「ドキドキ」

重い足取りで歩いていた夜久月子は、校舎の入り口まで来て、一度足を止める。
 「こんなに逢いたいって思ってるのに、いざ逢えるとなると、何で身体が動かなくなるんだろう」
深い溜息を一つ吐き出すと、決心したようにまた歩き始める。
 「あっ、夜久先輩。先輩もこれから部活ですよね。僕も今から行く処なので、一緒に行きましょう」
声を掛けられて振り向くと、部活の後輩で、恋人になったばかりの木ノ瀬梓が、
手を振りながら駆けて来る。
月子に逢えたのが嬉しくて堪らないというように、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
 「……っ」
梓の笑顔を目の当たりにした月子は、その場で固まったように動かなくなる。
周囲の音すらも掻き消すくらいの勢いで、心臓の高鳴りが反響し始め、
顔だけでなく身体中が熱くなっていく感覚を味わう。
この段階でもう、どうして良いのか判らなくなる。
 「ご、ごめんね、梓君。私、ちょっと用事があるんだ。部活、先に行っててくれる?」
 「用事ですか? それ、僕も付き合いますよ。何処へ行くんです?」
顔が赤くなるのを誤魔化すように、月子は早口で言葉を紡ぐ。
そんな月子に気付かない様子で、梓は笑顔を崩さない。
小首を傾げる姿に、目が釘付けになる。
そして、早鐘のように鳴り響く心臓の音が、益々大きくなっていく。
 「ううん、一人で大丈夫。だから、ごめん」
 「えーっ、ちょっと、夜久先輩。どうしたんですかー!!」
耐え切れなくなった月子は、そう言葉を残して、その場を逃げ出した。
後ろから梓の呼び止める声が聞こえたけれど、振り向くことすら出来なかった。
 「夜久先輩、最近何だかおかしい。……もしかして、僕のことを避けているのかな?」
独りごちる梓の思いは、もちろん月子には届かない。
逃げ出した月子が向かったのは、誰もいない屋上庭園。ベンチに座ると、力なく項垂れる。
 「夜久先輩、どうかしたんですか? すごい勢いで走って行くらから、
 気になって着いて来ちゃいました……って、うわぁ」
誰もいないと思っていた屋上庭園で声を掛けられ、月子は慌てて顔を上げた。
 「……小熊君」
 「はい、僕です。どうしたって言うんですか? 泣いてるじゃありませんか。
 何処か痛いんですか? お腹ですか? 頭ですか? 僕、頭痛薬も、腹痛の薬も、
 何でも持ってますよ。水なしで飲める薬もありますから、安心して言ってください」
心配そうな顔でオロオロとしているのは、弓道部の一年生部員小熊伸也。
鞄から携帯用の救急セットを取り出すと、月子の目の前に広げてみせる。
 「ありがとう、小熊君。だけど大丈夫。頭もお腹も、痛くないの。……痛いのは、ここだから」
小熊の行為にお礼を言うと、痛みを感じる場所を指し示す。
さっきまで煩いほど高鳴っていた、心臓のある場所を。
 「そこって……あの……。あっ、心臓ですか。さすがに、そこは僕の薬では、
 どうにもできません。これはもう、一刻も早く保健室へ!! いや、その前に木ノ瀬君を
 呼んだ方が良いですよね。苦しい時は、僕なんかより恋人が傍に居た方が安心しますし。
 僕、木ノ瀬君を呼んできます。ついでに保健医の星月先生も連れてきますから、
 もう少し我慢していてくださいね」
 「待って!! お願い、梓君を呼ぶのは止めて!!」
慌てて駈け出す小熊を、月子は大声で呼び止めた。その声に、小熊が不思議そうな顔で戻ってくる。
 「違うの。梓君の傍に居ると……どうして良いのか判らなくなるの。傍に居たいって思うのに、
 顔を見るとドキドキして何も言えなくなる。顔が勝手に赤くなってきて、見られたくなくて俯くのに、
 やっぱり梓君の顔を見ていたいって思っちゃうの。チラチラ盗み見てるの、きっとバレてるよね? 
 一緒に居ないと不安になるのに、近くに居ると逃げ出したくなるんだよ。
 ねぇ、小熊君、どうしよう。私、梓君から逃げ出してきちゃった。絶対に、変だって思ったよね。
 ……私、梓君に嫌われちゃったかな」
ずっと心に秘めていた思いを、堪えられずに吐き出してしまう。
溢れ出る涙のせいで、もう前は見えていない。
 「夜久先輩。そういう話は、経験のない僕では、あまりお役に立てそうにもないです。
 でも、こんな僕でも、言えることはあります。木ノ瀬君は、先輩を嫌ったりなんて、絶対にしません。
 それは僕が保証します。だって夜久先輩は、こんなに可愛いじゃないですか?」
ベンチに並んで座ると、小熊は胸を張ってそう言って、力強く頷いた。
小熊の言葉を嬉しく思いながら、それでも月子の心は晴れない。
ポケットから出したハンカチで目頭を拭いながら、小熊の言葉に異を唱えてしまう。
 「ちっとも可愛くなんかないよ。梓君が話してても上手く答えられないし、笑いかけてくれてるのに
 私は上手く笑えない。心臓の音が煩くて、梓君の耳にも届いてるような気がして、
 とうとう逃げ出しちゃったんだから」
 「それを、可愛いって言うんだと思います。恋をすると最初は誰もがそうなる、って聞きました。
 相手を思い過ぎて、気持ちばかり逸るけど、身体は緊張して動かなくなる。
 夜久先輩は、まさに今、そんな感じなんですよね。そういうの、僕も可愛いって思います。
 きっと木ノ瀬君も、判ってますよ」
 「そう……かな?」
にっこり笑う小熊の顔を、半信半疑の表情で見つめ返す。
するとまた、力強い頷きと共に、自信たっぷりの声が返って来る。
 「大丈夫ですよ。ほら、笑ってください。夜久先輩の笑顔は、木ノ瀬君だけじゃなく、
 僕や弓道部みんなが大好きなんですからね。もっと自信持って良いです」
 「ありがとう。小熊君」
 「さぁ、あんまり遅くなると、宮地先輩に叱られます。そろそろ部活に行きましょう。
 そして部活が終わったら、木ノ瀬君にちゃんと伝えてください。僕に言ったこと、全部」
 「えっ、今日?」
 「はい、今日です。善は急げって言うでしょう」
 「……判った、頑張ってみる」
小熊に背中を押されたことで、月子の心にもほんの少しだけ勇気が芽生えた。
部活が終わったら、梓に声を掛けてみよう。
逃げてしまったお詫びと、それからこの気持ちを伝えるために。
先を歩いていた小熊が手を振っているのに気付いて、月子は元気よく駆け出した。

完(2011.08.07)  
 
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