「お楽しみ」
インターハイの予選を突破してから、部員のやる気が暑苦しい程に高まっている。
放課後の練習も、益々ハードなものになっていて、メニューを熟すだけで精一杯の部員もいた。
「特に宮地先輩、、気合入り過ぎだから」
休憩の合間に顔を洗ってこようと、弓道場を出てきた木ノ瀬梓は、苦笑交じりに息を吐き出した。
顔を洗ってそのまま弓道場へ戻ろうとした梓は、木陰に座り込む夜久月子に目が留まる。
「せーんぱい。こんな処で何してるんですか?」
近付きながら声を掛けたのに、月子は下を向いたまま顔を上げようとしない。
「夜久先輩? どうかしたんですか?」
心配になって顔を覗き込むと、スヤスヤと軽い寝息を立てながら、気持よさそうに眠っている。
「あーあ、気持よさそうに寝ちゃってる。仕方ないな。無防備過ぎですよ、夜久先輩」
眠りが深いのか、まるで起きそうにない。
暫くそうして月子の寝顔を眺めていた梓は、抑えられない衝動に悩まされていた。
小さな寝息を立てている月子の少しだけ開いた唇に、視線が釘付けになってしまい、
目線を外すことができない。
「夜久先輩が悪いんですからね。僕の前で、そんな顔を見せるから」
そんな言い訳を口にしながら、そっと月子の顔へと手を差し伸べる。
緊張なんてしない筈の梓は、自分の手が少し震えているのを見て、
呆れたように苦笑いを浮かべた。それでも、差し伸べていた手は止まらない。
あと少しで月子の顔に触れる。その一歩手前の処で、後ろから声が聞こえてきた。
「木ノ瀬? そんな処で何をしている?」
鬼の副長、宮地龍之介の声に、梓は明らかに安堵している自分に気が付いた。
「ちぇ、もう少しだったのにな。でも、良いです。
夜久先輩は、絶対に僕のものにしますから。
それまで、もう少しだけ我慢しますね」
小さな呟きは、傍まで来ていた龍之介の耳には届かなかった。
「おい。いったい何をしてるのかと、聞いているんだ」
「もぉ、宮地先輩。少し静かにしてくださいよ。
夜久先輩が起きちゃうじゃないですか」
憎まれ口を叩きながら立ち上がると、呆れた顔で龍之介を見上げた。
梓の影で見えなかった月子の姿を、漸く龍之介も確認する。
「むっ。何だ、夜久は眠っているのか?」
「疲れているのかな。最近、残って練習もしているみたいだからね。
夜久さんは、頑張り屋さんだから」
龍之介の後ろから、部長の金久保誉も心配そうに月子を覗き込んでいる。
「あれ? 部長も居たんですか? えっ、いつから?」
てっきり龍之介一人だと思っていたのに、行き成り現れた誉の存在に、梓は戸惑っていた。
先程の自分の行動を見られてしまったかもしれない。
「何だ、木ノ瀬。その言い方は。部長に失礼じゃないか」
「ううん、良いんだよ、宮地君。そうだね。今来た処、かな。
ふふっ。なーに、木ノ瀬君。もしかして、何かしてたの?」
戸惑いを隠せないでいる梓に、誉は意地悪な質問を口にする。
その顔には、黒い笑顔が浮かんでいた。
「とんでもない。僕はただ、宮地先輩の声しか聞こえなかったから、
てっきり一人なのだと思って、驚いただけですよ」
「ふーん、そうなんだ。
さて、可哀想だけど、そろそろ夜久さんを起こさないとね。休憩時間も終わりだから」
早々に気持ちを切り替えた梓に、誉もそれ以上は触れず、話をすぐに切り替える。
月子を起こそうとする誉に、龍之介と梓が同時に声を上げた。
「部長!!」
「うん、判ってる。今日の部活は、少し早めに終わろう。
次の日に疲れが残っていたら、せっかく練習をしても、成果は上がらないよね」
真剣な表情で自分を見ている二人の後輩に、誉はにっこりと微笑んで頷いた。
誉の言葉に安堵の表情を浮かべると、龍之介が代表するようにお礼の言葉を口にする。
「ありがとうございます」
「その代わり、ミーティングも兼ねて、夕飯をみんなで食べる、ってどうだろう。
もちろん、予定もあるだろうから、来られる人だけで」
「部長、それ良いですね。僕、すっごい楽しみです。
部活以外で夜久先輩に逢えることなんて、滅多にありませんからね」
誉の提案にあからさまに喜んでみせる梓に対し、龍之介の眉間には深いシワが刻まれている。
「何を聞いてるんだ、木ノ瀬。部長はミーティングも兼ねると仰ったんだぞ。
お前の行動は、いつも動機が不純だな」
「えー、そうですかぁ? 僕、食事はいつも宇宙食だから、わざわざ食堂になんて行かないし。
みんなで食べる食事を楽しみにしてる、って言ったんですよ」
龍之介が口にする小言に、梓も負けずに拗ねた口調で返した。
「むっ。そうか。悪かったな」
「そうだね。大勢で食べる食事は、きっと楽しいと思うよ。
それじゃ、早めに部活を終わらせるために……」
「はい。しっかりと練習に励みましょう」
今度は嬉しそうな顔で、龍之介がそう宣言する。
その横でウンザリ顔をしている梓を、龍之介に気付かせないように、
誉は慌てて月子を起こすことにした。
「これ以上二人を喧嘩させない為にも。夜久さん、そろそろ起きようね」
肩を揺すられて目を覚ました月子は、目の前に三人の顔があることに驚いて、
漸く状況を把握する。
「す、すみません。部長。私、部活中に居眠りなんて……きゃっ」
慌てて立ち上がろうとした時、袴に足を取られて倒れそうになってしまった。
咄嗟に目の前に居た龍之介が、月子の身体を支える。
「夜久。いつまで寝惚けてるんだ。休憩時間は終わりだぞ」
「夜久先輩。早く目を覚ましてください。今日はこの後、お楽しみが待ってるんですからね」
「えっ? 梓君、お楽しみって?」
「ふふっ。それはね」
誉の説明を聞き終えた月子は、嬉しそうに飛び切りの笑顔を浮かべた。
それを見た三人の顔にも、同じような笑顔が浮かんでいた。
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