キリストの香り

                          2012.2.5

 

神のものとなる

 

 

《聖書》 コリントの信徒への手紙一71724

 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。

 

《聖書》 創世記17914

 神はまた、アブラハムに言われた。

「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたち男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」

 

 

 

《説教要旨》

 先々週から始めました「キリストの香り」配布伝道は、約30名の方々の参加を得てスタートをいたしました。これは、毎週の礼拝説教を印刷したものを家族、知人、近隣の方に配布するということを繰り返していこうというものです。始まって今日が3回目になります。早くも嘆きの声が聞こえてきました。未信者の家族に読んでほしいと願って食卓の上に置いておくのだが、読んだ形跡がないというのです。

しかし、それが当たり前で、読んでくれる方が奇跡に近いことだと弁える必要があります。わたしたちはどうしても自分のしていること、自分が考えていること、自分が感じていることに執着があります。普段は影を潜めていても、実際に神さまのお役に立とうとして、こんな小さな行動を開始してさえ、その自分自身への執着が頭をもたげてくるのです。やっていることは、1枚の紙を教会から自宅まで持ち運んでテーブルの上に置いているだけです。これだけのことをして、それで即効果が現れてくるならば、日本全国の教会がこぞって行なうことでしょう。日本基督教団全体の教勢不振も一気に解決します。しかし、現実はそのようなわけには行かない。そして、自分の思い通りにならないときにこそわたしたちの中に罪が忍び込んでくるのです。その罪とは、自分自身への執着の罪です。自分自身のしていることが忘れられないのです。自分の願う結果を追い求めてしまうのです。そのために、自分はこれだけ頑張っているのに、神さまは怠けていると、自分から神さまを見るようになる罪です。「キリストの香り」配布伝道は、自分のためにしているのでしょうか。そうではなく、神さまのために始めたことです。それがひっくり返ってしまうのです。

わたしたちは、コリントの信徒への手紙一の7章を読み進めてきて、先週も申し上げましたが、多少の困惑を抱えながら読んでいます。その困惑とは、結婚について記されているところなので、結婚とは何か、理想の結婚観はどのようなものか、それが分かれば、自分の生活をその理想にどのように近づければよいのか。そのような思いが頭の中を巡って読み進めるものですから、煮え切らないパウロの答えしか読み取ることができなくて地団太を踏んでしまうのです。

しかし、今日の箇所ならば、多少自分の思いから引き離して冷静に読めるかもしれません。今日の箇所の主題は、割礼と身分についてです。割礼というのは、創世記17914節を読みましたが、そこに記されているように、アブラハムから始まった神の民の歴史において綿々と守り続けられてきた宗教儀式です。それは体に傷跡を残すために徴となり、割礼を受けた者にとっては大きな意味を持つものですが、わたしたちには信仰と割礼が最初から結びついていないので、他人事のように冷静に見つめることができると思います。身分についても、現代では奴隷と自由人という身分の区別がない時代ですので、昔の話として読めるだろうと思います。

その冷静さの中で、割礼と身分のことをこの箇所から読み取っていただくと、パウロが語っていることが分かっていただけると思います。パウロが語っていることは、クリスチャンになったとき、その人が割礼を受けていたならば、そのままにしておきなさい。割礼の跡を無くそうと無理をすることはありませんと語ります。また、割礼を受けていない人がクリスチャンになった場合は、改めて割礼を受ける必要はありませんというのです。

このような理解は、わたしたちには当たり前のような気がします。それでよいのです。ところが、それぞれの立場で、自分の考え方に拘りが生じると、この当たり前のことが当たり前でなくなるのです。使徒言行録15章には、初代教会での最初の世界教会会議が開かれた様子が記されています。そこでの議題は何かというと、この割礼の問題でした。世界にキリスト教が広まり始めると、ユダヤ人だけがクリスチャンになるとは限らなくなります。異邦人と呼ばれている神の民と神さまから指名されていない人々もクリスチャンになる者が続々と増えてきます。教会の中には、ユダヤ人と異邦人が混在するのです。そして、互いに自分たちのグループを作り、相手側が自分たちと同じようにならないと認めないと考えるようになります。それが、異邦人には、イエス・キリストを信じての洗礼と割礼が必要だという考え方でした。パウロはこの会議で、割礼なしでクリスチャンと呼ばれるということを認めさせたのでした。割礼問題が世界の教会を動かしていたのです。

