「空へ」
澄み切った青い空に、真っ直ぐ暢るひこうき雲。
何処までも続くその先端は、山の向こうまで突き抜けている。
「格好良いよなぁ、あの雲」
そう言って空に手を伸ばす真弘先輩の瞳には、羨ましそうな色が浮かんでいた。
それに気付いた私は、つい真弘先輩の制服を掴んでしまう。
「あ? どした?」
驚いた顔で振り向く真弘先輩に、慌てて手を離して首を振る。
「ごめんなさい、何でもないです」
「んだよ。何かあるなら、はっきり言えよな。ちゃんと聞いてやるから」
訝しげな表情で見据えながら、それでも私から視線を逸らさない。
これは観念するしかないかな。こういう時の真弘先輩、頑固なんだもん。
何でもない時には切り替え早いのに。
「真弘先輩、そのまま飛んで行っちゃいそうだったから。
ちゃんと捕まえておかないと、怖かったんです」
小さな声でボソボソと呟く私に、真弘先輩は一瞬ぽかんとした顔をしたかと思うと、
途端にニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「そっか、お前にとってはそれ、何でもないんだ。つまんねーなぁ。
じゃあ、どっか飛んでっちまうか。何たって俺様には、そいつができるんだからな」
「ちょっと待ってくださいよ、真弘先輩。あれは、そんな意味で言ったんじゃ」
空を見上げて嘯く真弘先輩に、私は慌てて言い訳を口にする。
「だったらどうすんだ? ちゃんと捕まえておかないと、飛んでっちまうぞ」
「捕まえておきます。私から離れて何処へも行ったりしないように、
ちゃんと捕まえて、二度と離したりしませんから」
恥ずかしい告白をさせられて、顔が真っ赤になっていくのが判る。
あの不敵な笑い方。確信犯なの、バレバレだよ。
でも、何処かへ行ってしまいそうで怖いと思ったのは、本当のこと。
真弘先輩が、私を残して消えてしまう。その不安は、私の中にいつもある。
贄として生かされ、運命が施行される日まで、毎日を怯えながら過ごしてきた真弘先輩。
それらすべてに耐えて、やっと手にした自由。その自由を謳歌するための翼すら、
その手中に収めた今、真弘先輩が私の前から飛び立っていったとしても不思議じゃない。
この想いをきちんと伝えることで、私の傍に居てくれるのなら、恥ずかしさなんて気にしない。
「じゃあ、お前も行くか?」
「行くって何処へ? やっぱり何処かへ行くつもりだったんですか?」
不安そうな顔をする私を見ても、真弘先輩は不敵な笑みを崩さない。
「だってあの空、見てみろよ。気持ちよさそうだろう。
それにな、お前にも一度、見せてやりたかったんだ」
「見せてって、何をですか?」
真弘先輩が言っていることが、どんどん判らなくなっていくので、つい聞き返してしまう。
さっきから見せる笑顔の理由も気になるし。いったい何を考えてるの?
「いちいち説明なんかしてられっか、面倒くせー。見れば判る」
「きゃっ」
真弘先輩の言葉が耳に届いた時には、私の身体は宙に浮かんでいた。
驚いた私の目に、覚醒した真弘先輩の大きな羽が映る。
足が地に着いていない事に気付くと、慌てて真弘先輩にしがみ付いてしまった。
「うわっ、暴れるなって。バランス崩したら落ちる」
「だって、怖いんですよ」
ぎゅっと目を瞑っている私を安心させるように、支える腕に力が入る。
「大丈夫だから、安心してろ。だいたい、俺がお前を落としたりすると思うか?
それより目を開けて、よく見てみろって。すっげー、気持ち良いから」
その声に、恐る恐る目を開ける。最初に見えたのは、嬉しそうに笑う真弘先輩の顔。
それから周りを見渡して、自分が空に浮かんでいることを実感する。
下を覗いてみると、さっきまで居た屋上が、随分と遠くなっていた。
「風になった気分だろ。あのひこうき雲の処まで行ってみようぜ」
「ちょっと真弘先輩、あんまり飛ばさないでください!!」
「こんなの飛ばしてる内に入らねーよ。ほら、もっとスピートあげるぞ」
楽しそうに声を出して笑うと、大きく羽を広げてスピードを速めた。
暫くそうして空中を飛んでいると、ある一点でピタリと止まる。
「ここからならよく見えるだろ。こいつを、お前に見せたかったんだ」
言われたとおり眼下に目を向けると、そこからは季封村が一眸できた。
「すごい、季封村がよく見える」
四方を囲む山と大地を流れる川。そこに集う家々の屋根。
玉依毘売神社の鳥居が、そんな集落を見下ろすように立てられている。
「長い間ずっと、鬼切丸に縛られ続けてきた村だ。
そして、それをお前が解放し、お前が世界を救った。この村は、お前に感謝してる」
真剣な声で言う真弘先輩に、私は首を横に振る。
「ううん、私じゃないよ。私一人じゃ何にもできなかった。みんなが傍に居てくれたから。
そして、真弘先輩が私に力を貸してくれたからできたんだよ。
ずっとみんなが護ってきた村。今度は私も、一緒に護っていきたい」
私はありったけの想いを、言葉に乗せて言う。誓いの言霊。
私には言霊を使う力はないけれど、想いに力があるのなら、この言葉をカミに捧げよう。
私は誓う。この村に生きるすべての人を護ると。
「あぁ、そうだな。これからもずっと、平和なこの村を、護っていこう」
「はい」
小さく頷いてゆっくりと黙祷を捧げると、真弘先輩の風の力が、私の想いを眼下に拡がる
村の隅々まで導いてくれる。
再び目を開けると、楽しそうに笑っている真弘先輩と目が合った。
「次は何処へ行く? 行きたい処、何処へでも連れてってやる。
どうせなら、ひこうき雲の先端まで行ってみっか」
そう語る真弘先輩に連れられて、もう暫くの間、空中散歩を楽しむことにした。
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