不登校とホームスクール
   
ホームスクールは緊急避難としても使える

                    古山明男

 不登校とホームスクールの違いは明確ではありません。そこには考え方の違いしかありません。「どうしたら学校に行ってくれるのだろうか」と学校との関係で考えているのが不登校で、「家でやっていこう」と考えていればホームスクールだと言えます。

 たいていの場合、こどもは学校で恐怖にかられて、親元に逃げ込んできたのです。それは、ほとんど本能的なもので、子どもに理由を尋ねてもよくわからないのが普通です。中学生くらいまで、子どもははっきりと理由を語れないものです。しかし、子どもの様子を見れば、子どもの状態は歴然としています。

 子どもが不登校になると、しばらくは嵐の吹きすさぶ時期があります。そのあと、淡々とした日常が続くようになります。
 これはほとんど一本道です。
 やがてなにかが満ちてきて、子どもが自分でなんらかの道をつけていきます。淡々とした日常から子どもが動き出して、小さな関心や好奇心や試みをたくさん示すようになり、さらに世の中といろいろな関わりを持っていきます。


 熟するもの

 多くの人が、この道を通って「解決した」と言えるところに行き着くのを見てきました。そして私は、家庭で何気なく過ごした時期が重要なものであることに気づきました。目にはみえない大事なものが、そこで熟したとしか言いようがないのです。
 子どもが家庭から出ていくとき、親以外の善意の他者がいることは大きな要素になります。子供たちにとって、何気なく微笑み、なにも特別扱いせず、「やあ、こんにちは」と声をかけてくれるおじさんやおばさんたちが、もっとも大きな援助をくれる人たちです。それは、私たちでお互いに支えあうことができます。
 しかし、善意の他者が居さえすればなんとかなるというものではありません。家庭で親と何気なく過ごした時期が重要なのです。
 この淡々とした日常の時期を「ここで、あせらずあわてず子どもと共に育っていこう」とするのは、ホームスクールそのものなのです。


 それまでの延長線上にないもの

 子どもが成長するということは、それまでの延長線では考えられないものが、つぎつぎと子どもの中に現れてくることです。子どもがあるとき突然、それまで混乱していた算数がすっとわかるようになります。引っ込み思案だった子がすっと友達に声をかけるようになったりします。それが、特定の出来事があったからだと説明できません。子どもが自然に成長したのだとしか言いようがないのです。考えてみれば、子どもが歩き始めることでも、言葉をしゃべることでも子どもが勝手に成長して、勝手に始めるのです。


 どうして欠点ばかり見るのですか

 「うちの子ときたら 〜 だ」をやめましょう。それは、教育上もっとも破壊的なことの一つです。お子さんの問題点は、きっと事実でしょう。でも親にそのように見られているということが、子どもを固めてしまいます。その問題点は、子どもが苦しいか軽率でやっていることです。その行動がほんとうのその子ではありません。「うちの子ときたら 〜 だ」をお子さんが信じてしまったら、ほんとうにそうなってしまうかもしれません。

 不登校の子がなんらかの道をつけていくときは、必ず本人から、それまで思いもよらないものがわき出てきています。それまでの延長線の上にはないものが出てくるのです。それは、決して大人の手で作りあげることの出来ないものです。


 平和な生活を

 しかし、子どもの中になにかがわき出すのを早めることはできます。
 それは、何気ない平和な生活です。 将来のことなど考えるのなどやめて、ただ生活すること。日常の小さなことに喜びを見出していくこと。未来のために現在を犠牲にしてしまわないこと。

 誰でも、いま居るところからしか歩くことはできません。明日は、すでに決定されているものではありません。明日は、今日の中から生まれてきます。いまのお子さん、いまの親御さんのままでいいのです。不完全なままでいいのです。今日の中に平和と喜びがあるなら、明日はもっと平和と喜びがあります。歩き出してしまえば、必要なものは、だんだんそろってきます。

