「続く幸せ」

---------- これは、俺がすべてを手に入れた後の、幸せな未来の話だ。
トントントンと、規則正しく鳴る包丁の音。微かに漂ってくる味噌汁の匂い。
微睡みと覚醒との狭間で、俺は朝の訪れを感じていた。
そろそろ起きなければいけない時間。だが、もう少し眠ってもいたい。
 「真弘さん。もう起きないと、遅刻しちゃいますよ」
布団の中で最後の抵抗を試みていると、珠紀が俺を起こしに来る。
これはもう、毎朝の恒例行事になっていた。
口では『遅刻する』なんて言いながら、きちんと朝飯を食う時間を確保して起こすあたり、
ホント珠紀はできた女房だよな。
そんな風に幸せを噛み締めながら、俺は布団に別れを告げる覚悟を決める。
その時、珠紀の髪が、俺の頬に触れている感触に気が付いた。
あんまり俺が起きないから、顔を覗き込んででもいるのか?
 「真弘。もぉ、朝だよ。ねぇ、起きて」
小さな、本当に聞こえるかどうかの囁き声で、珠紀が俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それも、呼び捨てで・・・。
珠紀のやつ、俺がいくら呼び捨てにしろって言っても、頑として聞かなかったくせに。
 『おい、珠紀。俺をいつまで“先輩”、って呼ぶつもりだ!!』
 『だって、癖みたいになっちゃってるんですよ。渾名だと思って、諦めてください』
 『今まではそう思って我慢してきたけどよ。だけど、これからは夫婦なんだぞ。
 旦那相手に、“先輩”は可笑しいだろーが。良いから、これからは呼び捨てにしろ!!』
 『えーっ!!呼び捨てなんて、そんなのムリです、絶対に』
 『だから、何でだよ!!』
 『だって・・・恥ずかしいです』
そんなやり取りを何度も繰り返して、漸く妥協した呼び名が『真弘さん』だ。
大蛇さんを呼ぶときと同じだから、ってのがその理由。
くそっ、俺はお前の旦那じゃないのか。他の男と一緒って、なんだよ、それ。
暫くの間、そうやって拗ねてみたけど、珠紀の淋しそうな顔を見てたら、どうでもよくなってきた。
珠紀がずっと俺の傍にいて、笑っていてくれる。ただそれだけで、幸せなんだよな。
あいつのすべてを、俺は独り占めしてるんだから。
そう思っていたのに、珠紀のやつ、俺に聞こえない処で、こんな風に呼んでくれてたんだ。
少し甘えたような優しい声で、俺の名前を。
その事実が堪らないほど嬉しくて、俺はそっと手を伸ばし、珠紀の顔を引き寄せた。
 「えっ?」
目を瞑ったまま、声を頼りに、珠紀の唇を奪う。
驚きの声を発した珠紀も、それ以上抵抗することなく、俺を素直に受け入れた。
 「んー、サイッコーに、良い目覚めだ」
 「もぉ、遅刻しても知りませんからね」
起き上がって伸びをしてる俺に、珠紀は真っ赤な顔で憎まれ口を叩くと、台所へ逃げ出した。
出掛ける支度を済ませて朝飯を食っていると、テーブルの向かい側に座っている珠紀が、
何か言いたそうにしているのに気が付いた。
 「さっきのこと、まだ怒ってんのか?」
 「怒ってないですよ。・・・それより、今日って、早く帰れそうですか?」
俺が声を掛けたことで、話すきっかけを掴んだらしい。珠紀が、俺の予定を尋ねてくる。
 「行ってみないと判んねーけどなぁ。んだよ。何かあんのか?」
 「ある・・・のかな。まだ、よく判らないです。けど、もしかしたら、あるかも」
 「あ?何言ってんだ、お前。朝から、また訳の判んねーことを。
 んだよ、心配事か?何か変なことに、首突っ込んでるんじゃねーだろーな。
 だったら俺も付き合うから、ちゃんと言えよ」
煮え切らない答えを口にする珠紀に、俺は途端に不安になる。
珠紀は一人で行動すると、決まってトラブルに巻き込まれてるからな。
何かあったときには、俺が珠紀の傍にいてやる。じゃなきゃ、安心できない。
俺がずっと護ってやるって、そう誓ったんだ。
 「ううん、そういうんじゃないです。それに、大丈夫ですよ。
 今日は美鶴ちゃんに付き合ってもらう約束をしてますから」
美鶴が一緒なのか。それを聞いて、少しホッとする。
何かあっても、美鶴が一緒なら、悪いようにはならないだろう。
 「本当に、大丈夫なんだよな?」
 「はい」
念を押す俺に、珠紀はにっこりと微笑んで頷いた。
 「判った。なるたけ早く帰ってくるから、その、あるとかないとかってやつ、ちゃんと話せよ」
軽く溜め息を吐き出すと、俺は珠紀とそう約束を交わした。
そして、夕方。俺は珠紀との約束を守って、早めに帰宅する。
玄関を開けると、台所の方から、珠紀の機嫌の良い鼻歌が聞こえてきた。
何か良いことでもあったのか?
朝の会話が気になって、一日中落ち着かない気分で過ごしていた俺は、
珠紀が何事もなく家に居てくれたことに、漸く安堵する。
それなら珠紀を驚かせてやろうと、玄関では声を掛けずに、そっと家の中へ入ることにした。
台所へ行く途中、何気なく視線を向けたテーブルの上に、小さなノートを見付ける。
ピンク色の小さな手帳。表紙には、赤ん坊を抱いて優しく微笑む母親の絵が、描かれていた。

完(2010.11.14)  
 
  ☆ このお話は、闇蝶様、月夜様よりリクエストをいただいて完成しました。
   心より感謝致します。                       あさき
  
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