「名前を呼んで」

生徒会の打ち合わせに時間を取られてしまい、教室を出る頃には、
廊下の窓から見える空が茜色に染まっていた。
 「さすがに、もう部活は終わってるよね」
軽く息を吐きながら、夜久月子は小さく呟くと、廊下を歩き出す。
向かった先は、月子が所属している弓道部の道場。
部活は終わっているけれど、まだ練習を続けている人がいる。
月子はそう確信するように、迷いなく道場を目指していた。
 「あぁ、やっぱりいた」
道場の扉をそっと開けて覗くと、宮地龍之介が弓を構えている姿が目に留まる。
この夏、前部長の金久保誉が部を引退して、部長になったばかり。
部活中は後輩の指導を優先させているため、部活後も練習を続けていることが多かった。
月子は道場の隅に座ると、静かに龍之介の射形を見守ることにする。
龍之介が放つ矢は、気持ちが良いほどまっすぐに、的の中央を狙って飛んでいく。
弦が引かれ、矢を弾く音。的に刺さる音。心地良い音だけが、静かな道場に響いていた。
暫く矢を放ち続けていた龍之介は、漸く納得がいく矢が引けたらしい。
満足そうに息を吐き出すと、弓を下ろして振り向いた。
そこで初めて、月子が道場の隅に座っていることに気付く。
 「なんだ、夜久。居たのか。もう部活は終わっているぞ」
 「うん。今日は生徒会で遅くなっちゃったから、見取り稽古だけ」
歩いて来る龍之介に、月子は笑顔を返した。
 「あっ、そうだ。お疲れ様、龍之介。はい、これ……って、あれ、どうしたの?」
 「……!!」
買っておいたペットボトルのお茶を渡そうとしていた月子は、
顔を赤くして固まっている龍之介に気付くと、不思議そうに首を傾げる。
 「龍之介、お茶、嫌いだった? アイスにしようか迷ったんだけど、
 いつ練習が終わるか判らないし。溶けちゃったら困るから……」
 「……っ」
売店で悩んだことを説明しても、龍之介は無言のまま固まって動かない。
 「龍之介? どうかした?」
赤い顔で固まっている龍之介の顔を、心配そうに下から覗き込む。
その途端、弾かれたように動き出した。
 「だから!! 名前はまだダメだって言っただろう。その……まだ、慣れていない」
 「なんだ、そんなこと。全然気にすることじゃ……」
龍之介の答えに、具合が悪かったわけではないと安心した月子は、ホッと表情を和ませた。
その反応に、龍之介は眉間に皺を刻んで抗議する。
 「俺にとっては、そんなことじゃない!! だいたい、俺は今年からこの部の部長になった。
 他の部員にも示しが付かないし、公私混同はしたくない」
責任感の強い龍之介は、道場での立場を強調する。
その言葉に、月子は心に留めていた想いを、我慢できずに口にしてしまった。
 「そんなの判ってる!! 私だって、他のみんなに気を使われたりするの、嫌だから。
 だけど、部活が終わった後くらい、良いでしょう? 
 私達、少しも変わらないよね。ずっと、部活仲間みたいで・・・。
 少しくらい恋人っぽくしたいって思ったら、ダメなの? 私だって、龍之介に名前で呼ばれたい」
 「……夜久、お前」
月子の想いを受け取った龍之介は、驚いたように目を見開いて、月子の顔を眺めていた。
その口から漏れた名前が、変わらずに苗字のままだったことに、月子は落胆する。
溢れてくる涙を見られたくなくて、慌てて鞄を手にすると、道場を飛び出した。
 「龍之介のバカ!! もう良いよ。私、先に帰る」
 「おい!!」
目の前から走り去る月子に、慌てて龍之介が声を掛けた。
その声を振り切るように、月子は溢れる涙を拭いながら、道場の外へ出る。
その時、後ろから追いかけてきた龍之介が呼び止めた。
 「待ってくれ、月子!!」
 「……っ」
突然呼ばれた自分の名前に、月子は驚いて、その場に立ち止まる。
慌てて走って来た龍之介が、後ろからそっと月子の身体を抱きしめた。
 「悪い。お前がそんな事を考えているなんて、思わなかった。
 さっきも言ったが、名前で呼び合うのは、その……慣れてなくて。まだ、照れくさい」
 「うん。判っては……いるの。龍之……宮地君が照れ屋だって、ちゃんと判ってるから。
 それに私の我侭だって事も。だけど、もう少しだけ、宮地君に近付きたい。
 ちゃんと恋人同士だって、思えるくらいに……」
背中越しに伝わる龍之介の真剣な声に、月子も自分の想いを口にする。
それから、大胆な事を言い過ぎたと少し恥ずかしくなって、つい俯いてしまった。
龍之介は、そんな月子の想いに応えるように、抱きしめている腕に力を混める。
 「龍之介で良い。お前にそう呼ばれるのは、正直、嬉しい。
 俺も、名前で呼ぶようにする。ただ、判って欲しいんだが、すぐには難しい。
 それに、部活中は他の部員の手前もあるから、今まで通りになってしまう。
 それでも良いか? その……俺は、お前と恋人同士だと、ずっと思ってる」
肩越しに見上げると、真剣な眼差しを向けている龍之介の顔があった。
月子は、とても幸せな気分になって、微笑を浮かべると、龍之介の腕に自分の手を重ねる。
 「ふふっ。判った。少しずつ、慣れていって。でもね、龍之介。
 ちゃんと口に出して言い続けないと、いつまでたっても、慣れないんだよ」
真っ赤な顔の龍之介が可愛くて、つい意地悪をしたくなる。
月子は、下から龍之介の顔を覗き込むように見上げると、揶揄うような視線を向けた。
 「むっ。お前、何か楽しんでないか? さっきまで泣いてたのに。
 ……俺は、お前の泣き顔には弱いんだ」
最後の呟きは、小さすぎて月子の耳には届かなかい。
 「えっ、なんて言ったの?」
 「別に。何も言ってない」
龍之介は観念したように、大きく息を吐き出すと、月子を抱きしめていた腕を解く。
月子を自分の方へ振り向かせると、そのまま静かに顔を近付ける。
そして、耳元にそっと囁きかけた。
 「……月子。……愛してる」
 「私も……愛してるよ。龍之……」
月子の答える声は途中で途切れてしまった。龍之介の唇に塞がれたせいで。
茜色に染まった空から注がれる最後の輝きが、寄り添う二人の影をつくる。
重なりあった二つの影は、暫くの間、離れることはなかった。

完(2011.02.07)  
 
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