 お子さんに関して思い描いた多くのことは壊れてしまうでしょう。しかしながら、親子の交流を妨げるのはいつも、親の思い描きです。思い描きが消えたとき、ほんとうの家族になれます。
 生きるためのほんとうの力は、何気ない平和な生活の中にあります。平和な生活があって、そこに感動や意欲がわいてきます。意欲をわかせようと直接にいろいろ刺激することを試みても、うまくいくものではありません。

 今のお子さんに、なんの問題もありません。お子さんは、ただちょっと安心できないでいるだけです。先に安心してしまうことです。

 「学校に行かない? で、それがどうかしたのかい」
 私は、不登校の問題は、実はこの考え一つで解決してしまうと思っています。学校に行かないことは学校にとっては大問題でしょうが、教育上の大問題ではありません。子どもが育つにあたって、学校より家庭の方が重要なのです。家庭がどっしりと構えていれば、それで事はすみます。学校のことで振り回されることはありません。胸を張って、ホームスクールだと言っていればいいのです。ホームスクールは、緊急避難のためであってもかまわないのです。子どもが学校に行きたくなったら、また行けばいいのです。

 全世界で現在ホームスクーラーが百万人以上いて、学校に行かないで問題なく育っていることを思い起こしてください。それは、特別な親たちでも、特別な子ども達でもありません。彼らは、「これがいい」と言って家庭での生活を選んでいます。するとそれは立派な一つの道になるのです。

 もし、神経症や度を越した暴力があるならそれは専門家に相談してください。でもお子さんはおそらく、意欲がなくて、気むずかしいだけだと思います。それなら、特に問題はありません。


 退屈が青信号

 子どもが「勉強する」とか「学校に行く」と言い出しても、それは「そうしなければならないと思っている」ということが多いのです。このときに何かをしようとしても、なかなかうまくいくものではありません。「〜せねばならない」は、人間の中の小さな部分が言っているだけです。それは、人間を動かすエネルギーとしては小さなものです。そんなもので一喜一憂するより、ただ生活しましょう。

 子どもが恐怖、不安から解放されてきたとき、まず現れるのは子どもが「退屈だ」と言い出すことです。充実を求めるエネルギーがあるから退屈を感じます。なにもない日常なら、なにもない日常でいいのです。ちゃんと子どもは「退屈だ」と言い出します。「退屈だ」と言い出して自分で動き出したのなら、そこからいろいろなものが開けてきます。

 ホームスクールは親が教師役をすることではありません。それは、子どもの歩みに柔軟に合わせて進むということなのです。


 平和に暮らすことは「安易な道」ではありません

 将来のことを考えずに、ただ暮らすなんて、「それは安易だ」というささやきが聞こえてくるかもしれません。 「それは安易だ」は、我々に刷り込まれた暴力的な言葉です。それは我々にむずかしいことをやらせるとき、脇見をさせないための脅しとして使われました。それに耳を貸す必要があるでしょうか。
 「向上心を持て」という言葉も聞こえてくるかもしれません。私には、誰かが描いたプログラム通りにすることが向上心だとは思えません。より幸せに暮らそうとするのが、向上心そのものではないでしょうか。
 学校に行かない子供を持った親に、「将来の心配をしないでください」という言葉がどんなに状況とかけ離れた言葉であるか、私は承知しているつもりです。「いまの子どものままでいい。いまの親のままでいい。道は自然に開ける」が過激な言葉であることも承知しているつもりです。
 しかし、不登校は子どもにとっての問題なのです。親は子どもをサポートすることがまず第一の仕事です。あるがままを受け入れられること、それが愛情です。

 「そうおっしゃっても、子どもも問題だらけ、私も問題だらけ。これがなにもしないままどうかなるなんて...」と言う方に。
 ある日1日だけ試してください。子どものそばにいるたびに「この子になんの問題もない。私にもなんの問題もない」と念じてみてください。きっと、いつもとは違うなにかが起こってくると思います。