稲の花
今年の夏は、涼しかった。
あと、一―二度気温が低ければ、深刻な冷害になっただろう
九年前は、暑い夏だった。
お盆に、里帰りしたおじ達を乗せて、私は夜の国道を家に向かって走っていた。
冷房がないので、車の窓は全開だ。
家の近くに来た時だ。むんとした生ぬるい風と共に、甘い匂いが飛び込んできた。
次の瞬間、はっと驚いた。
ご飯が炊けるときの、あの匂いである事に気づいたのだ。
家に帰ってから、夫に尋ねると、穂の中にできつつある、米の匂いだという。
花が咲き受粉を終えると、白い乳のような汁が籾の中にたまる。
この時期を、乳熟期と呼ぶ。蒸し暑い空気の中に、汁の匂いが醸し出るという。
次の日、夫は、田んぼに私を連れて行った田んぼには、稲の花が咲いていた。
緑色の穂から白いおしべがこぼれ、かんざしのように風にゆれていた。
そこにも、かすかに米の炊けるような匂いがした
。花が終わった田んぼでは、役目を終えたおしべが、田の水面を白く染めていた。
「稲の花が咲く頃に、稲にたくさん水をやらなきゃいけない。この時期の水を、花水というんだよ」
夫はそう言うと稲穂を一本取り、指先で籾をしごいた。
乳のような汁が出た。
「ほら」と促されてなめると粉っぽい舌触りと、甘い味が広がった。
次の年は、夏の間、冷たいヤマセと曇天が続いた。
一日中、ひぐらしの、切なげな声ばかりが聞こえていた。
「このままでは花も咲かないだろう」そんな話も出ていた。
収穫も絶望的になると、誰もが思っていた。
そして、やはりお盆の頃だった。外気に乗って、かすかに米の香りがしたのだ。
思わず、喜びで心が躍った。
稲の花は、咲いたのだ。秋の実りはもたらされるのだ。
そう確信して、胸一杯に匂いを吸い込んだ。
それから毎年、そして今年も、お盆の頃になると、稲の花の証を、花の香りをとらえては、心を躍らせている。