「強がらないで」

慌てたように走る足音が近付いてくる。
目的の場所がここである事は判っていても、勢い良く扉が開かれると、やはり驚きは隠せない。
 「どうした、夜久。そんなに慌てて。誰か具合の悪いやつでもいるのか?」
内心の驚きを隠しながら、保健医の星月琥太郎は、寝起きのようなのんびりとした声を出す。
ベッドサイドに立ち、白衣に袖を通す姿は、まさに今起きたばかりだということを物語っている。
 「具合が悪いのは星月先生です!!」
保健室に飛び込んできた夜久月子が、目に涙を溜めたまま怒りだした。
 「陽日先生に聞いたんですよ。星月先生が倒れて、保健室で寝てるって。
 だから私、心配でこうして……。なのに何で起きてるんですか?」
 「まったく、直獅のやつは仕方ないな。生徒を不安にさせるようなことを言って、どうするんだ。
 見ての通り、俺は心配ない。直獅が大袈裟に言っただけだから、あまり本気にするな」
訴えかけるような眼差しから視線を反らすと、殊更に何でもないような素振りを作る。
少し呆れたような色を、その声に乗せた。
ただその思惑は、琥太郎を心配する月子には届かない。
大きくかぶりを振って、琥太郎の言葉を拒絶する。
 「そんなの嘘です。職員室で倒れたのを陽日先生が保健室まで運んだって。
 最初は口を滑らせたのを誤魔化そうとしてたけど、問い詰めたらちゃんと教えてくれました。
 あの言い方も、心配そうな素振りも、少しも大袈裟じゃなかったです」
月子が担任の陽日直獅に詰め寄る姿を想像して、軽く苦笑する。
この剣幕で詰め寄られたら、正直に答えないわけにはいかない。
琥太郎は諦めたように息を吐きだすと、傍にあったソファに腰を下ろした。
 「判った、判った。そう怒るな。話してやるから、ちょっとこっちへ来い。
 あぁ、その前に、扉は閉めてくれ。お前の声はよく通るからな。
 保健医が倒れたなんて話、外に漏らすわけにはいかないだろう」
その言葉に今度は素直に従うと、開け放されたままになっていた扉を閉めて、
静かに琥太郎の横に座った。
 「倒れてはいない。それは本当だ。……誤魔化してるんじゃないから、そう睨まないでくれ」
濡れた瞳で刺すような視線を送る月子を、宥めるように頭を軽く撫でる。
 「職員室で打ち合わせがあってな。終わって保健室に戻ろうと立ち上がった時、
 少し目眩を起こした。たまたまその場に居合わせた直獅が、大袈裟に騒いだんだよ。
 無理矢理保健室まで連れて来られて、そのままベッドに押し込まれた。
 まぁ、そのお陰で少しは眠れたからな。もう良くなった。心配はない」
 「心配くらいさせてください。私には強がらないで」
堰を切ったように涙が零れ落ちていく。
それでも、滲んだ視界の向こう側にいる琥太郎の姿を、必死で捉えようとする。
 「判った。きちんと話す。正直、疲れが溜まっているのは確かだ。目眩の原因もそれだろう。
 理事長の仕事を姉さんから引き継いだばかりで、気が張っていたんだ。
 人を動かすというのは、考えていたよりも困難なことが多くてな。
 あの人の大胆さや押しの強さを、俺も少しは見習わないといけない」
理事長として学園の運営に携わってみて、初めて見えてくるものが多い。
特に事務手続きだけではない、人との関わりや根回しが、より重要性を持つということを
思い知ったばかりだった。
いつも飄々とした態度で、目の前の難題を捌いてきた姉の存在の大きさに、
琥太郎は今更ながらに勝てないことを悟った。
 「琥春さんは社交的ですからね。……って、違います、違いますよ。
 別に星月先生が社交的じゃないってことではなくて、あの……」
琥太郎の話を静かに聞いていた月子は、相槌を打つように頷いて答えると、
失礼なことを言ってしまったことに気付いて、慌てて訂正する。
 「いや、自分でもよく判っている。俺は社交的じゃない」
顔を赤らめながら必死になっている月子を可愛く思い、つい意地悪をしたくなった。
態と拗ねた声を出してみせて、月子の視線を独り占めする。
 「そんなことないです。それに、星月先生には星月先生の良い処がたくさんあります。
 やり方は琥春さんとは違うかも知れないけど、みんな、絶対に着いてきてくれます。
 もし誰も着いていかなかったとしても、私はずっと星月先生の傍にいます」
力強く、そう断言する。そしてすぐに我に返ると、恥ずかしそうに俯いた。
 「ごめんなさい。生意気なことを言っちゃいました」
 「いや、嬉しかった。そうだな。夜久が傍にいてくれるなら、何よりの力だ」
そう言って、下を向いてしまった月子の顎に右手を掛けると、そのまま顔を上げさせる。
 「まぁ、こんな涙でグチャグチャの顔じゃ、あまり効力はないかも知れないがな。
 随分と不細工な顔になってるぞ」
 「ヒドイです。星月先生が泣かせるからじゃないですか」
誂われているのは判っていても、また涙が浮かんでくる。
慌てて拭おうとした月子の右手を、琥太郎の左手が掴む。
 「どうせ泣くなら、そのまま目を瞑っていろ」
 「どうしてですか?」
顎と腕を掴まれた状態で身動きが取れないでいる月子は、
琥太郎の意図が掴めずに、そう尋ねるしかできなかった。
 「目を開けたままだと、ムードがないだろう」
琥太郎の顔がゆっくり近付いてきて、その行動と言葉の意味を理解する。
言われるがままに、そっと目を閉じた。
 「泣かせてすまなかった」
唇を触れさせる瞬間、その小さな囁きが、月子の耳にだけ届けられた。

完(2013.07.15)  
 
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