコッシンニャなどのサルガジンニョ(スナック菓子)やエスペチンニョ(焼き肉の串刺し)などをブラジル産のビールやグァラナなどの清涼飲料と共につまみながら、カード遊びに興じたり、ヨタ話を交わしたりのいわば「ブラジル人租界」で、まずフツーの日本人は近よりません。
  アンタルチカ印の缶ビールをすすっていると、たむろしていたブラジル人の方から次々と話しかけてきます。
  彼らの話は、それまでの私のブラジル人出稼ぎ労働者観を見事に崩してくれました。
  彼らの多くは、もうブラジルに帰るつもりはないと言い切りました。日本に伝わってくるブラジルの社会・経済事情のニュースはひどいものばかりで、恐ろしくて帰る気がしないというのです。
  何よりも日本の学校に通わせている自分の子供や孫がもうブラジルに帰りたくないと言うので、彼らのために日本で働き続けたい、と何人もが語っていました。
  私はこれまで、出稼ぎ労働者にとって日本は単にカネを稼いで持ち去るだけの場所であり、日本の住まいは一時の「飯場」に過ぎないので、汚れようが他人の迷惑になろうが知ったことじゃない、という意識が主流だろうと考えていました。
  例えば子供の教育をとっても、地元の日本人ボランティアによると、とても日本の公立学校の教育についていけない外国人子弟の日本語能力を心配して日本語の補習教室を開いてみたものの、せめて光熱費の一部くらいは、と月に五百円程度の経費を請求し始めると、もう子供を通わせない親が多いといいます。
  もし日本を半定住の地と考えて、子孫の第二の故郷とするつもりなら、日本人のボランティアや後手ばかりの行政にまかせ切りにしないで、もう少し自治や教育に積極的に参加したり、何がしかの負担をする義務があるのじゃないのかと、お気楽な旅人である私は彼らにぶつけてみました。

  ちょうどその時です。トラックヤードの前は片側一車線ずつの両側通行の道路でしたが、片側は路上駐車が列をなし、実質一車線となっていました。
  そこに軽トラックでやって来た日系ブラジル人が、通行中の知人と出会ったようで、車を停めて延々と話し込み始めました。
  彼は道路を封鎖してしまったわけで、間もなく反対側から日本人の荷物配送トラックがやって来ました。日本人の運転手がいくらクラクションを鳴らしても、ブラジル人はまるで動ぜずにおしゃべりを続けています。
  日本人側が、まさしく百歩譲って相手の車が通れるスペースまで後退してクラクションを鳴らし続けてもブラジル人は全く無視して話し込んでいます。五分近く経過してからブラジル人はようやく話を終えて車を発進させました。日本人運転手の罵声が私たちのところまで響いてきました。
  このいきさつを私と見ていたブラジル人たちは「あんなことブラジルでやったら(ブラジル人のほうが)殺されるぞ」などと口々に同胞を非難するものの、「あいつは何かと問題なんだ」と仲間うちで言い合うにとどまり、誰も注意をしに行く人はいませんでした。
  ブラジルには都市部でも田舎でも、おせっかいなまでの正義漢が老若男女を問わずにたむろしているというのに、日本の日系ブラジル人コミュニティの面々はヘンに日本的におとなしかったのです。

  私の仕事を聞いた日系ブラジル人が「ファベーラ(スラム街)ばかり日本のテレビで見せてブラジルのイメージを悪くしているんじゃないだろうね」といった釘を刺してきました。もちろん先方はファベーラなどに立ち入ったことはありません。
  私はファベーラや土地なし農民といったブラジルの社会的弱者の取材にも取り組んでいます。なにも愛するブラジルのイメージを下げるために、カネにもならずに危険の多い取材を続けているのではありません。
  そもそも1990年の日本の入管法の改正がなければ、現在30万人近いという日系ブラジル人労働者の大半は失業率の高まる一方のブラジルにとどまらざるを得なかったのです。その場合、おそらく少なからぬ日系人たちがファベーラや土地なし農民運動などに流れ込んでいったことでしょう。
  私の願いのひとつは、出稼ぎ労働者たちが日本で在日・日本人社会からの差別や偏見といった「洗礼」を受けることによって自分たちが周縁化されていることを認識した時に、これまで自分たちが否定や無視をしていた祖国ブラジルの周縁化された社会的弱者の人たちに、同胞として、同じ人間としての思いを通わせてもらうことなのです。
  これには私の作品を観てもらうしかなく、機が熟するのを期するといったところです。

  地元の日本人ボランティアグループから、日本人側もブラジル人側も盛り上がるイベントはないものかと相談を受けました。
  ふと浮かんだのが日本の中学生も認めるメスチーサを始めとする日系ブラジル女性の美しさです。
  かつて静岡のテレビ局が深夜の放送時間帯を地元の日系ブラジル人コミュニティに開放した時のエピソードも思い出しました。彼らは延々と女性の水着コンテストを中継し続けたのです。出稼ぎモッサたちは大胆に肢体をさらし続け、日本での日常の職種は想像もつきません。観客席はひたすらラテンのノリで盛り上がりっぱなしです。

  そうです、私は保見団地での水着コンテストを提案したのです。
  日系ブラジル人の参加者とその取り巻きは、自分たちのアイデンティティを再確認して日本人たちにアピールすることによって、自己の尊厳を取り戻す。いっぽう日本人男性は隣人でありながら蔑視していた他者を異性として、人間として再認識することになる。日本文化も近年はラテン化、亜熱帯化している傾向があり、日本人女性にとっても自己解放のための好機になるだろう……。
  ここまではよかったのですが、ついオチをつけようとして「コンテスト実現の際はゼヒ僕を審査員として招待して下さい。ついでにビデオで『大接写』までサービスしちゃいましょう」。
  せっかくの妙案も失笑とヒンシュクのうちに埋もれてしまいました。

  在日・日系ブラジル人をめぐる状況は予断を許しませんが、彼らの歩む次なるステップに期待してやみません。

Bumba No.15 2001年

岡村さんへのメールは
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