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あこがれのアマゾン航路

岡村 淳



  今年3月、日本一の豪華客船といわれる「飛鳥(あすか)」が世界一周クルーズで初めてブラジルに寄港しました。
 「飛鳥」がブラジル沿岸を航行する間、「ブラジル学」で知られる中隅哲郎さんが船内での文化講座の講師として乗船される予定でした。ところが中隅さんが急逝されたため、私のような若輩が大役のピンチヒッターを演じることになってしまいました。

  船は日本から南下してインド洋を横断、アフリカ大陸を経て南米大陸にやってきました。南米までの航路は1908年の第1回ブラジル移民船「笠戸丸」とほぼ同じルートです。
  しかし船の規模は総トン数で比べると「笠戸丸」が6,167トン、1962年に建造された戦後最後の新造客船の移民船「さくら丸」で12,628トン、そして今回の「飛鳥」は28,856トンにおよびます。
  いっぽう「笠戸丸」乗船の契約移民は781人、「飛鳥」の乗客数は約400人。「人間を運ぶ貨物船」「現代のドレイ船」とまで言われた移民船と「動く五つ星ホテル」と称される豪華客船の相違がうかがえます。「飛鳥」は南米大陸を北上してカリブ海に立ち寄り、パナマ運河を通過、さらにイースター島や仏領ポリネシアなどに寄港しながら日本に戻ります。総日数は100日あまり、費用の方はどうぞご想像下さい。
  ブラジル航路ではまずリオデジャネイロに入港した後、大西洋岸を上がって古都サルバドールに寄港、さらにアマゾン河口の都市べレンの沖合に停泊します。そしてアマゾン河を約1,600キロ遡行して中流沿いの都市マナウスまで至る計画です。
  日本の大型客船が大アマゾンの中流までさかのぼる、というのが今回のクルーズの大きな目玉でした。 私は以前は日本から、そしてブラジル移住後は根拠地のサンパウロから合計30回以上にわたってアマゾン流域に通っています。
  いずれも取材が目的の旅ですから目的地ではできる限り多くの日数を費やすように努めますが、その分それまでの道のりは時間的に短いに越したことはありません。
  最寄りの都市までは飛行機で向かい、そこから陸路があれば自動車、水路しかなければ船、陸路も水路もままならない場合は予算さえ許せばセスナやヘリで空から現場へ乗り込むことになります。
  アマゾンで一般庶民の足となる客船に乗るには、ある程度の覚悟を要します。まずは出航の何時間も前から、道中の座席兼寝台となるハンモックを持参して吊るす場所を確保するためにひと苦労しなければなりません。
  いざハンモックを吊るす段になってもこれも独自のノウハウがあり、私などは地元民に笑われたり手伝ってもらったりで、ようやく自分のスペースにありつけるわけです。
  船客が多い時には甲板に何重にもわたってハンモックが吊り重ねられます。ようやく体を横たえても慣れない体位で腰を痛めたり、転げ落ちそうになったり、加えて私の鼻先に突き出された隣のオヤジの足のニオイやら、船の揺れと共に下半身に当たってくるアマゾン・ギャルの黒髪や熱い吐息など、気が気ではありません。
  何よりも荷物や撮影機材に誰かが目をつけてはいないか、スコールや荒波で機材が水をかぶらないかといった心配で、とても大アマゾンの船旅や惰眠を楽しむどころではありません。

