「ある日」

夏の日の夕方。俺は、宇賀谷家を訪れていた。
 「花火をたくさん買ったんです。夜にでも、一緒にやりませんか?」
珠紀に、そう誘われていたからだ。
 「おーい、珠紀、邪魔するぞー」
声を掛けながら部屋の襖を開けてみたが、そこに珠紀の姿はなかった。
先に居間や庭の方も見て回っていたが、何処にも見当たらない。
 「誘っといていない、ってどういうことだよ」
溜め息交じりに呟くと、もう一度居間の方へと戻ることにする。
 「ちょっと、ダメだってば!!きゃあぁ!!」
その時、珠紀の悲鳴が聞こえた。そして、ガシャンっという、物が落ちる音が続く。
あのバカ、何やってんだよ!! 俺は慌てて声のした方へと走り出す。
 「おい、珠紀!!大丈夫・・・うわっ!!」
珠紀の姿が見えたところで声を掛けると、足元を何かがすり抜けていった。
 「真弘先輩!! その子、捕まえて!!」
俺に気がついた珠紀がそう言った時には、足元をすり抜けていったやつは、
とうに見えないところまで逃げ出した後だった。
 「もう、無理。つーか、何やってんだ、お前?」
浴室に座り込んでいる珠紀は、下に落ちた出しっぱなしのシャワーの水を浴びて
全身びしょ濡れ状態になっていた。俺は慌てて水道の蛇口を捻って止める。
 「す、すみません。おーちゃんを洗おうと思ったら、暴れちゃって・・・」
 「だからって、お前が濡れ鼠になってて、どう・・・」
珠紀を立たせてやろうと、手を差し伸べていて俺は、途中で固まる。
 「真弘先輩?」
急に言葉を詰まらせた俺に、珠紀が不思議そうな顔を向ける。
 「何でもねー!! 何でもねーから、お前はそこに、そうしてろ」
俺は慌てて、浴室から飛び出すと、バシンッと大きな音を立てて、扉を閉める。
 「真弘先輩、いったい、どうしたんですか?」
 「うるせー!!美鶴、呼んで来てやるから、それまここから出るな。
 美鶴以外の奴が来ても、絶対にこの扉、開けんじゃねーぞ!!」
扉を背に、俺は浴室の珠紀に念を押す。
 「着替えなきゃ、風邪引いちゃいますよ。ちょっと、開けさせてください」
 「だから、それも美鶴に用意させるから!!
 つーか、お前、自分が今、どんな格好してっか、判ってんのか?」
珠紀の抗議の声に、俺はそう返す。そして、さっき見た光景を、思い出してしまった。
真っ白なワンピースを着た珠紀。
全身にシャワーの水を浴びたせいで、服が透けるほどに濡れていた。
服が透けて、下着までバッチリ見えて・・・。
 「えっ?やだ、何これ!! 真弘先輩、忘れて!!
 今見たの、お願いですから、全部忘れてくださーい」
浴室の中から聞こえる珠紀の懇願の声を背に、俺は早々とその場から逃げ出した。
後のことを美鶴に頼むと、俺は縁側に座って、気持ちを落ち着かせることにする。
まさか、あんなことくらいで、自分が男である、ということを自覚させられるとは、思わなかった。
 「まるで、欲求不満みたいじゃねーかよ、俺」
 「ニー」
俺の独り言に答えるように、鳴き声が聞こえる。
振り向くと、さきほど逃げ出したおさき狐が、ちょこんと座っていた。
 「何だ、お前か。ったく、あんまり珠紀に世話、掛けさせんなよなー」
 「ニッ!!」
俺の言葉が不満だったらしい。
おさき狐は短く鳴くと、ブルンっと身体を震わせて、濡れた毛並みから水飛沫を飛ばした。
 「だー、冷てーな!!怒ること、ねーだろ」
俺はそう言って、おさき狐の頭を軽く撫でてやる。
 「俺が傍にいてやれねーときは、お前が珠紀を護ってやるんだからな。
 勝手に逃げ出して、珠紀の傍から離れたりすんじゃねーよ」
 「ニー」
 「おし、いい返事だ。男同士の約束だからな。二人で、あいつを護ってやろうぜ」
俺の言葉に頷くように、ゆっくりと目を瞑る。
その時、廊下を歩く珠紀の足音が聞こえた。
 「ほら、一緒に謝ってやるから、行こうぜ」
おさき狐を抱き上げてやると、足音のした方へと歩き出した。
夕暮れ時の風が、夏の暑さを和らげるように通り過ぎていく。
そんなある日のできごと。

完(2010.01.24)  
 
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