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秋の詩                              作:sei

 細かな霧雨が、しとしとと辺りを濡らし、町全体が、ぼぉっと煙っているような、そんなある夜のことでした。
 「トランペットを貸してください!」
そう言って店にとびこんできたのは、赤いスカートをはいた、小さな女の子でした。椅子をひく、ギィッというにぶい音とともに、店の奥のピアノから、一人の若者が立ち上がりました。スラリとして、色の白い、澄んだ青いひとみの若者でした。
「トランペット?」
そうささやいた若者の声は、静かなピアノの和音のように、辺りの空気に溶けてゆきます。女の子は目を大きく見開いて、うなずきました。
「でも、どうしてトランペットを?君なら、ヴァイオリンだってピアノだって、きっとすてきに弾けるのに。」
そのとたん、女の子の白い頬が、サァッと青くなりました。小さなうすいくちびるは、フルフルとふるえだし・・・やがてそのくちびるから、こんな言葉がこぼれました。
「家の猫が・・・死んだの。」
「猫が?」
「そう。とってもきれいな黒猫だったのよ。頭もよくて、音楽が分かったの。だって、猫ふんじゃったを弾くと、毛を逆立てて怒るのに、ショパンやドビュッシーだと、のどを鳴らして喜ぶんだもの。・・・それに・・・それにね・・・。」
ここで女の子は、フゥッと息をつきました。
「あの子は・・・トランペットが好きだったの。」
・・・そう、あの子はトランペットが大好きだったわ。私がトランペットの音楽をかけると、それはそれは喜んだっけ・・・
 若者は静かに、うなずきました。
「お嬢さん、それなら、あなたを待っているトランペットがあります。」
そう言った若者のうでには・・・もう、一台のトランペットが、だかれているのでした。小さな、くすんだ金色の、トランペットでした。
 女の子のくちびるが、そっとトランペットにふれました。その瞬間、女の子は、トランペットから、いえ、心の中から、いいえ、体の底から、ずっと奥深くにしまいこんでいた、不思議ななつかしさが、あふれ出してくるような気がしました。
 (ああ、これは、あの子が初めて家に来たときに、弾いてやった曲だわ。)
(これは、あの子の五歳の誕生日の曲・・・。)
死んだ黒猫の姿は、女の子の心の中で、生き生きとよみがえりました。目を閉じれば、まぶたの裏で、公園の落ち葉の中に元気よくもぐりこむ、黒い子猫の姿が、見えました。
(ああ、あの公園に行かなくなってから、何年経つかしら・・・。)
女の子はふと、思いました。思えばその何年の間に、黒猫は弱って、元気がなくなったのでした。つややかな黒い毛はパサパサになり、きらめいていた青い目は、どんよりくもるようになったのでした・・・。
(イヤーッ!こんなのイヤーッ!)
胸が苦しくなって、息がつまり、思わず女の子は、トランペットを放したのでした。そのときふと、女の子は、ピアノの上に、誰かが座っているような気がしました。澄んだ青いひとみの、なつかしい・・・
(トラン!?)
それは、黒い猫でした。たしかに、昨晩死んだ、黒い猫なのでした・・・。
「トラン!」
女の子は思わず、かけよろうとしました。そのとき、ピンとのびたトランのしっぽの先が、まるで「おいでおいで」をするように、左右にゆらぎ始めたのです。それは、おいでおいでをしながらも、こないでこないでと言っているように見えました。
「トラン・・・。」
女の子がつぶやいた、そのときです。不意に、不思議な風がわき起こり・・・あちらからも、こちらからも、音楽が聞こえてきたのです。ピアノの音も、ヴィオリンの音も、ありました。クラリネットの音も、ホルンの音も、そして、トランペットの音も・・・。
 (ああ、この曲は何だったかしら。)
美しくて、壮大で、それでいて少し、物悲しいような音の渦の中で、女の子は思いました。毎年聴いていたはずなのに、トランの一番好きな曲のはずなのに、女の子にはそれが、何という曲だったか、思い出せないのでした。
(ああ、この曲は、何だったかしら・・・何だったかしら・・・何だったかしら・・・。)

 透明な、明るい朝の光の向こうで、しっとりと雨に濡れた木々は、陽の光にきらめいていました。
(トランは・・・!)
女の子はハッとして、辺りを見回します。そこは、トランが小さかったころ、毎年秋になると、よく遊びに来た公園でした。
(そうだ、トランペット!)
女の子は、トランペットをにぎっていたはずの、右手を見やりました。けれど・・・その右手からは、黄色く色づいたイチョウの葉が一枚、ハラリとこぼれただけでした。
 気がつけば、辺りは色づき始めたばかりの、秋なのでした。
 
            あとがき
 透明で、透き通るような音楽の物語を書いてみたくて、書きました。物語の中に、さりげなく、「秋」を織り込むことに苦労しましたが、自分では、なかなか満足のゆくできになったと思っています。