  今回の「飛鳥」での私の役目は撮影や取材ではなく、日本からの乗客にブラジルやアマゾンの魅力を講演と拙作ビデオの上映で伝えることでしたので、これまでの船旅とは全く違った趣がありました。
  船のラウンジでは早朝よりモーニング・コーヒーとフルーツのサービスがあります。そして朝食から和食と洋食を選択できます。大アマゾンの日の出を拝みながら、納豆に味噌汁ほか何品もの日本の味の朝御飯をフィリピン人の給仕にかしづかれながらいただくことができるのです。
  船内にはガラス張りの大浴場にサウナまであり、湯舟に浸って鼻歌でもとなえながらアマゾンの浸水林をのぼせるまでながめていることも可能です。
  貧乏旅行ひと筋だった私にとって今回の龍宮城のような船旅は、乙姫さまとのロマンスこそなかったものの(乗客の平均年齢70歳…)、旅行というもののあり方を考えさせてくれました。
  飛行機の旅の場合、道中は移動のための「耐える時間」です。いくらファーストクラスだといっても体を180度に「限りなく近く」のばせる程度、一流シェフの高級料理とはいえ電子レンジであたためたものを寝床と同じ座席で召し上がれる、といったサービスを享受できるぐらいでしょう。機内でエコノミー症候群予防のためにジョギングをするわけにもいきませんし、日本―ブラジルの二十数時間もの長旅でもシャワーを浴びることもできません。
  クルージング客船の場合は移動の時間そのものを楽しめるよう、施設が充実しています。「飛鳥」の場合、各種の運動施設からホールにシアター、カジノに図書室、集会用の和室まであり、ひと通り船内を見学するだけでも半日はかかるほどです。
  そして訪問地域の一流エンターテイナーによるライブ・ショー、文化人によるレクチャーなどのイベントが船内で催され、また短歌教室からパソコン教室、それに船客主体の同好サークルまでが常時、開かれています。
  お客さん自らが「この船は『高級老人ホーム』と悪口を言われているんですよ」と自嘲気味におっしゃっていましたが、「高級」であることには変わりません。実際に「高級老人ホーム」に入居していた方が乗船して「ここは窓の景色がいつも変わるじゃない。大違いよ」といたく感激されたそうです。
  もっとも乗客だけで400人余りという日本人集団が大型船とはいえ100日以上も閉鎖空間で過ごすのですから、人間関係の摩擦が生じることもあるようですが、私の場合はブラジル航路12日間のみのお付き合いでしたので、いいことづくめのうちに失礼することになりました。
  クルージングのメリットはまだまだあります。
  新たに外国に入港する際も、原則として諸手続きは船側がまとめて行なってくれます。そのためパスポートと入国カードをそろえてハンコをもらうために行列に並ばなくてもいいわけです。荷物の通関の必要もないので、各国の税関吏にいちいちギューギュー詰めにしたバッグを開けさせられる心配もありません。
  そもそもホテルそのものが移動しているようなものですから、訪問先ごとに何度も荷物をばらしたりまとめたり、スーツケースと格闘する必要もないのです。

  今回の船客の大半は、世界中の目ぼしい名所旧跡はひと通り廻ったという観光慣れした方々でした。そうした人たちでもアマゾンとなると食指は動くもののアクセスや風土病の恐れなどで尻ごみしてしまい、なかなか訪問のチャンスがなかったと言います。今回の航程のなかでアマゾンが何よりも楽しみという方が多く、私も船に持ち込んだ宿題を返上して皆さんへのサービスにあたりました。
  外洋の航海では周囲ぐるりが海のため単調になりがちですが、アマゾンは違います。川の水量と河岸の浸食・准積作用、植生の遷移が絡み合って織り成すひとつひとつの景観は、それぞれが一期一会のものです。上流からの漂流物、現地人の住居や小船、いつ現れるとも知れない淡水イルカのウォッチングなど興味はつきません。日の出、日の入の光景には言葉もないほどです。
  べレンからマナウスまでの4日間のアマゾン航路で、観光の達人たちが何度も賞讃の声をあげていました。
  大アマゾンをこんな快適な環境で味わうことができようとは。デッキを覆うアマゾンの熱気に飽いたら船内に戻れば空調がほど良く効いており、虫一匹見当りません。
  船内テレビではNHKの衛星放送から岡村のビデオ作品までが観賞できます。今宵の晩酌は冷え冷えの吟醸酒でいこうか、カイピリーニャ(ブラジルの国民的カクテル)にしようか――。
  お客さんに招かれての酒席が深夜におよぶこともしばしばでした。私は「船の灯火に集まるアマゾンの珍虫・奇虫を見てきます」などと称して席をはずし、未明のデッキに足を運びました。そして本来この場にいたはずの中隅大先輩、さらに望郷の念にかられながらアマゾンの土となってしまった日本人移住者たちに心を寄せ、アマゾンの闇に頭をたれ続けました。

  船客たちのアマゾン観をいろいろ聞いてみました。
  いちばん多かったのが「世界最大の大河と熱帯雨林」に対するあこがれです。次に定年過ぎのお父さん方で、人外魔境に潜む人喰いピラニア、人や牛を呑む大蛇アナコンダなどゲテモノのホンモノをぜひ見たいという向きが多いのが意外でした。「通」になってくるとアマゾンの大逆流・ポロロッカなどへの興味をあげます。
  いずれも日本のテレビ番組から得たイメージがベースになっていることがうかがえます。こうしたお父さん方がバリバリの現役の頃に、バリバリに「大アマゾンもの」の映像を提供していた身として、まさしく汗顔モノでした。
  さて、アマゾンの大逆流・ポロロッカ。日本では1978年にNHKの番組で紹介されて以来、10回近くはお茶の間に登場していることでしょう。
  そのうち不肖ワタクシ、都合3回も番組ディレクターを勤めているのです。危うく一命を呑まれるアクシデントもありました。以下、次号です――。

Bumba No.13 2001年

岡村さんへのメールは
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