「同じ風景を」

移動教室からの帰り道、夜久月子は急ぎ足で廊下を歩いていた。
選択授業を受ける教室が少し離れていたためと、
途中で逢った後輩と暫くおしゃべりを楽しんでいる内に、戻るのが遅れてしまった。
 「あっ、誉先輩」
階段を軽快な足取りで駆け下りていると、前弓道部部長、そして今は恋人でもある金久保誉の
背の高い後ろ姿が目に留まる。サラサラの髪が名残惜しそうに、廊下の向こうへと消えていく。
 「待って……きゃっ」
誉が弓道部を引退してからは、お互いの時間が合わず、あまり逢えていない。
せめて廊下ですれ違った時くらい、顔を見て話がしたかった。
気ばかり焦っても、身体が上手く反応しない。足を滑らせて、階段から落ちてしまった。
  「……っ」
幸い高さがなかったせいで、大怪我には至らなかった。
それでも痛みは相当なもので、すぐには立てそうにない。
痛みを堪えながらその場に座り込んでいると、頭の上から心配そうな声が降ってくる。
 「月子さん、大丈夫? 怪我はしていない?」
顔を上げるとそこには、追い掛けようとしていた誉の姿があった。
 「誉先輩!!」
 「ビックリしたよ。大きな音がして振り向いたら、君が階段から転げ落ちてくるんだもの」
心配そうな顔で誉が覗いている。廊下に座り込んでいる自分の姿が、急に恥ずかしくなって、
月子は俯きながらボソボソと言葉を返すしかできなかった。
 「す、すみません。恥ずかしい処をお見せして……」
 「ううん、そんなことを言っているんじゃないよ。君が怪我をしたんじゃないかって、
 とても焦ったんだ。本当に大丈夫?」
 「大丈夫です。……痛っ」
誉に心配掛けないように、慌てて立ち上がろうとする。けれど、足の痛みが酷くて、うまくいかない。
 「ほら、やっぱり。どれ、僕に見せて……。うーん、骨は折れてないようだけど。捻挫かな」
少し腫れている月子の足首を、誉が丹念に調べていく。
ひんやりとした手が、腫れて熱を持っている足には、とても気持ちが良かった。
 「……っ!!」
誉に足を触られている事実に思い当たると、月子は真っ赤になった顔を隠すように俯く。
そんな月子の様子に気付かない誉は、一通り足の具合を確認すると、そのまま背を向けた。
 「これは手当てが必要だね。保健室に連れて行くから、僕の背中に乗って」
 「えっ?」
言われた意味が判らなくて、月子はポカンとした顔で聞き返してしまった。
 「その足じゃ歩けないだろう。保健室まで僕が負ぶって行くよ。さぁ、乗って」
 「い、良いです!! あの、もう大丈夫ですから。それに、もうすぐ授業、始まっちゃいますよ」
向けられた背中の意味を理解した月子は、両手を振って遠慮する。
それを見た誉は、もう一度月子の方に向き直ると、正面から顔を覗き込む。
 「そんなこと、今は関係ない。大切な月子さんを放って、僕が授業になんて行けると思う?」
 「だって……重いですし」
小さな声でそう言う月子に、やれやれと軽く息を吐き出す。
 「それこそ関係ないよ。それとも、僕はそんなに頼りない?
 ずっと支えていくって決めたのに、肝心の君は、僕に支えられることを拒んでしまう。
 それって、僕が君を支えられないくらい頼りない男だ、ってことだよね?」
 「違います!! 私、そんな風に思ったことなんて、一度もありません」
俯いていた顔を上げると、首を大きく横に振る。
やっと顔が見られた。そう思って、誉は嬉しそうに微笑んだ。
 「じゃあ、どうして? あっ、もしかして、お姫様抱っこの方が良いのかな?」
 「それも違います。あの……では、よろしくお願いします」
 「うん、任せておいて。君は本当に、素直で良い子だね」
誉の笑顔を見て観念したように、月子は素直に頭を下げる。
それが嬉しくて、誉はいつもの癖で、月子の頭を撫でてしまう。
いつも子供扱いされていると怒る月子も、今日は珍しく何も言わない。
 「さぁ、行くよ。ちゃんと捕まってる?」
軽々と月子を背負うと、保健室へ向かって歩き出す。
廊下にいた生徒たちの視線を一斉に浴びているのに、
誉はまるで気にしない様子で、にこにこと笑っている。
月子は恥ずかしくて、視線を何処へ向けて良いのか、悩んでしまった。
キョロキョロと辺りを見回していると、あることに気が付く。
見上げた天井が、いつもより近くに感じる。教室の扉や窓、廊下に置いてある様々な物。
いつも見慣れている風景が、何処か違っているように見える。
 「ふふっ」
 「どうしたの? 何か楽しいことでもあった?」
思わず漏らしてしまった笑い声に、誉が不思議そうに首を傾げた。
 「あっ、いえ。誉先輩は、いつもこういう風景を見てるんだな、って思ったら
 何だか嬉しくなっちゃいました。的前はどんな感じなんだろう、って考えていたんです」
 「風景? あぁ、僕はみんなよりも、背が高いからね。
 狙いを定める的の位置も、少し違うのかな。あまり、気にしたことはないんだけど」
痛い足を気遣ってか、誉はゆっくりとした歩調で歩いている。
いつもと違った視点で眺めながら、月子は保健室までの道程を楽しんでいた。
 「誉先輩の見ている風景。同じ場所なのに、少し違って見えて、とても新鮮です」
 「そぉ? じゃあ、時々こうして、負ぶってあげようか?」
 「えっ、良いですよ、そんな……」
 「遠慮なんてしなくて良いんだよ。君ならいつでも大歓迎だからね」
揶揄うような口調で言う誉は、一転、少し残念そうな声を出す。
 「でも、さすがに僕は、月子さんと同じ高さになる、って訳にはいかないな。
 君が見ている風景がどんなものなのか、僕も見てみたいんだけどね」
背の高い誉が月子の視線の高さに合わせて歩くのは、さすがに辛いものがある。
できないことは仕方ない、とあっさり気持ちを切り替えると、今度は思いを伝えるように
真剣な声で語り始めた。
 「でも、たとえ高さが違っていても、同じ処を見ていたいな。
 僕の横には君が、そして君の横には僕が。見ている先は、いつでも二人同じ処を。
 これから先もずっと、ね」
 「はい。私も、一緒に同じものを見ていきたいです」
誉の言葉が嬉しくて、月子は腕に力を入れて、誉の身体をぎゅっと抱きしめる。
これからもずっと、二人で同じ風景が見られますように。そう願いを込めながら……。

完(2011.05.15)  
 
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