また、身分の問題も教会の中では大変な課題でした。特に当時の自由人と奴隷の関係は、礼拝生活にも影響を与えていました。自由人は、日曜日に休みが取れて、朝の礼拝に出ることができます。しかし、奴隷は日曜日でも一日中働かされて、礼拝に出るといっても夜の礼拝にしか出ることができません。そのような中で教会での食事の問題が出てきました。このコリントの信徒への手紙一の12章にそのことが出てくるのですが、自由人は朝の礼拝に出て教会で食事をします。持ち寄りであったと思います。お金もあるので、自分で持ってくるのです。それを仲間内で食べる。このことは悪いことのようには思えませんが、しかし、一日中働いて、夜の礼拝に奴隷の人たちがやって来る。お腹も空いている。教会に行けば、食事にもありつけると期待してやって来る。ところが、自由人が食い尽くしてしまって、酔っ払っているだけで、食べ物は何も残っていなかった。こんな事態をどのように解決すればよいかという切実な課題があったのです。

わたしたちの教会でも一見もっともだと思える習慣がありました。それは、クリスマスや創立記念日の愛餐会で持ち寄りをしたとき、夕拝に出席する人たちのために、一部を取り残しておこうという習慣でした。隣人への配慮、気配りとしてされているようでした。ひょっとしたら、このコリント書12章の風景を思い浮かべてそうしたのかもしれません。その背後にあるのは、何事も平等にというものでした。

しかし、その習慣は廃れました。いや、廃れさせました。なぜか。パウロがこの箇所で命じるすべての教会への命令にそのような考え方はそぐわないからです。先ほどの自由人と奴隷の間での食事のことを思い出してください。一人が満腹し、一人が空腹を抱えるという事態の解決は、みんなが同じ身分になり、みんなが同じ時間に同じ場所に集まれるようにすれば解決するという考え方がありますが、そうなると、だれもが自由人にならないといけないという考え方に結びつき、現実に奴隷の身分の人は、奴隷として売られた金額をみんなで集めて、その人を奴隷から解放してこそ、自由な身分になれるのだから、そのような運動に向かうことになります。

しかし、パウロはそのようには考えないと言うのです。17節で語られています。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」また、20節では「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」とも語られ、24節でも繰り返されています。

ここに出てくる「召されたとき」というのは、神さまの呼びかけに気づいたときということです。現代でいうならば、洗礼を受けて、教会員になったときということです。しかし、洗礼を受けたときの職業を大切にして、生涯その仕事から離れてはいけませんということを語るのではないのです。神さまの呼びかけに気づき、わたしたちはどうしたか。洗礼を受けたということは、キリストのものになったということです。キリストに属することで神の奴隷となったということです。この神の奴隷に留まっていなさいということがパウロの言いたいことなのです。自分が自分の主人になるのではなく、神の奴隷として、神を主人として生活する。これがすべてのクリスチャンの生き方ですと言うのです。そこからすべてのことを考えることが大切だというのです。結婚も離婚も割礼の有無も身分の違いもそして「キリストの香り」配布伝道も神の僕として自分を見つめる中で考えることが大切なのです。

僕ですから、主人の言いつけに従うだけなのです。自分であれやこれやと思い煩う必要はないのです。必要がないどころか、そのように考えることの中に自分を主人にしてしまう罪が生まれてくるのですから、してはいけないことなのです。それよりも主人であるイエス・キリストの父なる神の御業に信頼して、黙々とお仕えするだけでよいのです。「キリストの香り」配布伝道で言うならば、結果や効果について考えるのは、主人の務めです。奴隷の務めではないのです。食事の風景でいうならば、神が与えてくださった食卓に感謝して食べる。気を回し過ぎて、自分流に食卓を思い煩うのは奴隷の務めではないのです。割礼問題も互いにそのような導きの中で救いに与れたことを感謝する。これだけでよいのです。振り返って考えてみれば、わたしたちの生活の中で自分のものが増えるに従って、感謝や喜びが少なくなっていないでしょうか。神の奴隷は、主人が与えてくださるものに信頼して生きるということをもう一度思い起こしたいものです。